2024年4月26日(金)

 もうすぐ朝のホームルームの時間だが、亜莉沙は今だ来ていない。

 昨夜すぐにラインを返したが、そのメッセージも既読はつかなかった。


『亜莉沙、大丈夫…?』


 今一度ラインを送った時、ちょうどチャイムが鳴った。




 ホームルームが終わった後、教壇の三ノ宮先生の元まで行く。


「あの、羽月さんの休みの連絡って来てませんか…?」


 そう聞くと、三ノ宮先生は眉を垂れ下げて小さく笑い、露骨に困ったような仕草を見せる。


「ええーっと、特には何も、来てない…かな…?」


 余りにもわざとらしい言いようだ。


「そうですか、気になる事があったもので…」

「羽月さんの事で何かあったの?」

「はい…」


 三ノ宮先生が「ん…」と言いながら大きな瞳を右に傾ける。


「ええっと、藤宮さん」

「はい」


 三ノ宮先生は、私に顔を寄せると小声で話しだした。


「羽月さんの件、些細な事でも良いから何でも教えてほしいな」


 そう言うと、顔を離してまっすぐに私の目を見た。


「…分かりました。次の休み時間で良いですか?」

「うん!じゃあ1限目が終わったら職員室で待ってるね」


 そう言うと、三ノ宮先生は教室を出ていく。

 残された私は嫌な予感が膨らんでいくのを抑えきれなかった。

 昨日、亜莉沙と別れた後に会った少女が言った台詞の事を思いだす。


『代わりにさっきの子と遊ぼうかな』


 頭を振って思考を追い出す。

 1人で考えていても仕方がない。

 すぐに円香に相談する事にした。




「亜莉沙が休んだ理由は口止めされてる。でも知ってる事は全部教えてほしい、か」

「うん、多分そんな感じ」


 円香を廊下に呼んでから、先程の出来事を簡単に説明する。


「ふぅん、亜莉沙ってば誘拐でもされたのかな」

「…やっぱり、そう、なのかな」

「日本で誘拐なんて滅多に起きるとは思えないけど…」


 そう言って円香はスマホを操作する。


「去年の誘拐は年間1,000人弱は起きてるみたいね」

「1,000人…かなり多いね」


 昨夜の件も含めて他人事には思えなかった。


「うーん、神待ちとか自分の子供とかも有るから、ガチ誘拐が何件かは分からないけどね」

「ああ、そうよね」

「ただ…」


 何かを言いかけた円香の顔が曇る。


「うん?」

「や、何でもない」


 その時、1限目の開始を告げるチャイムが鳴った。


「とりあえず次の休み時間になったらすぐに職員室に行こう」

「分かった。ありがとね、円香」

「ううん、相談してくれてありがとう。亜莉沙の事を早めに知れて助かった」


 次の教科の教師が歩いてくるのを確認し、私と円香は教室に戻ることにした。




「…あ」


 1限目が終わり職員室に向かう途中、教室棟を2階に降りたところで円香が静止する。


「ここで少しだけ待っててくれる?」

「え、うん」


 そう言うと円香は駆け足で3年生の教室の前まで行き、ロッカーに手を伸ばしていた男子生徒に飛びついた。


「せーんぱい!」

「…円香か。びっくりするだろう」


 男子生徒は背中にしがみついた円香を気にする事なく、ロッカーの中を見ている。


「あはは、ごめんなさい」


 円香はそう言いながら男子生徒の背中から離れようとしない。


「離れてくれ」

「ええー、照れてるんですかぁ?」

「1限目が体育だったんだ」

「全然気にしませんよぉ」

「俺が気にする」


 そう言って男子生徒が軽く体を振る。


「ふふ、ごめんなさぁい」


 男子生徒は幾つかの教科書を取り出すとロッカーを閉めた。


「せんぱいわぁ、いまなにしてるんですかぁ?」

「見て分かるだろう。次の授業の準備だ」

「あはは、そうでしたぁ」


 私はその光景を前にして完全に固まっていた。

 円香の可愛らしい態度のせいではない。

 この距離からでも分かる低く重い声のせいだ。

 しかしここからでは男子生徒の背中しか見ることが出来ない。


「あれ先輩、首に結構な傷ありますね」

「…転んだんだ」

「嘘だぁ、転んだって首筋にこんな傷つきませんよ。また女泣かせたんでしょう?」

「人聞きの悪い事を言うな…。転んだだけだ」

「まあ良いですけど!じゃあ先輩、また放課後に」

「ああ、またな」


 そう言って円香がこちらに駆け寄ってくる。


「ごめんねー、ちょっと知ってる人が居たから」


 ちょっと、ね…。


「…ええっと、すごい仲良さそうだったね」

「え、そう見えた?部活の先輩なの!」


 …部活。そういえば、あの人は吹奏楽部だったか。


「うん、円香があんなにベタベタするの初めて見たかも」

「あはは、恥ずかしいな。特別仲が良いって訳じゃないんだけどね。先輩、すごい良い匂いがするの」


 そう言って照れくさそうに円香が顔を背ける。


「時間取らせちゃってごめんね。早く職員室まで行こう!」


