2024年5月11日(土)

「おまたせー!」

「早かったわね」


 放課後、教室で待っていると、円香はすぐに戻ってきた。


「うんうん、部活に挨拶だけしてきたー」

「そういえば、円香の担当は何なの?」

「あーしはこれっ!」


 そう言って円香が長い鞄をちらりと開く。

 そこには銀色の管楽器がしまってあった。


「フルート?」

「そそ」

「円香ってピアノやってたわよね」


 小学校の音楽発表会の時に円香がピアノを弾いていたのを思いだす。


「うん、今もやってるよ。でもちょっと別の楽器もやりたくなってさ」

「へぇ、それでフルート選んだんだ」

「うんうん、やっぱばえるじゃん?それに運ぶのが楽だからね」


 そう言って円香はフルートを吹く真似をした。


「ふふ、そうね。円香が演奏する時は応援に行くわ」

「言ったなぁ?絶対きてよ!」


 私は笑って頷いた。


「久しぶりの学校は問題なかった?」

「うん、授業に関しては大丈夫そう」

「ん、何か気になる事あった?」

「うーん」


 少し口ごもる。


「ちょっと視線が多かった、かな」

「あーね…」


 2週間も休んだ上に、右腕に包帯を巻き左目に眼帯をして登校したのだ。

 しかも亜莉沙がずっと休んでいる。

 さぞかし事情を聞きたい人は多く居たに違いない。


「まあ少し経てばみんな気にしなくなるよ。包帯とかも取れるんでしょ?」

「そうね。来週中には取れるはずよ」

「それなら良かった!大きな傷が残らなくて安心」

「うん、それは私も思う」


 ふふ、と2人で笑い合う。


「じゃあ行こっか!」

「お家、荻窪に引っ越したんだよね」

「そそ、かなり大きいからびっくりするかもよ」

「ホント?それは楽しみね」


 そう言って私達は校舎を出た。




 荻窪駅から歩いて30分。閑静な住宅街、高低差のある角地に円香の家はあった。


「うわぁ、凄いお家ね…」


 感嘆のため息が出る。

 敷地に沿った低い外壁の内側に、曲線を描く二重の高い壁があった。

 その壁がまるでカタツムリの殻のような渦型のカーブを描いている。


「そうでしょ?完全に持て余してるんだけどね」


 円香が苦笑しながら手をあげる。

 殻の入口にあたる、黒い門扉がゆっくりと開いていく。


 門扉の奥には高い壁に挟まれた広い階段があった。

 円香について階段を登っていく。

 階段はゆったりとしたカーブを描いて、敷地の中央に伸びている。

 まるで、本当にカタツムリの殻の中を歩いているいるような気分だった。


「凄いね、こんなお家、見たこと無いよ」


 カタツムリの身の部分に到達すると、そこは広い中庭が広がっていた。

 中庭は白いコンクリートが敷き詰められていたが、道を作るようにタイルが凹んでそこに水が流れ込んでいた。


「洒落てるのは間違いないね。この時期は湿気凄いけど」


 円香が肩をすくめて水のタイルの間を歩いていく。

 中庭の先には白い住宅が建っていた。

 一階は一面ガラス張りになっていて、ここからでも広いリビングが綺麗に見通せる。


「ただいまー」

「おかえりなさい!」


 円香が玄関を開けると、そこには満面の笑みを浮かべた女性…京香さんが立っていた。


「いらっしゃい、琴音ちゃん!」

「お邪魔します」

「ホント久しぶりね、元気してた?」

「はい、えっと…京香さんはお元気でしたか?」

「うんうん、私はいつも元気いっぱい!」


 そう言って京香さんが小さく両腕を上げる。


「ママ、つかれたーお腹すいたー」


 円香が靴を脱ぎ捨てて横から京香さんにしなだれ掛かる。


「っとと。わかった、すぐ用意するから」


 京香さんは手で円香の髪を少し撫でてから、モノトーンのエントランスを奥に歩いていく。


「ありがとうー!琴音、こっちー」

「分かったわ」


 靴を脱いで円香の物と一緒に並べてから、早足で追いかける。

 広いエントランスには、まっすぐに伸びた上下への階段と小さな机と椅子があった。


「ほんとに凄いお家だね」

「ここね、パパの会社の従業員さんのお家なの」

「え、そうなの?」

「うんうん、従業員さんが海外に行く事になって預かってる感じ」


 エントランスを進み、黒い両開きの扉を潜り抜けた。

 すると、正面には椅子が8つも並んだ大きな丸テーブルがあり、左側には5人は並んで座れる巨大なソファと見たことがない大きさのテレビがあった。


「じゃあ、ここにある物も?」

「そそ。1階に有るもので前の家から持ってきたのは食器くらいじゃないかな。後は従業員さんが元々置いてたやつ」

「ええ、すごいお金持ちな人なのね」

「毎週のようにパーティー開いてたみたい。そういう事でうちの家族では持て余してるって訳」


 円香が少し呆れた顔をして言う。

