2024年5月16日(木)

 今日は久しぶりの学校だ。

 鏡で入念に顔や着こなしを確認してから家を出る。

 教科書や筆記具は全て学校においてあるため、鞄の中身はお弁当と文庫本くらいだ。


 時刻は7時を少し回ったばかり。

 朝の風は涼しく、人通りも疎らだ。久しぶりに通る通学路は何だか新鮮に感じてしまう。

 ラインを開き、円香に向けてメッセージを書く。


『おはよう。今日は久しぶりの学校だから少し緊張するわ』


 そこまで書くと、ため息をついてメッセージをすべて消す。

 バイトの件がトラウマになっているようだ。

 手助けを迂遠に要請するなんて、全くもって私らしくない。

 普段の自分を思い出しながら文章を捻り出して円香とマヤにラインを送る。


 決して弱ってる、参ってると思わせてはならない。

 そんな隙を見せれば円香は私を守ろうとするだろう。


 間もなく学校に着く。

 まだ始業の1時間近く前だが、中学と高校が同じ入り口のためか、見知った制服が多くなってきた。

 何となく私の顔を見ている生徒が居る気がしてしまう。


 意識して顔を上げて胸を張る。

 今日は一瞬たりとも気を抜くことは赦されない。

 普段通り、いや、普段以上に覇気があるように見せる必要がある。


 顔が良く元気があれば仮に悪い事をしても見逃されるし、その逆ならば何も悪い事をしていなくとも責められる。

 この世界はそんな単純な仕組みで動いているのだから。




 朝のホームルームが終わり、授業の準備や雑談で教室は一気に騒がしくなる。

 三ノ宮先生は教壇から私の方を見ると「藤宮さん、ちょっと良い?」と、声を掛けてきた。

 その瞬間、あれだけ賑やかだった教室の音が、すん…と消える。


「はい」


 努めて自然に、しかし気持ち強めに返事をしてから教壇に寄る。


「3週間近く休んじゃったでしょう?色々連絡事項とか書類が溜まってるから放課後に少し時間取れる?」


 三ノ宮先生が大きくハッキリとした口調で言う。間もなくクラスに賑やかな喧騒が戻ってきた。


「分かりました。放課後に職員室に伺います」

「うん、よろしくね」


 私は少し深めにお辞儀をしてから席に戻った。

 椅子に座り、心の中で一つ息を吐いてからスマホを開く。


『呼び出し来たね』


 円香からラインが来ていた。


『ええ、長くなりそう』

『誰が来るかな、校長だけなら楽そうだけど…』


 成苑高校の校長は成苑中学の校長も兼任している。

 長く勤めていて生徒からの評判もよく、比較的に運営側より生徒側に寄った判断をしてくれる気がする。


『どうだろうね。今日の今日だから、偉い人がそんなに来れる気はしないけど…』


 成苑学園の理事は常任だけで20人近く居る。

 校長はその1人だが、もし沢山の理事が来るならそれだけ大変な事態と学校が考えていると思って良いだろう。


『それにしても、遥はやっぱり凄いね。多分殆どみんな、琴音が呼び出し食らったとは気づいてないよ』

『うん、それはホントに思う』


 もし『動画の件で聞きたい事がある』なんて言われでもしたら、その日のうちに学校中に様々な尾ひれがついて広まってしまっていただろう。

 心の中で三ノ宮先生に改めて感謝をした。




 放課後、職員室に向かう道すがら周りの生徒からの視線を強く感じる。


 …おい、見てみろ…自殺に追い込んだやつだよ…


 生徒が私が見ながら話す内容にピクリと眉が跳ねる。

 昨日今日で私と亜莉沙を写した動画は大きく広まっていた。

 中でも亜莉沙が首を切った瞬間の画像がSNSでバズっているようだ。


 月明かりすらない真っ暗なゲームセンターで、光源は手元で灯るスマートフォンのみ。

 光源が少ないのを撮影アプリが過度に補正したのか、その画像の私は病的なまでに青白い肌をしていた。


 あの時、亜莉沙の頸動脈から吹き出した血液を私は正面から浴びた。

 その場面が、『大量の血を浴びて恍惚の表情を浮かべる少女』と題されて海外にまで広まっている。