 そう言って円香が教室棟から中央棟への渡り廊下を進んでいく。

 私はなんとも言えない感情を抱えつつ、円香の後をついていった。




 職員室は科目ごとに別れており、三ノ宮先生は現代文の担当だった。

 室内にデスクは4つあったが、今は三ノ宮先生ともう1人男性の先生しか居なかった。


「ええ、そんな大変な事があったのね…」


 言葉とは裏腹にぽわぽわとした口調で三ノ宮先生が話す。

 三ノ宮先生は今年に大学を出たばかりの若い先生で、可愛くて優しいので皆から人気があった。


「亜莉沙が休んでる理由、知ってるんですか?」


 私の代わりに説明してくれた円香が質問を続ける。


「ええっと、ここじゃちょっと…」


 三ノ宮先生は手元のノートPCを操作すると


「3階の小会議室を取ったからそこで話しましょう」


 そう言って席を立ってからスマホを手に取った。


「お疲れ様です。三ノ宮です。…はい。次の授業ですが、藤宮琴音さんと雲野円香さんを出席扱いにしてもらって良いですか?…ありがとうございます!では」


 そう言って通話を切って三ノ宮先生はノートPCを手にとって立ち上がった。


「さ、次は黒板ね。二人共付いてきて」


 私達は顔を見合わせると、トコトコと歩む三ノ宮先生の後をついていく。


「これでよし」


 三ノ宮先生は廊下に設置された掲示板に、大きく自習と書き込んでいた。


「…いいんですか?」

「いいのいいの、皆もたまには自習の時間があった方が嬉しいでしょ!」

「遥の授業に限ってそれは無いと思うけどなぁ」


 円香の言葉には同意する。…言葉遣いはどうかと思うが。


「えへへ、ありがと円香さん。あ、でもちゃんと敬語使わないとダメですよ」

「ン、分かったよ、遥」

「もうー」


 じゃれ合っている2人を見て、こんな時なのにおかしい気分になってくる。

 円香の方が少し大きいので、三ノ宮先生が円香に甘える妹に見えてしまったのだ。


「さ、ついたよー」


 そう言って三ノ宮先生が会議室のドアの鍵を開けて私達を中へと促す。

 会議室には大きな机と6つの椅子、そしてホワイトボードが置いてあった。

 私達は三ノ宮先生の示すままに奥側の席に座る。


「今から警察に連絡します。2人は私にさっき教えてくれた事を同じ様に伝えてほしいの」

「やっぱり亜莉沙は誘拐されてるの?」


 円香の問いに三ノ宮先生は少し驚いた表情を見せた。


「…家に帰った様子がない。そう聞いてます」


 やっぱり…と円香がつぶやく。


「私も全部を把握しているわけじゃないの…。まずは連絡してみるね」

「うん、分かった」

「分かりました」


 三ノ宮先生は小さく頷いてからスマホを机の上に置いた。

 会議室に発信音が響き、すぐに中性的な声がした。


「はい、武蔵野警察署です」

「お世話になっております。羽月亜莉沙の担任の三ノ宮です」

「…ああ、成苑高校の先生ですか。どういたしました?」

「羽月さんのクラスメイトの藤宮さんが、昨夜に羽月さんからラインを受け取ったという事です」

「本当ですか」

「はい、藤宮さんもこの場にいます。しかし、状況が複雑なのでまずは私から説明させてください」

「わかりました」


 三ノ宮先生は、先程円香が説明した事を殆どそのまま話し始めた。


 話し終わると、数秒の沈黙の後、電話口から警官さんの声が聞こえてきた。


「藤宮さん、幾つか聞いても良いですか?」


 三ノ宮先生が私の方を見て頷く。


「藤宮です。はい、何でも聞いてください」

「ありがとうございます。最初に藤宮さんのお名前と住所、それと電話番号をお伺いしてもいいですか?

「はい、藤宮琴音です。住所は練馬区の…」

「分かりました。昨夜の事件、後ほど練馬区の署にこちらから問い合わせてみます」

「はい」

「では、昨夜に侵入した人物の顔は見ましたか?」


 カチャカチャという三ノ宮先生の小さなタイプ音が静かな室内に聞こえる。


「いえ、ソファの下に隠れていたので足元しか見えませんでした」

「では、藤宮さん宅に侵入した人物が羽月亜莉沙さんだった…という可能性はありますか?」


 その言葉にはっとする。全く考えていなかった事だった。


「…可能性は零ではない、と思います。ただ、侵入者が履いていた靴は吉祥寺で声を掛けてきた女の子と同じものでした」

「なるほど…では、侵入者から隠れている時に羽月からラインのメッセージが届いたという事ですが、侵入者がスマホを操作している様子などはありましたか?」

「…すいません、隠れていたので見れませんでした」

「…分かりました」


 若干の沈黙の後、電話口の警官さんが話し出す。


「情報提供ありがとうございます。羽月さんのご一家が失踪した理由は不明ですが、練馬署と共同して捜査にあたることになると思います。藤宮さんには警察から連絡が来るかもしれませんが、その際はご容赦ください」

