2024年4月23日(火)

「という事があったのよ」


 昼休み、弁当を食べながらマヤに昨日の出来事を話す。


「バイトの後だったから、家に着いた頃には足がヘトヘトだったわ」


 そう言ってから、固い白米を口に放り込む。


「マヤは夜に吉祥寺駅行くことある?」


 マヤはソーセージを少し持ち上げた状態で固まり、少ししてから小さく首を振った。


「どんな人?」


 ソーセージを弁当箱に降ろしてから、呟くようにマヤが言う。


「うん、女の子のこと?」


 マヤがコクリと頷く。


「うーん。黒のサイドツインで、身長は私より小さい…多分160くらいかな?可愛い子だったけど、韓国アイドルみたいに白く塗りすぎて怖かったかな」


 ハンバーグを箸で割りながら、記憶を掘り起こしていく。


「一番変だったのは服ね。赤と黒で、フリルいっぱいな感じだった」


 深夜の商店街を通るような格好にはとても思えない。

 そう、まるで昔に流行っていたバンドのような…。


「今夜もバイト?」


 マヤの問いに思考を中断させる。


「うん。また会ったらどうしよう」


 そう言って、ハンバーグの下に敷かれていたパスタをまとめて口に放り込んだ。


「マヤは?」


 暫く口をもぐもぐ動かしていたマヤは、水筒のお茶を一口飲んでから口を開いた。


「予備校」


 余り聞きたくない名前だ。

 次の受験まで、たった3年しか無いのを思い出す。


「受験終わったばっかりなのに、大変ね」


 マヤはからあげを齧りながら、コクリと頷いた。




「いらっしゃいませー!」


 店の入り口では、今日も店員さんが低い声でお客さんを迎えていた。


「おまたせしました」


 飲み物を運んだ先に居たのは、男性ばかり6人のグループだった。


「姉ちゃん、新人さんか?」


 50代くらいの中年太りの男性が声をかけてくる。

 脂ぎった視線が私の胸元を凝視していて、かなり気持ちが悪い。


「そうですが…」


 不快な感情を何とか表に出さないようにして答える。


「えらい別嬪さんやなぁ、学生さんか?」

「はぁ…」


 グラスをテーブルに置き、「ごゆっくりどうぞ」と言って踵を返して歩き出す。


「ふぅ…」


 十分離れたところで大きくため息をつく。

 私の胸は特筆する大きさではなく、着ている服も無地の黒いTシャツだ。

 それに身長も女性にしては高いという事もあって、男性の興味は引く事は殆どない。


 …そう思っていたのだけど。


 間もなく先程のテーブルから再び注文が入った。

 数分無視をしていたが、他の店員さんが運んでくれる気配はない。

 どうやら、今日の飲み物の配膳は私だけが担当らしい。


 …仕方ない。


 一つため息をつくと、私は先程の男性グループの席に向かった。


「おまたせしました」


 トレーをテーブルの端に置いて、注文者を確認しながら飲み物を置いていく。


「白鶴のお客様」

「俺や」


 先程の男性が声を挙げる。

 私はその前に小さなグラスと徳利を置いた。


「ごゆっくりどうぞ」


 そう言って席を離れようとした時、男性から声が掛けられた。


「姉ちゃん、酌してくれや」


 何を言われているか一瞬理解が出来なかった。

 男性を見ると左手でグラスを揺らしている。

 どうやら、私に酒を注いでほしいらしい。


「はよせんかい」


 私が固まっているのをじれたのか、男性が呆れたような喋り口で催促をする。

 視線を動かして他の男性客を見ると、皆ニヤニヤと笑って私を見ていた。


 …気持ち悪い。


 6人の中年男性の無遠慮な視線に急かされて、私は仕方なくテーブルの徳利に手を伸ばす。

 そして、徳利を持とうとした瞬間…


 ガシッ。


 その手首を、肉厚で毛深い手に乱暴に掴まれた。

 肌を通して、男性のぬるりとした汗と妙に高い体温が伝わってくる。


「っ!」


 私が耐えられたのはそこまでだった。

 乱暴に手を振りほどいて、男性から離れる。


 バシャ


「何すんねや!」


 徳利が傾き、男性の腕に中身が降りかかる。

 しかし、最早一寸たりともこの場所に居る事は耐えれなかった。