 若い少女の生き血を浴びて永遠の若さと美貌を得たとされる吸血鬼になぞらえて、私をカーミラと称する人まで居たくらいだ。


「失礼します」


 ノックをして現代文の職員室入る。


「あ、いらっしゃいー」


 中には三ノ宮先生しか居ないようだった。


「じゃあ早速だけど、小会議室まで移動するね」


 三ノ宮先生は腕時計を見てからノートPCを持って立ち上がった。


「わかりました」


「今から1時間後に学校の理事が数人来るの」


 小会議室に着席すると三ノ宮先生はそう切り出した。


「琴音さんには理事の前でネットで広まってる動画の件で色々聞く事になると思う」

「はい」

「急にごめんね。学校がかなり注目を浴びてて、早急に声明を出す必要があるの」


 半ば予想していた事だが事態の早さと深刻さに息を呑む。


「でも安心して。殆どの質問は私が答えるし、想定問答も用意していくから」


 そう言って三ノ宮先生が私に不器用なウインクをした。


「…ありがとうございます」

「だから今から1時間でみっちり作戦を練るよ。色々聞くけど、出来たら嘘や隠し事無しで全部話してほしい。絶対悪いようにはしないから」

「分かりました」


 端から何も隠すつもりはない。私はハッキリと頷いた。

 三ノ宮先生は小さく笑うと、ノートPCを見ながら質問を始めた。




 コンコン


 暫く時間が経った時、小会議室の扉がノックされた。


「はぁい」


 三ノ宮先生が声を掛けるとドアが開く。


「お待たせしました。いけますか?」


 ドアの外には銀縁眼鏡を掛けた30再前後の細身の男性が立っていた。


「はい、大丈夫です」


 三ノ宮先生がノートPCを閉じて立ち上がる。


「よし、行きましょう」

「はい」


 三ノ宮先生の言葉に、私は強く頷いた。


「こちらの方が?」

「そうです」


 廊下を進む道すがら、男性が三ノ宮先生に問いかける。


「初めまして、私は成苑学園管理部の菅谷と言います」


 細身の男性は歩く速度を落とさず、首だけを後ろに向けて私にそう言った。

 その態度に呆気に取られて、反応するのが遅れる。


「…藤宮です」


 私がそう名乗った時には、菅谷と名乗った男は既に正面を向いていた。


 階段を一つ上り3階の大会議室に着くと、菅谷がドアをノックする。


 コンコン


「失礼します」


 そう言って菅谷が大会議室に入る。

 私と三ノ宮先生も同様の言葉を言ってからその後に続いた。


 大会議室は中央に大型のロングテーブルがあり手前の壁にはスクリーンが掛かっていた。

 奥には壮年の男性が3人座っており、その前の机には数枚のプリントが置いてある。


 菅谷に促されるまま、手前の席に2人並んで座る。

 私達の前にも同様にプリントが置いてあった。


「それでは早速始めさせていただきます」


 菅谷は奥側の席の一番外側に座るとそう言った。


「最初に紹介させていただきます。こちらが藤宮琴音さん。そして担任の三ノ宮遥先生」


 私と三ノ宮先生が頭を下げる。


「こちら側に座っているのがあちらから、佐々木常務理事、土岐理事兼務成苑中学高校校長、雲野監事、そして私、進行役の菅谷です」


 奥に座っていた男性達が小さく首を下げる。


 雲野…?


「本日はネット上に広く流布している動画の件で、幾つか藤宮さんに聞きたい事があり来て頂いた次第です」


 菅谷がそう言って私を見た。


「この度はご迷惑をお掛けして誠に申し訳ございません」


 そう言って深く頭を下げる。


「藤宮さんは最近起きた事件で目やお腹、腕などを深く損傷しています。また本日が約3週間ぶりの登校であり、突然呼び出された事で混乱しています。つきましては藤宮さんからは話を聞いておりますので、ご質問には私が応えさせていただきます」


 私の隣りに座った三ノ宮先生がそう言って話を引き取った。


「分かりました。此度の会議は公式的なものではありません。しかし重要性緊急性が非常に高いため動画を撮らせていただきます。この動画は公式の理事会及びその他法的な機関に供する可能性があります。ご承知いただけますか?」


