2024年5月12日(日)

 どれくらいあの場に居ただろうか。

 数分か、もしくは数十分か。

 誰が通報したのかは分からないが、警察と救急が来て私は保護された。


 呆然としたまま何を答えたかは分からないが、私はいつの間にか退院したばかりの病院に運び込まれていた。

 気付くと朝を迎え、ベッドの脇にはよく見知った看護師さんがいた。


「おっはよー!」


 元気に挨拶をする看護師さんに、しかし私は何も答える事ができない。


「あらら、だいぶ参ってるねー…」

「…亜莉沙は、どうなりましたか…」


 一縷の望みを掛けて聞く。


「…亡くなったと、聞いてるわ」

「…そう…ですか…」


 ふうーと長い息を吐く。


「体調はどう?」


 看護師さんの問いかけに、お腹を撫でる。

 若干の違和感…奥の方が熱を発しているような気がする。


「…問題ない、です」

「そう、なら良かった。ご飯食べれそう?」

「…警察の方を待たせてるんじゃないですか?」

「お、良く分かったね!」


 ふふ、と力無く笑う。


「警察の方をお呼びください」

「了解だよ!」


 看護師さんが病室を出ると、間もなく警官さんが入ってきた。

 今日は男性警官さんが一人だけだ。


「こんにちは、藤宮さん」

「こんにちは」

「この度は大変な目に、合われましたね」


 私は目を瞑ってその言葉を流す。


「早速で申し訳ないのですが、昨日のことを教えてもらっても良いですか?」

「はい」


 亜莉沙とのラインを見せながら昨日の事を説明する。


「…なるほど。大変な目に遭われましたね」

「いえ」


 そう言うと、警官さんは自分のメモ帳をじっと見て言った。


「幾つか聞いてもよろしいですか?」

「はい」

「羽月さんは自分が誘拐された事に藤宮さんが関わっていると考えている節があります。これはどういう事でしょうか?」

「犯人は最初に私と接触を図ってきました。しかし私が無碍な態度を取ったから、一緒に居た亜莉沙を攫ったんだと思います」

「なるほど…」


 警官さんは少し考える仕草をしてから、ゆっくりと話し始めた。


「2週間ほど前に羽月さんが救助された際、羽月さんはこう言っていました。『自分が誘拐されたのは、藤宮さんが羽月さんを犯人に差し出したから』だと」

「…そう、ですよね」

「しかし、ここからは私の個人的な感覚なのですが…。はたして藤宮さんに冷たく対応されたからといって、藤宮さんと一緒に居ただけの女子生徒を誘拐するなんて事はあるでしょうか?」

「…それは…」


 言葉に詰まってしまう。

 そんな人なんて居るはず無いという話なら、そもそも誘拐なんて行為に至る人の心情なんて全く理解できない。


「冷たくされたから…それだけの理由で友人を誘拐する人が絶対居ないとは言いません。しかし、このように考えたほうが自然ではないでしょうか?」


 そう言って警官さんは言葉を区切る。


「最初から羽月さん一家が狙いだったのではないか、と」


 警官さんの言っている事の意味が分からず首を傾げる。


「監視カメラの映像から、犯人がかなり計画的に誘拐を実行したのは分かっています」

「でも…それなら何故、私に犯人は接触したんですか?」


 そう言うと、警官さんは顔を伏せて呟いた。


「面白いから」


「…え?」


 私が呆然としていると、警官さんは言葉を続ける。


「ああいえ、すいません。どうも感情的な面と理性的な面、犯人はそのどちらもが非常に強いように感じています」

「そう、ですか…」

「一つ言える事としては、此度の事件は誘拐犯が悪いという事です。羽月さんはもとより藤宮さんが悪い事は一片たりとも無い。それは覚えておいてください」

「…ありがとう、ございます」


 警官さんが言っている事を全て理解できたわけでは無いが、彼が私を慰めようとしている事だけは分かった。


「いや、誠に申し訳ない事です。年を取ると説教臭くなってしまって…。では、本官はこれにて失礼します。また聞きたい事が出来たらお伺いしますので、その際はよろしくお願いします」