「いえ、私は全然大丈夫ですので…。その、私で出来る事があったら、いつでも連絡してください」

「…ありがとうございます、ではこれにて」


 警官さんがそう言って通話が切れた。

 ふう、と大きくため息をつく。

 電話口で大人と話す事は慣れていない。


「藤宮さん、すごい立派に受け答え出来てたわ!」


 三ノ宮先生の慈愛に満ちた表情に思わず笑みが溢れる。


「遥、大袈裟。初めてのお使いじゃないんだから」

「ええ、でもホントに敬語ちゃんと使えてると思ったんだもの…」


「ふふ、ありがとうございます」


 私はそう言って小さく頭を下げた。


「それより警察の人…一家失踪って言ってなかった?もしかして亜莉沙だけじゃなくてお母さんも居なくなってるの?」


 気になっていた事を円香が三ノ宮先生に聞く。


「そうみたいなの。でも家が荒らされた形跡とかは無いみたい」

「ん、家族ごと居なくなってるなら通報は誰がしたの?」


 円香がそう聞くと、三ノ宮先生が目を小さく閉じる。


「…ごめんなさい。そこまでは聞いてなかったわ」


 そう言って三ノ宮先生が頭を下げる。


「ううん。これで終わり?」

「そうね。後は警察に任せましょう」

「よし、じゃあ3人で図書館で時間でも潰そうー」

「ダメです!授業に戻りましょう!」

「ええー、せっかくサボれるんだしゆっくりしようよー」

「いいえ、まだ30分も授業時間が残ってます!」

「けちー」


 先程まで真面目な顔をしていたのに、円香と三ノ宮先生は今はもう笑い合っていた。


「二人共、今日は本当にありがとう」


 三ノ宮先生が頭を下げてお礼を言う。


「気にしないで!」

「こちらこそ、ありがとうございます」

「じゃあ、ここでお別れね!」

「はーい、またねー」「…また」


 教室棟の入口で三ノ宮先生と手を振って別れる。


「…さて、ちょっと良い?」

「うん?」


 1年は教室棟の4階に教室がある。

 階段を登っている最中に、円香が神妙に声を掛けてきた。


「亜莉沙、結構ヤバいかも」


 4階を通り過ぎて、円香に促されるまま更に階段を登っていく。

 その上には屋上があるが、扉は施錠されている。


「…そう、ね」


 屋上扉前の踊り場にいくと、円香がスマホを操作しだした。


「亜莉沙の家、うちの近所でさ。だからお互いの家に良く遊びに行くんだ」

「え、そうなの?」


 円香が神妙な顔でコクリと頷く。


「亜莉沙ってあの性格でしょ?変なトラブル起きる事ないと思うんだよね」

「そうね」


 そう言うと、円香が目を薄く閉じた。


「ただ、亜莉沙のお母さん…優莉菜さんっていうんだけど。2年くらい前に凄い病んでた時期があるの」

「病んでた?」


 円香がコクリと頷く。


「躁鬱…っていうのかな。大声で叫んだり物に当たり散らす事があったの。その声がうちにまで聞こえてさ」

「そう、なんだ…」


 昨日の亜莉沙の様子を思い出す。


「大体その後は滅茶苦茶落ち込んで…。その繰り返しで、ある日ドアノブで首吊っちゃったんだ」

「…えっ!」


 円香が沈痛な面持ちで言葉を続ける。


「幸い、すぐ亜莉沙が見つけて大事には至らなかったんだけどね。そのまま病院に3ヶ月くらい入院」


 …見つけたって。

 その場面を想像してしまい、もはや言葉も出なかった。


「亜莉沙の家は母子家庭だから、優梨菜さんが入院してる間はうちで一緒に暮らしてたの」


 そこまで話して、円香が深く息を吐いた。


「で、ここからが本題」

「…もう今の話だけで胸がいっぱいよ」


 円香が苦笑いして、首を小さく横に振る。


「優梨菜さんさ、入院中に男性と付き合い始めたんだよね。何でも浄水器の営業の人とかで」


 円香の言葉に目を細める。

 …躁鬱で自殺未遂の入院中に、外部の人と?

 言語化出来ない黒い感情が胸に湧いてくるのを感じた。


「さぞ落としやすかったろうね」


 吐き捨てるように円香が言う。


「で、優梨菜さんとその人、今も付き合ってるらしいんだけど。その件で亜莉沙から何度か相談されてたんだ」

「…相談?」


 体が冷えたのか、円香が両腕で体を掻き抱き…


「…怖いって」


 そう呟いた。


「優梨菜さんが付き合ってる人、鈴木っていう名前で喋り方は凄い丁寧なんだけど…でも、日本人に見えないんだって」

「え、外国の人なの?」

「私も一度だけ見たことあるんだけど…多分、中国人だと思う」

「それは…」


 …確かに、怖い。

 敬語が上手く使える外国人はかなり少ない。

 それが、浄水器の営業をするだろうか…?しかも、名前が鈴木…。


「それに、亜莉沙の家に遊びに行く度に物が無くなっていったの」

「え、何で?」


 琴音が首を振る。


「優梨菜さんに理由聞いたら、ミニマリストとか言ってた。退院した後の優梨菜さん、いつも機嫌が良くて元気だったから安心してたんだけど…」

「そう、なんだ…」


 目を瞑って思いを巡らす。

 想像していたより、余程に亜莉沙の状況は悪いように思えた。


「ね、どう思う?」

「亜莉沙と優梨菜さんが居なくなった事と、鈴木さんが無関係…とは思いにくいわね」


 琴音がコクリと頷く。


「だよね…。私、次の休み時間に警察に電話してみる」

「それが良いわ」


 キーンコーン…


 その時、授業の終わりを告げる鐘が鳴った。


「ちょうど良いタイミングね、職員室行ってくる!」

「分かったわ。また後で」


 そうして私達は階段を降りた。


『何かあったの?』


 教室に戻るとすぐにマヤからラインが来た。


『うん、なんか…すごい色々あった』

『そうなんだ』


 後で話す…訳にもいかないか。


『教室で話せる内容じゃないから、明日のお昼にでも遊びいかない?』


 今日の放課後は私もマヤも予定がある。

 しかし明日は土曜日で午前に授業が終わるので、部活が無い生徒は午後から暇になる。


『いく』


 マヤの話も聞かせてくれると嬉しい…そう打ち込んでから文面を消す。


『楽しみね』


 そう送ってスマホを鞄の中にしまった。




「あれ?」


 鍵が玄関に入らない。見るとドアノブが新しくなり、しかも鍵穴が2つになっている。


 …鍵、交換したんだ。


 昨夜に来た警官さんが言うには、ドアスコープをドリルで抜いた後、鈎状の棒を差し込んでサムターンを回したのではないかとの事だった。


 仕方なくインターホンを押す。


「はい」


 暫く待つと母の声が呼び出し口から聞こえる。


「私です…」

「っち」


 ガチャリという音がしてインターホンが途切れる。

 暫くするとガチャガチャと2回鍵を回す音と、シャーっとドアチェーンを抜く音がしてから扉が開いた。


 母の姿が扉の隙間から見えた瞬間、何かが放り投げられる。

 それは私の胸元に当たり、そして地面に落ちていった。


「ったく、どんだけノロマなんだよ」

「…ごめんなさい」


 しゃがみ込んで落ちた物を拾う。投げられた物は家の鍵のようだった。


「当分はチェーン掛けるから玄関のチャイム鳴らして」

「はい…」


 バタン!


