2024年4月25日(木)

「ふわぁー…」


 あくびをしながらキッチンに向かう。

 電気ポットに水を入れてからお盆に載せる。ラックから食器を取り、冷蔵庫からチーズと卵を取り出し、それもお盆に載せた。

 ダイニングテーブルにお盆を置くと、電気ポットに乾燥しらたきと切り干し大根を入れてスイッチを入れる。

 続いてテーブルの端に置いてあるタッパーを開けて中身を次々と食器に移していく。


 深皿にはケール、青汁、きなこ、カカオ、脱脂粉乳にオートミール、そして5種類の乾燥フルーツを入れる。

 マグカップにはかつお、こんぶ、ほうれん草、レモン、わさび、トマトの粉末に、数種類のナッツと種、乾燥野菜ときのこ、わかめ、そして味噌を入れ、最後にチーズを山盛りに掛けてその上に生卵を落とした。


「よしっと」


 ちょうどポットが湧いたのでお湯を深皿とマグカップに注ぎ、ポットに箸を入れてしらたきと大根をマグカップに移す。


「いただきます」


 朝ごはんとしては少し多めだと思うが、いつもお昼の後は何も食べないので抵抗なくお腹に収まる。


 …くすっ。


 小学校の頃に同じご飯を円香に出したら大層驚かれた事を思い出した。

 お父さんが考えた朝ごはんなのだが、円香の舌には全く合わなかったのだ。


 今では物置として使っているリビングの隣の部屋は2年前まではお父さんの部屋だった。

 その頃から部屋には業務用ロッカーが4つも置いてあり、中には10kg単位で注文した乾燥食品が山のように入っていた。


 お父さんは元々画家だったがイラストレーター、更にグラフィックデザイナーに転向したせいか、絵画や筆のような仕事に関係する物は生前から殆どなかった。

 部屋には他に小さな本棚があったが、その中身は祖母から譲り受けた時代小説…池波正太郎や居眠り磐音などだった。


「ごちそうさま」


 食器類を洗ってから洗面台に向かう。


「…よし」


 歯を磨いて顔を洗ってから、鏡をじっと見つめる。

 人体の細胞は日々入れ替わっている。あの硬い骨ですら5ヶ月で全て新しくなっているらしい。

 つまり自分のなりたい顔のイメージを固めて毎日努力すれば、少しずつだが思い描いた顔になる。

 …昔にお母さんに言われた魔法みたいな話を半ば本気で信じていたので、日々気になる部位の運動やマッサージは怠らなかった。


 髪を適当に梳いて部屋に戻り紺色のセーラー服と黒いスカーフを身につける。

 棚から白い靴下を取り出して履くと部屋を出て右手に廊下を進む。

 玄関にある大鏡に体を映すと、白い肌に黒い長髪と紺色のセーラー服が良く映えていた。

 鎖骨の中央にある桃の刺繍を人差し指でぽんと押す。


 …うん、悪くない。


 ガチャ


 その時、廊下の扉が開く音がした。

 鏡を見たまま、体が固まる。


「こっち来て」

「…はい」


 こんな早朝に母が起きる事は滅多にない。

 嫌な予感が募っていく。


「ちょっとそこに立って」


 リビングに着くと、そう言って母が窓際を指す。

 起きぬけの母の体からは甘臭い匂いが充満していた。


「写真撮るからこっち向いて」


 ベランダに繋がる窓の前に立つと母はそう言った。

 大きな不安を感じたが、断れる訳もないので母が持っているスマホに視線を合わせる。


「何かポーズしなさい」

「そんなの…わかんないよ」

「良いから早く!」


 そう怒鳴りつける母の目は、真っ赤に充血していた。

 仕方なく、円香が良くやってるギャルポーズを思い出して真似をする。


「へぇ…なかなか良いじゃない」


 そう言いながら母は左右に動きながらパシパシと写真を撮っていく。


「写真、何に使うの…?」

「何だって良いでしょう!それより少しは笑いなさい」


 母の言葉に、何故か熱がお腹から湧き出てくるのを感じた。


 …私も、昨夜の店員さんみたいに出来たら。


 そう考えて、私は右手を握りしめた。




「もう良いよ」


 母がそう言ったのはどれくらい後だったろうか。

 何度もポーズを変えて、正面だけじゃなく、背中や下からも写真を撮られた。

 写真が何に使われるのか想像したくもない。

 私の心は羞恥と怒りと、何よりも抵抗出来ない情けなさでボロボロになっていた


「…はい」


 母がスマホを触りながら自室に戻っていく。

 その背中に一瞥すると、私は鞄を掴み取って家を飛び出した。

 玄関を開け放ったまま駆け足でマンションの階段に向かう。


 タタタ…


 勢いに任せて、踊り場まで一気に階段を駆け降りる。

 厚い漆喰の壁に手を載せて弧を描くように踊り場を抜けると、更に速度を上げて階段を数段飛ばしで降りていく。

 その瞬間…踊り場の後ろから突然人が顔を出した。


「きゃ!」


 ぶつかる!と思った瞬間、体を捻って無理やり体勢を変える。

 なんとか正面衝突だけは避けられたが、勢いがついた体は止まってはくれない。

 不安定な姿勢で宙に跳ねた私は、階段の外壁に正面から飛び込んだ。

 刹那の後に訪れる甚大な痛みを覚悟し、体を固くして目を瞑る。


「っととー」


 瞬間、私の腰に何かが巻き付き、階段の内側に強く引っ張られる。


「え?え?」


 壁に衝突するはずだった私の体に強い遠心力が加わる。


「よっと」


 脚先を外壁に擦りながら踊り場を大きく180度回転した私の体は、最後に全身を柔らかい感触に包まれた。


「階段で走ると危ないよー」


 耳元でハスキーな声がして、お香のような強い甘い香りが漂ってくる。

 恐る恐る顔を向けると、目と鼻の先の距離で白い顔の少女が私を見ていた。


「あ、その、すいませ…、ありがとう…ございます」


 状況は理解できなかったが、目の前の少女に助けられたのは間違いなかった。

 白い漆喰の壁に右手をついて体勢を整えると頭を深く下げる。


「いいよぅ、じゃあまたね」


 そう言って少女は私の腰から手を離すと、階段を上がっていった。

 私は暫く呆然とその場に立ち止まっていた。




 登校中ずっと考えていたが、何が起きたかは分からなかった。

 正確に言うと何が起きたかは分かるが全く信じられなかったのだ。


 左腕一本で直線運動を円運動に変えた。

 文字にするとそれだけなのだが、あんなに華奢な少女が果たして出来るものなのだろうか。

 それにあの韓国アイドルのような白い顔…この前サンロードで見た人のような気がする。


「おはよー!」


 思考の海に沈んでいると、羽月さんが元気よく教室に入ってきた。


「…おはよう、羽月さん」


 顔を少し俯かせて、挨拶を返す。

 すると、羽月さんは一瞬驚いたように私の顔を見て、しかしすぐに視線を遠くの方に逸らした。


 昨日の円香のラインを思い出して、羽月さんの顔をちらりと横目で見る。

 羽月さんは手をこすり合わせながら、私の胸の辺りと窓の外を忙しなく瞳を行き来させていた。


「…いつも学校来るの早いのね」


 意を決して声を掛ける。

 すると、羽月さんは幽霊でも見たかの如く唖然とした表情で私の顔を見つめた。

 次の瞬間、瞳をキラキラに輝かせてトトっと駆け寄ってくる。


「えっとね…、えっとねっ!宿題が家で出来なくて、それで、早く来てやってるのっ!」


 そう捲し立てる羽月さんに少しびっくりしたが、私は小さく笑って返事をした。


「ふふ、それなら私と同じね。もし良かったら一緒にやらない?」

「…!やるっ!」


 羽月さんは隣の席に座ると、慌てた感じで鞄からノートやテキストを机に広げていく。


「そんな急がなくても大丈夫よ。ホームルームまで時間有るからゆっくりやりましょう」

「うんっ!ありがとう!」

「どの宿題が終わってないの?」

「ええっと、これとこれ…かな」


 そう言って羽月さんが数Ⅰと物理のプリントを示した。


「どっちも今日提出の分ね」

「そうなの…」


 黒板横に掛かっている時計を見ると、ホームルームまでは40分あった。


「1限目の数学から先にやりましょう」


 数学のプリントが上になるように重ねて、横にテキストを置く。


「わかった」


 順調に宿題を進めていた羽月さんだったが、最後に出た三角関数の不等式で詰まってしまう。

 プリントを前に唸っている羽月さんに声を掛ける。


「何処が分からないの?」

「そもそも何から手を付ければ良いのか、さっぱり分からない…」


 そうよね、と笑って私は問題の下に式を書いていく。


「これならどう?」

「あ、これは知ってる形になった!」


 三角関数をxとyに置き換えた物を見て、羽月さんがぱっと顔を明るくする。