 リビングを右手に曲がると、そこには10人以上が座れる長方形のダイニングテーブルが鎮座していた。


「これ、物語のお貴族様が使ってる奴?」


 そう言うと、円香がくくっと笑う。


「琴音もそう思うよね。対角線に座ると大声出さないと会話出来ないやつ」

「どうやっていつも食べてるの?」


「2人とも、こっち来てー」


 その時、テーブルの向こう側から京香さんの声がした。

 返事をしてから向かうと、ダイニングテーブルの角に大盛りのパスタとサラダが置いてあった。


「勿論、皆で机の端っこに固まって食べてるよ」

「確かに…持て余してるわね」

「でっしょ」


 ダイニングテーブルに備わったシンクで手を洗ってから席に着く。


「麦茶で良い?」


 隣の対面式キッチンから京香さんが声を掛けてくる。


「あ、はい!」

「おっけぃー」


 窓の外に広がる綺麗な芝を見ながら、この家の維持費をどうしても考えてしまう。


「最初は感動したけどね。すぐに色々不満出たよ」

「へー、どんなの?」

「まず、駅が遠い。最寄り駅まで徒歩30分ってど田舎かって感じ」


 あはは、と空笑いを返す。うちのマンションも吉祥寺駅までは30分は掛かるのだ。


「後、家主さん関係だと思うけど、やたら声掛けられるんだよね。写真撮る人も多いし」

「ええ…。家主さんってどういう人なの?円香のお父さんの会社の従業員なのよね」

「あーしも知らないんよ。まあある程度は有名人なんだろうけど」

「おまたせー!」


 京香さんがトレーを持ってくる。

 そこには麦茶が3つ並べられていた。


「それじゃ食べましょう!」

「「いただきます」」


 そう言って、私達はパスタとサラダを食べ始めた。


「美味しいです」

「ふふ、ありがとう。琴音ちゃんはこの家来たの初めてだっけ?」


 私はパスタを頬張りながらコクリと頷く。


「じゃあ3年ぶりかぁ。小学校の頃は毎日のように来てくれてたのにね」

「はい、母と一緒にお世話になりました」


 そう言うと京香さんはゆっくりと天井を見上げる。


「真由が亡くなったのは卒業式の頃だっけ」

「はい」

「今でも良く思いだすよ。ほら、ずっとあいつとのメール取ってあるし」


 京香さんがそう言って、折りたたみ式のガラケーを懐から取り出す。


「ママ、ずっとそれ持ち歩いてるものね。感情重過ぎない?」


 琴音の言葉に京香さんがニヤリと笑う。


「小学校卒業の時に円香、何て言ったっけ?」

「ちょ、やめてよ!」


 円香が焦ったように声をあげる。


「あはは。でも私、円香の言葉で凄い救われましたよ。それで高校は成苑に絶対行こうと思いましたし」

「琴音も乗らないで!」


 円香が真っ赤な顔でパスタを口に掻き込む。


「ごほっ!」

「ほらほら、気をつけて」


 咽る円香に、京香さんが麦茶を差し出した。


「…ん、ありがと。ねえママ、亜莉沙の事っていつから知ってる?」

「なに、突然?」

「いいから教えて」


 京香さんが顎に手を当てて小さく目を瞑る。


「うーん、亜莉沙ちゃんなら産まれた時から知ってるよ」

「ええ、そうなの?」

「優莉菜と私、高校の同級生なのよ。出産の時も病院一緒になってさ」

「そうなんだ…。え、ってことは真由さんも?」


 円香の言葉に、京香さんは頷く。


「真由は病院別だったけどね。同級生という意味なら、真由と菜月さん、それに律さんが同じ高校よ」


 菜月…その名前に動揺が走る。


「どういう事?詳しく話して」


 京香さんが首を傾げる。


「詳しくって言われてもなぁ。菜月さんと優莉菜はただの知り合い。2人とも途中で高校辞めちゃったくらいしか知らないかな」

「ここ最近、亜莉沙か優莉菜さんから何か連絡とか来てない?」

「んにゃ、全く」


 円香と目配せする。


「あの、鈴木という方の事は知りませんか」


 私がそう言った瞬間、京香さんの表情が険を帯びた。


「円香、"あれ"に触れたら駄目って言ったよね。何で琴音ちゃんが知ってるわけ?」


 京香さんが厳しい声で話す。


「亜莉沙の誘拐に、鈴木って奴が関与してる可能性が高いんだよ」


 円香の言葉に、京香さんが深くため息を吐く。


「亜莉沙ちゃんの誘拐は鈴木と関係ないわ」

「…どうしてそう言えるの?」


 京香さんは少し躊躇ってからゆっくりと話し出す。


「パパが芸能関係だから何人か知ってるんだけどさ…。鈴木は間違いなく裏の人よ」


 ゴクリと唾を飲む。


「それなら…尚更に亜莉沙と関係有るんじゃないの?」


 円香の反論に京香さんが首を降る。


「鈴木がやったなら、事件になってない」


 吐き捨てるように京香さんが言う。


「どういう事?」