 菅谷が部屋の奥を指し示すと、そこには三脚に載ったデジタルカメラが設置されていた。


「問題ありません」


 三ノ宮先生がハッキリと言う。


「分かりました。では早速始めさせていただきます。お手元の資料の1枚目をご覧ください」


 机に置いてある資料の1枚目には右下に小さく1とあり、その表題は羽月亜莉沙の自殺原因と記載してあった。

 中央部には例の動画のスクリーンショットが幾つか貼ってある。


「5月10日金曜日の深夜25時頃、吉祥寺サンロード近くのビル内にて羽月亜莉沙さんが自らの首を包丁で突き刺して自殺しました。その場所に藤宮さんが居合わせたというのは事実ですか?」


 菅野の問いかけに三ノ宮先生が間髪入れずに答える。


「事実です」

「なぜそんなよる遅い時間に商業ビルに藤宮さんは居たのですか?」

「羽月さんから呼び出されたからです。それまでは自宅にいました」

「羽月さん、もしくは他の方から深夜に呼び出される事は日常的にあるのですか?」

「いえ、ありません。その日が初めての事です」

「警察や友人に羽月さんと会う事を相談しましたか?」

「クラスメイトの雲野円香とマヤ・フローレスに相談しています」


 中には打ち合わせに無かった質問もあったが、打てば響くような調子で三ノ宮先生が応えていく。

 菅谷はその後も外堀を埋めるような質問を何度かした後、ついに核心を攻めてきた。


「羽月さんが自殺した原因はご存知ですか?」

「はい」

「教えてください」


 そこで初めて三ノ宮先生が口ごもって私を見る。


「死者の名誉に深く関わるという事で、私も聞いていません」


 三ノ宮先生がそう言った瞬間、菅谷の首が私の方にぐるりと向く。


「藤宮さん、羽月さんの自殺原因を教えてくれませんか?」

「すいませんが、言えません」


 私は菅谷の顔を見据えたまま答えた。


「分かりました。ここまでで何かありますか?」


 そう言って菅谷が隣に視線を向けるが、奥の席に座った男性陣には特に反応が無い。


「では次に進めます。資料の2枚目をご覧ください」


 促されて私は手元の資料を捲る。

 2枚目の資料には、アルバイトと華美な化粧という表題と共に、私のバイト時の写真が貼ってあった。


「昨日の20時頃、藤宮さんが吉祥寺駅前の居酒屋で働いていたというのは事実ですか?」

「はい」


 三ノ宮先生がすぐに答える。


「雇用形態を教えてください」

「今年の4月末から始めたアルバイトで、今日までで5回働いています。17時から22時までが就業時間です」

「成苑高校は原則アルバイト禁止なのはご存知ですか?」

「はい。しかし母子家庭で家計が大変という理由で、母から働くように強く要請されています。給料は全て家に入れています」


 三ノ宮先生の話し終わりに合わせて、私は頭を下げる。


「なるほど、事情は分かりました。しかし事前に学校に相談する事も出来たのではないですか?」

「居酒屋でアルバイトする事については私が藤宮さんが事前相談を受けていました。その時に家庭の事情なら居酒屋で働くらい構わないと言ってしまいました」

「っ!」


 反射的に首を上げて三ノ宮先生を見る。しかし先生は自信満々に微笑んでいた。


「…三ノ宮先生、それは明らかな問題行為ですよ。」

「本当に申し訳ないです。新任なもので学校のルールにあまり詳しくなくて…」

「貴女は契約に基づいて給料を貰う社会人であり、学徒を教え導く教師なのですよ。模範たるべき教師が先んじて学校の規則を無視し、あまつさえ言い訳に自らの無知を用いるなど…恥を知りなさい」

