2024年5月17日(金)

 円香もマヤも予定が有ったので、放課後は図書館に行く事にした。

 一度家に戻ってから、借りていた10冊程度の本をトートバッグに入れて図書館に持ち込む。

 図書館の受付に行って、借りていた本と2枚の図書館カードを渡した。


「予約していた本です」

「ありがとうございます」


 司書さんから返した分とほぼ同じ量の本を受取る。

 練馬区では1人15冊しか借りられない。人気のある本だと半年待ちだったりするので、予約だけで枠が消えてしまう。

 そのため父名義の図書館カードも併用していた。

 しかし…。


「藤宮律さんの図書カードの有効期限を過ぎています。更新しないと今後は利用が出来ません」

「そうですか…。分かりました」


 一つため息を付いて館内に移動する。

 今後は少し遠くなるが武蔵野市の図書館も利用しなければならない。


 空いていた席に着くと、充電器を机の下に差してスマホと接続する。

 wifiを図書館に繋いでSNSを開いた。


 すぐに私に対する非難の投稿が幾つも出てきた。

 しかしそれ以上に炎上しているのは成苑高校だった。

 先ほど、校内でイジメが確認できなかった事を発表したのだ。

 今は抗議の電話が殺到している事だろう。


 目を瞑って首を降る。

 三ノ宮先生の意思を無駄にするわけにはいかない。

 名前も顔も割れている私が浅慮な行動をすれば、更に燃料を注ぐ事になる。

 今は全方面から監視されていると思って品行方正に過ごすしかない。


 私はスマホを閉じると借りた本を読み始めた。


「最近、激臭いおっさん来なくなったね」

「ねー。図書館も公園も安心して来れる」


 隣の席の学生達の会話が何とはなしに聞こえてきた。


「友達の親があの廃屋の家主なんだって」

「ま?」

「あの廃屋、土地めっちゃ広いし場所も良いじゃん?だから早く死んでほしいって口癖のように言ってるみたい」


 学生たちから「うへえ」という声が幾つも漏れた。


「あのおっさん、ナマポなんでしょ?」


 その言葉に体が反応する。


「そうそう」

「あいつ一人のせいで図書館も公園も使えなくなるし、はよ死んでほしい」

「ほんっと、他人の金で生きるならせめて人に迷惑掛けないでほしいわ」


 …っ!


 唇を噛みしめる。

 私は必死に動揺を抑えて、手元の本に意識を集中させた。




 ブブブ


 それから2時間ほど経ったろうか、鞄に入れたスマホが揺れた。

 確認すると母からの着信だった。

 図書館の外に早足で歩きながら受話ボタンを押す。


「はい」

「今何処?」

「図書館です」

「今すぐ吉祥寺まで行って。バイトの面接取ったから」


 その言葉に怯む。

 まさか母が本当にバイト先を探しているとは思わなかったのだ。


「なんの、バイトですか?」

「事務員よ」


 …高校生のバイトで、事務員?

 ただでさえ競争率の高い職種に高校生バイトを募集するなんて事はあるのだろうか。


「分かりました。会社名と面接場所を教えて下さい。あと履歴書は必要ですか」

「ラインで送る」


 そう言って通話が切れる。すぐにラインでメールの画像が送られて来た。

 18時に吉祥寺駅から徒歩5分のオフィスビルの4階、会社名はクラウドエクスペンス。

 履歴書は必要ないらしい。


 会社名をGoogleやSNSで検索しても会社Webページ以外は引っ掛からない。

 出来たばかりの会社なのかもしれない。


 唯一怪しいのは求人情報すら無いことだが、逆にそれが事務員のバイト募集という事に説得力をもたせた。

 求人誌やハローワークで事務員募集をしたら山のように連絡が来るに決まっているからだ。

 もしかしたら母の数少ない交友関係を使ってバイトを一人捩じ込んだのかもしれない。


 館内に戻り机を片付けると、鞄とトートバッグを持って私は図書館を出た。


 隣の公園の横を通り過ぎ、この前に黒い車が停車した所で立ち止まる。

 右側に視線を向けると、細い砂利道の奥に廃屋が建っていた。

 廃屋を取り壊して、この砂利道と合わせれば、かなり大きな家が建てられるだろう。

 しかし…


 首を振って道を歩き始める。


 外交官ナンバーの車を使った黒尽くめの人物は、深夜に何の用で廃屋に入ったのだろうか。

 あの日以降、廃屋の住民とおぼしき男性が姿を見せなくなったのは何故か。


 …マヤ、貴女は何をしてるの?