 体を反転させてその場から逃げ出す。


「おい、待てや!」


 背中に怒鳴り声を浴びながら、廊下を駆け抜ける。

 そしてキッチン横にある更衣室に飛び込んだ。


 心臓が大きく鳴動し、吐き気と目眩で全身から力が抜ける。

 たまらず隅に置いてある長椅子に倒れ込むようにもたれかかった。


「っ!」


 その拍子に額を椅子の背もたれにぶつけてしまう。

 鈍い痛みに、殆ど呼吸をしていなかった事に気づいた。

 慌てて横隔膜を広げて息を吸い込んだ。


 …いろいろと、やばい。




 コンコン


「…あー、藤宮さん、大丈夫?」


 幾分体調がマシになった頃、店長が更衣室に入ってきた。

 店長は、40歳前後の疲れた顔をした女性だった。


「これオレンジジュース。もし良かったら…。あ、違う飲み物が良かったら言ってくれたら持ってくるよ」


 そう言って、店長が橙色の液体が入ったグラスを私に差し出した。


「…いえ、ありがとうございます」


 立ち上ってグラスを受け取り、一口飲む。

 その液体からはネーブルでも赤いオレンジでもない、私のよく知る甘い柑橘の味がした。


「…ええっと、大丈夫?」


 私が一息つくのを待ってから、おずおずと店長が口を開いた。


「…はい、すいません」


 そう言って頭を下げる。


「いや、藤宮さんが謝る事はないよ。変なお客さんの相手させちゃってごめんね」


 店長が疲れた顔に苦笑いを浮かべる。


「…いえ、こちらこそ」


 何と返答して良いかわからず、我ながら訳わからない答えを返してしまう。


「ここで暫く休んだら、今日は帰っていいよ」


 気遣わしげに話す店長に、私は再び頭を下げた。


「…分かりました。すいません」

「ううん。明日は来れそう?」

「…はい、行ける…と思います」


 そう言って、曖昧にうなずく。

 正直、もう辞めたいとしか思わなかったが、そういう訳にもいかない。


「うん、じゃあ私は行くけど、何かあったらラインして。あ、ジュースは置いといてね」

「分かりました」




 時刻はまだ19時を廻った所で、サンロードは多くの人で賑わっていた。

 この時間に帰る事はできないので、サンロード終わり際にあるラウンドワンに向かう。

 幸い私は早生まれで16歳になっているので、午後6時以降でも咎められる事はない。


 ウィーン


 自動ドアを抜けると、幾つものUFOキャッチャーが並んでいた。

 ぬいぐるみやフィギュアなどを横目に、下に流れるエスカレーターに乗る。

 すると、すぐに足元から激しい騒音が聞こえてきた。


 エスカレーターを降りて、所狭しと並べられた音ゲーの間を抜けていく。

 フロアの端に設置されたテーブルに着くと、伸びた端子をスマホに繋いだ。


 至る所から発した音楽がドロドロに混ざりあい、フロア全体を強烈な喧騒に包んでいる。

 フロアを見渡すと、鍵盤を叩く人も台上で踊る人も、皆私とそう変わらない年齢に見えた。

 間違っても中年太りの50代男性は居ない。


 型落ちのスマホからラインを幾つか返信する。

 そして、鞄から文庫本を取り出した。




 30分ほど経ったろうか、肩がぽんと叩かれた。


「はろはろー!」

「え、円香?」


 後ろを向くと、そこにはクラスメイトの雲野円香が立っていた。


「えへへ、来ちゃった!」

「もう…驚いたわ」


 クスクスと笑う円香の肩を軽く押す。


「あーしが来て嬉しいでしょ?」


 円香が得意げな顔をする。


「ふふ、それはそうね」


 自分の口から出た声が思いの外に弾んでいる事に少し驚いた。


「カラオケ行ってたんじゃないの?」

「うんうん。でも、琴音が居るって言うから抜けてきた」


 思わず、ええ…と声を漏らす。


「大丈夫なの?」

「問題ないよー。あ、でも一つだけ」


 そう言って、円香が私の肩を抱き寄せた。


「っえ?」

「こっち見て」


 パシリとフラッシュが焚かれる。


「お、かーわいい」

「もう…」


 呆れつつも円香が差し出すスマホを見る。

 そこに写っていたのは驚いている私とぴったりと顔を寄せる円香。