 円香の言葉に、京香さんが躊躇ってから話し出す。


「日本の警察はとても優秀よ。世界で一番と言っても良い」


 京香さんの話の意図が読めず、私と円香は黙っていた。


「でも、警察が動ける条件は基本的に2つ。事件を認識するか、届け出が出されるかよ。もし人が消えても、失踪届が出なければ警察は動かない」


 …事件性が無く、届け出も無い…。


「警察が認識している失踪者、それに含まれてない行方不明者が多く居るという事ですか?」


 私の言葉に京香さんが頷く。


「トー横の子みたいに家族関係が崩壊している場合は、失踪届が出される事はない。裏の奴等が誘拐するのは、そんな警察が動かない女の子だけよ」

「…誘拐した後はどうなるの?」

「パパ活か夜営業か…もしくは海外に送られるか、ね」


 京香さんが吐き捨てるように言う。


「海外?」

「風俗するにしても海外の方が利益多いし、何より警察の目が無いからね。上玉なら嫁として売りつける場合もあるわ」


 俄には信じがたい話だ。


「とにかく、事件になっている以上、亜莉沙ちゃんの誘拐と鈴木は関係ない。だから鈴木に近づくのだけは絶対に辞めなさい。"あれ"は人を人と見ない奴よ」


 京香さんの真剣な顔に私達は何も言えずに頷くだけだった。




「いやぁ、何かヘビーな話聞いちゃったねぇ」


 少し疲れた口調で円香が話す。

 あれから世間話を挟んだ後、私と円香は2階の円香の部屋に来ていた。

 円香の部屋はとても広くかったが、中身は本棚が多い以外は昔通りだった。


「でも確かに、亜莉沙の誘拐と鈴木が関係ないっていうのはその通りだと思ったわ」

「うんうん。とりま鈴木とは関わらないようにしよう」


 コクリと頷いて、話を変える。


「それにしても、お父さん達がみんな同級生だったのは知らなかったわ」

「真由さんとママ、あと琴音の新しいお母さん…えっと菜月さんだっけ?それと優梨菜さん、律さんも同級生か。そんな事ある?」

「偶然…ではないでしょうね。お母さん達が高校の頃に何かがあったのは間違いないわ」

「じゃあ、それがきっかけで犯人が亜莉沙と優梨菜さん、それと琴音を狙われたって事?」


 円香の言葉に首をひねる。


「それは、考えにくいんじゃない?お母さん達が高校行ってたの20年近く前よ。もし恨みに思う人が居たとしても、今となって行動を起こすなんておかしいわ」

「そっかぁ。じゃあ犯人の目的って一体何なの?」


 私は首を振る。


「分からないわ。でも、亜莉沙と私には何らかの共通点があるはず。じゃないと…」

「じゃないと?」


 犯人はただの愉快犯。亜莉沙が襲われた理由は、単に私が犯人の誘いを断ったから。

 そんな可能性は考えたくもなかった。


「…何でもない」

「そ?じゃ、昨日の続きしよっか」

「昨日の続き?」

「言ったでしょ。誰にも行き先を知られない場所に家出しつつ、ちゃんと生活が出来る方法を持ってくるって」

「…そういえばそうだったわね」


 荒唐無稽な話だったので、すっかり忘れていた。


「結論から言うよ。空いてるマンション有るからそこに住まない?」

「…え?」


 円香の言葉の意味がよく理解できなかった。


「うちの親、幾つか家持ってるからさ。それで武蔵関に空いてるマンション有るからどうかなって」


 武蔵関は成苑高校の北側にある西武新宿線の駅だ。

 そこから学校に通っている生徒もかなり多い。


「…ええっと、私と円香の親御さんで賃貸契約を結ぶっていうこと?」

「ううん。円香は未成年だから賃貸契約は結べないの。というか端からお金取るつもりもないし、ただで住んでいいよ」

「お金持ちねー…」


 思わず感嘆のため息が漏れる。


「うーん、成苑だとそう珍しい事でもないと思うよ?」


 頭がクラクラしてくる。

 生活保護を受けながら成苑に通っている私からすると、文字通り住んでいる世界が違う。


「いや、でも、流石にそんなの無理よ。おかしいわ、子供の友人に家を提供するって」

「まぁー、普通はあんまり聞かない話、かも?」

「あんまりどころの話じゃないわよ…」


 呆れてため息を付く。


「それにほら、高校生一人暮らしなら生活保護通るし、卒業するまで問題なく過ごせるはず!」

「…え、生活保護って親と別に暮らしてても貰えるの?」

「うんうん。問題ないってうちの弁護士が言ってた!」


 ドラマや映画でしか聞かないワードが円香の口から出る。


「生活保護の申請も弁護士が書類とか全部用意して一緒に行ってくれるから大丈夫よ。結構優秀な人だから安心して」


 畳み掛けるような円香の言葉に、頭が痛くなってくる。


「…ちょっと待ってね、少し整理させてほしい」

「おっけぃー」


 ただで住む家が用意されて、しかも生活費や学費まで援助してくれる?

