2024年4月24日(水)

「はろはろー!」


 始業の40分前に教室に入ると、私の席の隣に円香が満面の笑みで座っていた。


「おはよう、円香。こんな時間に珍しいわね」

「他の人に見つかると良くないかなぁって」


 そう言うと円香は膝に置いた鞄に手を伸ばし、次々と小物を机の上に広げ始める。


「ほら、こっち来てっ!」

「…うん」


 一瞬呆気に取られたが、大人しく自分の席に座る。


「これがブルーのアイシャドウ、こっちがリキッドマットルージュ、これがメッシュエクステね。っで、最後にこれがリムーバー。使い方は後で動画送るー」


 そこまで一息で言うと、円香は最後に丸いポーチを取り出した。

 そして、ポーチに机の上の小物を全部詰めて私に差し出した。


「はい、あげる」

「…あ、ありがとう」


 戸惑いながら、円香から小さなポーチを受け取る。

 ピンク地のポーチは、ワンポイントの紺色の狐が映えていた。


「この狐さん、良いね」

「でっしょう?私もその子好きなんだぁ」


 円香はそう言って、くふふと笑う。


「それでこれ、何する物なの?」

「おっさんに絡まれたって言ってたでしょ?その対策」

「…そう、なのね。でもこんなに貰っていいの?」


 狐のポーチを小さく振る。

 中身はもちろんだが、このポーチも決して安い物では無い筈だ。


「のーぷろ!ちょうど余ってた奴だからさ。ほら、他の人が来る前にしまって」


 見え見えの嘘に小さくため息を付いて、「ありがとう」と言ってから狐のポーチを鞄に入れた。


「今朝も宿題やるんでしょ?」


 私は目を白黒させてコクリとうなずいた。


「そうだけど…。その前に、色々と聞きたいことが…」


 その時、ガラガラと教室のドアが空く音が聞こえた。


「おっはようー!」

「はろはろー!」


 教室に入ってきた女の子…羽月さんは、持っていた鞄を机に放り投げて驚いたようにこちらを見た。


「あれれ、まどかぁ!どしたん、こんな早く?」

「ふっふー、琴音とラブラブしてたんだよ」


 驚いて隣を見ると、円香が顎を上げて挑発的な笑顔を浮かべていた。


「ちょっと…」

「ええ、ずるいぃー!」


 羽月さんが大きな声をあげて走り寄ってくる。


「亜莉沙も混ぜてよぅ!」

「だってさぁ。琴音」


 円香が笑いながら私に視線を向けた。


「えっと、あの…」


 しかし、返答に窮した私は目を伏せてしまう。


「あやぁ…」


 羽月さんが淋しげに頭を垂れるのが映る。


「ほらほら、どうせ今日の宿題終わってないんしょ?」


 円香が立ち上がって羽月さんの肩を叩いた。


「そうだけどさぁー…」

「あーしが手伝ってあげるからさ」


 そう言って円香が羽月さんを引っ張っていった。


 少し呆気に取られていたが、2人が騒ぎながら宿題を始めるを見て鞄からスマホを取り出した。

 マヤとのラインは、昨夜に確認したまま止まっていた。


『マヤ、おはよう。えっと…何の用事かは分からないけど、無理しないでね』


 そうラインを送って、私も昨日に出された宿題に取り掛かった。




 クラスメイトが数人教室に入ってきた頃、机に置いたスマホが揺れた。

 確認してみると、円香から動画が送られてきていた。

 音量がゼロになっている事を確認して再生する。


『はろはろー!』


 手を振る円香の声が脳裏で再生される。