 私の肩に回された円香の手は、横ピースで私の右目を半分覆っていた。


 アプリが盛ってるのは有るのだが、なんというかこう…そう、青春という物を感じさせる写真に思える。


「へぇ…。センス有るわね」

「えへへ、でしょ?」

「でも、どうして?」

「さっきのメンツに送るー」


 そう言うと円香は小さくイニシャルがデコられたスマホをポチポチと操作し始めた。


「送ったっ!」


 円香が私にスマホの画面を差し出す。

 そこには『私の親友!』という文章と共に先程撮った写真が載っていた。


 恥ずかしげもなく、良くそんな単語を書けるなと思う。

 よく見ると既読という文字の横に、13という数字が付いていた。


「えっと、これ何かのグループ?」

「部活だよ。吹奏楽部」

「…もしかして、部活のカラオケだったの?」

「そそ、懇親会だって」


 円香の言葉に少し目眩を感じる。

 新入生懇親会を抜けるなんて、私にはとても考えられない事だった。


「問題ないの?」

「大丈夫だよー。ほら」


 そう促されて円香のスマホを見ると、『楽しそう!』『親友さんによろしくね』『今度その子紹介して』なんてメッセージが幾つも並んでいた。

 円香は何かしら打ち込んでからスマホを鞄に放り込む。


「ね、大丈夫でしょ?」

「…そうみたいね」


 そう言うと、円香はニヤリと口角を釣り上げて意地悪そうに笑った。


「そんな事より何があったか話してよ、し・ん・ゆ・う!」

「ばっかじゃないの。…でも、ありがと」




 私達はラウワンを出て駅の方に戻ると、コーヒーチェーン店に入った。

 美味しそうなパンの匂いが空の胃袋を刺激するが、手元不如意なのでアメリカンのSを注文する。


 3階の窓際の席に座ると、円香が待ちかねたように何があったかを聞いてくる。


「なるほろー…」


 一通り今日の出来事を話し終わると、アイスティーのストローを咥えながら円香が呟く。


「うん?」

「いや、バイトってなかなか大変だなぁと思って。時給1,200円だっけ?」


 コクリとうなずく。


「それくらいの問題、自分で処理しろって事じゃない?」

「…そうよね」


 コトンと円香がグラスをテーブルに置いた。


「何でバイトしてんの?」

「…マックとかファミレスと比べて時給が良かったのと、学校の人が来ないと思ったから、かな」

「ん、内緒にしときたい感じ?」

「絶対に隠したいという訳でもないけれど、一応学則だと禁止になってるから」

「あーね」


 他にもバイトやってる子は居るようだが、隠しておくに越したことはない。


「じゃなくてさ。そもそものバイト理由って何?」


 円香の言葉に答えに窮す。

 母に強制されているとは言いたくなかった。


「…お小遣い少ないから」


 嘘ではない。もっとも、バイトをしたところで自分の懐に入る事はないのだが。


「なるほどねぇ…」


 円香は気だるげに相槌を打つ。


「まあ分かったよ。とにかく、バイトは続けていくつもりなのね」

「…うん」


 そう言って小さく頷く。


「うーーん…」


 円香が顎に手をやって唸り声をあげる。


「要はさぁ。おっさんのウザ絡みが消えれば良いんだよね」


 こくりと頷く。


「あーし、バッチリな方法思いついちゃった!」


 そう言って円香が意地悪そうに笑う。


「ええ、ホント?」

「うんうん、パーペキなやつ!」


 小学校の頃から円香は行動力がとても高かった。

 無鉄砲、行き当たりばったりとすら言えるかもしれない。


「どんな方法なの?」

「明日学校で話すよ。ちょっと準備が要るからさ」


 しかし、彼女と一緒に居るのはとにかく楽しかった。

 今回は一体どんな奇怪な事を思いついたのだろうか。


「…気になるわ」


 不安半分期待半分、でも何よりも…。


「ねえ、円香」

「んぅ?」

「今日は来てくれてありがとね」

「もうっ…そんなの、当たり前でしょ」


 そう言って円香は視線を逸らした。


「ふふ」


 先ほどまでの憂鬱な気分は、すっかり晴れていた。




「こんな時間までごめんね」

「いやいや、あーしが引き止めただけだから」