 目の前で、鋼鉄の扉が勢いよく閉じる。

 私はマンションの廊下で暫く立ち尽くしていた。




「おまたせしました」


 飲み物を席に運ぶと、座っていたお客さんが慌てて視線を逸した。


「生ビールのお客様」


 意図して声のトーンを下げて話す。


「は、はい」


 スーツ姿の男性が、私に視線を合わせずに返事をする。

 男性の前に生ビールを置き、正面に座る女性に視線を移す。


「こちら、ウーロンハイです」


 そう言って俯いたままの女性の前に茶色のグラスを置いた。


「それでは、ごゆっくりどうぞ」


 そう言って席を後にする。

 お客さん達は背後で、すごい店員さんだったね、しっ聞こえるって!と言い合っていた。


 これは…凄いわ。


 最初はどうなるかと思ったが、円香からもらった病み女子セットは思いの外効果を示していた。

 お客さんの態度が固くなり話を振られる事が少なくなったのだ。


「らっしゃっせー」


 だるそうな男性の声が入り口の方から聞こえる。

 残念ながら、いつもの低い声の店員さんは今日は休みのようだった。

 今だ挨拶すら交わしたこともないが、厄介客から助けてもらい、しかも円香が好意を寄せている先輩という事で関心だけが募っている。

 母の強制もあるが、彼にお礼を言いたいという気持ちが今日バイトに来た理由だった。


 円香には、今夜はバイトを休むように強く言われた。


 しかし、駅付近はもとより帰り道もそれなりの往来があるし警察もパトロールを増やすと聞いている。

 更に言ってしまえば半分くらいは、犯人に襲ってきてほしいとすら思っていた。

 いつまでも怯えているのは嫌だし、何より亜莉沙の事が気になっていた。


 鈴木という人物の事は気になるが、去り際の言葉やラインからして、白い顔の少女が亜莉沙の失踪と関わっている可能性は高い。

 それに、所詮は私と同年代の少女だ。もし街中で襲われても、大きな声を出せば大事になる前に誰かが駆けつけてくれるだろう。


 私はスマホにつけた防犯ブザーのストラップをキュッと握った。

 円香がわざわざ昼休みに何処かから買ってきてくれた物だ。


 …円香には本当に世話になってばかりね。いつかこの恩は返さないと。


「おまたせしました」


 中年のお客さんは私の胸元を見ていたが、私と視線が合った瞬間に慌てて目をそらした。

 今日のバイトは穏やかな気持ちで終えられそうだった。




「お先に失礼します」

 22時になりバイトが終わる。

 トラブルは無かったが、昨日あまり寝れていないせいか、歩きながら目を閉じてしまう程に眠気が酷かった。

 はやく帰りたくて、病み女子セットのまま外に出てしまっている。


 …駄目だ、ここからが一番危険な時間なんだから。


 鞄からスマホを取り出し、ストラップの先にある防犯ブザーに触れる。


 …いざという時はお願いね。


 ラインを確認すると、円香から5件のメッセージが来ていた。


『遥のとこには、警察から何の連絡もないみたい』

『たぶん亜莉沙は誘拐されたままだし、犯人もまだ捕まってない』

『私、今日はまっすぐ帰れって親にキツく言われてるから帰らなくちゃいけない』

『バイト終わるまで待ってたかったけどごめんね』

『気をつけて、ほんとに気をつけて帰ってね』


 溜まっていたラインを見て心が和む。


『バイト終わったから今から帰るよ。色々心配してくれてありがとう』


 円香の家は荻窪にある。吉祥寺とは二駅の距離だが、何かあった時に駆けつけられる距離では無い。

 私は頬を両手で叩いて眠気を飛ばすと、帰り路を進み始めた。


 10分ほど歩きサンロードの終点までつくと大きくため息をつく。

 周囲を警戒していたせいか、もしくは派手な格好のせいか、私に近づく人影は無かった。

 ここから家までは約20分。眠気がいよいよ我慢できないほどに強くなり、右肩に負った鞄が心なしかいつもより重い。


 カッコーの音で信号が青に変わったのを認識すると、私は若干俯いたまま歩き出した。


 サンロードが終わると店舗は無くなり殆ど住宅だけになる。

 家々の明かりと街灯があるので歩くのに苦労する事は無いが、人通りは大分少ない。


 一定間隔に並んだ街灯が私の影を遠くに伸ばしては、また新たな影を産みだす。

 春という季節は無くなってしまったようで、まだ4月だというのに闇夜をぬるい空気が漂っていた。


 コツコツ…


 …きた。


 背後からの足音に、私は街灯に駆け寄って立ち止まる。

 犯人を待ち受けて防犯ブザーを押すつもりだった。

 徐々に近づいてくる人影を凝視する。


 スーツを着た大人の男性だ。間違いなく女の子ではない。

 しかし、一度疑念を持ってしまった私の視線は、その影から離れてくれなかった。


 コツコツ…


 足音が近づくにつれて私の心臓は徐々に早まっていく。

 痛いほどに防犯ブザーを握りしめる。

 やがて男性は私に近づき…そしてそのまま道の反対側を通り過ぎていった。


「…ふぅぅ」


 重い溜息をつく。

 通り過ぎる男性の怪訝な表情が痛かった。

 街灯の下に立ち止まって、派手な格好の女が防犯ブザー片手に顔を凝視してくるのだ。

 どう見ても、私の方が不審者だろう。


 更に重要な事に気付いてしまった。かなり近づかないと顔が見えないのだ。

 私は目が良い方なので、数十m先でも視認できると思っていた。

 しかし時刻は既に夜の22時を廻っている。

 体格だけなら遠くから確認できるが、しっかりと顔を見るには数mの距離まで近づかないといけなかった。


 …無理だ。


 数mの距離まで近付かれたら防犯ブザーを押す事はできても、無事に逃げ切れるとは思えない。


 その時、新たな影が私の足元を伸びていった。

 はっと顔を後ろに向ける。駅の方から小柄の人影が近づいてくるのが分かった。


 …これ、あの女の子なの?押して良いの?それともすぐ逃げるべき?