 まるでおとぎ話のようだ。捨てる神あらば拾う神ありといった所だろうか。

 しかし…


「円香、ありがとう。貴女の話、とっても嬉しく思うわ。」

「良かった!琴音があの家から離れてくれるならやっと安心できる!それに私も学校帰りに泊まりとか行けるし…」


 円香が嬉しそうに笑う。その顔を見て強い罪悪感に苛まれる。


「でも、ごめんなさい。折角の申し出だけど、受けることは出来ないわ」

「…なんで?」


 円香の顔が一気に険を帯びる。

 自分の提案が拒否されるとは微塵も思っていなかったのだろう。


「そこまでしてもらう理由が無いもの」


 円香には何度も助けてもらったが、今回の話はこれまでとは全く違う。

 弁護士費用や生活保護を除いても、高校卒業までただで住宅を借りたら数百万円の金額的支援をしてもらう事になる。

 果たしてそれは友達関係と言えるのだろうか?


「そんなの、友達だからでしょ!」

「そう。円香はとっても大事な友達。だからこそ家とか弁護士とか、そんな大きな助けは受けられない」

「意味わかんない!まさか、私が自分で稼いだ物じゃないからダメとでも言いたいわけ?」

「そういう事じゃないわ。富者の義務に弓引くつもりは無いし」

「じゃあ何で断るの?誰にでもこんな話するわけじゃない。琴音だから、頑張ってパパを説得して弁護士にも話して…」


 そう捲し立てる円香に手を差し出して会話を止める。


「私は円香を一番の友達だと思ってる」

「え?」

「こんな私の事を大切にしてくれて気遣ってくれて、可愛くて楽しくて頭が良くて気が利いて…。そんな円香の事、本当に大切な友達だと思ってるの」

「そ、そう…」


 円香が照れたように瞳を逸らした。


「でも、こんな大きな支援を受けてしまったら、私は円香を対等な友達として見れなくなってしまうわ。ずっと貴女に気遣って…一歩引いて接するようになってしまう」

「そんな…。でも、そんな事言ってる場合じゃないでしょ?」


 一瞬落ち着いた円香のボルテージがすぐに上がっていく。


「琴音さ、死にかけたんだよ?腕も顔も眼も大怪我してさ。その犯人は捕まってないし、しかも手引したかもしれない奴がのうのうと同じ家に居て。そんなのいつ同じ目に合うか分かんないじゃん!」

「…そうね」

「そうねじゃないでしょ!」


 バンと円香が机を叩く。


「…琴音。貴女が思っているよりも、私の中でずっと琴音は大きいの。成苑に来てくれたのも本当に泣いちゃうくらいに嬉しかった。そんな琴音が私の知らない所で殺されたら…そんな事を考えると不安でたまらない」