「返す言葉もございません」


 菅谷の苛烈な物言いに、しかし三ノ宮先生は胸を貼って答えた。


「本題とは異なるので三ノ宮先生への指導は後に回します。この写真によると藤宮さんはかなり華美な化粧をしているようですが、普段からこうなのですか?」

「違います。居酒屋のアルバイトの時のみです」


 呆気に取られる私を他所に三ノ宮先生が当意即妙に返答していく。


「それは何故ですか」

「就業中に酔った男性客に声を掛けられる事が多く、その対策として派手な格好をしています。この格好だと声を掛けられる回数が極端に減りました」

「なるほど…。重ねて聞きますが、普段からこの種の格好をしている訳ではないのですね」

「学校に通う時は勿論、普段の外出時は全く化粧はしないし当然ウィッグもしません」

「分かりました。では今後、この居酒屋のアルバイトは続けますか?」

「辞めます」

「それはお母様が納得しないのでは?」

「何とか説得します」

「分かりました。ここまでで何かありますか?」


 そう言って菅谷が右側に視線を向ける。


「うーん、辞めさせるだけっていうのも気が引けるね。母子家庭で家計が苦しいんでしょ?」


 一番左側に座る男性、佐々木常務理事が私に声を掛ける。


「…はい」


 少し躊躇った後、そう答える。


「学園の方で何か用意できないの?」


 佐々木常務理事は隣に座る男性に声を掛けた。


「中高では難しいですね。流石に通う生徒を働かせません。大学側なら軽い仕事はあるかもしれません。後で事務局に聞いてみますよ」


 隣に座る土岐校長がそう答えた。


「ありがとうございます」


 そう言って頭を下げた。


「それでは、最後の議題です。3枚目の資料を開いてください」


 私は緊張する手でゆっくりと資料を捲った。

 3枚目の資料は、藤宮琴音から羽月亜莉沙へのイジメという表題だった。

 中央部にはSNSの投稿が幾つも貼り付けられている。

 いずれも私が亜莉沙をイジメたという示唆で、いいねやリポストが多量に付いていた。


「この件に関しては合わせて4枚目の資料をご覧ください」


 もう一枚捲るとSNS上の疑惑という表題で、2段の箇条書きでずらっとイジメ行為が書き連ねてあった。


「全てを質問していると時間が掛かります。率直に聞きますが4枚目の資料に該当する行為をした事はありますか?」

「確認するので少々お待ち下さい」


 三ノ宮先生がそう言って私に向かって頷く。

 私はイジメ内容と称した4枚目の箇条書きを上から見ていく。

 その大半は亜莉沙に暴力を振るったや悪口を言ったなど明らかにやっていない事だったが、定かでない事も幾つか混ざっていた。


「幾つかは、該当している可能性のある箇所があります」

「該当している箇所を教えてください」

「冷たい、無視してるの2箇所です」

「他の箇所が示す行為はしていないんですか?」

「はい」

「絶対にしていないと言いきれますか?」

「絶対にしていません」


 ハッキリと頷く。


「分かりました。では最初に冷たくした、に当てはまる行為を説明してください」

「私、人付き合いが苦手で…。それで亜莉沙に素っ気なく返答した事はあると思います」

「なるほど…。では無視した、についてお願いします」

「休み時間の教室はかなり騒がしいので…もしかしたら呼びかけに気づかない時もあったかもしれません」

「意図して無視したことはありますか?」

「ありません」

「分かりました。ここまでで何かありますか?」


 菅谷が理事方の方を見る。


「うーん、これはイジメ行為は無かったと判断して良いんじゃないんか?」


 佐々木常務理事が隣を見て言う。


「私もそう思いますね。文章の出し方は工夫する必要はあると思いますが、基本的にはイジメ行為は確認できなかったで良いと思いますよ」


 土岐校長の言葉に佐々木常務理事が頷く。


「雲野さんは何かありますか?」


 佐々木常務理事が、土岐校長と菅谷の間に座った男性に水を向ける。


「特にありません」


 雲野監事と紹介された男性は短くそう答えた。

 佐々木常務理事が菅谷に小さく頷く。


「本日の会議は以上です。皆様ご多忙の中、お集まりいただきありがとうございました」


 そう言って菅谷は締めくくった。