 どうすれば良いか分からない。

 先程から心臓がずっと悲鳴をあげている。

 小柄の人影はあっという間に近づいてきて…そのまま道の反対側を通過していった。


 再び深くため息をついて体の力を抜く。

 その人影が、格好から若い男性なのはすぐに分かった。

 しかし、やはり私は相手が過ぎ去るまで一歩も動けなかった。


 …駄目だ。誰か来る度に立ち止まって確認してたら体がもたない。悪いけど、コバンザメさせてもらおう。


 先程過ぎ去った若い男性の後ろを付かず離れずついていく。

 男性の進む速度は早く、駆け足気味に歩かざるをえなかった。


 街灯の下で立ち止まり自分を凝視していた派手な女が、自分が通り過ぎた途端に後ろを付いてくるのだ。

 これではどちらが犯罪者か分かったものではない。


 自嘲気味に笑うが、犯人を迎え撃ってやるという気持ちが半ば霧散していた私には、他に取れる手段が思い浮かばなかった。


 …あ。


 後を付けて数分、男性は道沿いの家に入ろうとしていた。

 反射的に、恥も外聞もなく自分の家まで送ってくれないか頼もうと口を開く。


「…あの…」


 しかし、男性の横顔に濃い警戒の色を見てしまい、喉まで出かけた言葉は空気となり霧散した。


 バタン


 夜の闇に重い扉の閉まる音が無情に響く。

 一つ息を吐いてから道の先を睨む。

 ここから家まではほぼ一本道で10分ほどの距離。

 道のりは街灯で十分に明るく、前方を歩いている人影は見当たらない。


 …大丈夫、大丈夫。


 自分に言い聞かせながら歩みを再開する。

 目の前には大きな自然公園、そして細い砂利道が見えてきた。


 細い砂利道の先に一瞬目を向けると、廃屋が見えたが誰かが居る様子はない。

 すぐに視線を戻し、自宅までの長い一本道の先を睨んだ。


 ギギギ…


 強い風が北からの冷たい空気を運び、頭上の木々が唸るような声をあげる。


 大丈夫、大丈夫…。


 同じ言葉を念じながら、公園に沿って道を歩いていく。

 先程まで粘りつくように体に纏わりついていたぬるい空気は、いつの間にか何処にも居なくなっていた。


 ギギギ…ギギギ…


 林立する木々が不気味に揺れながら唸り声を挙げる。

 滲んだ汗が冷えて、風が突き刺さるように寒い。


 …早く、帰りたい。


 びゅうっ!


 公園の入口に差し掛かった時、木々の間を抜けて一際に強い風が吹きつけた。


 カラカラ…


 何かが転がる音がして、反射的に首を公園内に向ける。

 公園の入口の先には短い歩道と公衆トイレがあり、更に奥には大きな広場が見えた。

 暗くてハッキリとは分からないが、広場の遊具やベンチに誰かが居るようには見えない。


 ほっとひとつ息をついて、首を前に戻す。


 …え?


 その瞬間、背筋が凍った気がした。

 反射的に再び首を横に向ける。

 公園の入り口、そのすぐ横にある公衆トイレ。

 その格子窓から2つの瞳がこちらを覗いていた。


「っ…!」


 悲鳴をあげそうになる口を抑え、早足で歩く。


 …なに?え、どういうこと?


 手元の防犯ブザーを握り直し、後ろを振り向く。

 しかし、後ろには誰もいない。


 …偶然誰かが窓からこっちを見てただけ…?


 そんな淡い可能性を信じる事など出来ず、後ろを見ながら殆ど駆け足のように逃げる。


 …大丈夫、大丈夫、落ち着いて。誰かが来ても防犯ブザーを押せば良いだけ。そうすればすぐに警察が助けに来てくれるはず。


 ある程度の距離を置いたからか、恐怖で縮こまっていた気持ちが、徐々に高揚に変わってくるのを感じる。


 亜莉沙を、助けるんだ…!