 しかし、すぐに表情を曇らせてしまう。


「でも、これだと解けないよ…」

「そうなの。だから最初に変数を1つ消す必要があるわ」


 そう言って三平方の定理を更に書いた。


「これなら解ける?」

「うんっ!」


 その後、羽月さんは無事に問題を解く事ができた。


「ありがとう琴音ちゃん!」

「数学、難しいわよね」

「うん、去年やったんだけどすっかり忘れてるみたい…」


 成苑中学でかなり先の単元まで授業を進めている。

 高校では数学ⅠAは学習済みとしてさらっと流されるため、かなり脱落者が出てる印象がある。


「連立不等式が解けるなら何も問題ないわ。すぐ全部解けるようになるわよ」

「ホント?」


 不安そうに上目遣いに見つめる羽月さんに、私は微笑んで頷いた。


「うん、絶対に大丈夫」

「…分かった。頑張ってみる」

「その意気よ。さ、次の問題もやってみましょう」

「うんっ!」


 そうして私と羽月さんの勉強時間はあっという間に過ぎていった。




「なんとか終わったわね」


 ホームルームのチャイムが鳴るのと殆ど同時に物理のプリントが埋め終わる。


「うん、全部できたよぉ。色々教えてくれてほんっとにありがとう…!」

「気にしないで。私もとても楽しかったわ」


 羽月さんの理解が早いから、非常に楽しい時間だった。


「ね、もし良かったらなんだけど…」


 羽月さんはモジモジと両指を絡ませながら言う。


「うん?」

「あの…ライン、交換してくれない…?」


 一瞬、思考が止まる。

 人から連絡先を求められたのは、殆ど初めての経験だ。


「…勿論よ」

「ホント!」


 躊躇いがちに返事をすると、ガバっと羽月さんが顔を寄せてくる。


「う、うん」

「わぁー、嬉しいなぁ…。ありがとうっ!」


 ガララ


「あ、じゃあ後でフレ送るね!」


 先生が教室に入ってきたため、羽月さんは席の主にお礼を言って慌ただしく駆けていった。




 ホームルームが終わり、教室が途端に賑やかになる。

 円香を見ると、数人のクラスメイトと楽しそうに会話している。

 鞄からスマホを取り出すと、マヤからラインが来ていた。


『おはよう』

『おはよ、マヤ』


 ラインを返してからマヤの方を見る。

 マヤは私がメッセージを送った事に気づいたのか、鞄からスマホを取り出そうとしていた。


『宿題は終わった?』

『うん、大丈夫よ』

『それなら良かった』


 ラインの文面に少し悩む。

 今朝は色々な事があったせいか、普段の会話が出てこない。


『あ、昨日のノートまだコピーしてなかったわ。次の休み時間に行ってくる』


 マヤが休んだ時はプリントや板書のコピーを毎回渡しているのだが、昨日今日と忙しかったので手が回らなかったのだ。


『ありがとう』

『うん、任せておいて』


 そこまで送った所で、見慣れないマークがラインに着いているのに気づく。

 画面を操作してマークを追っていくと、女の子の自撮りアイコンからメッセージが来ていた。


『琴音ちゃんー!亜莉沙だよー』


 その表示に驚いて、教室の前に視線をやる。

 すると、羽月さんが私を見て小さく手を振っていた。


『びっくりした、私のラインどうやって登録したの?』

『円香ちゃんに送ってもらった!』

『へーそんな事も出来るのね』

『うんうん、便利な世の中になったよね!』


 少し笑って文字を打ち込む。


『羽月さんはいつも元気ね』

『えへへ、ありがと!あ、そいえば、琴音ちゃんは宿題大丈夫?ずっと私に教えてくれてたけど…』

『私は大丈夫。少し早めに終わらせちゃってるから』

『そうなんだ、凄いね!』


 そう返した所で、マヤからのラインの通知が来た。

 少し悩んでから、通知を右に流す。


『ふふ、ありがとう』

『ね、ライン交換してくれてありがとね』

『さっきも言ってたわね。ライン交換するだけで大袈裟よ』

『それはだって、琴音ちゃん高嶺の花だから…』


 その文章に指が宙を回る。

 羽月さんが何を言いたいのかが良く理解できなかった。


『全然そんな事ないわよ』

『…琴音ちゃん、ライン登録してるのって学校で何人?』

『羽月さんで3人目ね』

『そういうとこだよぉ!』


 その文章に首をひねる。

 ラインが少ないのは、私が部外生なのと根暗なのが原因だ。


『琴音ちゃん、カッコいいからみんなから凄い人気あるんだよ?』

『…そんな事ないでしょ』

『もし琴音ちゃんが言ったら、男子も女子もみんなライン交換したいってなるよ絶対!』


 友人が増えると、その分だけ本を読む時間が減ってしまう。


『ええっと、友達が増えすぎるのはちょっと困るわね』

『琴音ちゃんの友達は、本当に友達なんだね』


 しばし思索したが、やはり羽月さんの言っている意味が分からない。


『ごめんなさい、どういう意味?』

『なんでもない!琴音ちゃんと友達になれて嬉しいよ!』

『私も嬉しいわ』


 そう送ってから、マヤとのライン画面を開く。


『私も行く』


 一瞬何の事か考えたが、ノートのコピーの事だと思い当たる。


『じゃあ次の休み時間、一緒に図書室に行こう』


 二人とメッセージをやり取りするだけでこれだけ手一杯になるのだ。

 私の器は一般の人と比べると相当小さいのだと改めて思う。友達100人なんて夢のまた夢だ。




 1限目の授業を終えた私とマヤは、コピーを取るために図書室に向かった。

 教室棟を2階まで降りて渡り廊下を伝って中央棟に入り、そこから階段を登って行く。


 図書室は中央棟の4階を真ん中で仕切られて、高校生用と中学生用とに分けられている。

 私とマヤは図書室に入ると、貸出カウンター横に設置されているコピー機に向かった。


 図書室にはもう何度か来たが、コピー機を利用するのは今日で2回目だ。

 財布を取り出して100円玉を投入しようとすると、白い手が伸びて私の手を抑える。


「マヤ?」


 横を向くとマヤがふるふると首を振ってから、自分の財布からお金を取り出してコピー機に投入した。


「ふふ、ありがと」


 授業の中休みは10分しかない。

 私は手早く授業ノートをコピーし始めた。


「今日ね、新しい友達が出来たの」


 ウイーンというコピー機の作動音の合間に口を開く。


「羽月さんっていう子なんだけど、分かる?」


 マヤは少し逡巡した後に、コクリと頷いた。


「凄い元気で楽しい子なの。きっとマヤとも仲良くなれると思うんだけど…」


 私の言葉に、マヤは暫く硬直していたが、やがて小さく首を縦に振った。


「良かった。きっと楽しいから良かったら今度3人で遊ぼうね」


 ちょうどコピーが終わったので、余分に貰っておいたプリントと合わせてマヤに手渡す。


「昨日の時間割順に並んでるからノートに貼っておいてね。宿題が出てるのは英2だけ。もし分からない事があったらいつでも言ってね」


 マヤが紙束を鞄にしまうのを確認してから、図書室の入り口に向かう。


「よし、教室戻ろう」


 そう言って図書室を出ようとした時、正面から男性と女性の3人組が来るのが分かった。


「ねね、公園の噂知ってる?」

「うんうん、公衆トイレの奴でしょ?ヤバいよね」


 女性2人が男性を挟んで賑やかに話していた。

 マヤの手を引いて、図書館の入り口から脇に逸れる。

 先頭を歩く男性の首元を確認すると、ローマ数字の3のピンバッチが見えた。


「ありがと」


 高校生にしては低く、そして重い響きの声が私の耳元を過ぎていく。

 その瞬間ハッとして後ろを向いたが、男性の顔は見えなかった。

 暫く背中を視線で追ったが、1つため息をついてからマヤと一緒に教室へ戻り始める。


「さっきの人、両手に花って感じだったわね」


 茶化すように言ったつもりだが、上手く出来てるかは分からない。


「もう授業始まる時間なのに、3人でサボるつもりなのかしら」


 そこまで言ってマヤの顔を見ると、目線を少し私から逸していた。


「マヤ、もしかして知ってる人だった?」


 マヤは目をきゅっと開いた後に、コクリとうなずく。


「誰なの?」


 階段を降りながら聞くと、マヤはかなり躊躇った後に小さく口を開いた。


「…多分、吹奏楽部の人」


 私達は入学して1ヶ月も経っていない。

 吹奏楽部の演奏を聞く機会が幾つもあるとは思えなかった。


「もしかして部活紹介の時に演奏してた?」


 マヤが再び頷く。

 なるほど…と思ったが、はたして一度見ただけの演奏者の顔を記憶出来るものだろうか?