 今の時刻は17:50。

 家から20分、吉祥寺駅からは10分ほどの距離にそのオフィスビルは有った。

 オフィスビルは1階を消費者金融が借りていて、2階以上にオフィスが入っているようだ。

 ビルはバス通りに面しており、道路沿いの壁は一面ガラス張りになっていたが、分厚いカーテンが掛かっていて中の様子を伺う事はできない。


 息を吐いて気合を入れると、ビル入口に備えられたインターホンを押す。


「18時に面接のお約束をしている藤宮です」

「伺っております。自動ドアを抜けてエレベーターで4階までいらしてください」


 インターホンの向こうで女性が言うと、エントランスの自動ドアが開いた。


「分かりました」


 インターホンのレンズに一礼してから自動ドアを抜けて、1階廊下を抜ける。

 廊下は綺麗に掃除されていて一番奥にエレベーターと階段があった。


 案内板は無い。一般のお客さんが来るのは1階の消費者金融だけなのだろう。

 そういう意味ではここで働いても誰かにバレる可能性は低いと言えそうだ。

 学校には事前にバイト許可を求めるつもりだが、先日のように誰かに絡まれる事を考えなくて良かった。


 エレベーターに乗り8階のボタンを押す。


 チン


 間もなく音がしてエレベーターが止まる。

 扉が開くと前には地味な女性が立っていて、私を見て小さく礼をした。


「こんにちは。今日は来ていただきましてありがとうございます」


 エレベーターの正面には2つの扉があった。

 一方の扉にはクラウドエクスペンスというロゴが貼ってある。

 片方は階段でもう片方はオフィスだろう。


「今日はよろしくお願いします」


 そう会釈すると、女性が壁沿いの通路に手を差し出した。


「こちらへどうぞ」


 オフィスの扉には入らず、壁と白いパーテーションに挟まれた通路を案内されて歩く。

 2つのトイレと給湯室を通り過ぎて一番奥まで行くと、突き当りのパーテーションに扉が据えられていた。


 扉に入ると、そこは会議室になっていた。

 白い長方形の机の手前と奥に3つずつ黒いメッシュの椅子が並んでいて、右手の壁にはホワイトボード、左手の壁にはモニターが設置されている。


「あちらにお掛けください」


 案内してきた女性が、扉から横にずれて奥の椅子を指し示す。


「はい」


 私は一礼してから奥の椅子に腰掛けた。


「では、担当の鈴木を呼んでまいりますので少々お待ちください」


 女性の言葉にピクリと肩が跳ねる。


「…分かりました」


 女性が部屋を出てから扉を静かに閉めた。

 その瞬間、一気に緊張が押し寄せる。


 居酒屋の面接とは大違いだ。

 高校生のバイトなのに本格的すぎはしないか。


 しかも、鈴木…?

 ありふれた名字ではあるが、嫌な予感が拭いきれない。


 今すぐ椅子から立ち上がって逃げ出そうか。

 そんな事を考え始めた時…


 コンコン


 扉がノックされた。


「…はい」


 扉が開き、案内した女性がトレーを持って入ってくる。


「失礼します」


 そう言って私の前と反対側の席にお茶のペットボトルを並べていく。

 そして、後ろからスーツの男性と50前後の小太りの男性入ってきて手前の席に座った。


 え…?


 小太りの男性の顔を見て一瞬呆気に取られる。

 その男は、居酒屋で二度絡んできたあの迷惑客だったのだ。

 小太りの男性が私を見て楽しそうに顔を歪ませる。


 ガチャリ


 その音に更に混乱する。

 慌てて視線を向けると、女性が扉に内鍵を掛けたようだった。


「え?え?」


 混乱していると、若いスーツの男性が懐から何かを取り出して机の上に置いた。


「っ!」


 それは鞘に入っていたが、間違いなく小刀だった。


「早速ですが、我々は日本のヤクザのような物です。そして私のことは鈴木、とお呼びください」


 鈴木と名乗った男性が淡々と話すのを、私は唖然と見る事しか出来ない。


「我々に藤宮様を傷つけるつもりはありません。暴れる・逃げる・外部と連絡を取る、この3つを試みなければ貴女の安全は保証します」


 鈴木がゆっくりと指を3つ立てる。


「もう一度言います。暴れる・逃げる・外部と連絡を取る、この3つを試みない限りは藤宮様を傷つける事はありません。ここまでは理解できましたか?」


 私はぎこちなく頷いて、鞄に伸ばしていた手を引っ込めた。


「よろしい。あと一つ、大声を出すのはあまりお勧めしません。このビルは我々が借り上げているので、他の階から助けは来ませんし地上まで貴女の声が届く事もありません。無駄にお互いのストレスを溜めるだけになるでしょう」


 そう言って鈴木は隣の女性に目配せする。

 女性が傍に寄ってくると、私の体を触り始めた。


「な、何をするんですか?」

「ボディチェックですよ」


 私の焦った声に鈴木が答える。

 女性は一通り私の体を触ると、続いて膝上においた私の鞄を掴んだ。


「やめてください!」


 女性の腕を掴む。その瞬間…


 ガン!


 目の前から物凄い音がして体が硬まる。

 恐る恐る目を向けると、鞘に入っていたはずの小刀が白い机に深く突き刺さっていた。


「最初に言ったことを、お忘れですか?」


 鈴木が、低くゆっくりと言う。


「…わ、分かりました」


 私は掴んでいた女性の腕を離す。

 しかし女性は私の鞄を掴んだままその場から動こうとしない。

 不審に思って顔を向けると女性は顔面蒼白になって震えている。


「あ、あの…」


 ドゴッ!


 私が声を掛けると同時に、その女性が真横に吹き飛んだ。


「っ!」


 反射的に後ろを向くと、僅かにへこんだパーテーションの下に女性が横たわっている。


「たかあああ!!!」


 鈴木の大音声が部屋中に響く。


「へい!」


 小太りの男が、席を立ち鈴木に頭を下げる。


「てめえ!どんな教育してんだ!」

「へい、すんません!」

「とっとと失せろ!」

「へい!」


 小太りの男が女性に駆け寄って脇に抱えてから私の鞄も掴む。


「失礼しやす!」


 そう言うと、小太りの男は扉の鍵を開けて部屋を出ていった。


 バタン


 部屋に一人残った鈴木が口を開く。


「うちの者が失礼を働いて申し訳ございません」


 そう言って鈴木が細い目を軽く閉じる。


「い、いえ」


 私は何とかそれだけ口にする。

 起きている事が現実離れ過ぎて、脳が働いてくれない。


「ああ、ご安心ください。鞄は通信機器を回収したらお返ししますよ」

「は、はい…」

「さて、藤宮様に来ていただいた理由を説明いたします。質問は最後に受けるのでその際にまとめてお願いします」

「…わかりました」


 ゴクリと唾を呑む。


「端的に申し上げますと、藤宮様には今夜に日本から離れてもらいます」


 反射的に挙げそうになる声を飲み込む。


「船で中国まで行って頂きます。私どもの仕事は港まで藤宮様を護衛をする事です」


 …中国?


「ご安心ください。船旅の途中も、そして中国に付いてからも、藤宮様が丁重に扱われる事は保証します」


 鈴木が何を言っているのか全く理解ができない。


「話は以上です。質問はありますか?」

「なぜ…中国に?」

「藤宮様を妻にしたいという方がいらっしゃいます」


 …妻?