「はい、分かりました」


 感情のない私の言葉に、警官さんは律儀に礼をして病室を出ていった。




「おっつかれー」


 警官さんが出るとすぐに看護師さんが病室に入ってきた。

 手にはコンビニのレジ袋を持っている。


「ほら、お腹空いたでしょう?」


 そう言って机に水のペットボトルの他に巻き寿司やサラダ、ホットスナック、ケーキやプリン等をどさっと広げた。


「…前も思いましたが、病院食でコンビニって不思議な感じですね」

「うーん、そうそう無いんじゃないかなぁ」

「この病院が特殊なんですか?」

「うーんと、琴音ちゃんだけ、かな」


 看護師さんの言っている意味がよく分からず首をひねる。


「これ、全部私が買ってきてるのよ」

「…どうして、そんな事を?」

「ほら、コンビニの惣菜って凄く美味しそうだし!」

「それは、そうかもしれないですけど…」


 ますます看護師さんの言っている事の意味が分からない。


「あはは、あまり深く考えないでくれると嬉しいな。食べれそうなのだけ食べて、後は置いといてくれる?私が夜に食べるから!」


 少し慌てたようにひらひらと手を振って看護師さんが病室を出ていく。


 …相変わらず変な人。


 くすっと笑って、私はサーモンマヨ巻き寿司を手に取った。




「琴音、大丈夫!?」


 息を切らして円香が病室に駆け込んできたのはそれから30分ほど後だった。


「…う、うん、大丈夫」


 口の中のロールケーキを飲み込んで答える。


「良かった…」

「あはは、心配させちゃってごめんね」


 半分ほど残ったケーキを机に置く。


「あ、ごめんね、食事中に」

「ううん、もうお腹いっぱいだから大丈夫」


 気がつくと机の上は殆ど綺麗になっていた。

 少食の私にしては物凄い量を食べたと思う。

 お腹の熱が強くなって、幾らでも食べれるような気がしたのだ。


「…思ったより、元気な感じ?」

「ふふ、そうね」

「良かったぁ。めちゃへこんでるかと思ったよー」

「さっきまではそうだったんだけど…。気使ってくれる人が居てくれて、それに…」

「それに?」


 亜莉沙の最後の言葉を思い出す。


「ううん、落ち込んでばかりもいられないものね」

「その通りっ!じゃあ早速だけど昨日何があったか教えてよ。個室なら誰に遠慮する事もないし!」

「分かったわ。あ、もう少しでマヤが来ると思うからその後でも良い?」

「おっけー!」


 円香と雑談したり、残ったケーキを食べたり、入ってきた看護師さんに全部食べたことを驚かれたりしていると、顔をほんのり紅潮させたマヤが病室に入ってきた。

 座ったマヤにペットボトルを差し出してから、私は昨日の話を始めた。


「そっかぁー…」


 円香が暗い声で嘆息する。


「実は昨日、遥と一緒に亜莉沙のお見舞い行ったんだよね…。体の事とかお母さんの事とか、その…犯人にされた事とかも勿論凄い辛かったんだけど、顔が治らない事がとにかくショックだったみたいで…」


 円香は苦しげに顔をゆがめて言葉を続ける。


「ずっと、死にたい死にたいって…どうして助けたんだ、殺してくれれば良かったって言ってて…それで昨日、琴音の所に行ったんだと思う」


 重い沈黙が病室を覆う。

 円香はガックリと首を項垂れていて、マヤは神妙な顔で私を見ている。

 2,3度呼吸をしてから、私は口を開いた。


「…亜莉沙は、私を殺す事も出来た。私に強い恨みを持っててもおかしくないのに。でも、最後まで私に傷一つ付ける事無く…とっても、その…綺麗な子…だったわ」


 噛みしめるように言葉をゆっくりと紡ぐ。


「…ふふ、そっか…」


 円香は苦しげに笑って、そして少しの間、目を閉じていた。


「落ち込んでばかりもいられないねっ!」


 そう言って円香がぎこちなく笑顔を浮かべる。


「とにかく、今後どうするかが問題ね。琴音、あの話は受ける気はないの?」


 …あの話、というのは円香が用意したマンションに住む件だろう。


「少なくとも今は無いわ。どうしてもやらなきゃいけない事が出来てしまったもの」

「…やらなきゃいけない事って?」

「母の部屋を調べる」


 円香が驚いた顔をする。


「…どうして、そんな事をするの?」

「犯人と母は何らかの関係性がある可能性が高い。でも、その証拠が無い」

「そうは…そうね」


 琴音の言葉に私は頷く。


「それに昨夜、亜莉沙が言っていたの。亜莉沙を助けに来いっていう連絡が来たかって。当然私はそんな連絡は受けていない。犯人が嘘をついた可能性も勿論あるけど、もし本当にそんな連絡をしたとしたら…」

「お母さんが連絡を受けているんじゃないか、と」

「そういうこと。犯人が家に来る直前、母は誰かと強い口調で電話をした後に家を出ていったわ。電話で言っていたのは確か…『今何時だと思っているの、家まで来ないで』だったかな」