「あ…凄い目立ってた人?」


 体育館で行われた一年生に向けての部活紹介。

 演奏者が全員座る中で指揮者より目立つ位置に立ち、腰まである大きな楽器を吹いていた人が居たのを思い出した。


 マヤが瞳をゆっくりと閉じる。


「なるほどね…」


 それならマヤが顔を覚えていたのも納得出来る。

 吹奏楽部の中で…というより全部活の中で一番目立っていたからだ。


「じゃあ後ろに居た女性達も吹奏楽部の人?」


 そう聞くと、マヤは小首を傾げた。


「…ありがとマヤ。変なこと聞いてごめんね」


 これ以上考えていても仕方ない。

 私達は教室へ戻る足を早めた。




「琴音ちゃん、遊びいこうー!」


 全ての授業が終わると同時に、羽月さんが声を掛けてきた。


「羽月さん、部活はないの?」

「うんうん、今日はお休みー!」


 今日は何かあったかなと思いを巡らす。

 バイトは無いしマヤは予備校で琴音は部活、強いて予定を挙げるなら図書館と閉店30分前のスーパーに行くくらいだった。


「うん、じゃあ遊びいこうか」


 私がそう言うと、羽月さんは両手を上げて全身で喜びを表した。


「やったぁー!」


 その声に少しびっくりしながらも、天真爛漫な彼女の反応に私は楽しい気分になっていた。


「ふふ、やったね」


 満面の笑みを浮かべる彼女に、自然と私も笑顔になる。


「羽月さんは何処か行きたいところある?」


 そう聞きながら少し身構える。あまりお金が掛かる所には行けない。


「琴音ちゃんとお話したいなっ」

「ええっと…それじゃ喫茶店でも行く?」

「うん、行くぅ!」


 そういうと羽月さんが私に手を繋いでくる。


「琴音ちゃんと遊びに行くの、本当に楽しみ!」


 流石にこの距離感には戸惑いを覚える。

 校内で手を繋いで歩く生徒は見たことが無かったので、気恥ずかしい思いも強い。


 しかし、この笑顔を曇らせるのは何とも気が引けた。

 覚悟を決めて私は繋がれた手を少しだけ握り返した。


「…うん、私も楽しみよ」




 プレッチェルとホットティーを注文して2階に上がる。

 本当はバター入りが食べたかったが金銭的にも体重的にも我慢の一択だ。

 羽月さんはドライフルーツとナッツを練り込んだ生地に砂糖をまぶしたパン…シュトーレンとアメリカンコーヒーを注文していた。


 2階のカウンターで注文札を出して中頃にある席に座る。

 小さなフロアには椅子と机が敷き詰めてあり、混んでいればお客さんの声や距離が気になって仕方ないだろう。

 しかし今は平日の16時。座っている客は数人しか居らず、机を繋げる事で十分にくつろぐことが出来た。


 白い漆喰を支えるように通された梁や筋交い、桁の黒い木材が映えた店内には聖歌が流れており、店内には焼けたパンの香りが溢れていた。

 間もなく飲み物が出来た事が告げられたので、羽月さんに座ったままで居るように伝えてカウンターに飲み物を取りに行く。


「はい、どうぞ」

「ありがとう!」


 羽月さんの前にコーヒーと砂糖、ミルクを置いて席に座る。


「ねね、琴音ちゃんって成苑来る前は何処の学校だったの?」


 ずっと我慢していたのだろう。待ちかねたように羽月さんが尋ねてくる。


「西荻にある公立中学校に行ってたわ」


 西荻窪は吉祥寺の隣にある駅だ。

 中央線沿線ではかなり影の薄い駅だと個人的に思っている。


「西荻かぁ、行ったことないなぁ」

「何もない所よ。羽月さんはずっと成苑なの?」

「うん、小学校から!」


 成苑小学校は成苑大学に隣接しており、とても立派な校舎だ。

 高い学費や寄付金が必要らしく、お坊ちゃんお嬢様が多いイメージがある。

 かの最長任期の総理大臣も、小学校から大学まで成苑に通っていたらしい。


「小学校から上がってきた子って結構多いのかな?」

「うーん、1/3くらい…じゃないかなぁ。中学から入ってきた子が一番多いかも!」


 中学から成苑に入った子と言えば円香がそうだ。

 成苑高校の女子合格者は20人弱でそれが8つのクラスに分けられている。

 なので、うちのクラスの女子で高校組は私とマヤだけだ。


「琴音ちゃんはどうして成苑高校にしたの?」

「…円香と約束したから、かな」


 恥ずかしさで少し躊躇したが、正直に答える。


「ええ、そうなんだ!円香ちゃんとは前から仲が良いの?」

「うん、小学校からの友達」


 中学は公立に行かざるを得なかったが、高校は生活保護と都の補助で自由に学校を選ぶ事ができた。


「クラスでも、凄い仲良いものね!」


 身を乗り出して話す羽月さんに苦笑を浮かべる。


「そう、ね。昔からの友達かな」


 中学が別になると決まった時、大きく揉めた事を思い出した。


「円香ちゃん、すごい嬉しそうに話してたの。高校から一番の友達が来るって」

「そんな事言ってたんだ」

「うんうん。でも、受験かなり大変だったんじゃない?」

「そう、ね。問題が私に合ってて、運が良かったわ」


 私立高校無償化の影響で、吉祥寺にあり綺麗な校舎で大学にも繋がっている成苑高校は、異常な程に人気が高くなっていた。

 募集人数を絞っている事もあって、80弱という偏差値に戦々恐々としたものだ。


「中学での授業の進め方が公立と違うから、追いつくの大変よ」

「あはは、亜莉沙は習ったこと全部忘れちゃってるよー…」


 そう言って羽月さんが顔を両手で抑えた。


「だから今朝は琴音ちゃんが教えてくれて凄い助かったよぉ」


 私は小さく首を振る。


「その、今朝は凄く楽しかったわ。私は大体あの時間に来てるから、羽月さんさえ良ければいつでも教えられるわ」

「ほんとっ!」


 羽月さんがテーブルをバンと叩いて素っ頓狂な声をあげて喜ぶ。


「う、うん、勿論よ」


 そう言うと、羽月さんは感極まったように手を固く握りしめて胸の所に合わせた。


「亜莉沙ね。ずっと琴音ちゃんと仲良くなりたかったの」

「…それは、どうして?」


 私はユーモアが有るわけでもキュートなわけでもない。

 身長が170を超えていて目も一重で鋭いので、根暗で怖いというのが他の人の評価だと思う。

 そんな私に羽月さんが興味を示す理由が分からなかった。


「それは琴音ちゃんが高嶺の花だからだよ」

「…ラインでも言ってたわね。どういう意味?」


 あまりクラスメイトを形容する単語では無い気がする。

 思わず眉をひそめて怪訝な表情を出してしまう。

 こういう時、素直に嬉しいと笑って流せる愛嬌があればと思う。


「…えっと、亜莉沙、語彙力なくて、うまく説明できないと思うんだけど…大丈夫?」


 羽月さんは少し躊躇ってからそう言った。


「ええ、勿論よ」


 少し身構えて羽月さんの言葉を待つ。


「琴音ちゃん、キラキラしてるから…」

「…キラキラ?」


 小さく首を捻る。


「ええっと、オーラ…的な?」

「オーラ?」


 オウム返しを繰り返す私に羽月さんが両手を小さく上げた。


「もう!だから語彙力ないって言ったでしょ!」

「ふふ、ごめんなさい」


 もう…と言って羽月さんは楽しそうに笑う。


「外見はね。ブルベで顔クールで骨ストだし、身長めちゃ高くて造形美ぱないから孤高の王子様って感じ!」

「ぶる…?」


 羽月さんが口にした言葉の意味が良く分からない。


「でも、そういうのだけじゃなくて…。その、圧が強くて近寄れない感じ!」


 …あ、あつ?