 背後の公園の入り口を凝視する。

 誰かが見えた瞬間に押す。それだけ。簡単な事だ。

 防犯ブザーを固く握りしめて、私は後ろを見ながらゆっくりと後退り…


「藤宮さん」

「きゃああああああ!!」


 ピピピピピピ


 けたたましい悲鳴と防犯ブザーの音が周囲に鳴り響く。

 驚きふためいて腰を抜かしてその場に座り込む。

 周囲の家々の扉や窓が開く音がする。


「…あー、すいません。でも前を向いて歩かないと危ないですよ」


 そこに居たのは警官さんだった。




 その後、周囲の住宅から次々と人が飛び出してきて、更に近くをパトロール中だったのか他の警官さんも集まってきた。

 私は平謝りに謝り、更に簡単な事情聴取を受ける羽目になってしまった。


「本当にごめんなさい」

「いえ、大丈夫です。でも、昨日の今日で夜道を一人で歩くなんて無謀ですよ」


 警官さんの声は男性にしては高い声だった。

 夜闇の上にマスクをしていて顔は良く分からないが、恐らく電話口で話した人だろう。


「…そう、ですよね」

「しばらくは夜に一人で出歩かないようにしてください。どうしても外を歩く時は所轄に連絡してくれれば人を寄越しますので」


 そう言って電話番号を教えてもらう。


「重ね重ね、ありがとうございます」

「いえ、では自分は公園で見たという不審者探索の応援に行きます。あと少し聞き取りが済みましたら、この者に自宅まで送らせますので」


 そう言って警官さんは隣に立つ女性の警官さんを指した。


「分かりました、すいませんがよろしくお願いします」

「これが本分ですのでお気になさらず」


 その後、図書館の近くでもう一度今夜の行動を聞かれた後、私は女性の警官さんと一緒に帰宅の徒についた。

 女性警官さんの顔はやはりマスクと制帽で殆ど分からなかったが、身長は私より大分小さく色素が薄かった。


「送って頂き本当にありがとうございます」


 マンションの前で深々と頭を下げる。


「いえ、お気になさらず。先程の者も言っていましたが、何かあったらすぐに連絡してくださいね」

「お気遣いありがとうございます」

「では、失礼します」


 女性警官さんを見送ってからマンションのエントランスに入る。


 …ふう、漸く家まで帰ってきた。


 本当に長い夜だ。体はもうクタクタに疲れていた。


 鞄から鍵を出してエントランスの自動ドアを開ける。

 そういえば、昨夜はどうやって少女は中に入ってきたんだろう。

 何度もここの呼び鈴を鳴らしていたが、私がカメラの映像を見た時に少女の姿は無かった。


 …誰かと入れ違いになったのかな。


 このマンションは9階建てで住民はかなり多い。

 十分にありえる話だった。


 自動ドアを通り、エレベーター前まで行って△ボタンを押す。


 ・・・4・・・


 エレベーターがゆっくりと降りてきて表記が変わっていく。


 ・・・3・・・


 その時、違和感に気づいた。


 ・・・2・・・


 …あれ、今って4階に止まってた?


 ・・・1・・・


 チン


 降りてきた無人のエレベーターを前に体が固まる。

 直前にエレベーターを使った人が4階で降りている。


 たったそれだけの事なのに、この箱に乗って良いのか酷く迷ってしまう。


 逡巡した後、腕をエレベーターに差し込んで3のボタンを押す。

 少しするとエレベーターはその口を閉じ、無人のまま登っていった。


 …大丈夫、問題ない、大丈夫。


 そう何度も心の中で唱えるが、脅迫観念にも似た妄想は簡単には拭えなかった。


 周囲を確認し、階段の方へゆっくりと歩みを進める。


 スマホを鞄から取り出す。

 マンションのエントランスから玄関までついてきてくれませんか?

 一瞬、そんな連絡を警察にするべきか迷ってしまう。


 首を振ってからスマホと防犯ブザーを握りしめる。

 そして、音を立てないようにゆっくりと階段を登り始めた。


 U字型の階段は視界が極端に悪く、白い漆喰の壁を一つ挟んだ先にいる相手を音以外で判別する事はできない。

 もし誰かが階段の先で待ち伏せていても、直前まで気付けない。


 バカバカしい…。


 そもそもあの少女が直前にエレベーターに乗った、というのは妄想に過ぎないのだ。


 そんなことを考えながら階段の上を覗き見る。

 やはり、U字型の踊り場の先はどう頑張ってもみる事はできない。

 私は小さく頭を振るとゆっくりと足を動かす。


 階段の端に土踏まずを載せ、左手を壁につけ、細心の注意を込めて登り始める。


 1段…2段…


 …誰もいない、誰も居ない。


 4段…5段…


 3階と4階の間にある踊り場に静かに足を載せる。そして、首を伸ばして4階を覗き込み…


 ぶぶぶ


 その瞬間、右手に握ったスマホが振動した。

 漏れそうになる声を押し殺し、慌ててスマホを見る。

 円香からのラインだった。


 ふう…と内心で深くため息をつく。


 中身の確認は後にして、階段を登りきる。

 そして、共用廊下を歩き、ようやく玄関まで辿り着いた。


 鞄から鍵を取り出して上側のディンプル錠に差し込む。


 カチャリ


 鍵を引き抜くと、そのまま下側のディンプル錠に差し込む。


 カチャリ


 鍵を鞄にしまってから、新しくなったレバーハンドルを右手で握り込んだ。


 キイ…


 聞き慣れた錆ついた音と共に、ゆっくりと重い鉄扉が開いていく。


 家の中はいつも通りに真っ暗だった。


 カチャ、カチャ


 スマホを照らしながら、上下の鍵を閉めて、最後にチェーンを溝に差し込む。


「ふぅー…」


 長く息を吐く。もう疲労が限界だった。


 …お風呂は明日にしよう。


 そう考えながら、足元をスマホで照らしながら靴を脱ぐ。


 その時、なんとも言えない違和感を覚えた。


 静かに後ろを振り向いて、スマホを向ける。

 玄関扉は上と下の2つの鍵、そしてチェーンが掛かっている。

 鋼鉄の扉に特に目立つ傷はない。

 昨日にドリルで壊されたドアスコープにも新しい物が嵌っている。


 …チェーン?


 その瞬間、慌ててスマホで足元を照らす。

 母の靴が見当たらない。


 …出かけてる?こんな夜中に?


 コツ…


 その時、廊下の奥で…


 コツ…


 何かが歩く音が聞こえた。


「…っひぃ」


 恐る恐る、廊下の先をスマホを照らす。


「おかえりぃ…」


 そこには、真っ赤な口を耳まで開いた白い顔の少女が立っていた。


「きゃあ…」


 バゴッ!