 そこまで言って考えをめぐらす。


「その通話相手が犯人だったって言いたいの?」


 琴音の言葉にふるふると首を振る。


「亜莉沙を助けに来いという脅迫から、『家に来ないで』っていう返事は繋がらないわ。脅迫を受けた母は警察に通報した、それで家まで迎えに行くと言われたんじゃないかな」

「…なるほど」


 そう言うと円香が難しい顔をした。


「警察が家に来るのを嫌った母は、『家に来ないで』と言って警察署まで歩いて行った。これなら筋は通ると思わない?」


 うーん、と円香が唸る。


「一見筋は通っているけど、幾つか疑念は残るわ。1つは誘拐なんて超超な緊急事態が起きているのに、歩いて警察署まで来るなんて行動を警察が許すかどうか。1つは警察が家に来るのが嫌なら、なぜ通報したのか。最初から警察署に行くか、少なくとも外で通報すれば良い」


 円香が指を1本ずつあげていく。


「そしてもう1つ。警察は未だに犯人を突き止められていない。『亜莉沙を誘拐したから一人で助けに来い』なんて連絡をお母さんが受けていた事を警察が知っていたら、犯人とお母さんの関係性は間違いなく調べているはずよ」


 ゆっくりと話す円香の言葉に何も返せない。


「…それは、確かに…じゃあ、母は誰と通話していたの?」

「…それは、分かんないけど」


 少し考えてから、私は発想を変えることにした。


「母は誘拐の連絡を受けた、しかし警察には通報しなかった。なら先に考えるべきは母が警察に電話しなかった理由よ」


 そう言うと円香がぱっと顔をあげた。


「それは勿論、警察にバレたら困るから」


 私は頷く。


「つまり、母の電話相手は、警察にバレたら困る状況で、誘拐の助けを求められる相手という事よ」


 私がそう言うと、病室を重い沈黙が漂う。


「それは、彼氏みたいなよっぽど特別な人か、最悪…」


「反社会勢力」


 ずっと黙っていたマヤが円香の言葉を継いだ。


「…そう、だね。琴音のお母さんが反社会勢力と関係を持っていて何らかの犯罪を犯した。そして、それを知っている犯人から脅迫を受けたから反社会勢力に助けを求めた。そう考えると色々辻褄が合う」


 私達の間に、長い長い沈黙が訪れる。

 最初に想定していた事態を大きく超えていた。

 大きく状況の見直しが必要だろう。しかし…


「…もし母が犯罪に加担しているなら好都合よ。一度、母の部屋を調べ…」

「それは駄目」


 マヤが厳しい口調で私の言葉を遮る。


「絶対に止めて」

「…マヤ」


 マヤがここまで強い言葉を放つのは初めてかもしれない。


「…そう、だね。私達は釜中之魚なのかもしれない。犯人はもとより、お母さんやその電話相手も何をするか分からない。もしお母さんの部屋を調べたのがばれたら、どうなるか分からないよ」