「それって良い意味じゃない、わよね?」

「すごい褒めてるつもりなの!!」


 そう力説する羽月さんの様子が面白くて、私はコロコロと笑った。


「ふふ、そうなのね。ありがとう」


 そう言うと、羽月さんが怒ったように「むぅー」と唸った。


「な、なに?」

「ううん、なんでもないっ!琴音ちゃん可愛過ぎだなぁって思っただけ!」


 そう言うと、むくれたような顔をして羽月さんがそっぽを向いた。


「えっと、羽月さんのが私よりずっと可愛いと思うわよ」


 それは紛うこと無く本音だ。

 顔は勿論だが、彼女の所作や話し方は愛嬌があり、好感を持つ人は多いと思う。


「むぅ、複雑な感じ。でも、琴音ちゃんが可愛いって言ってくれるのはうれしっ!」


 そう言って羽月さんは、見てるだけで幸せになるような笑顔を浮かべる。


「少し弄ったんだ。学割効いたし」

「弄る?」

「整形!目だけね」


 その言葉に衝撃を受ける。


「羽月さんは、どうしてそんな可愛くなりたいの?」


 そう聞くと、羽月さんは照れたように笑う。


「えへへ、好きな人がいるの」

「え、そうなの?」


 思わず言葉のオクターブが上がる。


「うん、近くのお家のお兄ちゃんで…。カズ君って言うんだけど、全然相手されなくて」


 羽月さんが顔を俯かせる。


「羽月さんが相手にされないってそんな事ある?」

「うん、可愛い女の子多いから…。だからもっと可愛くなりたいの!」

「…今より可愛くなったらモデル顔負けね」


 好きな人に振り向いてもらうために可愛くなりたい。

 いかにも羽月さんらしい素敵な願いだと思った。


「ええ、それは絶対王子様の琴音ちゃんだって!」


 顔を寄せて力説する羽月さんに、私は乾いた笑いを返した。


 お茶を濁すようにプレッチェルの端っこを千切って口に入れる。

 カリカリとした小麦色の歯ごたえが、歯の付け根を刺激して心地よい圧覚、触覚を脳へ届けていく。

 焼き立てのパンというのは、それだけで蠱惑的な魅力がある。


「甘くて美味し!」


 羽月さんも真っ白のシュトーレンを食べていた。

 コーヒーも少し減っていたが砂糖とミルクには手をつけていないようだ。


「ね、琴音ちゃん?」

「うん?」


 思いつめたような目で羽月さんが私を見つめてくる。


「亜莉沙のこと、名前で呼んでほしいっ!」


 その言葉に私は目を瞬かせる。


「ええっと、それは、下の名前でってこと?」

「うんうん、円香ちゃんと…マヤさん、は名前で呼んでるよね?」

「…そうね。2人は昔からの友達だから…」


 そう言うと、羽月さんの目がキラキラと輝く。


「マヤさんも凄い綺麗な人だよね!絵に書いたような金髪碧眼だし!」

「ふふ、そうね」


 羽月さんの言葉に幼い頃の事を思い出す。

 マヤは目立つ見た目をしているので、何度かイジメに近い目にもあっていた。


「羨ましいなぁ」

「うん、そう…?」


 首を傾げる。

 羽月さんは、たまに私の理解とは違う言葉の使い方をしている気がする。


「円香ちゃん達みたいに、名前で呼んでほしい!」

「ええっと、もちろん構わないわよ」

「ほんと!」

「うん、ええっと…亜莉沙…で良いのかしら」


 羽月さん…いや、亜莉沙は嬉しそうに口を緩めて目を閉じていた。


「その…亜莉沙?」

「さいっこう!琴音ちゃん、一生推します!」


 そう言うと亜莉沙は、コーヒーをがぶがぶと飲み始めた。


「げほぉげほっ!」

「ちょ、ちょっと亜莉沙!」


 むせ返る亜莉沙の口元にペーパータオルを当てる。


「もう、大丈夫?」

「ご、ごめんっ!」


 ペーパータオルを受け取った亜莉沙が、涙目になって口元を拭っている。


「そ、そういえばここ、お洒落なお店だね!」

「…ふふ、そうね」


 亜莉沙が慌てたように店内を見渡しながら言った。


「聖歌が流れている喫茶店って初めて来たけど、凄い雰囲気良い!」

「ここ、お父さんに連れて来て貰ったの」

「そうなんだ?」

「…うん。お母さんと3人で何時間も話していたわ」


 お母さんが亡くなる前の幸せな時間を思いだす。もう遥か昔の出来事のようだ。


「琴音ちゃんのお家はみんな仲良しなんだねー…」

「…羽月さんのご家族は?」


 目を輝かせて話す亜莉沙を見て、吐こうとした台詞を何とか飲み込む。


「うちはね」


 そう聞くと、天真爛漫に笑っていた羽月さんが一瞬だけ目を伏せて顔を曇らせる。


「ずっと、ママだけなの」


 感情の混ざらない、高い綺麗な声だった。

 澄んだ透明な話し方に息が詰まる。


「ママ、前はいつも笑ってたんだけど…」


 そこまで言って、亜莉沙がはっと顔を上げる。


「あ、ごめんねっ!お父さん居ないのは最初からだから、哀しいとかは全然無いやつ!」


 亜莉沙が慌てて笑顔で両手を振った。


「その、亜莉沙…」


 探していたピースが見つかった気がする。


「うん?」

「辛い事とか嫌な事があったら、言ってね」


 …そうすれば、私も気兼ねなく愚痴を吐けるから。


「琴音ちゃん…ありがと!」


 亜莉沙の嬉しそうな表情を見て、罪悪感が湧き上がる。

 言葉とは裏腹に、彼女を助けたいという想いは私の中には無い。

 呪詛を吐露しあう相手にちょうど良い。そう思っただけだ。


 亜莉沙の手元をちらりと見る。

 菓子パンの甘さを際立たせるためには、苦いコーヒーを飲むのが良い。

 では、現状が幸福であると認識するための最良の方法は何だろうか?