「…私、中国に知り合いは居ないのですが…」

「ええ、そうでしょうとも」


 唇を噛む。


「拒否します。今すぐ帰ります」

「それは許可できません」

「それは何故ですか?」

「私どもが困るからです」


 …落ち着け、落ち着け。

 こんな質問の仕方では駄目だ。もっと冷静にならなければいけない。

 お腹に込もった熱に手で触れる。


「羽月亜莉沙、という名前を知っていますか」


 そう聞いた時、鈴木の口元がニヤリと歪んだ。


「ええ、良く知っていますよ」


 思考が急速に回転していくのがわかる。


「亜莉沙を誘拐したのは貴方がたですか?」

「違います」


 鈴木が首を降る。


「中国の方が、私の事を知ったのは例の動画を見たからですか」

「…その通りです」


 …やはり、そうか。


「元々は亜莉沙を送る予定だった。でも死んでしまったから私を差し出す。そういう事ですか?」


 そう言った瞬間、はははと鈴木が大きく笑い出す。


「何故分かったんですか?まさにその通りですよ」


 ギリッ

 歯を噛み締めて鈴木を睨みつける。


「いやぁ、もうすぐ出荷出来ると思っていたのに自殺された時は心底驚きました。先方は大変お怒りだったのですが、動画をお見せした時にこっちで良いと言って頂いた時は安心しましたよ」

「…最低、ですね」


 私の言葉に、しかし鈴木はくくっと笑うだけだった。


「…母は、貴方の部下ですか」


 そう言うと鈴木は小さく首を振った。


「いいえ、違います」

「では、顧客ですか」

「その通りです」


 …ここだ。


「販売商品は麻薬ですね」


 鈴木が目を細めて私を見た。


「その通りです。正確にはフェンタニルという医薬品ですが」


 やはりそうか、なら…。


「こちらからも2点お伺いします」


 私が黙っていると鈴木が声を掛けてきた。


「最初の質問です。私が藤宮様の質問にお答えしている理由は分かりますか?」

「…私を傷つけたくないから、ですか?」

「その通りです。拘束したり薬物を使って万一にも後遺症を残す訳にはいきません。私どもの仕事はあくまでも護衛ですので、協力しあっていければと思います」


 漏れそうになった呪詛の言葉をすんでで止める。


「もう一つの質問です。菜月様が麻薬を使っていると知っていたのは何故ですか?」

「それは…」


 ここからが重要だ。

 ゴクリと唾を飲む。


「母の部屋を探した時に見つけました」


 鈴木の肩がピクリと震える。


「麻薬は何処に有りましたか?」

「仏壇の位牌の中です」


 鈴木が小さく息を吐く。


「…見つけた麻薬はどうしましたか」

「警察に届けました」


 そう言った瞬間…


「たかあああ!!!」


 鈴木が大音声で叫んだ。

 すぐにドタドタと重い足音がして扉が開いた。


「へい!」


 小太りの男が扉の向こうで頭を深く下げる。


「菜月がへまやった!すぐ連れてこい!薬も全部回収しろ!」

「わかりやした!」


 小太りの男が扉を閉めると、ドタドタと廊下を駆ける音が遠ざかっていった。


「失礼しました。質問は2つと言ったのに、五月雨式に聞いてしまって」

「…いえ」

「失礼ついでにもう幾つか聞いてもよろしいでしょうか?」


 私はコクリと頷く。


「ありがとうございます。では、警察に麻薬を届けたのはいつですか?」

「一昨日です」

「何処の警察署に?」

「武蔵野署です」

「そうですか…」


 そう言って鈴木が目を細めて私から視線を外して数秒黙り込む。


「藤宮様。何故そこまで教えてくれるのですか?」

「協力しあいたいと先程貴方が言ったでしょう?悪い話じゃないと思ったので、素直に話しています」


 鈴木の鋭い視線が私の目を捉える。

 私はそれを正面から受け止めて、小さく微笑んだ。


「…なるほど。そう言っていただけると非常に助かります」

「ついては一つお願いしたい事があります」

「なんでしょう」

「母と話をさせてください」


 そう言うと、鈴木が再び黙り込む。


「母は遠からず警察に追われます。もし逮捕されたら貴方がたの事もバレるでしょう。どうせ何らかの対応をするなら、その前に話をさせてもらっても良いでしょう?」


 ほう、と鈴木が関心したように呼気を吐く。


「もし母と話をさせてくれるなら、その後は貴方がたに全面的に協力する事をお約束します」

「なるほど…」

「しかし、これだけお願いしても断るのなら、私と協力関係を持つ気がないと判断します。その場合は、私は大暴れして舌を噛み切って死にます」


 くっくっく…

 鈴木が小さく引き笑いをする。


「参りました。そこまで言われたら断り難いですね。しかし…」


 鈴木が机に突き刺さった短刀を掴む。


「私は約束は絶対に守ります。だから藤宮様も、必ず守ってください」


 そう言うと、鈴木は小刀を机から引き抜いて扉から出ていった。


 すぐに先程の女性が入ってきて、正面の椅子に座った。

 女性はかなり緊張している様子だった。


「あの、怪我は大丈夫ですか?」


 そう聞いたが、一文字に結ばれた女性の口が開かれる事はなかった。

 小さくため息を付いてから部屋を見渡す。

 会議室は白いパーテーションに囲まれていて、扉は女性の後ろだけだ。


「私は藤宮と言います。貴女のお名前をお伺いしてもよろしいですか?」


 そう言うと、女性の目が申し訳無さそうに閉じられる。


「すみませんが、貴女とは一言も話すなと言われています」


 私は小さくため息を付く。


「分かりました。あの、トイレに行ってもいいですか?」


 女性は頷いて扉の外に私を招く。

 廊下を出て女性用トイレの前で女性は立ち止まると、扉を開けて視線を中に向けた。


「ありがとうございます」


 中は多目的トイレのような広い作りで、便座は一つしかなかった。

 鍵を閉めてから首を見渡す。


 窓は無く、洗面台と便座以外にあるのは用具入れらしき扉だけだ。

 扉に近づき、音を立てないように開ける。

 中にはモップやトイレットペーパー、洗剤の他に幾つかの用途不明の物が置いてあった。


 …なにこれ、手錠とマスク…?