 どうやら円香を写した鏡を撮影しているようだった。


 左右反転した円香が青色に染まったブラシをまぶたに当てていく。

 それだけで、円香の顔がかなりキツくなった。

 更に暗い赤色の口紅を引き、青色のエクステを髪に付けていく。


 …うわぁ。


 動画には地雷というか、病みきった女子が生まれていた。

 最後に円香が横ピースにバチリとウインクをして動画が終了した。


『あの、色々聞きたい事あるんだけど…』


 かなり戸惑いながら円香にラインを送る。


『良く撮れてたでしょ!』

『うん、良く撮れては、いたね』

『琴音はタッパあるし、その格好したら絶対うざ絡み減るって!』


 先程の円香の格好をした自分を思い浮かべる。

 …客の絡みと一緒に、バイト自体も無くなりそうだった。


『確かに絡まれることはなくなりそう。ありがと。試してみるね』


 思うことは色々有るが、ここまで用意するのが大変だったのは間違いない。


『そういえば…私が早くに登校してるの知ってたの?』

『うんうん、亜莉沙が良く琴音の話してるからね』

『え、そうなの?』

『琴音ちゃんと仲良くなりたくて朝早く来てるのに、全然お話出来ない!って嘆いてたよ』


 思わず羽月さんの席を見る。

 そこには必死に宿題に取り組む羽月さんと、こちらを見てニヤニヤと笑ってる円香の姿があった。


『…ほんと?』

『ホントだって!』

『今度機会があったら、羽月さんと話してみるわ』


 少し戸惑ってからそう送る。


『うんうん、そしたげて!』


 スマホを閉じて宿題に取り掛かろうとして、もう一度ラインを開く。


『ね、今日は私のためにわざわざ朝に来てくれたの?』

『ん、休み時間はマヤがべったりだし、放課後はあーし部活有るからさ』

『そっか…。色々用意してくれてありがとう』

『ふふ。感涙に咽び泣いても良いよ?』

『ここが教室じゃなければそうしてるわ。いつも感謝してるわ、親友』


 円香の方を見ると、教科書片手に私の方を見ていた。

 視線が合うと円香は口を大きく開き、ばーかと声を出さずに言った。

 私はクスリと笑って小さく手を振ると視線をラインに戻す。


『マヤ、今日はお休みなんだって』

『そうなん?じゃあお昼は一緒に食べよ』

『うん』


 そう送った所で、数人のクラスメイトが円香の元に寄っていくのが見えた。

 私はスマホを鞄にしまうと、代わりに文庫本を取り出した。




 キーンコーン…


 昼休みのチャイムが鳴り、鞄から弁当を取り出す。

 冷凍していたものを自然解凍に任せていたので、まだひんやりと冷たい。


「琴音、一緒に食べよっ!」


 騒がしい教室に円香の大きな声が響く。

 円香のグループと食べるのは初めてなので、皆に分かるように誘ってくれるのは助かった。


「わかったわ!」


 できる限り大きな声を出して、手招きする円香の元に向かう。

 円香のグループは日によって増減するようだが、今日は7人の女子で食べるようだった。

 円香を中心として机や椅子を軽く寄せて思い思いに弁当を広げている。


 グループと言っても全員で一つの話をしている訳ではなく、近くに座った女子と二人ないしは三人で話しているようだ。

 そんな光景を生姜焼き弁当を食べながら観察していると、隣に座った円香から話しかけられた。


「今日はマヤ休みなんだ」


 コクリとうなずく。


「うん。何か用事あるみたい」