 人は所詮、相対的にしか判断が出来ない。


 あんなに美味しかった小麦のパンは、冷めて柔らかくなってしまい酷く味気ない気がした。




「今日はありがとうっ!」


 2時間ほど喫茶店で話してから私達は店を出た。


「こちらこそ、楽しかったわ」

「えっと、それじゃ、またね?」


 亜莉沙が不安そうに私を見つめる。


「ええ、明日の朝に一緒に宿題をしましょう」

「うん…うんっ!また明日ね!」


 亜莉沙は向日葵のように眩しく笑って駅のほうに歩いて行った。


 その姿が見えなくなったのを確認してから、深くため息をつく。

 彼女のような良い子を見ると自分の醜さを再認識させられる。

 私は生きていない方が良いんじゃないか。

 そんな考えが募るばかりだ。


 スマホを開くと円香とマヤからラインが来ていた。

 サンロードはかなり人通りが多く、下手に立ち止まる事もできない。

 周囲を確認して喫茶店の正面にある雑居ビルに近寄った。


 雑居ビルの入り口を背にラインを確認する。

 円香は部活の友達と遊んで帰るらしい。マヤは予備校でビデオ授業のようだ。

 2人にメッセージを返していく。


 すん…


 その時、甘いりんごの香りが漂っているのに気づいた。

 スマホを握りしめて周囲を確認する。


 左右は人で賑わうサンロードで、背後は雑居ビルだ。

 雑居ビルの地下には中華料理屋があり、ビルの入口の奥にはエレベーターが見える。


 雑居ビルと、隣の古着屋の間に細い通路があるのに気づいた。

 通路の奥は暗闇に包まれていて何があるかは分からない。


 何となく嫌な予感がした私は、その場から離れようした。


 ポン


 その時、後ろから肩を叩かれた。


「えっ?」

「はぁい」


 そこには私と同年代くらいの少女が立っていた。

 長い黒髪をサイドツインテールにして前髪はまっすぐに揃えられている。

 肌は韓国アイドルのように真っ白に塗られており、しかし目元と唇だけ濃厚な朱色に染まっていた。


 間違いない、今朝に階段で助けてもらった少女だ。

 私が黙っているとその少女が真っ赤な唇を少し舐めてから口を開いた。


「キミ、コトネ、だよね」


 顔ほどではないがまっすぐな喉元や手元まで白い。

 おそらく元々が薄い肌なのだろう。


 返事をせずに少女を観察する。

 お香のような濃厚な甘い香りが彼女からして頭がくらくらしてくる。


「ふぅん…」


 少女が体を屈めてジロジロと私を見てくる。

 赤いチェックのミニスカートと大きな黒のパーカーが、彼女の雰囲気をとても幼く見せていた。


「あの、何か…」


 黒のパーカーの中央に犬歯が尖ったキャラクターが描かれており、その周りには紅い雫が飛び散っていた。


「僕、暇なんだぁ」


 少女は口元だけで笑って、大きな黒い瞳で私をぎょろりと見る。

 返事をせずに周囲を確認する。幸い時刻はまだ夜に差し掛かった辺りで周囲には沢山の通行人がいた。


「ね、あそぼ?」


 真っ赤に染まった少女の蠱惑的な唇に、目が引き寄せられる。

 少女の歯は内向きに綺麗に揃っていたが、犬歯だけがやたらと尖っていた。


「…すいません。私、用事があるので」


 そう言って、一歩後ろに下がる。


「ええ、遊ぼうよー」


 澄んだ高い声で話しながら、少女が顔をゆっくりと私に近づけてくる。


「大声、出しますよ」


 そう言うと少女はピタリと止まった。

 ここは煌々と明かりが照らす商店街の只中だ。


「助けてあげたのになぁ…」


 真っ赤な口を大きく横に開いて誂うように少女が話す。


「ごめんなさい、用事があるので…」


 そう言って、少女から目を逸らした瞬間…


「ほんとぉ?」

「っ!」


 少女が一足飛びに近づいてきて、私の俯いた顔を下から覗いた。


「うそぉ、ついてない?」

「…ついてません」


 辛うじてそう言ってから大きく後ろに下がる。


「じゃあ、代わりにさっきの子と遊ぼうかなぁ」


 少女は高い厚底のショートブーツを履いていた。

 実際の身長は見た目よりかなり低いのかもしれない。


「ねぇ、それでも良い?」

「知りません!」


 そう言うと、少女は一層楽しそうにクスクス笑う。


「わかったぁ。またね、コ・ト・ネ」


 少女はそう言うとゆっくりと駅の方に歩いていった。




『ホントに知り合いじゃないの?』

『うーん、絶対違うとは言い切れない、かなぁ。かなり化粧濃い子だったから…』


 湯船に浸かりながら円香に少女のことをラインで送る。


『連絡してくれたら良かったのに』

『でも、部活の友達と一緒だったんでしょ?』


 スマホを風呂蓋の上に置いて、鼻を摘むと浴槽に深く頭を沈める。

 後頭部が底についた所で目を開けると、長い髪がゆっくりと立ち上っていくのが見えた。


 横に顔を向けると、バスタブには小さな傷が幾つもあった。

 お母さんと一緒にお風呂に入っていた時の事を思い出す。

 毎日の出来事を話したり、昔話を聞いたりしていた。


 今思えばあの時間は信頼関係の構築には非常に大事だったのだろう。

 共に過ごす時間が無くなれば記憶も感情も薄くなってしまう。


 ごぼごぼごぼ


 息が苦しくなってきたので、お湯の中で空気を吐き出していく。

 その間は苦しいという脳の信号は止まる。

 もしここでヘリウムガスでも吸ったなら、苦しまずに死ねるかもしれない。


 新しい母と信頼関係を構築する力は私にはなかった。


 ぶぶぶ


 現世から私を呼ぶ声がする。

 宙にあげていた両足を浴槽に沈めて底面を蹴る。

 私の頭は滑るように外の世界に浮上した。


『そういえば、亜莉沙からライン来てる?』


 そのメッセージを読んだ瞬間、強烈に嫌な予感がした。

 亜莉沙とのラインを開く。変な女の子に付き纏われたので気をつけてほしい事は、すぐに亜莉沙に伝えていた。

 その後も亜莉沙とは何度かやり取りを繰り返し、彼女が家に帰った事までは確認している。

 それで安心していたのだが…


『19時過ぎまではラインのやり取りしてるわ』

『ん、3時間前に送ったラインが既読付かないんだよね』


 改めて亜莉沙に送ったラインを見る。

 確かに私が最後に送ったメッセージに既読マークは付いていなかった。


『忙しいだけじゃない、かな…』


 円香にはそう返したが、胸騒ぎが止まらない。


『ん、そうかもね』

『いつも秒で返信してくる子だから少し気になっただけ』

『変なこと聞いてごめんね』


 立て続けに送られてくる円香のラインに、私は返事が出来なかった。




 風呂からあがるとリビングから母の声が聞こえた。

 どうやら誰かと通話しているらしい。素早くバスタオルで体を拭いて下着を着ける。


「知らないですよ!」