「円香…」


 二人の言は全くその通りだった。

 特に円香は引越し先まで用意してくれると言っているのだ。

 今が火に掛けられる直前というなら一目散に逃げるべきだろう。

 こう言ってはなんだが母の罪を暴くことのメリットは無いに等しいのだ。


「2人が心配してくれるのは分かったわ。ありがとう」


 そこで一旦言葉を区切る。でも…と口に出そうとしてしまったのだ。


「ごめんね、ちょっと色々整理したいから今日は…」

「…分かった、今日はお暇するよ。でも、くれぐれも早まった事はしないでね」

「うん」


 最後まで心配そうな顔をして円香とマヤは病室を出ていった。




 少し経ってから私はラインを開き、メッセージを送る。


『ちょっと協力してほしい事があるのだけど』

『嫌だ』


 マヤの強い反応で疑惑が確信に変わる。


『お願い手伝って、佐々木さん』

『…なんで気付いたの?』

『もしかしてって思っただけ。私、あんまり偶然とか信じないから』


 昨夜のように既読マークが着いたままマヤから返事が来ない。


『私一人でもやるよ。でも、出来たらマヤに助けてほしいの』


 卑怯かなと思ったけど、マヤの手伝いの有無で成功の可能性が大きく変わるのは間違いない。


『何をすれば良いの?』

『…ありがとう、マヤ。病室に戻ってこれる?』

『分かった』


 画面を閉じて深くため息をつく。


 …後で絶対円香に怒られるだろうな。


 円香とのラインを開いて悩む。


 マヤは間違いなく、違法行為…それもかなり悪質性の高い事をしている。

 それは110番を偽装したことからも明らかだ。

 廃屋に入っていった黒尽くめの人物を思い出す。


 マヤの仕事の話は円香にしない方が良い。

 内心で深く謝罪してスマホの画面を閉じた。




「マヤ、呼び出してごめんね」


 ふるふるとマヤが首を振る。


「母は私が入院して帰ってこないと思ってるはず。今日中に母の部屋を調べるわ」


 既に最初の事件から1週間も経っている。普通の人なら犯罪の証拠となる物は処分しているだろう。

 しかし、あの母なら…


 マヤが少し目を細める。


「お願い、マヤ」


 マヤは暫く反応しなかったが、渋々といった体で小さく頷いた。


「…ありがとう」

「何すれば良いの」

「昨夜みたいに、母のスマホに警察を装って掛けてほしいの。それで聞きたい事があるから家に行きますって言えば、多分母から警察署に行くって言い出すはずだから」

「家で待つと言ったら?」

「その時は中止。5分ほど経ってから、聞きたい事が解決したから訪問は取り止めって再度連絡して」

「分かった」


 もし何かしらの犯罪の証拠が家にあるならば、警察が来るの嫌がるはず。

 逆説的に警察の訪問を許可するなら、家に犯罪の証拠がある可能性は低い。

 その場合は改めて違う作戦を考えればいい。


「首尾よく母が警察署に向かったら後をつけてほしい。それで警察署近くなったら電話して、解決したから来なくて良いと伝えて」

「了解」


 実際に母が警察署に訪ねてしまったら偽電話に気付いてしまう。

 それは避けなければならない。


「時間はそんな遅くならないうちに…そうね、今が14時だから17時にしましょう」


 マヤがこくりと頷く。


「悪いんだけど、適当に安い服買ってきてもらっても良い?お金は後で払うわ」


 病院服で出歩くのは目立ちすぎるし、元々着ていたワンピースは血みどろだ。


「分かった」


 そう言ってマヤは足早に病室を出ていった。


 一人残った私は昨夜の事に思いを馳せる。

 あの不審者が乗っていた黒い車は外交官ナンバーだった。

 そういえば、マヤの両親が何の仕事をしてるかは教えてもらってない。


 …もし昨夜の不審者がマヤなら、学校休んで何をしてるの?