 そう言うと円香は少し驚いた顔をした。


「あ、体調不良とかじゃないの?」

「多分。昨夜に休むって連絡来た」

「そうなんだ。この前も休んでたから、体が弱いのかと思ってた」


 私は少し考えて首を捻った。


「私も分からないけど…多分お家の都合だと思う」


 マヤは中学の頃から決まって月に2回は学校を休んでいた。

 一度理由を聞いた事があるのだが、話せないとハッキリ言われている。

 休む頻度が多いのと休んだ次の日はいつも辛そうな顔をしているので、マヤの都合では無いと勝手に考えていた。


「ね、マヤさんとどんな話ししてるのー?」


 箸を動かす手がピクリと止まる。

 聞いてきたクラスの女子…申し訳ないけど名前が思い浮かばない…の顔には不審な様子は見受けられない。


「…私が好きに話してる事が多いかな」

「マヤさんが話すこともあるの?」


 彼女の顔を再び注意深く見るも、やはり悪意の色は伺えない。


「勿論よ」


 そう言うと、へー!という感嘆の声が彼女だけじゃなく、弁当を囲む女子達から漏れる。

 嫌な方向に話が行ったな、そう思った時…。


「そいえばさ、帰り道の図書館のとこ、ヤバいヤツ居ない?」


 突然、円香が違う話を振った。


「ああ、でかい公園でしょ!めちゃ臭いおっさん居るよね」

「何か病気じゃないかな?死臭漂ってる感じ」

「あいつが歩いただけで、糞みたいな臭いがずっと残るよね」

「なんかさ、公園の隣の廃屋に住み着いてるらしいよ」


 女子達が一気に盛り上がる。

 …廃屋。公園。昨夜も聞いた言葉だ。

 私も何度かその男性を見たことがあるが、かなりの刺激臭を発していた事を覚えている。


「ああいうの殺処分してくれないかなぁ。あいつ一人のせいで公園使えないし」

「ほんそれ!桜めっちゃ綺麗だったのに臭すぎて無理」

「図書館も臭い籠もってヤバかったよ。マジで世の中から消えてほしい」


 そう言って笑いあう女子達を横目に、私は冷めた弁当を食べていた。




「いらっしゃいませー!」


 いつもの店員さんの声を聞きつつ、ドリンクの配膳を行う。

 まだ3日目だが大まかなドリンクの名前は覚えたと思う。

 円香に貰った病み女子グッズも、退勤時に店長に聞こうと思って駄目元で持ってきている。


「おまたせしました」


 男女のお客さんにハイボールとソフトドリンクを持っていく。

 意外だったのは、女性客でお酒を頼む人がかなり少ないという事だ。

 アルコールを頼むとしても1杯だけで、後はソフトドリンクやお茶な事が多い。

 母が浴びるように酒を飲むため、てっきり居酒屋に来る女性も沢山酒を飲むのかと思っていた。


「空いている皿をお下げいたしますね」


 バッシングをして席を離れる。


「そこな店員さん」

「はい」


 返事をした瞬間、しまったと思う。

 聞き覚えのある太い声に嫌悪感が込み上げてくる。

 しかし無視する訳にもいかない。

 ギギギ…という音がぴったりな程に、私はぎこちなく振り向いた。


「グラス持ってきよたの別のやったから、今日は休みとおもたで」


 はたして視線の先には、昨日の中年太りの男性とその取り巻き達がニヤニヤとした顔で私を捉えていた。


「…何ですか」


 食器でいっぱいのトレーを気持ち前に出してから、声を絞り出す。

 今手がいっぱいなんです、という婉曲的な表現のつもりだ。


「何やその態度は!」


 ガン!