 黒い無骨なマスクを手に取る。

 マスクは首元から鼻の上まで覆うほどに大きく、そしてずっしりと重かった。

 一瞬迷ってからマスクを元の場所に戻す。

 結局私は何もせずにトイレを出ることにした。




 それから2時間は過ぎた頃、ようやく鈴木が戻ってきた。


「おまたせしました」


 鈴木の後ろから、母が首を落として入ってくる。

 部屋に居た地味な女性は、鈴木に椅子を差し出すと入れ替わるように部屋から出ていった。


「遅くなって申し訳ございません。少々トラブルが有ったもので」


 鈴木は、隣に座った母の顔をちらりと見る。

 視線につられて母を見ると、その頬や目に大きな痣が出来ていた。


「では、どうぞお話ください」


 そう言って鈴木が薄く微笑む。私はゴクリと唾を呑んで口を開く。


「何でそんなに怪我をしてるんですか?」

「いえ、少し反抗的だったもので」


 鈴木が答える。


「私は母に聞いています」


 そう強い口調で言って母に視線を移す。


「…すまん、本当に事務のバイトと聞いてたんだ」


 母が項垂れて答えた。その言葉に強く鈴木を睨みつける。

 しかし鈴木は私の視線に小さく鼻で笑うのみだった。


「…母さんがお父さんを殺したんですか」


 一つ息を付いてから口を開く。

 おそらく、今しかまともに話せる機会は無い。


 母は暫く黙っていたが、静かに口を開いた。


「…そうだ」

「何故、殺したんですか」


 思いの外に冷静な自分に驚く。

 事前に母の部屋に有った物を見ているのが大きいのかもしれない。


「…金だ」

「うちの資産は古いマンションの1室くらいで、中学生の子供もいます。殺人と釣り合ってないと思いますが」


 母が更に顔を俯かせる。


「別の理由があるんじゃないですか?」

「…長い、陳腐な話になる」

「聞きますよ」


 母が深く息を吐いてから、ポツポツと話しだした。


「お前の父と母…律と真由、そして私は成苑高校のクラスメイトだった」


 京香さんの話を思いだす。

 亜莉沙のお母さん…優梨菜さんも同級生だったはずだ。


「私達は高校2年の時、バンドを組んでいた。律はギター、真由はボーカル、私はベース、そしてもう一人…。私達は深く深く繋がり、そして周囲を巻き込んで大きく弾けた。一山幾らで売りに出てる程有り触れた話さ」


 母の瞳がどこか遠くを見ている。


「しかしその時の私は、これで人生が終わっても良いと思うほどに深く悩んで苦しんで、最終的に学校を退学した」


 確かに陳腐な話だ。

 無言で母に話の続きを促す。


「その後は暫く引きこもっていたんだが、親と喧嘩して一人暮らしを始めた。薬を始めたのはこの頃だ。体を売って薬を買う。そんな糞みたいな生活をずっと続けていた。ある時、律から連絡が来たんだ。それが今から3年ほど前だ」


 鈴木に視線を移す。そんな昔から鈴木は日本で活動していたのだろうか。


「私バカだからさ。死ぬほど辛かったけど、高校の時がやっぱり人生で一番楽しかった。だから、ほいほい律に会いに行ったんだ。そしたらあいつ、ボロボロの顔して言うんだよ。真由が死んだってさ」


 …っ。我が父ながら情けない。

 真偽は不明だが、確かにあの頃の父は精も根も尽き果てていた。


「糞みたいな奴だよ。10年以上放っておいた癖に、真由が死んだ途端に泣きついてくるんだぜ。でも、更に糞なのは私の方だった」


 母がくくっと小さく笑う。


「嬉しかったんだよ。律が私を頼ってくれた事がさ。でもさ。私は本当にバカだったから、頑張ったんだ。薬を断って、律の傍に引っ越して、仕事の時以外は朝から夜まであいつの世話をして、文字通り身も心もあいつに捧げた。そしたらあいつが2年前に、結婚しようって言ってくれたんだ」


 2年前…。父さんが死んだ年だ、そして優梨菜さんが自殺未遂を起こした年でもある。


「あいつが婚姻届を用意してくれて2人で提出したんだ。私は本当に嬉しかった。今までの苦労が報われたって。私の人生無意味じゃなかったって。これからもっと幸せになれるって、そう思った」


 母の声が異常なほどに低くなる。


「でも、その後に言われたんだ。やっぱり結婚出来ないって。幸福の絶頂から叩き落された私は半狂乱になったよ。何度も理由を問い詰めた。そしたら、あいつ言ったんだ。真由の事を忘れられない。そしてお前が反対してるってな」


 目を瞑る。確かに、私は母とお父さんの結婚に大反対していた。

 この人の事を全く信用できなかったのだ。


「狂ったように泣き喚いたよ。でも私、最後には言ったんだ。結婚は諦める、だから一つだけお願いを聞いてくれって。そしたら、あいつは頷いて何でも聞くと言った。なのに、あいつは私のその一つの願いすら聞いてくれなかった」