 円香が朗らかに答える。

 時刻は既に22時を廻っていた。喫茶店で2時間近くも話していた事になる。

 円香の家は門限が無いとの事だが流石に心配になる時間だ。


「ほんとに家まで送っていかなくてい?」


 円香が心配そうな口調で私に尋ねる。

 どうやら思う事は同じようだ。


「大丈夫よ。今度は私が円香を駅まで送らなきゃいけなくなるわ」


 そう笑って返す。


「あーしはほら、何か来ても撃退出来るからっ!」


 そう嘯く円香を、「はいはい」と言いながら改札に押しやる。


「今日は本当にありがとう。また明日ね」


 尚も心配そうな顔の円香に小さくを手を振る。


「わかった。じゃあまた明日」


 そう言うと、円香は大きく手を振って改札を抜けていった。




 駅を出て辺りに首を巡らす。

 人並みや出店などは昨夜と同じ様相だ。

 昨日の少女は何処にも見当たらない。

 違う道で帰る事も考えたが、その道が安全の確証があるでもなし、かなり遠回りにもなるので断念した。


 時折後ろを確認しながらサンロードを歩き、やがて昨夜に少女と出逢った信号まで辿りつく。

 今日は歩く速度を途中から調整したので、殆ど待つこと無く信号を渡ることが出来た。

 そのままラウワンの前を通り過ぎて、サンロード出口まで何事もなく到着する。


 …流石に2日連続であんなのに遭遇する事は無い、か。


 少し拍子抜けした気持ちで信号待ちをしていると、鞄に入れたスマホがぶるぶると震えた。


『無事に帰れそうー?』


 円香からのラインだった。

 なんか彼氏みたいね、と文字を入れてすぐに消す。


『今サンロード抜けたとこ。今日は大丈夫そう』

『それなら良かった!じゃあまた明日学校でね』

『うん、また明日』


 カッコーの声が、信号が青になった事を伝える。

 私はスマホを鞄に仕舞うと足を踏み出した。




 カチャ…


 玄関扉を静かに開ける。

 まっすぐに伸びた廊下の先に目をやるも、明かりは一つも点いていなかった。


 鞄からスマホを取り出して、足元を照らしながら靴を脱ぐ。

 廊下を静かに進み左側の扉を開いて、カーディガンと鞄を床に置く。

 そして、扉を静かに閉めて更に廊下の奥に向かった。


 引き戸をゆっくり開いて洗面所に入る。

 Tシャツを脱いで黒のストレッチパンツと合わせて足元に落とす。

 飾り気のないブラを外しショーツをおろすと脱いだ服と一緒に洗濯機に放り込み、洗剤を適当に入れてスイッチを押した。

 ぴっという音と共に洗濯機が動き出す。


「っ…」


 体を固くして耳をそばだてる。

 しかし、洗濯機に水が流れていく以外の音は聞こえない。


 ほっと息をついて横を向く。

 洗面台の上にある大きな鏡が、肩を縮こまらせる私を映していた。


 目を瞑り小さく首を振る。

 スマホを持って浴室に入ると、追い焚きボタンを押してから浴槽に浸かった。


「ふぅー…」


 扉を何枚か挟んだおかげか、もしくは温いお湯に全身を浸したからか、体の緊張が徐々に解れていく。

 ラインを開き、円香とマヤにメッセージを送る。

 すぐに既読マークが付いて返事が来た。


「ふふっ」


 小さく笑いが漏れる。

 他愛ない、生産性もない、たった2人しかいない友人とのやり取り。

 その時間が私にとっては、何もよりも大切だった。




 30分ほど浴槽に浸かった後、お湯を抜いてから全身を洗う。

 浴槽を掃除してから浴室を出ると、洗濯は終わっていた。


 バスタオルで髪と体を拭いて、棚から取り出した下着を着る。

 そして洗面台に置いてあるドライヤーを少しの間見つめる。


 …大丈夫、よね。


 スイッチを入れると、ごーっという駆動音と共にドライヤーが熱風を吐き出す。

 私はその温風を、背中まで伸ばした髪に素早く当てていった。


 ある程度髪が乾いたところで、ドライヤーを切って洗濯機に向かう。

 洗濯物を洗濯カゴに入れ、最後にスマホをその上に置いて洗面所の扉を開いた。


 目の前の廊下に、母が顔を怒らせて立っていた。


「ひぅ…」


 視界に母の手が振り上がるのが映る。


「ご、ごめ…」


 パン!