 男性がテーブルに拳を激しく叩きつける。

 その音に、心ごと身体が硬直してしまう。


「まずは昨日の詫びやろが!」


 何も言えずに固まっていると、怒鳴り声と共に男性が勢いよく立ち上がった。


「ひっ…」


 男性の脂ぎった顔が迫ってくる。

 皮膚から噴き出す幾つものニキビと、そこから滲む白い膿までがはっきり見えた。


「おい姉ちゃん、客商売なってへんのやないか?」


 がなり声と共に、アルコールとタバコが混じった匂いが正面から吹きかけられる。


「ぅぅっ!」


 堪えきれずに顔を背けて、えづいてしまう。


「おいこら!なめとんか!」


 強烈な怒声を挙げながら、男性が更に首を伸ばしてくる。

 至近距離から吐き出された大量の唾が、顔と髪に飛んだ。

 キツく目を瞑った私に、更に男性が畳み掛ける。


「どないなっとんねん!この店は!」


 今すぐにも逃げ出したい。

 しかし、両手が食器で埋まっているのと間近に男性が居るせいで身動きが取れない。


「…っ…ぅ…!」


 目も口も開けられず、立ち尽くす事しかできない。

 極限まで混乱した私は、ついには俯いてしゃくり声を挙げてしまった。


「おい姉ちゃん、泣けば許されると思っとるんか!」


 男性が叫ぶ度に、大量の唾が顔に降りかかる。

 ガクガクと震える足を抑えきれず、ついにはその場にしゃがみ込もうとして…


「お客様」


 その時、低い重い声が後ろから聞こえた。


「…何や、おのれ」

「注文は私がお受けします。店長、藤宮さんを」

「分かった」


 細いひんやりした指が私の左手を握った。


「藤宮さん、歩ける?」


 うっすらと目を開けて小さく頷く。

 店長の細い指先に促されるように右脚を前に進めた瞬間…


「待てや!話してる途中や!」


 肩が強く掴まれ、後ろに引っぱられた。


「っあ!」


 それが限界だった。

 後ろに沈んでいく身体を止めようがない。

 衝撃に備えて、身を固くする。

 トレーが手の上から離れていき、同時に尾骨を床に強くぶつけた。


 ガシャン!ガシャン!バギッ!ドガッ!


 皿やグラスが床に落ちて、盛大な音がフロアに響く。

 涙が出そうなほどにお尻が痛い。


「店長、早く連れて行ってください」

「う、うん」


 店長が、私の肩と腰を支える。


「さ、藤宮さん。行くよ」

「おどれぇ!なにさらしてけつかんじゃぁ!!」


 何故か、先ほどより遠くから男性の叫び声が聞こえた。


「お客様、訛りがキツくて何を仰っているのか分かりません」


 店長が強引に私を引っ張り出す。


「藤宮さん、早く離れるよ」

「なめくさってガキが、いてまうぞ!!」

「方言しか喋れない猿か。田舎で米でも耕してろ」

「おどれええええ!!」

「っち!」


 バギッ、ドガッと背後から凄まじい音が響く。


「あの…」

「いいから!」


 疑念の声を強い言葉で抑えられ、店長に腰を押されて私は更衣室に連れて行かれた。




「ごめん、少しここに居てもらって良い?」


 店長はそう言うと、隅にあるパソコンを操作しだす。

 店長は少しの間、パソコンの画面を睨むように見ていたが、すぐに更衣室を飛び出していった。


 しばらく呆然と立っていた私は、スマホを見ようとロッカーに向かい…その前にトイレに行くことにした。

 更衣室から顔を出すと、遠くから複数の怒鳴り声が聞こえる。

 幸い、更衣室と化粧室はすぐ隣にある。私は素早く女子トイレに入ると、洗面所に向かった。


 ジャー


 湿らせたハンカチで顔を拭い、続けて髪を拭く。

 真っ赤に火照った顔が冷えて、破裂せんばかりに鳴動していた心臓が徐々に収まっていく。


 …やばすぎてやばかったぁ。


 鏡を見ると、真っ赤に充血させた目をいっぱいに開いた私がこちらを見ていた。


 …酷い顔、それと酷い語彙力。


 くすっと笑う。再度ハンカチを冷水で清め、顔と髪を拭う。

 右手を心臓に当てて、もう大丈夫だから収まってねと祈る。

 体と心が落ち着いていくのに反して、尾てい骨がズキズキと強い傷みを訴えてきた。


 …ごめんね、不可抗力だったんだよ。だからもう少し抑えてくれると嬉しいな。


 自分のお尻に濡れた手を当てた。

 少し痛みが引いた気がしてほっと息を吐く。

 最後に鏡を見て、大体いつも通りの私が居る事を確認してからトイレを出た。


 フロアに戻ると、先程までの怒声はすっかり止んでいた。

 首を傾げながら更衣室に戻る。


「藤宮さん!良かったー…。帰っちゃったのかと思ったよ」


 更衣室には店長が居て、声を掛けてきた。


「すいません…。トイレに行っていて」

「いやいや、こちらこそごめん。藤宮さんが謝る事は何も無いんだよ」


 昨日と同じ言葉を言って困りきってる店長を見て、こんな時なのに少しおかしくなってくる。


「店長、昨日から謝ってばっかりですね」

「いやぁ、我ながら不甲斐ない。普段はここまで酷くは無いのだけど…。本当にごめんね」

「そんなに謝らなくて良いですよ。お店の方は大丈夫なんですか?」

「ああ、あの客は帰ったよ。多分もう店にも来ないと思う」

「えっと…ボコボコに殴って分からせた…んですか?」


 私の返答に店長は苦笑する。


「いや、確かに従業員が少し手を出てしまった事は事実だけど、ちゃんと穏便に解決したよ」


 …少し?