 母の激昂にびくりと体が跳ねる。

 自分に累が及ばないように、急いで洗濯機から服を取り出していく。


「今何時だと思ってるんですか!絶対来ないでください!」


 スマホをちらりと見ると時刻は夜の22時を廻っていた。

 母の会話内容に嫌悪感が走る。


 ガンッ!!


 激しい音に体が竦み上がった。

 母が勢いよく脱衣所の扉を開けたのだ。


「何ちんたらしてんの!早く部屋に戻って!」

「…はい」


 スマホと洗濯かごを掴んで自室に向かう。


「少し出かけるけど、誰が来ても絶対に扉開けないで!チャイム鳴っても出ないでよ!」

「はい」


 廊下の先から叫ぶように指示が降ってくる。

 言われずともこんな夜更けの来訪者に応対するつもりはない。

 内心でため息をついて、パジャマを着てからリビングに向かう。


 間もなく玄関が開く音が聞こえた。

 ヒステリーが多い母とはいえ、あの態度は尋常じゃない。

 それに、こんな夜更けに外出する事も未だ無いことだ。


 …まあどうでも良い事ね。


 2年前の事を思いだす。

 あれだけ再婚に反対したのに、お父さんは私に黙って婚姻届を母と出していた。

 お父さんがホテルの風呂で溺死したのはその直後だ。

 母が殺したのではないかと思っているが、もはや確かめる術はない。


 ため息をついてベランダに出て外を見上げる。

 この街では星は滅多に見えない。真っ暗な夜空に、今日も哀れな月だけが虚しく灯りをともしていた。


 …高嶺の花、か。


 月を綺麗だ、好きだと称える人は多い。

 ではあの月と共に歩みたい人はどれほど居るのだろうか。

 そんな益体もない事を考えていると、国道を挟んだ向かいのマンションの屋上に人影が見えた。

 シルエットしか分からないが、その人物も私と同じ用に空を見上げていた。


 …え?


 その時、違和感に気づく。

 こんな時間にマンションの屋上に人が居るのはおかしい。

 それに、あの膨らんだ長袖とスカート、そして左右に跳ねた髪は…。


 呆然と人影を見ていると、ゆっくりと小さな顔がこちらに向く。

 その瞬間、なぜか少女の真っ赤な口が開いたのが分かった。


 み・つ・け・た


 悲鳴をあげそうになる声を何とか抑えリビングに飛び込む。


 ガン!


 鍵を掛けて、乱暴にカーテンを閉める。


 …何で、何でここに居るの!


 手に持ったスマホを慌てて操作する。

 警察に通報しようとして、すぐに思い直す。

 ラインから目当ての名前をタップして通話ボタンを押した。

 1コール、2コール、3コール。


 お願い…!


 スマホを耳に当てて神に拝むように祈る。


「はろはろー!」


 その明るい声に、たちまち錯乱した感情が鎮まっていくのが分かる。


「円香、どうしよう!」

「おお、どったの?」

「外に、あの女の子が居るの…」


 そう言った瞬間、円香の声色が変わる。


「外って…ベランダから見えたってこと?」

「そうなの!向かいのマンションに女の子が居て…」

「分かった、すぐ家まで行く」


 その答えに申し訳ない気持ちが湧き上がってくる。


「え、でも、こんな夜中に…」

「こんな時に気にしないで」

「…ありがとう」


 不覚にも若干涙声になってしまう。


「警察に通報はした?」

「ううん、してない」

「分かった。とりあえず鍵を全部確認して、玄関はチェーンも閉めて」

「でも、母さんが外に出てて…」

「大丈夫。お母さんには私が説明するから」

「…わかった。通話は切らないで、お願い」

「もちろん!」


 通話をスピーカーに切り替えてから玄関に向かう。

 玄関の鍵が掛かっている事を確認してチェーンを閉めた。


「玄関の鍵とチェーンは閉めた」

「窓の鍵も全部確認して」


 リビングはベランダに、そして私と母の部屋はマンション共用廊下に接した窓がある。


「わかった」


 リビングに戻り、カーテンの合間から鍵が閉まっている事を確認する。

 続いて自分の部屋で窓の鍵を確認した。


「リビングと私の部屋の窓は確めた」

「お母さんの部屋は?」

「…入ってない」

「確認できる?」

「絶対に入るなって言われてて…」

「あー、じゃあいいや」

「…ううん、見てみる」


 そう言って廊下に出ると、母の部屋の前に立つ。

 最後にこの部屋を見たのはお父さんが亡くなる前のことだ。


 カチャ…


 ゆっくりとドアノブをひねると、扉の隙間から母の濃い匂いと何とも言えない甘い腐臭が漂ってくる。

 覚悟を決めてドアを押し開けようとしたその時…


 ピリピリピリ


 …え?


 突如、リビングのインターホンが鳴り出した。


「…円香、もう着いたの?」


 まだ電話をかけて、幾分も経っていない。

 祈るような気持ちで円香に問いかける。


「まだ、後10分で着くよ」


 その言葉に一瞬気が遠くなる。


「…インターホンが、鳴ってるの」

「…エントランスと玄関、どっち?」

「1階の…エントランス」

「顔、確認できる?」

「…え?」


 ピリピリピリ


 一定の時間が経過したのか、呼び出し音が途切れる。

 しかしすぐに再びインターホンが鳴り始めた。


「顔、カメラに映ってるんじゃないかな」

「…分かった」


 確かに、リビングのインターホンには来訪者の顔が映されているはずだ。

 廊下の終着点に顔を向ける。

 シーリングライトで煌々で照らされているリビングは、ドア代わりの暖簾に遮られてここからでは室内を見ることが出来ない。


 ピリピリピリ


 鳴り叫ぶインターホンのせいで、暖簾で隠れたリビングに何かが潜んでいるような気がしてしまう。


 …そんな訳、ない。


 小さく首を振って、母の部屋の前から離れて廊下をゆっくりと歩く。

 トイレ、お父さんの部屋、脱衣所の前を通り過ぎ、最後にリビングと廊下を遮る暖簾に手をかけた。


 ピリピリピリ


 2度目のインターホンが終わった瞬間、間髪入れずにまた鳴り始める。

 エントランスに居る何者かはボタンを押し続けているのだろう。


 ゆっくりと暖簾を開き、そこからリビングを見渡す。

 正面右手にはダイニングテーブルがあり、その下には洗濯かごが置いてある。

 テーブルの奥にはベランダがあり、そこへ繋がるカーテンは閉じられていた。


 右手にある対面型のキッチンはレンジと冷蔵庫、食器棚がある。

 リビングの左側にはテレビ台と大きなテレビ、それに向かい合うように小さなリビングテーブルと大きなソファが置いてある。


 何も変わった様子はない。普段と違うのは夜の静寂を壊す不快な呼び出し音だけだ。


 ピリピリピリ


 一つ息を飲んで覚悟を決めるとインターホンに近づき、そして、カメラの映像を確認した。


 …え?