 叫び声を挙げようとした瞬間、物凄い衝撃で玄関扉に叩きつけられる。

 目から光が飛び、顔全体が焼けるように熱い。


 何が起きたか分からない。

 視界がぶれて目が上手く動かせない。

 上唇が痙攣し、やがて激しい恐怖と共にその痙攣が全身に撹拌した。


 胸ぐらを強く掴み上げられる。


「騒いだら、殺すよ」


 少女の言葉に、全身の力が抜けて両手が垂れ下がった。


 コトン


 その時、何かが足元に落ちた音がした。

 確かめようとしたが、左側の視界が無くなっていて分からない。


 ゆっくりと廊下が後ろに流れていく。

 首元を掴まれて廊下を引きずられていた。


 …死ぬのか、な。


 息が出来なくて苦しい。

 首元を掴む少女の腕を振り払う程の気力は残っていなかった。


 …まあ、いっか…意味とか…ないし…


 両の瞳を閉じて肺に残った息を吐く。


 …ごめん…。


 ぶぶぶ


 その時、床で何かが振動する音がした。

 脳裏に親友達の顔がよぎる。

 ボロボロに泣きながら怒り狂う円香と、不安そうな顔をして1人で過ごすマヤ。


 …駄目ね。


 その瞬間、体の震えが止まり恐怖も痛みも消え、全身に力が漲った。


「っ!」


 首元を掴む少女の手首を両手で強く握る。

 そして、爪先を跳ね上げた。


 トンッ!


 少女の腹を蹴りつけた反動で、体が廊下に投げされる。


「わお」


 バタン


 …っ!


 背中と後頭部を強かに打ち付け、目の奥に火花が飛ぶ。

 強烈な嘔吐感を堪えなが右腕を伸ばし、振動するスマホを掴む。

 手繰り寄せて画面を確認すると、着信が私を呼んでいた。


 …円香!


 必死に親指を伸ばし、緑色の応答ボタンを押す…まさにその時。


 ドゴッ!


 右の脇腹に深々とえぐられるような衝撃が走る。


「…っかは!」


 空気の塊が喉から飛び出し、ついで大量の胃液が逆流してくる。

 余りの痛みにスマホを手から離してしまう。


「ぐえええ…」


 口から胃酸を零しながら、それでも私を呼び続けるスマホに必死に手を伸ばす。

 しかし、黒いフリルの腕が私より先にスマホを掴むと…その腕を思い切り振りかぶった。


 ガン!


 勢いよく飛んだスマホは、玄関扉にあたって幾つもの破片を散らしながら地面に落ちていく。


 ゴス!


「くふっ…」


 呆然とスマホの行方を見ていた私の右脇腹に、強い衝撃が加えられる。

 反射的に体をくの字に折り曲げ、必死に脇腹を両腕で守る。


 ガン!


「あぁっ…!」


 右肩に恐ろしい勢いで少女の踵が降り落ろされる。


 ポキッ…


 少し間の抜けた音がして、その瞬間凄まじい痛みが体中を襲う。


「ぎああ!」


 左手で右肩を抑えて廊下を転げ回る。


「…うるさいなぁ」


 強烈な肩の痛みに痙攣する右腕に、再び踵が振り下ろされる。


 ガン!


 肘が折れるような衝撃を受け鼻水や胃酸が顔中から吹き出る。


「うっうっ…!」


 度重なる容赦のない打撃に、脳が狂乱に落ちて目をむいて悶絶する。


「あはは、キンモ」


 ドゴッ


 そう言って少女は三度えぐりこむように私の脇腹を蹴り飛ばした。


「…ぁぁあああああ!!」


 生命を削るような叫び声が喉から絞り出される。


「うるさいって!」


 少女が踵を私の眼前に振り上げた。

 そこで私の意識は途絶えた。




 燃えるような痛みに目が覚める。


 …な、なに?


 左右を見渡すと、どうやら自分の部屋の布団に寝かされているようだった。


「あ、起きたんだ」


 楽しそうな声が足元から聞こえる。

 下を向くと、少女が私の足先で下卑た笑いを浮かべていた。


 下半身に違和感があると思ったら、少女の傍らには見覚えのあるパンツとショーツが投げ出されていた。


「…っ!!」


 反射的に叫ぼうとした瞬間、少女の拳が蛇のように伸びて下腹部を叩きつけられる。


「静かにしないと、容赦しないよ」


 少女はそう言って小さな拳を掲げた。


「大丈夫、少し我慢してれば解放してあげるから」


 そう言うと少女は両手で私の膝を掴んだ。

 反射的に下を向くと、少女の黒いスカートの下に有り得ない代物を捉えてしまう。


「…な…!?」

「驚いた?凄いでしょ、特別性なんだ」


 少女の腕ほどの太さがある"それ"がピクリと跳ねる


「な、なにするつもり…」

「そんなのも分かんないの?」


 一瞬、帳が降りたように視界が真っ暗になる。


「…や、やめて…おねがい…」

「だぁめ。悪い子にはお仕置きしないと」

「なんのこと…」

「しらばっくれないで」


 ゴスッ


 少女の拳がお腹に振り下ろされた。


「…っぅ、うぅ…!やめて…!いたいの!」

「大人しくして。次にふざけたこと言ったら顎が外れるまで殴るから」


 そう言って、少女は私の膝を掴んだ両手に力を入れる。

 私が精一杯に込めた抵抗は絹を破るほど儚く、あっけなく足が開かれる。

 汗ばんでいた太ももの内側に外気が触れる。


「よーし、良い子だよ」


 ゆっくりと少女が近づいてくる。

 慌てて周囲を見渡す。

 右腕は肘から肩まで燃えるような痛みがあり全く動かない。

 左腕は壁に殆ど接していて、布団のシーツを掴むくらいしか出来そうにない。


 少女が恍惚な笑みを浮かべて、徐々に腰を進める。

 数秒後に訪れる絶望の未来が容易に予想できてしまう。

 しかし…


 …十分頑張ったよね、私。


 先程までの地獄のような痛みを負うよりは、少女を黙って受け入れる方が幾らもマシに思えた。

 ふぅ、と小さく息を吐く。


 …はぁ、ほんっとに最悪の人生。


 脳裏に琴音とマヤ、そして亜莉沙の顔が思い浮かぶ。


「…亜莉沙、ねえ亜莉沙はどうしたの!?」


 瞬間、声が漏れた。


「…ん、ああ、亜莉沙ちゃんね!あはは、気になる?」


 少女は童女のように嬉しそうに笑う。


「あの子とはさ。君の代わりにずっと遊んでたよぉ…。昨日、ちゃんとそう言ったでしょう?」


 そこまで言うと少女は堪えきれないように高笑いを繰り返した。


 亜莉沙が、私の、せいで…?