 私は首を傾げてから尋ねる。


「あの状況から穏便に…ていうのが信じられないんですけど、どんな方法を取ったんですか?」


 そう言うと、店長は穏やかに微笑んだ。


「名刺交換キャンペーンを良くやっててね。あの人達の名刺も過去に貰ってたんだ。それで、彼らの会社名と監視カメラが有る事をお伝えしたら、大人しく帰ってくれたよ」


 ほう、と感嘆のため息を吐く。

 不甲斐ないどころの話ではない。


「…凄い、ですね」

「かなり特徴的なお客さんで、しかも近くに新しく出来た消費者金融の会社だったから覚えてたんだ」


 …働く女性って凄いんだなぁ。


 母とは違いすぎて素直に尊敬してしまう。


「あの…助けに入ってくれた方は、無事でしょうか?」

「あー…」


 店長は再び顔を曇らせて、頭の後ろを掻いた。


「無事…ではないかなぁ。何発か殴られてたみたいだし…。ああでも、救急車とかのレベルじゃないよ!本人は良くあることですって笑って帰ったし」


 私の顔が沈んだのを見て慌てたのか、店長は後半を早口で話した。


「お店の入口で案内してる人、ですよね?」


 目を閉じていたため顔は見れなかったが、あの低く迫力のある声は聞き覚えがあった。


「ああ、うんそうそう。彼はお客さんの受け良いから入り口担当にしてるね」


 …やっぱり。でも、不良なのかな。


「ええっと、この後はどうする?予約結構入ってるし、出来たらホールに戻ってくれると嬉しいのだけど…」

「やります。あ、でも、終わりの時間になったら、少しだけお話させて貰っても良いですか?」


 どうせ早く抜けても、無為に時間を過ごす事しか出来ない。

 それなら私を必要としてくれる場所で働くほうが何倍も良かった。


「22時って事だよね。うん、その頃は余裕が出来てるから大丈夫だよ」

「ありがとうございます。ではホールに戻ります」

「こちらこそありがとう、よろしくね」

「はい」




「どうもー」

「ありがとうございましたー!」


 会計を済ませてからレジを出る。

 最寄りのスーパーは20時で閉まってしまうため、今日はサンロードの出口近くある24時間営業のスーパーに寄る事にした。


「よいっしょ…」


 20%オフといういつもより高めの弁当を3つほど買って家路につく。


 少し歩くと前方に深い緑が現れた。住宅街の真ん中にある大きな公園だ。

 公園の隣には細い砂利道があり…その先に女子達が言っていた廃屋が見えた。


 視線を遠くに飛ばして廃屋を観察する。

 トタンの屋根は半分ほど抜け落ちていたが、外壁や窓には大きな異常があるようには思えない。


 …普通に誰かが暮らしてるだけじゃないのかな。


 そんな事を考えながら、更に道を進む。

 むしろ私が怖いのは、この大きな自然公園の方だ。


 フェンス代わりの厚い垣根が道路標識を飲み込むように葉を伸ばしており、その奥には見上げるほど高い木々が生えている。

 公園中には街灯が設置されて無いのか、木々の向こうは深い闇に覆われていた。


 公園を通り過ぎると、そこには私が良く行く図書館がある。

 充電やwifiなど設備は充実しているのだが、臭いが籠もりやすいのと夏は冷房が控えめなの難点だ。


「ふぅ…」


 更に10分ほど歩いて、ようやくマンションに辿り着いた。

 重い木製の扉を開き、エントランスに入る。

 インターホンに鍵を差し込んで、正面玄関の自動ドアを開く。

 ロビーを抜けてエレベーターまで行き上昇ボタンを押すと、すぐに扉が開いた。


 暗黙のルールというやつで、エレベーターは殆どの場合1階まで戻されている。

 私もエレベーターを降りる時に1のボタンを押した。


 玄関扉を開けると、昨日と同様に家の中は真っ暗だった。