 母が何を願ったかはすぐに分かった。

 つい最近、私も拒否したばかりだ。


「だから、殺した」


 そう言って母は長く息を吐いた。

 長い沈黙が訪れる。私は何も答える事はない。

 今更、許しも断罪も無い。


「藤宮様、他に菜月様に聞きたい事はありますか?」


 鈴木がそう言った瞬間、ドタドタという足音と共に扉が勢いよく開いた。


「下にパトカーが集まってやす!」


 小太りの男が部屋に入るなり叫ぶ。

 その瞬間、鈴木の形相が怒りに歪む。


「キヨミを呼べぇ!」


 大音声と共に立ち上がった鈴木が、私と母の胸ぐらを掴んだ。


「お前らはこっちに来い!」


 反射的にその腕を掴むと、鈴木は私の体を持ち上げて眼前まで引き寄せた。


「おい、約束忘れるんじゃねえぞ…」


 そう言って鈴木は私を睨むと、私と母の首を掴んだまま女性トイレの中に引きずり込んだ。


「何をするの?」

「何もしないさ。お前たちはお客さんが帰るまで、大人しくしてれば良い」


 そう言って、鈴木は私達を女性トイレの奥にある用具入れに投げ込んだ。


「っつ」


 背中を壁に打ち付ける。

 反射的に振り上げた手を掴まれて手錠を回されると、更に顔に無骨なマスクを被される。


「良いか、絶対に騒ぐなよ。タカ、見張っとけ」

「へい!」


 そう言って鈴木がトイレを出ていく。

 狭い用具入れに私と母が押し込められた。

 すぐ前で、タカという小太りの男が見張っている。


 隣の母を見ると、私と同じように両手に手錠を回されて顔には無骨なマスクが被せられている。

 母に頬を寄せる。


「聞こえますか?」

「うん、聞こえる」


 マスクのせいで声は一切外に漏れないが、頬を伝って母の振動が耳に届いた。


「警察に通報しましたか?」

「してない」


 …まさか、偶然?そんなは訳ない。なら何故…


「ごめん」


 考え込む私に母が囁く。


「騙されてたのでしょう?謝る必要はないです」

「…今日の事もだけど、律の事も、ごめん」


 …それこそ謝る必要はない。

 謝られた所で、私にとっては何の意味はない。


「昔の事です。それより今は逃げ出す方法を考えましょう」

「…分かった」


 周囲に視線を走らす。

 正面に居る小太りの男はいつの間にかナイフを手に構えていた。


「大丈夫。お前は絶対に助ける」


 母の言葉に少し首をひねる。


「私のこと、嫌いじゃなかったんですか?」

「勿論嫌いだ。お前のせいで結婚破断になったんだからな」

「…それは、申し訳ないです」


 そう言って小さく頭を下げる。


「いや、私が悪かったんだ。高校の時から何も成長せず、ずっと女として生きていた」


 はぁ、と私は嘆息した。


「じゃあお互い様という事で。少なくとも今は、貴方を母と思っていますよ」


 私の返事に、母は小さく震えた。

 多分笑ったのだろう。


「脱出する方法は思い浮かびませんか?」

「さあな。そういうの苦手なんだ」


 母の返事に瞠目する。

 賭けにはなるが幾つか脱出方法は思い浮かぶ。

 しかし、2人共が無傷でというのは相当難しそうだ。


「どうせ私は殺される。私の命は好きに使ってくれ」


 悩む私に母が囁く。


「…そういう訳にもいかないです」


 目の前に立ち塞がる小太りの男を見る。

 何としても警察が来ているうちにあの男を排除しなければならない。


「恐らく警察はこのトイレを確かめに来るでしょう。その時に私があの男に飛びかかります。その隙に母さんはマスクを外して思い切り叫んでください」

「シンプルで良い案だ。しかし役割を逆にする」


 私の提案に母が間髪入れずに答える。


「駄目です。あの男は私を刺すのは躊躇うはずです。私が飛びかかる方が合理的です」

「娘を囮にして助かる親がどこに居るんだ」

「とにかく、駄目です。母さんの命は私が使って良いんでしょう?」


 母の事は到底好きにはなれないが、これ以上近くで人が死ぬのは見たくなかった。


「分かった。お前の言う事を聞くよ」


 母が息を吐いてそう言った。


「ありがとうございます。それでは警察が来るまでこのまま…」


 そう言った時、小太りの男が懐からスマホを取り出した。

 男はスマホを見ると、私達を…正確には母を見てニヤリと笑った。


 私が男に飛びかかったのと、刃が閃くのは全く同じタイミングだった。

 私の体当たりは呆気なくかわされ、そして男の刃は母の首に吸い込まれた。


「ぅっ!」


 母の首から血が噴き出し、そして斜めに倒れていく。


「母さん!」


 トイレの床に投げ出した私は、芋虫のように這いずって何とか母に近づく。


「…悪い、油断した」


 触れた頬から母の声が聞こえる。


「駄目、死なないで!」


 手錠に掛けられた手を母の首筋を抑える。


「ごめんな、最後まで役立たずで…」

「っ!」


 母の首から噴き出す血が私の全身に掛かる。


「ごめん、律…。ごめん、真由…」

「母さん!」


 母さんの体温が一瞬で無くなっていく。


「意味のない、人生だったなぁ…」


 …っ、くそ!


「そんな事無い!お父さんを救ってくれたじゃない!」


 胸の内に込み上げる不快感を堪えて、母の頬に向かって叫ぶ。


「母さんのおかげで、お父さんは笑えるようになったんだよ!」


 母が顔に震えた。


「ごめん、ね…琴音」


 その言葉を最後に母の体から力が抜けた。


 …今更、謝られてもっ…!


 その時、体全体が上から抑えられる。


「悪いな。そろそろ静かにしててくれや」


 母を殺した男の声が顔のすぐ上からする。

 その瞬間、お腹の奥が強い熱を持ち始める。


 目を左右に動かす。

 私の腰に男の片膝が乗っていて、頭が手で抑えつけられている。

 男のもう片方の手はナイフを持っていた。


 私の体は母の血に塗れている。

 そして、両手は手錠をされているが自由に動く。

 更に下半身は完全に自由だ。


 …ならば。


 コンコン


 その時、ノックの音がした。


「警察です。失礼ですが、どなたかいらっしゃいますか?」


 軽く頭を動かそうとするが、強い力で抑えられていて全く動けそうもない。

 マスク越しに叫んだ所で、私の背中に乗り上げている男を無駄に警戒させるだけだろう。


「あ、今使ってます!ごめんなさい、お腹の調子が悪くてもう少し掛かりそうです」


 離れた所から女の声が聞こえる。

 どうやらあの地味な女もトイレに居たようだ。


「ああ、ご利用中という事でしたら大丈夫です。ごゆっくりどうぞ」


 すぐ目の前に、血が飛び散った母の白い顔がある。

 その瞳は見開かれ、私を責めるように見ていた。


 …どうして、私の傍で死ぬんだ。

 私が悪いとでも言いたいのか?


 お腹が煮えたぎるように熱くなり、全身の細胞一つ一つが沸き上がっていく。


「しかし、もったいなかったわぁ」


 頭上から聞こえる関西弁に、膿が滲んだ男の顔が脳裏をよぎる。


 …そうか、あの男が私の目の前で母を殺して、そして今、私の上に乗っているのか。


「殺っちまうなら、もっと食っときゃ良かったなぁ…」


 …ぎりっ!