 理事達が雑談をしながら会議室を出ていく。

 席についたままホッと息をついていると、会議室の奥でデジタルカメラを触っていた菅谷が近づいてくる。


「お疲れ様でした。2,3連絡事項があるのでもう少し良いですか?」


 私と三ノ宮先生がコクリと頷く。


「あ、三ノ宮先生はもう結構ですよ」

「いえ、最後までいます」

「些細な連絡事項だけですよ。かなり仕事が溜まっているんじゃないですか?」


 菅谷がそう言うと三ノ宮先生が迷った顔を見せる。


「先生、もう大丈夫。今日は本当にありがとう」


 時間はもうすぐ17時になろうとしている。

 三ノ宮先生は先月に務め始めたばかりなので仕事は相当大変なはずだ。


「…そう?それじゃごめんけど、お言葉に甘えようかな。また明日ね、藤宮さん」

「はい、また明日」


 そう言って三ノ宮先生が大会議室を出ていく。


「では、手早く進めましょうか」


 菅谷はそう言って私の前に一枚の紙を出した。

 そこには、退学届けと書いてあった。


「…え?」

「藤宮さんには我が校を退学していただきたいと考えています」


 と平静な顔のまま菅谷がのたまう。


「…意味が分かりません」

「3日前に動画が出て以降、当校には100件以上の抗議電話が掛かってきております。職員には相当な負担となっており、特に三ノ宮先生は担任として授業時間以外は終日電話対応をしています」


 菅谷の言葉に絶句する。


「三ノ宮先生の仕事が溜まっているというのは事実です。最近は殆ど寝る時間も無かったでしょう」

「そう、なんですか…」

「今のままでは当校の表明内容は以下のようになります。当校の生徒が首を包丁で刺して自殺したが、暴行や悪口等のイジメに該当する事実は確認できなかった。加害生徒と評される生徒はお咎めなし。さて、どうなるかお分かりですか?」

「…更に、炎上します」

「その通りです。加害者を守るのか。しっかり調査しろ。保身を図るな。等々の勝手な理由を付けられて当校はネットで大きく叩かれ、更に多くの抗議電話が掛かってくるでしょう」


 私は黙って菅谷の言葉を聞くことしか出来なかった。


「そうなると一番被害を被るのは誰か分かりますか?」

「…学校、ですか?」


 そう言うと菅谷が目を瞑ってゆっくりと首をふる。


「いいえ。一番の被害者となるのは三ノ宮先生です」

「三ノ宮先生、が…?」


 思いもよらない言葉に二の句が継げなかった。


「三ノ宮先生は羽月さんと藤宮さんの担任です。もしこの件が更に大きな問題になれば担任である三ノ宮先生の責任が問われるのは必定。もしネットに彼女の名前が流れたり、精神的に病んでしまえば彼女の経歴や人生に致命的な傷をつける事になります」

「そんな…」


 いくら炎上したって辛い思いをするのは自分だけ。

 そんな甘い考えだった私に菅谷の言葉が叩きつけられる。


「クラスメイトをイジメて自殺させたという疑いに加えて、三ノ宮先生が退校や長期休暇にでもなったら、貴女は針の筵のような学園生活を送る目になりますよ」


 もはや私には何も言い返す力は残っていなかった。


「藤宮さん。貴女が当校に残る事は誰も幸福にならないのです。学校も、三ノ宮先生も、貴女も、そして他の関係者も、全員が不幸になり、誰一人得をしない。お分かりですか?」


 項垂れるように頷く。


「ご家庭の事情はある程度把握しております。少し遠くなりますが、今なら金銭的負担無しで同程度の水準の高校に転校手配が可能です。貴女はこの書面に記載するだけで、後は全て私が順当に手配します」


 菅谷がそう言って目の前の書類を指差す。

 しかし、私は凍りついたように固まったままだった。

 すると、菅谷が優しい口調で話しかけてきた。


「…勘違いしないで頂きたいのですが、私は貴女が羽月さんをイジメていたとは思っていません。それどころか成績優秀で品行方正で、我が校の模範的生徒だと思っています。今回のことはただ単に運が悪かっただけに過ぎない。しかし、早急に対応しなければ貴女は間違いなく今後の人生に関わる大きなレッテルを貼られてしまう。それを回避するためには貴女のことを誰も知らない遠くの学校に転校するのが一番の解決策なのですよ。心配しないでも大きな遺恨にならないよう万事私が手配します」