 余りにも分からない事が多すぎる。

 まずは、母の犯罪の証拠を掴む事だけに集中しよう。




 マヤと遊びに行くというと外出許可はあっけなく降りた。

 外傷が無かった事と食事を大量に食べた事が良かったのかもしれない。

 病院を出た私は電車に乗って、自宅の傍まで来ていた。


『そろそろ家に着くわ。マヤの準備はどう?』

『いつでも良い』

『ありがと。また連絡する』


 スマホを鞄に閉まって代わりに鍵を取り出してマンションの入り口を抜ける。

 エントランスの鍵を開けて、様子をうかがいながら階段まで進む。

 そのままゆっくりと階段を上り、4階と5階の真ん中にあるU字型の踊り場に辿り着くとその場にしゃがみこむ。

 これで壁が邪魔になって4階からは私の姿は見えないはずだ。


『マヤ、お願い』

『分かった』


 2,3分ほど経ったろうか、階下で鍵を開ける音がする。

 立ち上がって確認したくなる心を抑えてマヤからの連絡を待つ。

 それから更に少し経った頃、スマホがぶるぶると震えた。


『琴音のお母さんがマンションを出たのを確認した。警察署まで尾行する』

『ありがとう、何か異常があったら連絡して』

『了解』


 ここから警察署までは歩いて10分ほど、往復で20分と見ても15分程しか捜索時間は無い。

 立ち上がり階段を降りて自宅の扉に取り付く。

 予め取り出していた鍵を回し、不自然じゃない程度に大きな音を立てて扉を開けた。


「はぁー、疲れたなぁ」


 声を出しながら玄関に入り、素早く三和土を確認する。

 母のよく使う靴が無くなっていた。

 玄関の鍵を閉めてから靴を脱ぐと、そのまま鞄にしまう。


 なるべく自然な仕草を意識して、自分の部屋、トイレ、お父さんの部屋、風呂場、リビングとベランダを確認する。

 母の部屋の前に行き、扉に耳を当てる。中で何かが音をしている様子はなかった。


 …大丈夫、誰も居ない。


 母の部屋のドアノブを慎重に廻し、扉をゆっくりと開ける。

 扉の隙間からなんとも言えない甘酸っぱい匂いが漂ってきた。

 顔を顰めて中の様子を確認する。

 マンションの共有廊下に面した窓のカーテンは閉じきっているが、陽の光が僅かに部屋の様子を映してくれた。


 …ふう。


 母の部屋に何があっても驚かない、そう思っていたが流石に重いため息が出る。

 まず目に入ったのはベッドや床に散らばる大量の男物の服だ。

 シャツやスーツの他に、下着や靴下まで散乱していて、それらが部屋中に漂う酸っぱい匂いの発生源なのは間違いない。


 扉を大きく開け放って中に足を踏み入れる。

 正面にはベッド、左には収納箪笥、右には机と仏壇。

 そして壁中に絵画やイラストが飾ってあった。


 スマホを確認する。玄関を抜けてから既に2分が経過していた。あまり時間はない。

 まず机に向かう。

 机の上にはUSBメモリが挿さったノートPC、煙草とパイプと灰皿、缶ビール、ライター、エアコンと電灯のリモコンが置いてある。

 PCの電源をつけてから、机の下にある棚を順番に空けていく。

 コードや充電器等の電化製品小物、化粧品、財布、小物入れ、文房具、メモ帳…


 財布と小物入れには何も入っていない。

 メモ帳は新品同様だ。

 薬、ライター、煙草、印鑑、各種カード、通帳…

 通帳は全部で8つあった。大きなお金の動きはない。


 ノートPCはパスワードの要求画面に来ていたので、passwordと入力する。

 当然のように弾かれたので誕生日を母、お父さん、私の順に入れたがやはり通らない。

 ヒントボタンを押すと、記念日と表示される。分かる訳ないので電源ボタンを長押しして強制終了。

 ノートPCに挿さったUSBメモリは一先ずそのままにしておく。


 その時、鞄に入れたスマホがぶるぶると震えた。

 確認するとマヤからのラインだった。


『警察署前でお母さんに電話した、約9分で家に帰宅する』


 はやい…!


 時間を確認すると、確かに家に入ってから8分も経っている。

 しかし、まだ何一つ母の犯罪の証拠を掴んでいない。素早くスマホを操作する。


『何とか時間稼いで』


 スマホを鞄に放り込むと、机から離れて奥にある仏壇に向かう。

 仏像と脇侍、香炉と仏飯器、蝋燭立て、線香立てとりん、そして複数の位牌と父の写真があった。


 素早く仏壇の下にある棚を空けていく。

 中に入っているのは蝋燭と線香、チャッカマン、筆や絵の具だ。

 その時、なにかの違和感を覚えた。

 微かな違和感の糸口を追おうとした瞬間、鞄の中のスマホがぶるぶると震える。


 …ごめん。


 心のなかで謝りつつ、スマホを無視して視線をベッドに向ける。

 タブレット。年季の入ったオーディオプレイヤーとヘッドフォン。そして大量の男物の服が散乱している。

 スーツを手にとって内側を見る。そこには藤宮律と黄色い糸で書いてあった。


 …父さんの名前だ。


 スーツを放り捨て、オーディオプレイヤーを開く。

 その中にはMDが入っていた。


 再生ボタンを押してヘッドフォンを耳に当てる。

 音程の合っていない男性の歌が流れてくる。

 すぐに停止ボタンを押してヘッドフォンを投げ捨てる。


 最後に衣装箪笥に向かう。

 一番上の棚を開けたが、母の服しか入っていない。

 下を見ると衣装箪笥の隣に鞄が複数置いてある。


 その時、またスマホがぶるぶると鞄の中で揺れた。

 時間は確認していないが、もういつ母が帰ってきてもおかしくない。

 今すぐUSBメモリだけ取って家を出るか、衣装箪笥の残りの棚や鞄の中を調べるか、それとも…


 私は踵を返して仏壇に向かった。

 最初に見た時の違和感がずっと気になっていた。

 念入りに仏壇を上から順番に見る。

 仏の絵、仏像、陶器、父の写真、花瓶と線香立て、複数の位牌…。


 そこで視線が止まる。


“複数の”位牌?


 気付いた瞬間に位牌に手を伸ばす。

 持った位牌を上下に振ると僅かに音がする。

 位牌の蓋を外して下に向けると、茶色の粉末が入った小さなビニール袋が幾つも出てきた。


 …これだ!