「…私にとっても円香はとっても大きいわ。一番大事に思ってる」

「…それでも受けてくれないんだ」


 コクリと頷く。


「帰って」


 円香が泣きそうな声で言った。


「分かった。ごめんね」


 そう言って立ち上がる。


「円香、今日は本当にありがとう」

「諦めないよ。また聞く」

「…うん」


 そう言って円香の部屋を静かに出る。

 階段を降りると、ケーキを載せたお盆を持った京香さんと会った。


「あれ、もう帰るの?」

「はい、少し予定があって」

「それは残念ね。またいつでも来てね」

「はい、ありがとうございます」


 お礼をしてから玄関に向かう。

 すると男物のランニングシューズが1足脱ぎ散らかされていた。


「誰かいらしたんですか?」


 靴を履きながら、見送りに来てくれた京香さんに尋ねる。


「ああ、お兄ちゃん帰ってきたみたいね」

「え、お兄さん居たんですか?」

「うんうん。暫く海外に居たんだけど3年前に日本に帰ってきたの」

「そう、なんですか…。いえ、今日はどうもありがとうございました」

「はぁい、またねぇ」


 ひらひらと手を振る京香さんに深くお辞儀をしてから家を後にする。


 荻窪駅までの道を辿りながら、改めて琴音の提案を断って良かったのか考え直す。

 逆説的になるが、事件が起きる前だったら円香の提案を受けていた気がする。


 私を犯そうとした少女に立ち向かった時に、私の中の何かが変わった。

 あの時、初めて生きている実感が湧いたのだ。

 もし次に同じ事が有ったとしても、きっと私は最後まで戦って…そして死ぬだろう。


「…ふふっ」


 我、死ぬことと見つけたり…。

 自殺は嫌だ。けれど、精一杯戦ってから死ぬというのは何とも甘美な響きだった。




『来てほしい』


 そんなメッセージが来たのはその日の夜中だった。

 ラインの相手先を見て一瞬目を疑う。

 メッセージの送り主は、なんと亜莉沙だった。


 時計を確認すると、もう24時を廻っていた。

 自室に居た私はすぐにメッセージを返す。


『亜莉沙、大丈夫なの?』


 すぐに既読が付いたが暫く返事が来ない。


『来てほしい』


 漸く返事が来たと思ったが、先程と全く同じ文章だった。


『分かった、何処に行けば良い?』


 何かしらの異常が起きているのは間違いないが、聞き出す事はできそうもない。


『ここ』


 メッセージと共にマップの画像が送られてくる。

 どうやら亜莉沙と一緒に行った喫茶店の近くのようだ。


『えっと、今、だよね』

『そう』

『分かった、すぐに行くよ』


 部屋着代わりのワンピースにカーディガンを羽織って私は家を出る。

 時間は深夜に差し掛かっていたが、もう5月に入っているせいか大分暖かい。

 ラインを開き、円香とマヤに亜莉沙に会う旨のメッセージとマップ画像を送ってから、亜莉沙の指定した場所を調べた。


 …もしかしてとは思ったけど。


 そこは、地元では有名な廃ビルだった。


 その廃ビルはもう10年近くテナントが入ってないと聞いている。

 何でもビルの所有者が逃げてしまい、アスベストを使っているせいで地主もビルの解体が出来ずに長年放置状態にあるらしい。


 この廃ビルの駐輪場にはクレープの出店があり、安くて美味しいので何度か行ったことがある。


 深夜に廃ビルに呼び出し…?


 どう考えても穏やかな要件ではないだろう。

 その時、スマホがぶるぶると震えた。


『行かないで』


 マヤからのラインだった。


『…どうして?』

『どうしても。絶対に良くない事が起きる』


 それは、その通りだ。

 尋常な用事ならこんな夜更けに廃ビルに呼び出したりはしないだろう。

 しかし、亜莉沙と会わないという選択肢は私には無かった。


『…ごめん、どうしても会わないといけないんだ』


 そう送ると、すぐに既読は付いたがマヤからの返事は来なかった。




 いつの間にか、あの公園の近くまで来ていた。


 …そういえば、結局トイレで私を見てた人は誰だったのだろう。


 機会があったら警官さんに聞いてみよう…そう考えていると、後ろからハイライトが道を照らした。


 公園の入口に体を滑らせて、車を先に行かせる。

 横を通り過ぎた大きな車は、そのまま走り去る…と思いきや、道の真ん中で停車した。


 …外交官ナンバー?何でこんな所に…。


 後輩部のナンバープレートは青く、"外"と記載してあった。

 嫌な予感がして公園の中に一歩体を寄せる。


 停車した黒い車のドアが開くと、大きなリュックを背負った黒尽くめの人物が降りてきた。

 ラバーパンツと厚い長靴、首元まで覆う黒いジャケットには幾つものポケットが付いている。

 両手は分厚い手袋をしており更にはフードとバイザーまでしていた。


 …釣りの帰り、とか…?


 自分で考えておいて、発想の貧弱さに苦笑いを浮かべる。

 時刻はもうすぐ深夜1時だが、季節はもう夏の盛りだ。

 家に帰る時に、あんな重装備をする人は居ないだろう。


 木の影に隠れて見ていると、バタンと扉が閉まって車が走り去っていった。

 不審な人物は分厚い手袋を自分の耳元に持っていく。

 ちらりと捲れたフードのからは綺麗な金色の髪が覗いていた。


 その瞬間…


 ぶぶぶ


 スマホが振動した。


 確かめてみると、なんと110番からの着信だった。

 公衆トイレの後ろまで駆け寄ってから電話に出る。


「夜分遅くにすいません、警視庁の佐々木という者です」

「…あ、はい」

「藤宮さんで、お間違えないでしょうか?」


 電話口から聞こえた声は壮年の男性の物だった。


「そうですが…」

「緊急を要しますので単刀直入にお伺いします。そちらに羽月亜莉沙さんから連絡は来ていませんか」


 …どういう事、なの?


「…来ていません」

「…本当ですか?」

「はい」

「分かりました。もし、羽月亜莉沙さんから連絡が来ても絶対に会ってはいけません。彼女は正常な精神状態ではなく、藤宮さんに危害を加える可能性が非常に高いです」

「ご丁寧にありがとうございます。もう切ってもよろしいでしょうか?」

「はい、くれぐれも…」


 通話終了ボタンを押しながら公園入口に戻る。

 すると不審な人物もちょうど手袋を耳元から下ろす所だった。


 不審な人物は何かをポケットに仕舞うと、正面の細い砂利道を歩き出した。

 その道の先にあるのは…廃屋だけだ。


 ゴクリと唾を飲む。

 音を立てないようにゆっくりと、不審者が居た場所まで歩を進める。

 そして恐る恐る顔を横に向ける。


 公園の横の細い砂利道。

 その奥にある廃屋…そこに全身を黒い装具に包んだ不審者が入っていく所が見えた。




 …何が起きてるの?