 そう言って菅谷は私の腕を持ち上げてペンを握らせた。


「では、こちらの氏名から順番に書いてください」


 私は殆ど夢遊病者のように菅谷に促されるまま、目の前の書類に向かってペンを動かす。


「続いてはこちらの住所に…」


 右手を動かしながら、頭の隅に友人達の顔が思い浮かぶ。

 私が退学すると言ったら皆はどう思うだろう。

 円香は烈火の如く怒るし、マヤは泣いてしまうかな。

 そして亜莉沙は…落胆するに違いない。


「ふふ、ふふふ」


 我知らず笑い声が漏れて手の動きが止まる。


「藤宮さん?」


 訝しげに問いただす菅谷に、私は疲れたように目を向ける。


「すいません。この書類は書けません」

「なぜ、ですか?」


 菅谷の声が1オクターブ低くなる。


「深く悲しんでくれる友人が居るから、です」


 そう言って目を瞑る。


「友人なんて所詮学生の時だけで大人になれば消えます。それに貴女が苦境に落ちた時に助けてくれたりはしません。真に貴女の将来のことを考えているのは大人なんですよ」

「そう、かもしれません」


 ため息を吐くように答える。

 菅谷の言う事が間違っているとは思わなかった。

 小中のクラスメイトは高校になれば疎遠になったし、もしその頃のクラスメイトが苦境に落ちたとしても、私は身を挺して助けたりはしないだろう。


「一時の感情に流されるべきではありません。この国では人生は一度転落したら立て直しは効かないのです。脱線しそうな貴女の軌道を修正出来るのは今この瞬間しか無いのですよ」


 菅谷が出来の悪い生徒に諭すように優しく話す。


「それに、我が校の生徒や先生方…特に三ノ宮先生の立場も考えてください。成苑の名前や歴史に傷がつき、三ノ宮先生が身勝手な正義に叩かれて心を病んでしまったら、貴女は責任が取れるのですか?」

