2024年5月15日(水)

 起きてすぐにSNSを確認したが、特に代わり映えはなかった。

 私への糾弾の声が殆どで、学校に問い合わせたと言う人も何人か居た。


 しかし、自宅や電話番号が晒されている感じはない。

 バレているのは私の名前と顔だけのようだ。

 交友関係が浅いのが幸いしたのだろう。


 病院は午前中に退院し、まっすぐに家に帰ってきた。

 母は予想に反して際立つ反応はなく、拍子抜けするほどに普段通りの態度だった。

 溜まった家事をしている私に母が言ったのは、バイトはいつから行くのかのみだった。


 かれこれ3週間近く休んでいるため金銭的に不安なのかもしれない。

 学校は終わってるし、円香との約束も今日は無い。

 それに今更犯人の襲撃を恐れても仕方ない。

 一通りの家事を終えた私は店長に連絡を取ることにした。


『暫く休んでて申し訳ないです。今日退院したのでバイトいつでも入れます』


 すぐにスマホが揺れて店長から返信が来た。


『お、退院おめでとう!良かったら今日から入れるー?』

『ありがとうございます。ではいつもの時間に行きます』


 どうやら店長は炎上については知らないか、もしくは知ってても気にしないでくれているのだろう。

 出来たら後者である事を祈って、私はバイトの準備を始めた。




「いらっしゃいませー!」


 更衣室から出ると、入り口から先輩の声がした。

 懐かしい気がして口元が緩んでしまう。

 もう店内図を見なくとも番号の座席が分かるようになり、配膳がかなり早く出来るようになった。

 時刻は18時を過ぎたばかりで座席が疎らにしか埋まっていないのもあり、ちょくちょく手空きが起きている。


 そこで、私は一つの行動に出る事にした。

 そう、先輩に挨拶だ。

 同じバイト同士なんだから挨拶をしたって何の不思議もないはず。


「…お、おはようございます」


 フロアの隅で小声で言う。

 他のバイトさんはそのように挨拶をしてくるし、私もそう返している。

 外はもう夜だけど、『おはようございます』で何も問題はないはずだ。


 …よし!…次の注文を運んだら、その戻り際にいこう。さりげない感じで…


 そう決心した私は、ドリンカー前で次の注文が入るのをまんじりと見続けた。

 やがてポン、という音と共に機械から注文内容と席番号が記載された紙が印刷される。

 私はそれを手に取って、こちらに歩いてくる店長に手渡した。


 店長は冷凍庫からグラスを4つ取り出すと、ドリンクサーバーや紙パックから液体を次々と注いでいく。

 そして幾つかのグラスに果物を刺すと「お願いね」と言ってキッチンに戻っていった。


 トレーに4つの液体を載せてフロアを進む。

 意識は既に先輩への挨拶に向いていた。

 そのため、お客さんの様子がおかしい事に気づく事が出来なかった。


「ジントニックのお客様」

「っす…」


 奥に座った若い男性の前に果物を刺した透明な液体を置く。


「絶対そうだって…」

「ええ、でも凄い格好してるよ」


 手前に座った男性2人がスマホ片手にクスクスと笑っている。


 …なんだろうこの人たち。


「カルーアミルクのお客様」


 しかし、誰からも返答が戻ってこない。

 注文の紙を確認する。間違いなくカルーアミルクの注文が入っていた。


「カルーアミルクをご注文のお客様」


 少し口調を強めて言った。


「あ、ぼくです」


 手前で笑っていた2人のうち1人が手をあげた。

 その客の前にカルーアミルクを置こうとした手を伸ばした時…


 カシャッ


 スマホのシャッター音が聞こえた。

 反射的に音の方に視線を向けると、伸びるに任せた蓬髪の男性がスマホを向けて笑っていた。


「…撮らないでください」

「はーい!」


 素っ頓狂な声で男性が返事をする。


 …早く置いて戻ろう。


「シャンディガフのお客様」

「お姉さん、成苑高校の生徒でしょ」


 短髪の客がそう切り出した。


「…シャンディガフをご注文のお客様」

「アルバイトって校則違反じゃないのー?」


 声の主を見ないようにして、テーブルの手前に2つのグラスを置く。


「ではごゆっくりどうぞ」

「おい、ちゃんと配膳しろよ!」


 席から離れる私の背中に大声が浴びせかけられる。


「イジメで同級生死なせる奴はまともな接客も出来ないんだな!」


 その言葉に周囲の視線が一斉に集まるのを感じる。


「…っ!」


 唇を噛み締めてフロアを歩く。


 炎上なんて些細な事。自分でそう言ってたでしょう?