 ビニール袋を1つ残して、残りを戻す。


 落ち着け、落ち着け…。


 早足で母の部屋を出て扉を閉める。

 そして玄関に顔を向けた瞬間…


 ガチャリ


 鍵が開く音がした。

 悲鳴を押し殺して、正面にある自分の部屋に飛び込む。

 部屋の扉を閉めたのと、玄関ドアの開くのは殆ど同時だった。


 自室の扉の前から一歩も動けない。

 息を殺して背後の気配を探る。


 ひたひた…


 母が廊下を歩く音がする。


 カチャ


 扉が開く音がして、そしてすぐに扉が閉まる音がした。

 自分の部屋に入ったらしい。


 大きく息を吐いて扉から離れる。


 額の汗を左の腕で拭う。

 顔どころか全身が汗でびっしょりだった。

 スマホを確認するために鞄に手を伸ばし…


 ガチャ


 真後ろの扉が開いた。


「きゃああぁ!」

「…びっくりした。なんて声あげてんよ」


 慌てて後ろを向くと、そこには母が立っていた。


「あんた今日入院じゃないの?」


 心臓が早鐘のように鳴っている。


「…そうだけど、服とか無いから取りに来たの」

「ふーん」


 母は私を上から下までジロジロと見る。


「…早く戻らないといけないから」


 その視線から逃げるように後ろを向くと、隅に置いてある大きな鞄を取ってワードロープから適当に服を入れていく。


「あのさ」


 びくりと体を震わせる。


「洗い物してって」

「…わかりました」


 そう言うと母は部屋を出ていった。

 背後で扉を開閉する音が聞こえる。今度こそ自分の部屋に戻ったのだろう。


 更に2呼吸待ってから恐る恐る後ろを向く。


 開け放れた扉から見えた廊下には母の姿は無かった。


 パタン


 自室の扉をしめて大きく息を吐く。

 全身が怠く、強い疲労感があった。

 傍にある白い布団の誘惑に捉えられそうになる。


 首をぶるぶると振って下着を残して服を脱ぐと、肌着で体の汗を拭う。

 外気が火照った体を冷ましてくれる。


「はぁーーー…」


 長く息を吐いてから頬をピシャリと叩いた。

 ワードローブから新しい肌着を取り出して脱いだ服と一緒に着る。


 一刻も早く家を出たかった。

 犯罪の証拠は手に入れたのだ。後は無事に家を出て警察に届けさえすれば良いだけ。

 逸る心を抑えてキッチンに向かった。


 母が部屋から出ない事を祈りながら素早く洗い物を済ませると、脱衣所から下着を掴んで部屋に戻った。


 …急いで、急いで、そして焦らないで。


 鞄に下着を突っ込んで乱暴にファスナーを閉める。

 鞄を持って、玄関に向かう。


 すると、靴がないことに気付いた。


 …そうだ、靴は鞄の中だ。


 棚から取り出すか、鞄の奥から引き出すか一瞬迷う。

 その時、母の部屋から大きな物音がした。

 反射的に玄関の鍵を回し、靴下のまま外に飛び出す。


 ガン!


 乱暴に玄関扉を閉じて、階段に走り寄る。


 …よし、もう大丈夫!


 後は警察まで行けば全てが終わるのだ。


 母の犯罪を暴き、亜莉沙の敵を取れる。

 そんな高揚と達成感で喜びが溢れる。

 ここまで気持ちが高ぶったのは成苑高校の合格発表を見た時以来だ。


 私は階段を1段飛ばしで駆け下りると、そのままエントランスから外に飛び出す。


 …やったよ、亜莉沙!これで…


 ドン!