 頭を庇った左腕に鈍い衝撃が走る。


「いま何時だと思ってんだよ!」


 爆発するように母が怒鳴った。


「…ご、ごめんなさい」


 喉の奥から、何とか声を絞り出す。


「こんな夜更けに迷惑だろうがぁ!」


 伏せた頭の上から、金切り声が浴びせられる。


「…ごめんなさい」

「っち、真由はどんな教育してんだよ!」


 吐き捨てるような母の台詞に、肩がピクリと跳ねる。

 零れそうになった言葉を飲み込み、表情を見られないように顔を更に伏せた。


 バシン!


 強烈な平手打ちが後頭部にあたる。


「なんとか言えよ!」

「っ…、ごめんなさい」

「良いかぁ…もう二度と夜中に音立てんなよ!」


 そう言うと、荒い足音を立てて母が廊下を歩いていく。


 バタン!


 扉の閉まる大きな音に体が竦む。


 その場には煙草とアルコールのすえた匂いがいつまでも残っていた。




 ブブブ


 スマホが揺れる音が聞こえる。


 どれくらい時間が経ったろうか。

 洗濯機の前で呆然と立ち尽くしていた私は、長く長く息を吐いてから顔を上げた。


 お父さんが死んでから2年、明らかに精神が摩耗しているのを感じる。


 首を振ってから洗濯かごに手を伸ばす。


『ねね、あの本読んだ?』


 円香からのラインだった。


『うん、読んだよ。面白かった』


 そう返してから洗濯かごを掴む。

 時刻は既に0時を廻っていた。


『へぇ、どんな感じ?』


 そろそろと自分の部屋に戻って洋服棚からパジャマを取り出す。

 パジャマを羽織る動作すらしんどい。

 全身が疲れ果てていた。

 床に敷かれた布団の誘惑を振り切って、再び部屋を出る。


『それはね…』


 廊下の一番奥まで進み、扉代わりの暖簾をくぐり抜けてリビングに入る。

 リビングの電気をつけてから窓を開き、ベランダに出た。

 暖かくなってきたとはいえ、流石にこの時間はかなり冷える。


 スマホを洗濯かごに置いて大きく息を吐く。

 円香に弱いところを見せる訳にはいかなかった。




 洗濯物を干していると、突然テレビの音がした。

 窓の奥を見ると、いつの間にか母がリビングのソファに座っている。


 …これじゃ戻れないな。


 誰かと通話しているのか、テレビに混じって母の余所行きの声が聞こえてくる。

 食器を引っ掻いたような蓮っ葉な声が、鼓膜を通り脳に次々と刺さる。

 ストレスの塊が吐き出されるのを感じ、私はしゃがみ込んで耳をふさいだ。


 その時、洗濯カゴに置いたスマホが小さく揺れるのが目に入った。


 反射的に手を伸ばす。

 マヤからラインが来ていた。


『急用が入ったから明日は学校行けない』


 素早く指を動かす。


『そう、なんだ』


 送信ボタンを押してから、指を宙で迷わせる。

 そして、更に指を動かした。


『何か有ったら、いつでも相談してね』


 違う、相談したいのは私の方だ。

 この黒い感情を何もかもぶち撒けたい。

 そして円香とマヤから嫌われたい。

 そうすれば、このどうしようもない人生から降りられる。


 空を見上げると十三夜の月が中天に懸り、広い闇夜の中で1人孤独に光っていた。

 ふらふらとベランダの柵に近づく。

 首を伸ばして下を覗き込むと、そこには街灯に照らされて幾つもの植木がつやつやした葉を光らせていた。


 背後から響く甲高い嗤い声が更に大きくなる。

 スマホを洗濯かごに放ると、私は再びしゃがみ込んで両手で耳を塞いだ。




 どれほどベランダの白い壁を見てただろうか。

 背後の電気が消えた。

 恐る恐る耳から手を離すと、母の声は聞こえなくなっていた。


 洗濯かごの上のスマホを開くと、マヤからメッセージが帰ってきていた。


『うん、ありがとう』


 湿った体がパジャマ越しに深夜の外気を吸い込み、震えるほどに寒くなっていた。

 孤独な月をもう一度だけ見つめて、私は洗濯物を干す作業に戻った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る