 画面の先にはマンション1階のエントランスが映っていた。しかし…


「…だれも、いない?」


 目を見開いてカメラの映像を見つめるが、誰かが隠れているようには見えなかった。


「エントランス、誰も居ないの?」

「…うん」


 やがて鳴り続けていたインターホンがその音を止める。

 しかし、エントランスの呼び出しパネル前には誰かが現れる様子は無い。


「…単に部屋番号を間違った人が居ただけかも」

「それなら良いのだけど…」


 円香が心配げな声で返事をする。


「こんな夜更けにごめんね、ちょっと焦り過ぎたみたい」

「全然。気にしないで」


 思えば道を挟んだマンションにあの少女が居たから何だと言うのだ。

 あのマンションに住んでるだけか、もしくは単なる見間違えの可能性だってある。


 全身を開いて深呼吸をする。緊張の余り、過呼吸気味になっていたようだ。

 大きく息を吐いてから、体を弛緩させる。

 そして、手に持ったスマホを改めて顔に寄せた。


「ほんとにごめんね。今度お詫びに…」


 ピンポーン


「…っひ」


 反射的にスマホを胸に掻き抱く。

 耳元にあるインターホンが、先程までと違う音を鳴らした。

 体がガクガクと震える。

 恐る恐る視線を右に向けると、応答のボタンが青く点滅していた。


「玄関に、来た…」


 円香が息を呑んだのがスマホ越しに聞こえる。


「…顔は確認できる?」


 家の玄関前にはカメラは設置されていない。

 つまり、顔を見るには玄関まで行ってドアスコープを直接見る必要がある。


「むり…」


 泣きそうな声を出して首をふる。


 ピンポーン


「あと8分で着く。」


 先程から2分しか過ぎていないという事実に、絶望的な気分になる。


「わ、わたし、どうしたらいい」

「大丈夫よ。落ち着いて、琴音。玄関は鍵もチェーンも掛かってるのよね」

「…うん、ちゃんと掛けた」

「私が今から警察に通報する」

「…わかった」

「だから、電話切るよ」


 その言葉に耳を疑う。


「待って、一人にしないで!」


 その瞬間、ガチャリという音と共に玄関扉がガンと音を立てた。


「開けようとしてる!!」


 私が悲鳴を挙げると共にピロリンと通話が切れる音がした。


「円香、なんで!」


 右手に持ったスマホに叫んでその場にへたり込む。

 どうしたらいいの?


 ガガガ…


 突然聞き慣れない振動音が玄関から聞こえた。

 リビングと廊下を仕切る暖簾のせいで玄関の様子は見えない。

 しかし、尋常ならざる事態が起きているのは間違いない。


 ドクンドクン


 心臓がパンクするほどに早鐘を打つ。


 …どうしよう、どうしよう…!


 殆どパニックになって周囲を見渡す。

 テレビにもソファにもテーブルにも食器棚にも、私を助けてくれそうな物は無い。


 そうだ!


 カーテンを全開にして窓を開けると、ベランダに飛び出す。

 手すりに縋りついて下を向く。しかし、深夜の国道を人が歩いている様子はない。

 踵を返して隣の住戸との仕切り壁をドンドンと叩く。


「…た、たすけて…たすけてください!」


 出来得る限りの声を張り上げてみたが、反応が帰ってくる事はなかった。


 ガン!


 覚悟を決めて仕切り壁を強く蹴る。

 ベランダで隣の住戸と仕切っている壁には、非常時に破って避難できると書いてある。

 壁の様子を見ると若干凹んだ気配がした。


「…おねがい!」


 思い切り力を込めて5回ほど蹴ると、バゴンと音を立てて仕切り壁の下側が破れた。


 …よし!


 ベランダに四つん這いになって、仕切り壁をくぐり抜ける。しかし…


「どうして…!」


 隣の住戸はカーテンが締め切られており、電気も付いていなかった。

 それだけならまだしも、ベランダに私の身長ほどもあるロッカーが置かれていたのだ。

 これでは更に隣の住戸に逃げる事ができない。


 ポケットからスマホを取り出す。まだ通話を切ってから1分しか経っていない。

 普段の湯水のように流れていく時間との落差に愕然とする。


 ここに留まっていては袋の鼠だ。

 再び四つん這いに屈んで、仕切り壁をくぐって自宅のベランダに戻る。


 …反対側ならきっと!


 ガチャリ


 その音に体が竦み上がる。


 …え、開いた…?


 慌てて周囲を確認する。

 反対側の仕切り壁を今から破るのは無理だ。


 下の住戸に降りる…のは論外。

 手すりを乗り越えて隣に行く事のも、柱があって無理。

 仕切り壁の上には十分な隙間はある。

 しかし、不安定な姿勢の懸垂で、体を引き上げるほどの筋力が私にあるはずもない。


 ベランダからの脱出は不可能。

 そう結論づけ、踵を返してリビングに戻る。


 キー…


 その瞬間、錆びたかんぬきが軋む音が聞こえた。

 玄関扉が開いたのだ。

 反射的に隣にあったソファに駆け寄る。


 もう時間はない。

 私はその場にうつ伏せになると、左足をソファの下に差し込んだ。


 コツコツ…


 少女が廊下を歩く音がやけに大きく聞こえる。

 廊下とリビングを遮る暖簾の下から、高い厚底のショートブーツが見えた。


 カチャリ


 黒い靴が母の部屋に入っていく。


 静かに…静かに…!


 両手をフローリングに押し付けて、体をソファの下に差し込んでいく。


 落ち着け…大丈夫。調べるのに時間が掛かるはず…。


 コツコツ…


 しかし、私の想像は容易く裏切られ、すぐに黒い靴が廊下に戻ってきた。

 必死に両手で体を押すが、お尻がソファの縁に引っかかって進まない。


 カチャリ


 暖簾の下から厚底靴が私の部屋に入っていくところが見える。

 玄関から順番に部屋を確認しているんだろう。


「っ!」


 覚悟を決めて、両腕に思い切り力を込める。


 ガタ!


 …っぅ!


 ソファの端が浮いて後ろの壁にぶつかった。

 息を呑んで廊下の先を見つめる。しかし少女が私の部屋から出てくる気配はない。


 …慎重に、慎重に…!


 お尻が入ったことで体がソファの奥に進むようになってきた。


 …まだ出てこないで!


 カチャリ


 しかし祈り虚しく、少女は私の部屋から出てくると一直線に廊下を歩いてくる。


 コツコツ…


 黒い厚底靴が一歩一歩リビングに近づいてくるのを固唾を呑んで見つめる。

 ソファの下には左肩までしか入っていない。


 咽喉がひりつくように乾く。

 少女は暖簾の傍まで歩いて来て…


 カチャリ


 リビングの隣、お父さんの部屋に入っていった。


 …ふうう。


 ゆっくりと息を吐く。

 緊張のあまり、両手が汗でベトベトに濡れていた。


 バタン!バタン!


 ロッカーを乱暴に開く音がする。

 汗で濡れた両手に力を込めてフローリングを押して、なんとか頭までソファの下に押し込む。

 後は右肩だけだ。


 カチャリ


 反射的に両手をソファの下にしまう。


 …お願い、まだ来ないで…!