 血が出るほどに唇を噛みしめる。


 私は、手錠がされた両腕をゆっくりと持ち上げる。


「なんや、大人しくしとけや」


 そして、目を見開いた母の首の後ろに回した。


「っは!美しい親子愛やなぁ」


 嘲るように頭上の男が嗤う。

 両腕に力を入れて、母の死体を引き寄せる。


 そして…


「ああああ!」


 母の死体に足を絡め、体の下に引き込んだ。


「…っ、おい!」


 男の手に力が込められる。

 その瞬間、母の死体の上を転がり、体を入れ替えた。


「あ?」


 血に塗れた私の背中を男の膝が滑っていく。


「っくそ!」


 仰向けになった私の目の前に、慌てる男の姿が映った。

 片手にナイフを持っているせいか、バランスを崩した身体を支えられていない。


 眼前に、たたらを踏む男の無防備な顔面が差し出される。

 迫る男の顔を優しく受け止めるように、手錠が巻かれた腕を上げる。

 そして、私の両手が男の顔と接する瞬間…

 両の親指に力を込めた。


「ぎゃああああああ!!」


 絶叫が室内に響く。

 男が顔を両手で抑えながら私から飛び退いた。


「…汚い」


 親指に付着した白い粘膜を振り払って起き上がると、男が放り捨てたナイフを拾い上げる。


「てめえ!てめえええ!!」


 両目を抑えたまま叫び続ける男に近づき、腕を伸ばす。


 サシュッ


 何の抵抗も無かった。

 豆腐を切るよりも容易く男の首筋を抜く。


「な!?なにしやがった!」


 暴れまわる男の首筋から勢いよく血が噴き出す。

 天井に床に壁に、そして私に男の血が降りかかる。


「…ほんとに汚い」


 マスクを脱ぎ捨てると、ナイフを振り払って後ろを向く。


「ひぃっ!」


 地味な女がガタガタと震えて便器に座り込んでいる。


「わ、私は脅されてただけなの!」


 ゆっくりと女に歩み寄る。


「こんな事になると思わなくて!本当にごめんなさい!許して!」


 女は半狂乱になって叫びながら涙を流していた。

 私はそんな女にゆっくりと近づいて…


「ごめんなさい!許して!ゆるし…」


 無造作に腕を伸ばした。

 やはり何の抵抗も感じなかった。


 女の首筋から赤い血液が散らばる。


「きゃああああ!!」


 震えながら女が首筋を手で抑える。

 しかしそんな事で心臓のポンプを堰き止められる訳もない。


「煩いな…」


 ふと、流しの上の鏡が目に入る。

 そこには全身を真っ赤に染めて薄ら笑いを浮かべた私が写っていた。


 ガンガンガン!


 その時、トイレのドアが激しく叩かれた。


「おいどうした!もう警察は帰ったぞ!」


 外から男の声がする。

 あれだけ沸き上がっていた熱はいつの間にか冷めていた。

 全身から力が抜けてその場に崩れ落ちる。


「はぁっ、はぁっ!」


 まるで肺が焼け付いているようだ。

 血みどろの床に両手と頭をつけてひたすらに酸素を求める。


 ガチャ


 背後で扉の鍵が開けられた音がした。


「おい!」「何があった!」


 数人の男性の声が後ろからする。

 息も絶え絶えに地味な女が視線で私を示した。


「タカさんが殺られてる…」「鈴木さんは!?」「下だ!」


 ナイフを手に立ち上がろうとするが、全く体に力が入らない。

 何とか扉の方を向いた瞬間…


「おらぁ!」


 短髪の男に肩口を強く蹴りつけられる。


「っくぅ…!」


 ナイフが手から離れていく。


「おい姉ちゃん、派手にやってくれたなぁ…」


 ゴス!


「かはっ!」


 お腹を強く蹴られて空気の塊が口から漏れた。


 床を転がりながら入口を見る。

 トイレの外に1人、そして中に2人。男たちが怒りに歪んだ顔で私を睨んでいる。


「おい、傷つけるなって言われただろ」


 坊主の男が血走った目の短髪の男を抑えている。


「うるせえ!兄貴が殺られたんだぞ!!」


 短髪の男が腕を振り払って、私に駆け寄りざまに大ぶりの蹴りを振るう。


「ぐぅっ!」


 右脚の太ももに男のつま先がめり込んだ。

 堪らずにゴロゴロと床を回転する。


「もうやめろ!」


 そう坊主の男が叫んだ瞬間…


「うわあ!」


 叫び声と共にトイレの外にいた男が吹き飛んだ。


「なんだ?」


 2人の男が後ろを向く。

 その瞬間、男性がトイレに走り込んできた。


 ゴイン!


 物凄い音がして短髪の男がその場に崩れ落ちた。

 侵入した男性が飛び込みざまに、金属バットを叩きつけたのだ。


「っち」


 舌打ちをして男性が、折れ曲がったバットを坊主の男に構える。

 トイレに飛び込んできた男性は、なんと先輩だった。


「んだてめえ!」


 坊主の男がナイフを手に先輩に飛びかかる。


「ふうっ!」


 先輩はトイレの外まで大きく飛び退ると、腕を大きく振りかぶった。


「っくそ!」


 坊主の男が両腕で顔を守りながら屈み込んだ。

 先輩の腕がまっすぐ振り下ろされる。


 ガイン!


 恐ろしい速度で飛んだ金属バットが、坊主の男の右腕に直撃する。


「ぐぅ!」


 ナイフを取り落とした男が先輩を睨みつける。


「おらぁ!」


 先輩がトイレに飛び込みざまに坊主の男に体当たりを見舞う。

 坊主の男が恐ろしい音を立てて壁に吹き飛んだ。


「おい、逃げるぞ!」


 先輩が私に顔を向ける。

 私は頷いて立ち上がろうとしたが、右脚が強く痺れて動いてくれない。


「…ごめんなさい、動けそうにないです」

「っくそが!」


 言うなり先輩が屈み込んで私に手を伸ばす。


「な、何を」


 先輩は私を抱えあげると、そのまま左肩に背負った。


「え?」

「舌噛むぞ」


 視界が逆さになり、周囲の光景が後ろに流れていく。

 トイレを抜けパーテーションの廊下を先輩が走り抜ける。

 激しい上下動に目を回していると、間もなくエレベーター前に着いた。

 先輩は階段の扉を開けて…


「っち!」


 開いたばかりの扉を閉じると、先輩はドアノブを両手で握り込んだ。

 扉が反対側からドンドンと叩かれて、複数の男性の騒ぐ声が聞こえる。


「お前、まだ動けないのか!」

「少しなら…!」


 そう言うと、先輩の肩から床に振り落とされる。


「っ!」


 腰を強かに打ち付けて涙目になった所に先輩の声が降ってくる。


「エレベーターで1階に行け!円香がいるはずだ!」

「先輩は!?」

「俺はここで扉を抑えておく!外に出たら警察を呼べ!」

「…っ、分かりました!」


 聞きたい事も言いたい事も沢山あるが、今は問答している時間はない。

 私は這いつくばってエレベーター前に進んでボタンを押す。


 …円香、何て事してるのよ!