「…取れません」

「でしたら…」

「でも、この書類は書けません」


 ゆっくりと、しかしハッキリと言う。


「…なぜですか」


 菅谷の声が異様に低くなった。


「共に居たいと…そう言ってくれた友人が居るからです」


 そう言った瞬間、目の前の書類が消えた。


「え?」

「お疲れ様です。書類を受理いたしました」


 菅谷が書類をクリアフォルダに入れて、私を半眼で見下ろす。


「どういう、事ですか?」

「一部記載漏れはあるようですが、正式な退学届けとして受理した。そういう事ですよ」

「そんな事が許されると…」


 菅谷が私の言を遮るように背中を向ける。


「貴女は既に我が校の生徒ではありません。速やかに退去してください」


 そう言われた瞬間、お腹の奥が燃えるように熱くなる。


 ガチャリ


「どうぞ、お帰りはあちらです」


 菅谷が会議室の扉をあけて外を指す。


「ふざけないでください…!」


 お腹の熱が全身に回り体中が熱くなっていく。


「ふざけてなどいません。私は今、部外者に退去勧告をしています。勧告に従わなければ不法侵入で警察を呼びますよ」


 反射的に椅子から立ち上がり、菅谷に飛びかかる。


「…おや、殴らないのですか?その方が都合が良かったのですが…」


 私が拳を振り上げて固まる前で、軽薄そうに菅谷は笑った。


「これが最終勧告です。今すぐに我が校から出ていってください」


 私は左手でお腹を強く掴んでから右腕をゆっくり下ろす。

 そして菅谷に頭を下げた。


「…おねがい、します。その書類を…返してください」

「…もう諦めなさい。これが貴女にとっても一番の選択なんですよ」


 爪が食い込むほど手を握り、唇を噛みしめて更に深く頭を下げる。


「おねがい、します…」

「…どうして、そこまで…」


 戸惑ったような菅谷の声が頭の上からする。


「何かあったのかい?」


 その時、会議室の外から男性の声がした。


「これは雲野監事。いえ、大したことではないです」

「…大したことがないようには見えないがね」


 頭を下げる私に雲野監事が声を掛けた。


「藤宮さん、君はなぜ頭を下げているんだ?」

「…私が誤って書いた退学届けを返して頂くためです」

「なるほど…。ひとまず頭を上げなさい」

「分かりました」


 私は頭を上げて、そして菅谷の隣に立った男性を強く見つめる。


「ふむ。菅谷君、退学届けとやらを出しなさい」

「…はい」


 菅谷は一礼して手元に抱えていたクリアフォルダを雲野監事に渡した。

 雲野監事はその書類を見て目を顰める。


「まさか、この状態で受理したのか?」

「申し訳ございません」


 菅谷が雲野監事に深々と頭を下げる。


「…君らしくもない。先程の教師をそこまで買っているのか」

「っ!そのような…!」


 雲野監事は大きくため息を付いてから、クリアフォルダを私に差し出した。


「このような内容で受理など出来るはずもない。この書類は返却しよう」

「あ、ありがとうございます」

「しかし、その選択は様々な苦難を君に与える事になるだろう。その事は理解しているのか?」


 雲野監事が睨むような強い視線で私を見る。


「理解は、出来てないと思います…。でも、覚悟はしています」

「そうか…。なら話は終わりだ。菅谷君」

「はい」

「彼女に謝罪しなさい」


 雲野監事がそう言うと、菅谷は私に深々と頭を下げた。


「先程は大変失礼な事をしました。誠に申し訳ございません」

「あ、い、いえ…」


 菅谷の真剣な声色に戸惑ってしまう。


「許せる事ではないと思うが、責任は彼を管理部に任命した私にある。以後この件に関しては私に言ってくれ」

「は、はい。その、もう大丈夫ですので、頭を上げてください」


 頭を下げ続ける菅谷が見ていられなかった。


「そうかい?では菅谷君、行くぞ」

「はい」


 そうして雲野監事は菅谷と共に会議室を出ていった。

 私はそれを見送ってから会議室を飛び出す。

 今は一刻も早く会わなければいけない人が居た。




「大変申し訳ございません。いえ、加害者を庇ったり隠蔽しているという事は…。はい、現在調査中です。ですから…!」


 扉の奥から漏れ聞こえる声に体が固まってしまう。


「…はい。頂戴したご意見は必ず上の者に伝えますので。…いえ、個別にこちらからご連絡するのは出来かねます。…はい、大変申し訳ございません。では、失礼いたします」


 どうやら電話は終わったようだ。ノックをしようと手を挙げると…


「あああああ!!!」


 ビクッ!