「きゃあ!」

「おっと…」


 その時、マンションに入ろうとしていた人とぶつかってしまう。


「すいません!」


 すぐに頭を下げる。

 ふわりと石鹸と柔軟剤の香りと…それに混じって雨に濡れた犬のような匂いが鼻をついた。


「いや、こちらこそ申し訳ない」


 男性の声だ。低く重い迫力のある声、そして独特の息遣い。

 はっと顔をあげる。この声を間違える訳がない。


「あ、あの…」

「うん?」

「先輩じゃ、ないですか?」

「…悪いけど、人違いじゃないかな」


 そう言って先輩はふいっと顔を背ける。


「成苑高校の3年生、吹奏楽部で、駅前の居酒屋でアルバイトしてますよね!」


 言った瞬間、しまったと思う。

 不審げに私を見てくる先輩に思わず視線を左右に迷わせてしまう。


「わ、わたしも成苑の1年生でこの前にバイト始めたんです。だから、どっちの意味でも先輩かなって!」


 我ながら情けないほどに上擦った声を挙げてしまった。


「…あぁ、初めまして」


 それだけ言って、先輩は私の横を抜けてエントランスに入ろうとする。


「あ、あの!」


 慌てて先輩の袖口を掴む。


「っち!」


 露骨な舌打ちと共に三度先輩がこちらを向く。


「なに?急いでるんだけど」

「…ごめんなさい…その、ライン、交換してくれませんか」

「…はぁ?」

「お願いします!」


 深々と頭を下げる。


「いや、意味分からないな。お断りだね」


 冷たい声が頭上から降ってくる。


「…すいません、どうしても、お願いします!」


 深い深いため息が聞こえる。


「…っくそ、分かったよ。さっさとしてくれ」


 根負けしたように先輩がスマホを差し出す。


「え、え?」

「操作分からないからそっちでやってくれ」

「ちょ、ちょっと待ってくださいね!」


 先輩からスマホを受け取るとラインを開き、QRコードを表示させる。

 自分と先輩のスマホを向かい合わせて、友だち登録が無事に出来た事を確認してからスマホを返した。


「ありがとうございます!」


 深々と90度頭を下げてお礼を言う。


「…そんな頭下げんなよ。しかも靴も履かずに…マジで勘弁してくれ」


 そう言って先輩はマンションに入っていった。


 …え?え?


 周囲を確認すると、数人の通行人が慌てて目を逸らしたのが分かった。

 熱が上ってきて顔が真っ赤になったのが分かる。

 私は近くの植え込みに腰掛けると、慌てて鞄から靴を取り出した。




 警察署に向かいつつ、スマホを開く。

 ラインを開くと、一番上がライン初期アイコンの白い影になっていて、その横には正和と表示されていた。


 …本名なんだ。


 先輩の名前が分かったことを嬉しく思いながら、同時に妙な違和感を覚える。

 首を傾げながら2番目に表示されているマヤのラインを開く。


『わかった』

『ごめん、道を聞いたけど殆ど時間を稼げなかった』

『大丈夫?』


 3つのメッセージを見て、ふふっと笑って文字を打ち込む。


『マヤ、ありがとう。おかげで犯罪の証拠を手に入れたよ。今警察に向かってるとこ』

『良かった』


 そこで少し迷う。

 マヤと喫茶店でゆっくり話したいと強く思ったのだ。

 しかし、遅くなると病院に余計な心配を掛けてしまう。


『退院したら沢山遊びに行こうね』

『わかった』


 マヤの返信を確認してから、改めて先輩のラインを開く。

 先輩には居酒屋と自宅で二回も助けられている。

 ずっとお礼を言いたかった。メッセージを入力しようとして…ふと思った。


 …あれ、なんで、うちの前に居たの?


 今日は日曜日だ。先輩が何処に出かけても不思議はないが…なぜうちのマンションに?

 友人でも住んでいるのだろうか。


 うちのマンションは成苑高校と近いし、9階建てで住民も多い。

 私以外に成苑生が暮らしていても不思議じゃない。しかし…。


 首を振る。偶然と思考放棄するのは最後で良い。


 先輩、私に用事があったのだろうか?でも、あの態度はそんな感じには見えない。

 その時、やっと名前を見た時の違和感に気づいた。


 正和…カズ君…?まさか…亜莉沙の言ってたお兄ちゃん、なの?


 それなら、先輩がうちに来た理由は…。

 ばっと後ろを向く。まだ陽は落ちきっておらず、数人の歩行者が居た。

 しかしその中には知っている顔はない。ひとつ息をついて視線を前に戻す。


 亜莉沙をあんな目に合わせた犯人は未だ見つかっていない。

 しかし、亜莉沙を犯罪に巻き込んだ上に目前で死なせた人間は、何ら罪を負うこと無くのうのうと生きているのだ。


 …もしかして、私に何か仕返しするつもりなの?