 感謝と恨みと衝撃と、幾つもの感情がどろどろに混ざる。


 チン


 エレベーターの到着音がして、扉がゆっくりと開いていく。

 すると、扉の奥から見知った制服のスカートが出てきた。


「おい!下で待ってろって…」


 後ろで先輩の怒鳴り声がして…


「ごめん、ミスった」


 円香の首元には光る物が突きつけられていた。


「ふう、なんてザマだ」


 円香の後ろから鈴木の声がする。


「おいそこのガキ、手を離せ」


 エレベーターから出た鈴木が先輩に首で指図する。

 扉の後ろで騒ぐ声は先程より遥かに大きくなっている。


「やなこった!」


 そう言った瞬間…


 ポキッ


「きゃあああ!」


 円香が手を抑えてその場に崩れ落ちた。


「もう一度言う。扉を離せ」

「ってめえ!!!」


 先輩が憤怒の表情で鈴木に飛びかかる。


「馬鹿が…」


 鈴木は大きく左に跳んで先輩の体当たりをかわすと、そのまま右腕を前に伸ばした


「だめえええ!!」


 鈴木の右腕が先輩の脇腹に吸い込まれる。

 次の瞬間、辺りに血飛沫が舞った。


「がああああ!!」


 先輩が脇腹を抑えてのたうち回る。

 更に、階段の扉が開いて10人近くの男性がフロアに入ってきた。


「鈴木さん!何があったんですか!」

「サツを呼んだのはこの女だ」


 鈴木が足元で呻く円香を蹴りつける。


「なんでバレたんすか?」

「こいつの荷物にGPSが付いてた」

「もうサツは大丈夫なんで?」

「分からん。ここは捨てる予定だったが予定を早める。すぐ動くぞ」

「分かりました!この2人はどうするんですか?」

「男は殺す。女は連れて行く」


 その言葉に私は顔をあげる。


「やめて!2人には手を出さないで!」


 そう言った瞬間、私の眼前に血みどろの小刀が突きつけられた。


「約束を守れ。そう言ったよな?」

「ごめんなさい!もう絶対大人しくついていくから!お願い!」

「駄目だ。この女は連れて行く。だが無事に事が済んだら解放してやる」

「…ホントですか?」

「ああ、俺はお前と違って約束を守る男だ。しかし少しでも暴れたらこの女の指を1本ずつ折っていく」


 そう言って鈴木が円香の手首を掴み上げる。


「ああっ!」


 円香が叫び声を挙げる。

 円香の白い手は、人差し指だけが真っ赤に腫れ上がり、あらぬ方向を向いていた。


「分かりました!分かりましたから、もう円香には手を出さないで!」

「よし、二度と約束を違えるんじゃねえぞ」


 鈴木はそう言うと円香の手を離して、先輩に近づいていく。


「円香、大丈夫か…」


 倒れ伏した先輩から声が漏れる。

 円香が涙に濡れた瞳で先輩の方を向く。


「ごめんね、やっちゃった…」

「…いいさ。なかなか楽しかったしな」


 鈴木が先輩の隣でしゃがみこむ。


「私もすぐ行くよ。またね、お兄ちゃん」


 円香の言葉に私は目を見開く。


「ああ、また、な」

「まって…まって、お願い!先輩を…円香のお兄さんを殺さないで!!」

「駄目だ。死ね」


 叫ぶ私を無視して、鈴木が短刀を振り上げた。


「やめてえええええ!!!」


 ドゴッ!


 その時、扉の奥から何かが強く打ち付けられる音がした。


「な、てめえっ!ぐあああ!」


 続いて幾人もの男性の叫び声が聞こえてくる。


「なんだ?」


 鈴木は立ち上がると階段の方に向き直る。

 フロアに散っていた他の男達も扉付近に集まってくる。


「何が起きてる!」

「カチコミです!」


 鈴木の胴間声に、扉の奥から男性が叫ぶように返す。


「うわああ!」


 男達が扉に入る度に叫び声が届く。


「くそ、どこの奴らだ!」

「女です!女が一人で…!ぎゃああああ!」

「女だと!?」


 気づくとフロアに10人以上居た男達が半分近くまで減っていた。


「くそ!ここで迎え撃つ!」

「はい!」


 鈴木の号令の元、残ったヤクザたちが扉の前に集まった。


「琴音、大丈夫…?」


 円香が這いずるように私の所に近づいてくる。


「円香、ごめんなさい。先輩も、貴女も、こんなに傷つけて…」

「琴音のせいじゃない。それより動ける?」

「…うん、何とか」


 足の痺れはかなりマシになっていた。

 走るのは無理だが、歩くことはできそうだ。


「早くこの場から離れよう」

「お兄さんは?」

「大丈夫、頑丈な人だから」


 一瞬迷ったが、円香の強い眼差しに促されて頷く。

 手錠が廻された腕を円香に支えてもらう。


「来るぞ!」


 鈴木の怒号がする。

 私が立ち上がったのと、侵入者がフロアに足を踏み入れたのは殆ど同時だった。


「はぁい、こんにちは」


 邪気のない笑顔で扉を抜けてきたのは、あの白い顔の少女だった。


「円香、オフィスの方に行こう」

「分かった」


 階段もエレベータも使えない。

 私は円香を促して、もう1つの扉の先に歩き始める。


「おい、こんなガキに全員やられたってのか」

「あ、見つけたぁ。探したんだよ」


 鈴木の驚く声と少女の楽しげな声が背後から聞こえる。


「てめぇ、なにもんだ!」


 男が少女に掴みかかる。

 その瞬間、少女の腰が回転し右のつま先が大きく後ろに引かれた。


 バゴン!