 この程度、何の痛痒も感じない。


 そう言い聞かせながらキッチンまで戻ろうとすると、黒いスニーカーがこちらに歩いてくるのが見えた。

 靴の主が誰かは分からなかったが、道を譲るために端に避ける。

 すると、すれ違いざまに、ポンと肩を叩かれた。


「気にすんな」

「え?」


 ぶっきらぼうで低く…だけど落ち着く声に、私は立ち止まって振り向いた。

 先輩が先程の客席まで歩いていく。


「お客様、大変申し上げにくいのですが今すぐ退店してください」


 先輩は直立不動の姿勢から頭を下げると、そう言った。


「はぁ?」

「何でだよ、意味わからん」


 手前に座った2人の客が喚く。

 頭を下げたまま、先輩は言葉を続ける。


「従業員に迷惑を掛けられると困ります。即刻、退店してください」


 先輩の横に下げた手が少し震えている気がする。


「おい、こっちは全部撮ってるんだぞ!晒されたくなかったら言葉に気をつけな?」

「何の権利があって言ってるわけー?」


 前の席に座って煽る2人とは違い、奥に座った2人は黙って先輩の様子を見ていた。


「これが最後のお願いです。いますぐ、退店を、お願いします」


 先輩の右手がギリッと強く握られる。


 …あ、やばい。


「しねえっつってんだろ!お前バカじゃ」


 バギィ!


 体を乗り出して叫んだ短髪の客の顎に先輩の右手が飛んだ。

 男性がその場にどさっと崩れ落ちる。


「っち」


 その光景に場が静まる。残った客は呆然と倒れた友人を見ていた。


「…あ、おい!」


 蓬髪の客の胸元に先輩が素早く手を伸ばす。

 何かを抜き取ったようだ。

 蓬髪の客が手を伸ばして先輩に詰め寄る。


 先輩は左足を後ろに下げて、ぐっと体を落とす。

 そして…


 先輩の左足がバネのように跳ねた。


「死ね!」


 先輩の肩が客の胸元に吸い込まれる。


 ガン!


 凄い勢いで蓬髪の客が吹き飛び、後ろの客にぶつかった。

 その衝撃で机に載っていたグラスが音を立てて倒れる。


「ちょっと雲野君、何やってるの!」


 店長が大声を上げながら駆け寄ってくる。


「退店をお願いしたのですが、聞いてくださらなかったもので…」


 そう言いながら先輩は、店長にカード入れを差し出した。

 店長はそれを受け取ると、そこから中身を取り出す。


「三鷹大学の学生さんですか。住所は…」


 店長はそう言いながら、スマホで次々と写真を撮っていく。


「…こんな事して良いと思ってんのかよ!全部撮影してるんだぞ!こっちは!通報してSNSにあげてやるからな!!」


 先輩に吹き飛ばされた蓬髪の客が起き上がって甲高い声で叫ぶ。


「動画を撮影しているのはこちらも同じこと。大学やご家族に連絡し、貴方の実名付きでSNSに上げましょうか?」

「…なっ!」

「4年生という事は就職活動も落ち着いた頃でしょうか?幾つか名刺も入っているようですね。この時期に有名になるのはお辛いでしょう」


 男性客は店長をギリギリと睨みつけている。


「お互いに不毛な事は止めましょう。どうぞお帰りください」


 そう言いながら店長はカード入れを男性に差し出す。


「お、おい、もう辞めようぜ」


 ずっと黙っていた奥に座っていた客がそう言い出す。


「俺も、晒されるのは嫌だ」


 更にもう1人の客も続けた。蓬髪の客は、後方の2人を怒りが込もった表情で一瞥すると…


「っくそ!」


 ガン!