 その時、ぶるぶるとスマホが震えた。

 円香からのラインだった。


『病室に居ないじゃない。もしかしてお母さんの部屋、調べに行ったの?』


 少し迷ってからメッセージを返す。


『うん、ごめん』


 かなりの間があって再びスマホが私を呼ぶ。


『もう良いよ。でも次に危ない事する時は絶対に教えて』

『分かった』

『約束ね』

『うん、約束』


 スマホを鞄にしまい深く息を吐く。


 …重いなぁ。


 私には金も技能も知恵もコネも社交性もない。

 有るのは深い罪の意識と希死念慮だけだ。

 一方の円香はというと、凡庸な私とは全く逆だ。

 聡明英敏で明るく社交的。私に拘り合うべき人物では決してない。


 …死にたい。死なせてほしい。


 円香とマヤ、そして亜莉沙が居なければ今すぐにでも首を裂くのに。

 そこまで考えて頭を振る。


 高揚と達成感、そして憧れの人と会えた喜びで溢れていたのに、実はその人が私に恨み骨髄の可能性が出てきた。

 感情の振れ幅が大きすぎて思考が極端になっている。


 お腹を触ると奥の方が熱を発していた。

 その熱がゆっくりと体を巡り、不思議と活力が湧いてくるような気がした。




「これは…本鑑定に廻す必要があります」


 警官さんは、ビニール袋の中身をシャーレに分けてスポイトで液体を落とすのを3度繰り返した後に、そう言った。


「覚醒剤と大麻、そしてコカインの簡易鑑定をしましたが、陽性反応は出ませんでした」

「そう、ですか…」

「本鑑定の結果が出るのは1ヶ月以上先になります」

「1ヶ月も?」


 警官さんの言葉に驚きを隠せない。


「薬物の本鑑定は科捜研が行うのですが、今かなり立て込んでるようでして…。緊急性が低い鑑定は後に廻されるんです。最悪の場合、3ヶ月ほど掛かる場合もあります」

「3ヶ月…」

「逃亡の恐れがあるとか、大量に取り扱っていて誰かに販売しているとかなら話は別なんですが…」

「特にそういうのは…無い、ですね…」

「…他の犯罪に繋がる可能性が高いとして、急ぐように伝えますので」

「…すいません、お願いします」


 頭を下げて警察署を後にする。


 …3ヶ月かぁ。


 病院のある荻窪駅に向かう電車を待ちながら嘆息する。

 今回の入院は、検査や精神的ストレスの経過観察の意味が強い。

 外傷は特に無いので、2,3日で退院になるだろう。

 その後は家に帰らなければならない、しかし…。


 アナウンスと共に黄色い電車がホームに入ってくる。

 日曜日夕方の上り電車で、しかも各駅停車専用の路線だ。

 車内には数えるほどしか乗客がいなかった。


 奥のドアの前まで行き、外を眺める。そこには学生に向けた脱毛や整形の広告が並んでいた。

 その広告を見ていると、どうしても亜莉沙の事を思い出してしまう。


 アナウンスと共に電車がゆっくりと動き出す。

 窓の外を広告が横に流れていき、やがて眼下に井の頭公園の広い自然が広がった。


 亜莉沙は自分の外見に拘りを見せていた。

 では亜莉沙がいわゆるブスや根暗に厳しかったかというと、全くそんな事はなかった。

 彼女は誰に対しても明るく平等に、そして尊重して接していた。


 アナウンスと共に電車がゆっくりと停止していく。

 西荻窪に着いたのだ。車内の3割ほどの人が降りて、同じくらいの人が乗ってくる。


 中吊り広告を見ると殆ど美男美女しか居ない。

 タレントだけではない。政治家も芸術家もスポーツ選手も、あらゆる仕事と言われる物はルックスが良ければ成功の可能性は非常に高くなる。

 教師だって顔が良いほどに、生徒は真面目に授業を聞く。


 亜莉沙は美醜で態度を変える事はない。しかし、美しくある事がこの世界では強く求められている事を理解していた。

 だからこそ、あそこまで美しくなる事に拘っていたのだろう。

 そして、もはや自分が美しくなれない事を理解して、この世界では必要とされない事を理解して、死を選んだ。


 体がボロボロでも、レイプされていても、顔さえ美しければ価値を見出す人は必ず居るのだ。

 しかし、その逆は…。


 アナウンスが荻窪に着いたことを知らせる。

 ドアに並ぶ人の後ろについてホームに降りる。

 益体もない事を考えてしまったと小さく首を振る。


 今の問題は薬物鑑定が終わるまで最長3ヶ月掛かるという問題だ。

 家に帰るのは可能なら避けたい。

 部屋に侵入して薬物を盗んだ事がバレたら、どんな事態になるか想像も出来ない。


 …円香にお願いする、か。


 最終的に行き着いたのは結局そこだった。

 彼女の家は裕福だし客間もあった。3ヶ月くらいなら間借りさせてくれるかもしれない。


 幸い私の顔は平均よりは良い。

 円香も亜莉沙も、そしてマヤも、私がこの顔だから仲良く接してくれてる。

 同様に円香の家族とだって同じ様に上手くやっていけるはずだ。


 …はぁ。


 やっぱり今日は駄目だ。思考が自虐に寄りすぎている。

 私は目頭を抑えると、病院への足取りを早めた。

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