 物凄い打撃音と共に、男が吹き飛んでパーテーションに激突する。


「僕、君達に用は無いんだけど?」


 少女は右脚を振り上げた姿勢のまま、笑顔でそう言った。


「なに、あれ…」


 私の体を支えた円香が驚愕で呟く。


「あの子が犯人よ」


 少女は飛びかかる男性を次々に蹴り飛ばしていく。


「バケモノじゃない。あいつが琴音を狙ってるっていうの?」

「…どうも、そうみたいね」


 鈴木も少女に小刀を突きこんでいるが、あっさりとかわされている。


「なんであんなのに狙われてるの?」

「そんなの、私が知りたいわ」


 オフィスの奥にある非常用緩降機と書かれた白い箱に歩みを進める。


「これを使おう」


 円香が白い箱を開けると中には幾つもの器具が入っていた。


「ぐうぅ!」


 うめき声に後ろを向くと、鈴木が右手首を左手で抑えていた。


「お前、なにもんだよ…」

「ふふ、正義の味方、だよ」


 少女がフリルがついたスカートの裾をちょこんで掴んでお辞儀をする。


「狂人が…」

「僕の目的はコトネちゃんだけなんだけどなぁ」

「ぬかせ!!」


 鈴木が小刀を手に少女に飛びかかる。


「何これ、全然分かんないよ!」


 円香が隣で大声を上げる。

 床に投げ出された幾つもの器具の中から、紙を持ち上げる。


「金具を取り付ける台座がどこかにあるはずよ」


 そう言って周囲を見渡すも、物で溢れたオフィスにはそれらしき物が見つからない。


「あれじゃない!」


 円香が指し示す方を見ると、事務用ロッカーの間に挟まるように自転車の空気入れを太くしたような金具が台座から伸びていた。

 床に置いた器具を手分けして掴むと、台座の方に向かう。


「円香、下がってて!」


 台座の隣にあるロッカーの縁を掴む。


「ぐぅ!」


 ゴン!


 轟音と共にロッカーが倒れオフィスの床が揺れる。


「わお、琴音っていつの間にそんなに力持ちになったの?」


 円香の軽口を無視して、台座の近くの窓を大開きにする。


 びゅうっ


 強いビル風がオフィス内に吹き込んできた。


 台座に設置された金具をクレーンのように窓の外まで伸ばす。

 そして金具の先端にカラビナと滑車を取り付け、最後に黒いリールを窓の外に放り投げた。


「凄いね、どっかでやった事あるの?」

「さっき見たわ」


 ロープのついたベルトを円香の腰にきつく締める。


「よし、地上に降りたらベルトを外して」


 そう言って円香を窓の前に連れて行く。


「琴音は?」

「円香の次に行くわ」


「ぐわあああ!」


 後方で鈴木のうめき声がした。


「はぁ、タフだったなぁ」


 後ろを向くと、少女が手をはたき落としながらこちらに顔を向けていた。


「間に合わないよ!琴音が先に行って!」

「今更ベルトを付け替える時間は無いわ!」


「あれれ、もしかして飛び降りようとしてるの?」


 少女がいかにも楽しそうに笑う。


「いいよ、用があるのは琴音ちゃんだけだから。君は逃してあげる」

「円香、良いから行って!」


 私は円香を窓の外に押す。


「…あーし、バッチリな方法思いついちゃった」

「え?」


 円香が窓の縁に手をかけて意地悪そうに笑っている。


「2人とも助かる素敵な案があるの」

「そんなの無理よ!私、手錠されてるのよ!」


 コツコツという少女の足音が後ろから聞こえる。


「大丈夫、私達なら行けるよ」


 円香が足先だけを床に残し、後ろにゆっくりと倒れながら両腕を広げた。


「信じて」


 その瞬間、私は窓の外に飛び出していた。


 ビルの谷間の強い風、全身に浴びる冷たい空気、いつもより近い空。

 刹那の空中浮遊の末、私は円香の胸元に辿り着いた。


「くぅ!」


 円香のうめき声がすぐ近くから聞こえる。

 重力に引かれて落下していく。そう思った瞬間、腰に巻かれた腕に強い力が込められた。

 円香が私をキツく抱き止めていた。


「…ほら、あーしを信じて良かったでしょう」

「ほんと、ほんとに、バカね…」


 脂汗を浮かべながら円香が辛そうな声で言う。

 頭上から滑車の軋む音が聞こえる。

 太いロープが私と円香をゆっくりと下ろしていた。


「ありがとう、円香」

「…うん?」

「…私の親友で居てくれて」

「バカね、当たり前でしょう」


 背中に回された円香の腕にぎゅっと力が込められる。

 私は親友の頬に顔を寄せる。


 地上からは大きな騒ぎ声が聞こえていた。

 ロープに繋がれた黒いリールが、私達とは逆に上に登っていくのが視界の端に映る。


「へぇ、楽しそうだねぇ」


 その時、不吉な声が頭上からした。

 見上げると、窓から白い顔が笑ってこっちを見ていた。


「でも僕、絶叫系のが好きなんだ」


 そう言って少女が目の前のロープに手を伸ばす。

 その手には赤く染まった小刀が握られていた。


「まって!!」


 私が叫ぶのと、ブチッという不吉な音が聞こえたのは同時だった。

 重力が消えて、私達は抱き合ったまま自由落下を始めた。


 周囲の景色が高速で流れていく。

 地上からは幾つもの悲鳴が聞こえた。


「あっちゃあ」


 場違いに明るい円香の声がする。


 しかし、幸いな事に私が下側だ。

 これなら私がクッションになって円香は助かるかもしれない。


 そう考えた時、円香が腕に力を込めて私を抱き寄せた。


「円香!?」

「えい!」


 そして、円香が足を伸ばしてビルの外壁を蹴りつけた。

 横方向のモーメントが加わり私と円香の位置関係が変わっていく。


「何してるの!?」


 全身に力を込めるが、どう足掻いても回転は止まってくれない。

 円香の頭の向こうに白いアスファルトが迫ってくる。


「立ち別れ、だね」

「まどかぁ!!」


 円香はいつものように意地悪そうに笑って、そして…


 ゴシャ!


 真っ赤に割れた。


「あああああああああ!!!!」


 体の下で円香の柔らかい肢体が潰れていく感触に、私は絶叫をあげた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る