 ガラッ


 祈りが通じたのか、少女は脱衣所に入っていった。

 それを確認した瞬間、右手だけをソファから出して今までの人生で一番の力を込める。


 …ぐぅ!!


 左肩が壁につく。

 私は素早く右手をソファの下に引っ込めた。


 ガラガラ…


 少女が浴槽の蓋を開ける音がする。

 なんとかソファに隠れるのが間に合ったようだ。

 ほっと一息つく。


 …ふう、これで何とか助かる。…の?


 調べている場所的に少女の目的は物取りではないだろう。

 つまり、私を探している可能性が極めて高い。


 …ソファの下を探さないなんて、有り得るだろうか?


 ゴクリ…


 自分の唾を飲む音が異様に大きく聞こえる。

 慌てて左手を口元に強く覆いかぶせる。

 恐怖でブルブルと震える体を右手で抑える。


 本当にここに隠れて良かったのだろうか。

 包丁でも確保して立ち向かった方が良かったのではないか?


 コツコツ…


 ソファの隙間から黒い厚底靴が見える。

 廊下に戻ってきた少女は…ついに暖簾を捲ってリビングに入ってきた。

 選択のやり直しは出来ない。


 息を呑んでソファの隙間から黒い靴を凝視する。

 リビングに足を踏み入れた少女は、しばしその場で立ち止まり…そして、まっすぐに近づいてきた。


 コツコツ…


 黒い厚底靴が私の顔のすぐ傍で立ち止まる。

 心臓が太鼓のように激しく鼓動している。

 両手で口を抑えて、両目を見開いて靴を見つめる。


 すると、黒い厚底靴は私の前を通り過ぎていった。


 …え?


 何が起きたか分からず呆然とする。


 ゴン!


 直後、ベランダの奥で激しい音が聞こえた。

 何をしているのか…と一瞬考えたが、隣戸との仕切り壁を蹴っているのだと気づく。


 どうやら私がベランダを伝って隣戸まで逃げたと思ったらしい。

 私が開けた穴はかなり小さかったので広げようとしているのだろう。


 …今なら、逃げれる!?


 少女はベランダにいる。

 ソファを出て玄関に走れば逃げられる可能性は高い。

 しかし、背中に掛かる重さがその選択を躊躇わせる。


 ソファの下に入りこむのにどれだけ時間が掛かったか。

 無理やり出れば、大きな音を立ててしまうだろう。

 蹴る音は間もなく止んだ。少女が隣戸のベランダに行ったのだろう。


 …どうしよう、どうしたら…!


 ソファの下から辺りを巡らす。

 テレビ、リビングテーブル、暖簾、ダイニングテーブルと椅子。

 その瞬間、天啓の如く閃きが降ってくる。


 …そんな事が可能なのか?このまま大人しくしていた方が…。


 ガチャガチャとベランダの奥から音が聞こえる。

 隣戸の窓やロッカーを調べているのだろう。

 私が居ないと判断すれば、すぐに戻ってくるに違いない。


 …駄目だ。やるしか、ない!


 ソファの下から右腕を伸ばしてリビングテーブルの足を掴む。


 ずずず…


 小型のリビングテーブルを右手一本で引き寄せていく。

 そしてテーブルの足の上部を引っ張って、こちらに傾けた。


 …っ、お願い!


 カタン


 黒い長方形の物体が、フローリングにこぼれ落ちてくる。

 その瞬間、傾いたテーブルの縁を思いっきり向こう側に押す。


 ガタン!


 リビングテーブルは反対側に倒れて激しい音を立てた。

 少女の足音がベランダの奥からする。

 私は傍に落ちていたテレビのリモコンを掴み…


 …これで!


 暖簾に向かって放り投げた。

 リモコンは暖簾の真ん中に当たり、そして廊下の奥に落ちた。


 右腕をソファの下に戻すのと、少女がリビングに戻ってくるのは殆ど同時だった。

 目と鼻の先に少女の黒い厚底靴が現れる。

 少女はその場で数瞬止まっていたが…


 コツコツ…


 ゆらゆらと揺れる暖簾を乱暴に捲って、廊下の方に歩いていった。

 両目を見開いて黒い厚底靴を凝視する。

 緊張のあまり呼吸が出来ない。

 少女は一つ一つ部屋の前で止まりながら廊下を歩いていく。


 お願い、もう諦めて…!


 間もなく少女が廊下の一番奥まで遠ざかる。


 キー…


 そして、かんぬきが軋む音がして玄関ドアが開かれた。


 そのまま出ていって…!


 ブブブ


 その瞬間、私の腰から振動音が響いた。


「え…?」


 急いで左手を伸ばし、電源ボタンを手探りで押す。しかし…


 コツコツコツ


 足音が高く鳴り響く。

 黒い厚底靴は一直線に近づいてきて…無常にも私の目の前で止まった。

 間もなく背中に掛かっていたソファの重みが徐々に無くなっていく。


 …ああ、終わった。


 しかし、次の瞬間、黒い厚底靴が遠ざかっていく。

 そして少女は呆気なく玄関を飛び出していった。


 …な、なんで?


 何が起きたか分からずしばし呆然としていたが…


 ピーポーピーポー


 …ああ、そっか…。


 全身の力を抜いて目をつむる。


 …私、助かったんだ…。


 サイレンの音がその夜の終わりを告げた。




 あれからすぐに警察と円香がやってきた。

 這々の体でソファから抜け出した私は事のあらましを何とか説明し、すぐに少女は捜索される事になった。


 間もなく母も帰ってきたので、再度事情の説明をする。

 幸い円香と警察が居たため母が神妙に事情を聞いてくれたのは助かった。

 諸々の手続きが終わって警察が帰る頃には、時間は0時を廻っていた。


「円香、本当にありがとう」

「ううん、何とか間に合ってよかった!」


 円香が通報するのが少しでも遅れていたら、私は捕まっていただろう。


「通報してくれた後ラインくれたでしょ、あの時はほんと心臓が口から出るくらいびっくりしたの」


 私がそう言うと円香は首を捻った。


「あーし?ライン送ってないよ」

「あれ、そうなの?あ、もう終電終わるよね。うちに泊まっていく?」


 ラインを送ったのはタイミング的に円香に違いないと思っていたが、そういえば内容を確認していなかった。


「あぁ、警察の人が家まで送ってくれるって。ついでに親に説明頼もうと思ってる」

「そう、それなら安心ね。今日は本当にありがとう。円香は命の恩人よ」


 そう言うと円香は照れくさそうに顔を背ける。


「もう、大げさだって!…また明日、学校で」

「うん、また明日」


 そう言って円香が家を出ていく。

 母は自室に戻って誰かと通話しているようだ。

 流石に疲労困憊なので、すぐに寝る事にする。


 …でも、その前に。


 玄関を施錠してからリビングに行く。

 先程倒したダイニングテーブルを直して、リモコンをその上に乗せた。


「ありがとう、ごめんね」


 救出劇の立役者であると同時に被害者である彼らに労いの言葉をかける。

 そしてソファに歩み寄ると屈んで下に腕を伸ばす。


 …ここらへんに、あるはず。


 手応えを感じて腕を引き抜く。

 右手に掴んだスマホを確認し、画面を袖で拭ってからラインを開く。

 メッセージの送り主は、亜莉沙だった。


 返事が来たことに安堵の息をつく。

 私はすぐにラインを開き…


『どこにいる』


 その文章を見て言葉を失った。

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