 扉を通して大声が辺りに響く。

 慌てて左右を見渡すも、幸い廊下を歩いている人はいなかった。

 ゴクリと唾を呑んで、扉を控えめに叩く。


 コンコン


「あ、あ、えと、はぁい!」


 三ノ宮先生の焦ったような声が聞こえる。


「藤宮です」

「あ、藤宮さん!どうぞどうぞ入ってー!」


 扉を開けて現代文の職員室に入る。

 ちらりと確認するが、三ノ宮先生だけしか中には居ないようだ。


「失礼します」


 そう言って、三ノ宮先生の席まで行く。


「いらっしゃいー!どうかした?」


 三ノ宮先生の明るい声が私を迎えてくれる。

 その声には隠しきれない疲労が含まれていて、無理して声を張っているだけという事が分かってしまう。


「あ、もしかして菅谷さんに何か嫌なこと言われたりした?それなら私が…」


 黙ったままの私に気遣ったのか、三ノ宮先生が次々と言葉を繋ぐ。


「あの、さっきの…」

「…ああ、聞こえちゃってた?ちょっと電話受けてて…でも自動応答に切り替わったから大丈夫!」


 そう捲し立てる三ノ宮先生の目には濃い隈が刻まれていた。


 何で、ずっと一緒に居たのに私気付かなかったんだろう…。


「すいません…」


 三ノ宮先生に深々と頭を下げる。


「え、あ、え?突然どうしたの?藤宮さんが謝る事なんて何もないんだよ!」


 三ノ宮先生が慌てて手をわたわたと振る。


「私、私のせいで、先生に多大な迷惑を…」


 喉が震えて言葉が上手く出せない。


「ほら、大丈夫だから、ね?もう頭を上げて…」


 そう言って三ノ宮先生が私の肩をゆっくり撫でる。

 先程に決めたはずの覚悟は、早くも崩れ去っていた。


「私、学校、辞めようと…思います…」


 絞り出すように何とか言葉を紡ぐ。


「…何か、あったの?」


 三ノ宮先生は囁くように、どこまでも優しい口調でそう言った。

 しかし、私は今にも漏れてしまう嗚咽を堪える事しか出来ない。


「もしかして、菅谷さんに何か言われたの?」

「…ちが、ちがいます…」


 今なら分かる。

 この優しい先生を守りたくて、彼も必死だったのだろう。


 ポフ


「え…?」


 下を向いていた顔が柔らかい物に包まれる。


「私、初めての生徒が藤宮さんみたいに優しい子で良かった…」


 私を柔らかく包んだ三ノ宮先生が耳元でゆっくり話す。


「わたし、ぜんぜん優しくなんて…」


 私は、先生や他の人を不幸にしてまで自分の我儘を通そうとしていたんです…。


「教師はね。先を見通す力をもって生徒の未来を切り拓く先導者なのよ」

「…せんせぃ」

「貴女の未来を、夢を守る。それが専門家たる私の責務で、そして私の誇りなの」


 私の背中を先生の小さな手がぽんぽんと叩く。


「だから藤宮さんが気に病む事なんて何もないの。だって私が好きでやってるだけなんだから」

「でも…でも…」

「ふふ、そうね。でも貴女はとても優しい子だから気にしちゃうよね」


 先生の肩に埋めた首を強く振る。

 私が優しいなんて絶対ないのだから。


「じゃあ、一つだけ約束してほしいな」

「…はぃ」

「私の初めての生徒。貴女が笑って卒業する日を見たいな」

「うぅ、うああ…」

「それが私にとって何よりも幸せな事だから…」

「うわあああん!」




『そっか、そんな事があったんだ』


 自室でバランスボードに乗りながらラインに返信する。


『うん、今も少し迷ってるけど、でも頑張る事にした』

『良かった。もし退学するなんて言ってたら殴り込む所だよ!』


 円香のラインを見て苦笑いを浮かべる。

 誰に?なんて事はとても聞けなかった。


『ね、雲野監事さんて人が居たんだけど、円香は知ってる?』

『あ、それ私のお父さん』


 …やっぱりかぁ。


 円香の返事を見て、小さくため息をつく。

 私は何処までも円香に助けられてばかりのようだ。


『私のこと、何か頼んだ?』

『変なことは頼んでないよ。琴音の件で理事会が開かれるなら参加してって言っただけ』


 十分に変なことだと思う。

 どこの娘が親に理事会の参加要請をするのだろう。


『そうなのね。おかげで凄い助かったわ。お父さんにお礼言っておいてもらっていい?』

『今言っといた。お父さん、何もしてないってさ。て訳で気にしないでね』

『ふふ、そっか。でも、ありがとう。それに三ノ宮先生にも、返しきれないほどの恩が出来てしまったわ』

『遥は、そうだね。楽しんでると思うよ』

『楽しんでる?三ノ宮先生が?』

『うん、遥は他者の苦境に力を発揮するタイプだから』

『ええとそれは逆境に強い…て事かしら?そういう意味では円香と似てるわね』

『あー、自分のピンチにはてんで弱いから、ちょっと違うかな。あーしは自分の利益が最優先だから逆境は跳ね返すけど、遥は自己犠牲って感じ』

『それは、なかなか苦労しそうね』


 その時、部屋の外から大きな声が聞こえた。


「ちょっと来て!」


 母の声だ。

 ため息をついてから、部屋を出てリビングに向かう。


「バイトは?」


 一番聞かれたくない事を聞かれてしまう。

 しかし、誤魔化したとしてもすぐにバレてしまう。

 私は覚悟を決めて口を開いた。


「学校にバレたので、バイトは辞める事になりまし…」


 パン!

 その瞬間、頬を強く打たれた。


「っんたねえ!どうすんのよ!」

「…次のバイト先、探してます」

「いつ決まるの!」

「…まだ、分かりません」


 パン!

 そう言った瞬間、再び顔に手が飛んでくる。

 僅かに顔を背けて勢いを何とか殺す。


「つかえないわね!良いわ、私が探しとく!」

「…はい。すいません」


 そう言って頭を下げる。


「良いわ、もう戻りなさい」

「はい」


 私は背を向けて自分の部屋に戻った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る