 音を立てないように廊下を歩き、冷凍庫に弁当を入れてから洗面所に向かう。


 チャプン…


 浴槽に浸かってからスマホを触る。


『ただいま、今帰ったよ』

『おかえりぃ、大分遅かったね』


 そう言われて時刻を確認すると、既に23時を廻っていた。


『うんうん、バイト終わってから化粧の話を店長にしてて』

『おお、どだった?』

『それがね、なんと大丈夫って言われたわ』

『え、マジ?』

『うん、今日もトラブルが有ったせいかな…。その対策ですって言ったらオッケーだった』


 他にも髪が明るくて化粧が濃い従業員は居るし、客を殴る従業員より何倍もマシと店長に笑いながら言われたのだ。

 私は、あはは…と乾いた笑いしか返すことが出来なかった。


『連日トラブルなんて大変だねー…。バ先変えたらー?』

『うーん、客層がちょっと悪い感じなんだけど、働いている人は良い人ばかりなのよね』


 …それにまだ喧嘩っ早い店員さんにお礼言えてないし。


『あー、それはちょい辞めにくいね』

『うんうん』

『まあでも、ギャグで用意したんだけど、役に立つようなら良かった!』

『やっぱり、面白半分だったのね』

『ほら、半分は優しさだから』

『ギャグと優しさで出来てるなら、効用はゼロじゃないの…』

『まさに冗談から駒ってやつね』

『もう、全然上手いこと言えてないわ。まあでも、次のバイト行く時は円香の動画見ながら化粧してみる』

『うんうん、また結果は教えてー』

『色々ありがとね』

『ノンノン、お気になさらず』


 風呂蓋の上にスマホを置いて、ふうーと長く息を吐く。

 天井を見上げて、助けてくれた店員さんの声を思い出す。


 未だに顔が見れてないのよねー…。


 深く息を吸って右手で鼻を塞いでから、後頭部から浴槽に潜り込む。そのまま足を高く上げ、後頭部を浴槽の底につけた。

 顔を振って耳から空気を追い出すと、目を開けてゆらゆらと揺れる長い髪を眺めた。


 …そろそろ切らないとなぁ。


 ぶくぶくとあぶくを吐き出す。

 昔は空気を生命の源とみなす説があったらしい。

 人の魂はそれすなわち空気であり、呼吸によって他者の魂を取り込み、代わりに自己の魂を吐き出す。

 そうして自己と他者は深く結び付いていく。


 …もし今意識を失ったら楽に死ねるのかな。


 風呂場で死ぬ人は交通事故よりも多いらしい。お父さんも浴槽で意識を失って溺死した。

 死んだら私の魂は全て解き放たれて他者に取り込まれるのだろうか。


 ブブブ


 風呂の蓋が小刻みに揺れた。

 現代を生きる私と他者を結びつけているのは空気ではなく、電磁波のようだ。

 水面から顔を出してスマホを手に取る。


『うん、ありがとう。返事遅くなってごめんね』


 それは昨夜以来のマヤからのラインだった。

 急用があるから学校を休むと言ったマヤに、無理しないでと今朝に送っていた事を思い出す。


『気にしないで。それより、大丈夫?』


 暫く間を置いてからメッセージが返ってくる。


『大丈夫』


 無味乾燥な文字列に、マヤの感情が垣間見えた気がした。


『明日は学校来れるの?』

『うん』

『今日色んな事があったの。沢山マヤとお話したい』

『楽しみ』


 何故か目頭が熱くなって天井を向く。

 マヤに聞きたいことが沢山ある。

 学校を休むほどの急用とは何なのか。そんな用事がなぜ月に何度もあるのか。

 そして次の日はいつも辛そうな顔をするのはなぜなのか。しかし…


『明日また学校でね』


 それだけを送って、私はラインを閉じた。

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