 机を強く叩いて、店長からカード入れを奪い取って早足でこちらの方に歩いてきた。

 私は慌てて端に寄る。

 蓬髪の客は私をちらりと見て横を通り過ぎると、そのまま出口の方に歩いていった。


「おい、こいつ持って帰れ」


 倒れている短髪の男性を先輩が引きずりだし、残った2人の客に渡す。

 2人の客は若干怯えた顔をしていたが、差し出された男性を両脇から抱えると…


「ごめんなさい」

「今日はすいません」


 そう言ってとぼとぼと店を出ていった。




 それから少しの間店内は騒然としていたが、暫くすると普段通りの喧騒に戻った。

 あの後、店長が客席を廻って謝罪していたようだ。


 私はというと、殆ど思考停止して機械的に飲み物を運んでいた。

 何が起きたのか、何が原因なのか、そしてどうすれば良いのかを考えられるような精神状態では無かった。

 幸い、仕事に大分慣れていたためか、もしくは程よく忙しかったせいか、目立った失敗もなくバイトの終業時間を迎える事ができた。


「店長、そろそろあがります」

「あー、おつかれさま!気をつけて帰ってね」

「ありがとうございます。…その、今日はすいませんでした」

「ん?藤宮さんが悪い事は何もないよ。明日もよろしくね」

「…はい」


 私は深くお辞儀をして更衣室に向かった。

 更衣室に入った私はロッカーを開けてすぐにスマホを取り出す。


 ラインが幾つか来ていたが先にSNSを開き、藤宮琴音 居酒屋で検索する。

 すると数十件の結果が表示された。

 どれもここ10時間以内の投稿だ。

 幾つかの投稿には派手な化粧をした私の写真も添付されていた。


 ぎゅっと唇を噛みしめる。

 ロッカーから上着を取り出して羽織り、更衣室を飛び出す。


 サンロードを歩きながらラインを確認する。


『琴音のバ先が晒されてる!』

『突撃するって言ってるYouTuberが何組か居るっぽい』

『ごめん、私の教えた化粧のせいで悪目立ちしちゃってる…』


 端によって立ち止まるとメッセージを打ち込む。


『ごめん、今バイト終わったとこ。円香は何も悪くないよ』


 そう送って歩みを再開する。

 夜の風が火照っていた頭を冷やし、ようやく思考が廻るようになってきた。


 それにしても、うかうかとバイトに出てしまった自分の甘さに辟易とする。

 少し考えればバイト先にYouTuberが突撃してくる可能性に気づけたはずだ。


 …なんてバカなんだろう、私。


 小さく首を振る。店長にも先輩にも迷惑を掛けてしまった。

 それにSNSの写真が広まれば不味い事になる。

 成苑高校は化粧もバイトも禁止なのだ。

 動画の件と合わせれば一発退学もあり得るだろう。


「ふうー…」


 これは、覚悟しないといけないかも。

 明日学校に行くのが今から憂鬱だった。


 サンロードの出口で信号を待っているとスマホが揺れる。


『琴音の画像を投稿したYouTuberだけどさっき投稿を消したみたい。琴音関連の投稿を全部消してるから、多分動画出す事も無いんじゃないかな』


 ふうっと短く息を吐く。

 深夜になり交通量が少ないためか、目の前をすごい速度でトラックが通過していく。


『でも、琴音の写真はかなり拡散されちゃってる…』


 カッコーの声が信号が青になった事を告げた。

 左右を確認し、道路を渡りながらスマホにメッセージを打ち込む。


『それは仕方ないよ。動画が出ないだけでも良しとしないと』


 もし暴行動画が出てしまったら、先輩や店長に大きな迷惑を掛けてしまう所だった。

 信号を渡り、正面の路地に入る。


 …もう働けないな。


 あれだけ気遣ってくれた店長に、また暫く休むと連絡しなければらない。

 考えただけでも心が重くなる。

 店長も先輩も、そして他の方も良い人ばっかりだった。

 仕事も楽しくて本当に良いバイト先なのに働けなくなるのは寂しかった。


 カツカツ…


 その時、後ろの方から足音が聞こえた。

 その音に急かされるように私も早足になる。


 ぶるぶる


 手に握ったスマホが震えた。確認は後にして帰り道を急ぐ。

 すると、前方から3つの人影がこちらに歩いてくるのが見えた。


 後ろに1人、前に3人…


 歩きながら左右を確認する。道は一本道で、横に曲がる道はない。

 しかし、もう少し進んだ先には駐車場があったはずだ。


 更に歩く足を早める。前方を歩く3人の影が徐々に大きくなる。

 なんとなく居酒屋で騒いだ客と似ている服装な気がした。


 駐車場前についた私は素早く中に踏み入れる。

 24Hと書かれた看板を通り過ぎ、駐車場の中程まで進んだ所で振り向く。

 間もなくスーツを着た男性と、学生らしき3人が前の道を通り過ぎていった。


「はぁー…」


 ぎゅっと握りしめていた防犯ブザーを離してスマホを見る。


『明日学校来る?』


 スマホを確認すると、円香からのラインだった。


 …駄目だな。相当ナーバスになってる。


『勿論よ』


 そう返信してから、私は家路を急いだ。

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