 あの廃屋が外交官ナンバーをつけた車の人の自宅…そんな事はありえない。

 では、深夜にあんな重装備で廃屋に入る理由は何だろうか。


 亜莉沙との指定場所に歩を進めながら、武蔵野署の警官さんに聞いた番号を開く。

 亜莉沙の事も含めて、連絡をした方が良いだろうか…。

 でも、亜莉沙と会うのを邪魔されるのは避けたい。

 …それに、さっきの110番…。


 雁字搦めの思考に囚われたまま、結局廃ビルの前に着いてしまった。


 円香から返事は未だにこない。


 スマホがぶるぶると震える。

 亜莉沙からのメッセージだった。


『来ないの?』

『いま、着いたところよ』


 そうメッセージを送り、覚悟を決めて駐輪場とクレープ屋の間にある自動ドアの前に立つ。

 しかし、廃ビルの自動ドアが開く事はなかった。


『ドアが開かないわ』

『左側の非常口から入って』


 左側にあるクレープ屋の屋台の奥を覗き込むと、そこに非常口らしき扉があった。

 体を横にして屋台に侵入すると、非常口の取っ手を左手で掴む。

 力を込めて引いてみると、ゆっくりと扉が開いていった。

 ある程度まで開いた所で体を滑り込ませて持ち手を離す。


 バン


 思ったより大きな音で扉が閉まって心臓が跳ねる。

 ビルの中は全く明かりが無かった。


 スマホのライトを付けると、足元にダンボールが幾つも置いてある。

 クレープ屋が物置代わりに使っているのかもしれない。

 その時、スマホが震えた。


『中に入れたみたいだね。ゲームセンターの奥で待ってるよ』

『分かったわ』


 返事をしてからスマホで周囲を照らす。

 そこはホールになっていて、右手には最初に入ろうとした自動ドア、左手には下と上への階段、そして正面には古いゲームセンターがあった。

 廃ビルの外は街灯で明るいはずだが、窓ガラスには分厚いシャッターが閉まっていてゲームセンターの奥は全く見通せなかった。


 数瞬迷ってから、ゆっくりとゲームセンターに向かって足を進める。

 ゲームセンターに入ってすぐの所にビートマニアとドラムマニアの筐体があったが、近くに他の音ゲーは見当たらない。

 床は赤と白の格子模様になっていて、アーケード筐体がずらっと背中合わせに並んでいた。

 アーケード筐体が私の背丈程の高さがあるせいで、かなり広いフロアの筈なのに視界がかなり狭い。


「亜莉沙、来たわよ」


 ゲームセンターの奥に向かって声を上げるが反応は返ってこない。

 ライトを付けたままスマホを高く掲げる。


「亜莉沙、居るの?」


 暫くそのまま入り口で待っていると…


「…こっち来て」


 くぐもった声が奥の方から聞こえてきた。


「…分かった」


 奥に進む通路は3つある。

 順番にライトを照らして人が居ないかを確かめる。

 右側の通路はカードゲームと麻雀、真ん中は格闘ゲーム、左側はロボットゲームの筐体が並んでいるようだ。


 ゴクリと唾を呑んで右側の通路に足を向ける。

 進め始めると、高いアーケード筐体のせいで他の通路の様子は全くわからなかった。


 パァーー!