「あはは、じゃあ…貰うね」


 そして、ついに少女のそれが私に触れた。

 背筋に粟の立つような嫌悪感に襲われる。

 視線を下に向けると、太い血管が何本も浮き出たグロテスクな代物が私に押し付けられていた。


 少女は極度の興奮状態にあるのか、両目を限界まで開き犬歯を剥き出しにして笑っている。

 その醜悪な姿に、魂が煮えたぎるような怒りが湧き上がる。


 …こんな…こんな…事のために…私は…!


 お腹の奥が燃えるように熱くなる。

 それは体中に伝播して、やがてマグマのような激情が身体中に溢れた。

 その瞬間、世界から色が消えた。


「うあああああ!!!」


 雄叫びと共に上半身を跳ね起こす。


「っ!」


 驚いて目を見開いた少女の顔に、額を叩きつける。

 少女の鼻っ柱に当たる…そう思った瞬間、少女が顔をひねった。


 ガン!


「くぅ!」


 少女が頬を手で押さえて後ろに離れていく。


「あああああ!!!」


 燃え上がる感情のまま両腕を伸ばす。


「っちぃ!」


 少女が避けるように更に上体を後ろに倒す。

 その瞬間、自分の腕がぶれるような速度で僅かに外側に開いた。

 逃げ遅れた少女のサイドツインを強く握り込んだ。


 ゴン!


 腕を思い切り引いて、額を叩きこむ。


「きゃあ!」


 少女は頭を捻りながら倒れ込むように後ろに下がる。


 ブチブチ!


 開いた両手から、長い髪が何本も落ちた。


「はぁっ!はぁっ!はぁっ!」


 信じられないほどに息が苦しい。

 マグマのように煮えたぎる激情は既に無く、残っているのは地獄のような酸欠と痛みだけだ。


「うう…ううう!」


 少女は自分の顔面を抑えながら仰向けでうめき声を上げている。


 布団から立ち上がろうとするも、右腕が全く動かない。

 体を傾けて左腕だけで何とか体を起こす。


「ずぅっ…!」


 その瞬間、右の脇腹に灼熱の鉄塊を押し付けられたような痛みが起きる。

 ぶるぶると震える左腕に全力で力を込める。

 ここで崩れ落ちてしまったらもう二度と起き上がれない。


「ああっ!」


 短く雄叫びをあげる。

 その勢いで左腕を支柱にして膝をバネにして立ち上がった。


「私の…顔を傷つけたなぁ!!!」


 その時、少女の絶叫が部屋に響き渡る。

 視線を向けると立ち上がった少女が、燃えるような瞳で私を睨みつけていた。


 ぎりっ


 歯を強く噛み締めて後ろに飛び退る。

 体を捻ってドアノブを掴むと、勢いよくドアを開く。

 そして、廊下に飛び込もうとした瞬間…


 ガシィ


 右腕が少女に掴まれる。


「殺してやる!!」


 振り返ると、少女の細い腕が思い切り振りかぶられていた。

 少女の血走った目が一切の加減もなく、私の顔を殴ろうとしている事を雄弁に告げている。


 自然と笑みが溢れた。


 …このカス野郎、死体を犯してろ。


 まっすぐ伸びてくる拳を、私は他人事のように見ていた。


「しゃがめぇ!!」


 その瞬間、背後から低く重い男性の声が響いた。

 反射的に膝から力が抜け、その場にストンと落ちる。

 少女の拳は私の額をかすめ、直上を通り過ぎていった。


 ダダダ!


 背後の廊下を誰かが走ってくる音が聞こえた。


「うおお!」


 雄叫びと共に男性が部屋に突っ込んできて、そのまま少女に肩から飛び込む。


「っち!」


 しかし少女は右足を引きながら上半身を大きく後ろに逸らす。


「なっ!」


 渾身の体当たりを躱された男性は、その勢いのまま少女の傍を通り過ぎる。

 男性は布団を滑らせながらブレーキを掛けて、再び少女に向き直った。


「動くな!」


 男性が腰を低く落とし、両腕を開いて少女に突撃する。

 男性はたちまちに少女に肉薄すると、その細い脚を抱え込むように腕を締める。

 その瞬間、少女が小さく跳ねた。


「ふん!」


 ドゴッ


「がぁっ!」


 ものすごい音と共に男性が真上に吹っ飛ぶ。

 少女が男性の顎に膝蹴りを見舞ったのだ。


「くっそ…」


 布団を掴んで男性が何とか起き上がろうとする。


「じゃまぁっ!」


 しかし、少女は高く跳ねて…


「ぐぅ…」


 体重を乗せた厚底靴を男性の腹に落とした。

 呆然とその光景を見ていると、後ろからバタバタと幾人もの足音が聞こえてくる。


「はぁ、タイムアップかぁ」


 少女は男性の腹の上から降りると、屈み込んで何かを拾う。


「また遊ぼうね、コトネちゃん」


 そう言って少女は白いショーツを人差し指でくるりと回すと、窓を開けて飛び出していった。

 直後、何人もの警察官が部屋に入って来た所で私の意識は途切れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る