 突然の大きな音に体がびくりと跳ねる。

 外を走る車のクラクションだ。


 一つ息をついて歩みを進める。

 幾つかの筐体を通り過ぎた所で、前方にスマホを掲げる。

 正面に巨大なガラスの箱が見えた。UFOキャッチャーだ。

 辺りを確認しながら、ゆっくりと近づいていく。


「亜莉沙、どこなの…?」


 声を掛けて、キャッチャーの奥をスマホで照らす。

 キャッチャーには様々なプライズが残っていた。


 ブルル


 その時、スマホが揺れた。

 掲げた手を引いて画面を見る。

 円香からのラインだった。


『会っちゃダメ!殺される!』


 文面を見て固まる。

 更に円香から着信が入る。私は緑の応答マークを押そうとして…


「待ってたよ、琴音ちゃん」


 UFOキャッチャーの影から声がして反射的にスマホを向ける。

 ライトの先には車椅子に座った女性がいた。


 女性は緑の貫頭衣に赤色のカーディガンを羽織っており、顔には大きなサングラスとマスク、更に毛糸のニット帽を被っていた。


「…あり、さ?」


 かすれた声が私の喉の奥から絞り出される。

 その女性が亜莉沙かどうか判別がつかなかった。


「あは、驚いたよね。こんなんなっちゃった」


 女性はガラガラの声で自分の体を視線で示す。

 女性の右手と両足は、補助具に完全に固定されていた。


「どう、して…」


 女性の余りに悲惨な状態に、思わず言葉が漏れる。


「…どうして、どうしてかぁ」


 そう呟くように言うと、女性はあははと笑い出した。

 女性の乾いた笑いがライトの届かない闇の中に消えていく。


 私は何も言うことが出来ない。そもそも、女性が本当に亜莉沙かどうかも分からない。

 …正確に言うと、目の前の女性を亜莉沙だと思いたくなかったのだ。


 暫くの間、女性は殆ど空咳のような笑いを繰り返していたが、突然電池が切れたように黙り込む。


「あり、さ…?」


 女性は車椅子の背もたれに体を預けて微動だにしない。

 手を伸ばして女性にゆっくりと近づく。


「その…大丈夫…?」

「…わけ…」

「え?」

「大丈夫なわけ…ないでしょうが!」


 車椅子の上で女性が勢いよく上体を倒しながら絶叫する。


「っ!」


 一瞬、女性が飛びかかってきたと思い、反射的に後ずさる。

 女性は膝に埋もれるほどに体を傾けて、ぜはぁ…ぜはぁ…という濁った息遣いをしている。


「ねえ、どうして亜莉沙がこうなったか、ホントに分からないの…?」


 全身に怖気が走る。

 あんなに朗らかだった亜莉沙とは全く別人の冷たく濁った声だ。


「そ、それは…」


 女性の手元からピッという音がした。

 くの字に背を曲げた女性を載せたまま、車椅子が少しずつ近づいてくる。


「じゃあ、教えてあげる…」


 茶色の長髪が地面に着くほどに頭を下げて、女性が睨め上げる様に言葉を放つ。


「殴られて、蹴られて、レイプされたんだよ」


 地を這うような低い冷たい怨嗟の声だ。


「何度も、何度も、何度もね…。やめてって、亜莉沙はずっとお願いしてたのに…」


 すぐ目の前まで、女性を載せた車椅子が近づいてきた。

 そして、私の腰の位置から睨め上げる女性と視線が合った。


「…ひぃっ!」


 サングラスの隙間から見えた女性の瞳は、真ん中だけがぽっかりと白く色が抜け落ちていた。

 反射的に後ろに下がろうとする。


 ガシッ


 その瞬間、女性の左腕が伸びて私の手を掴んだ。


「亜莉沙から、逃げるの?」


 死んだ魚のような目が私を射竦める。


「ご、ごめんなさい…」


 貫頭衣の隙間から僅かに覗く女性の皮膚はどこも赤黒く爛れていた。


「謝ってもね。何の意味も、なかったよ?」


 女性が静かに笑う。


「お母さん、殺されたの」

「…え?」

「お母さんを吊るして何度も刺しながら、あいつずっと言ってた」


 私の手を掴む、女性の腕に力が込められる。


「コトネが君を差し出したんだよって」


 その言葉を聞いた瞬間、体中から血の気が引き、膝から崩れ落ちる。

 もう、いい加減認めなければならない。

 この身体も顔も声もボロボロになった女性は、あの天真爛漫な亜莉沙なのだ。


「亜莉沙、琴音ちゃんに悪い事した?」


 亜莉沙の前で膝と両手を地につけた私は、ただ首を降る事しか出来なかった。


「お母さんの悲鳴が、泣き叫ぶ声が、消えないんだ」


 静かで冷たかった亜莉沙の声に、初めて感情が灯る。


「助けて、亜莉沙、助けてって何度も叫ぶのに、亜莉沙、何もできなかった」


 悲しみと怨嗟が満ちた声に、私は唇から千切れるほどに噛みしめる。


「ねえ、亜莉沙とお母さんがこんな目にあったのって、琴音ちゃんのせいなの?」


 私は俯いたまま何も返事ができなかった。


「ねぇ、連絡来た…?私を、助けに来いっていう」


 亜莉沙の言葉に一瞬呆気にとられる。


「来てない…!来てないよ、そんな連絡!」


 手を地につけたまま、床に向かって叫ぶ。


「そっかぁ、やっぱりなぁ…」


 そう言って亜莉沙は、あはっと苦しげに笑った。


「ね…琴音ちゃん」


 亜莉沙が私の後頭部に触れる。


「こっち向いて?」


 ぎこちなく顔を向けると、亜莉沙は左腕を横に広げた。


「お願い、ぎゅってしてほしい」


 そう言って疲れたように笑う。


「…あはは、右腕も…腰から下も全然動かないの。だから不格好だけど…」


 私は車椅子の横まで膝立ちで進んで、亜莉沙を強く抱きしめた。


「わふ…」

「亜莉沙…亜莉沙…」


 亜莉沙の細い体をキツくキツく抱きしめる。


「そんなにぎゅってしたら…苦しいよ…」


 後悔が、悲哀が、憤怒が、懊悩が、絶望が、様々な感情が湧き上がる。


「ごめん…!ごめんね、亜莉沙…!私のせいで…私があの時…!」


 亜莉沙が私の髪を撫でる。


「琴音ちゃんは、何も悪くないよ…」

「ごめんなさい…ごめんなさい…!」


 堰を切ったように涙が溢れる。


「琴音ちゃんは何も悪くないって、そんなの分かってるはずなのに…」


 私の髪に触れていた亜莉沙の腕が私の首に廻される。


「記憶が、痛みが、醜い顔が、私の心を蝕むの…怒りに、復讐に、駆り立てるの」


 首を掴む亜莉沙の手に力が籠もった。

 私は亜莉沙を抱き締めたまま目を瞑る。


「…良いわ…亜莉沙の気が済むようにして…」


 そんな私に、亜莉沙が耳を寄せて呟く。


「…琴音ちゃんに、お願いが…あるの…」

「なに、なんでも、なんだってするわ!亜莉沙のためなら、なんでも…」


 亜莉沙がふふっと笑う。


「…わたしを…ころして…」


 一瞬、亜莉沙が何を言っているか理解ができなかった。


「…おねがい…」


「…で、でき…ない…できないよ…」


 涙をぼろぼろに零しながら、亜莉沙の細い体をぎゅっと抱きしめる。


「…バケモノに、なりたくないの…。せっかく、琴音ちゃんとお友達になれたのに…」


 亜莉沙は私から体を離すと、私の手を取った。


「亜莉沙はバケモノなんかじゃない!大事な…大事な私の友達だよ!」


 亜莉沙が自分の首に、私の手を持っていく。


「…ありがとう、琴音ちゃん…。おねがい、琴音ちゃんを大好きな私のまま…死なせてほしい…」


 ぶるぶると震える私の手が亜莉沙の細い首に掛けられる。


「…むりだよ…亜莉沙を、なんて…できるわけ…ない…!」


 亜莉沙の首筋に当てた指からは、どくっどくっという動脈の高鳴りが聞こえた。


「…なんでもするって、言ってくれたよね…?」


 泣きそうな声で亜莉沙が話す。


「…できない、できないよ…!」


 亜莉沙がマスクとサングラスをゆっくりと外す。


「見て、琴音ちゃん」


 促されて視線をあげる。

 亜莉沙の右の瞳は膿でどろりと濁っており、頬はおたふくのように膨らみ、唇が左に傾き前歯が剥き出しになっていた。


「亜莉沙…バケモノなっちゃったでしょ?」


 私は何度も首を降る。


「バケモノなんかじゃ、ないっ!!」


 涙を溢れさせて絶叫する。


「ありがとう、琴音ちゃん」


 亜莉沙が私の頬に手を触れる。


「でも、もう、生きていたくないの…」


 私は子供のように首を降ることしかできなかった。


「どうしても、殺してくれないの…?」


 亜莉沙が車椅子に掛けられたレジ袋に手を入れる。


「それなら、私が琴音ちゃんを、殺すよ?」


 低い冷たい声が亜莉沙から漏れる。

 亜莉沙が左腕をゆっくりと上げる。

 その手には光る物が握られていた。


「…いいよ」


 私はぺたんとお尻を地面につけて座ると、上を向く。


「私を、殺して」


 …亜莉沙を殺すより…自分が死ぬ方が何倍も…何百倍も良い。


「酷いね…。でも好きだった…。さようなら、琴音ちゃん…」


 亜莉沙が勢い良く左腕を振り下ろす。

 刃先が自分に突き刺さるのを私はじっと見て…

 その刃は向きを変えて、亜莉沙自身に向かった。


「亜莉沙!!」


 鮮やかな赤い血液が噴水のように飛沫を上げる。


「…あは、良かった。私の中は汚れてなかった…」

「なんで、なんで!!」


 びしゃびしゃと降りかかる亜莉沙の血液に半狂乱になってしまう。

 思考を散り散りにさせながら亜莉沙の首筋に必死に手を当てる。


「バケモノを…殺したの」


 ガクガクと震える手で救急車を呼ぶためにスマホを手繰る。

 その時、亜莉沙が私の上に倒れてくる。


「亜莉沙!救急車を…!」

「…もう…良いの…」

「亜莉沙…亜莉沙…!」


 ボロボロと涙を流しながら、右手で溢れていく亜莉沙の命を必死に抑える。


「ことねちゃん、お願いが、あるの…」

「…なに、なに!?」

「ぎゅって…して…ほしい」


 そう言われた瞬間、私は彼女を強く強く抱きしめた。


「…わたし…ことねちゃんが好きだったの」

「そう…なのね…」

「…ごめんね…こんな汚い私で…」


 亜莉沙の言葉に私はふるふると首を振る。


「そんな事ない…私も…亜莉沙のことが大好きだよ…」

「…うれ…しい」


 亜莉沙の首から吹き出す血の勢いが徐々に弱くなり、皮膚が陶磁のように青白くなっていく。


「亜莉沙…?」

「ねむく…なっちゃった…」


 亜莉沙の体を力の限り抱きしめる。


「ダメ!!」

「いきてね…わたしの…」


 その言葉を最後に、亜莉沙の体はくたっと柔らかく崩れ落ちた。


「ありさ…ありさぁ……!」


 亜莉沙を抱きしめたまま、私はいつまでも泣いていた。

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