この幻影の世界に魂を狩る

一条行弘

2024年4月22日(月)

「いらっしゃいませー!」


 低い声が店に響き渡る。

 声の方に視線を向けると、若い男性店員がお客さんを迎えていた。

 迫力の有る声だなぁと思いつつキッチンに入る。


 今日からのアルバイトは、駅前の居酒屋チェーン店だった。

 店長からは暫く飲み物だけ運ぶように言われている。

 ドリンカーから、トレーにグラスと注文紙を載せてキッチンを出る。


「おまたせしました」


 客席に着くと、若い男女が2人ずつ分かれて座っていた。

 生ビールが2つとファジーネーブルとカシスオレンジと注文紙には記載してある。


 …オレンジは良い、ネーブルって何だろう?


「生ビールのお客様」


 返事をした二人の若い男性の前に小麦色のグラスを置く。

 残ったグラスは2つ、それぞれ橙色と赤色の液体が入っている。


「カシスオレンジのお客様」


 オレンジなのだから、当然橙色…のはず。


 肩口に髪を揃えた若い女性が「はい!」と元気に手を挙げた。

 その女性の前に橙色の液体が入ったグラスを渡す。


「どうもー!」


 若い女性が元気よくグラスを受け取ってくれる。

 その様子に、内心でほっと息をつく。


「ファジーネーブルのお客様」


 そう言いながら、最後の女性のお客さんの前に赤色の液体が入ったグラスを置いた。

 その時、女性が小首を傾げるのが目に入った。


「店員さん」

「…はい」


 嫌な予感と共に、男性のお客さんに返事をする。


「ファジーネーブルとカシオレ逆ね」


 そう言って、男性がテーブルの上の橙色と赤色のグラスを交換した。


「…すいません」

「いや、慣れない内は仕方ないよ。頑張ってね」


 その言葉に、私は「ありがとうございます」と小さく返事をしてその場を離れた。


 恥ずかしさで顔が熱い。空になったトレーで顔に風を送り込みながら早足で歩く。

 ビール以外は注文しないでほしいな…なんて無茶な事を考えつつキッチンに戻ると、無情にもドリンカーにはカラフルな液体が幾つも並んでいた。


 周囲を見渡して、名称不明な液体の制作者を探す。

 しかし、店員さんは一人も見当たらなかった。


 …間違えると決まったわけじゃない。


 そう考えながら飲み物をトレーに載せていく。

 後は胸元に付けた研修中バッジが、お客さんの不興を和らげてくれる事を祈るしかない。

 私は、かき氷シロップのような液体をトレーに並べてキッチンを出た。


 結局、その回の正答率は60%だった。

 赤点じゃないから良いじゃない。そう言い訳をしながら重い足を運ぶ。

 前回と違ってお客さんにけっこう強くダメ出しされたので、私の心は早くも萎えていた。


 もし次に謎の液体があったら、商品名を確認するまで絶対に運ばない。

 そんなどうでもいい決心をしていると「いらっしゃいませー!」と、入口の方から低い重い声が響いてきた。

 その声に店員さんの存在を思い出した私は、少しだけやる気が戻っていくのを感じた。




「お先に失礼します」


 時刻は夜の22時。店の営業は続いているが、私の就業時間は終わりだ。

 更衣室で着替えを済ませ裏口から外に出る。

 結局あの後は頭を悩ませるような注文は無く、大きなミスも起きなかった。


「あついなぁ…」


 ぼやきながら帰途への道を歩く。季節は未だ春のはずだが、既に生暖かい空気が漂っている。

 平日の夜中にも関わらず、サンロードという広い商店街には様々な人が屯していた。

 演奏や露天、占いや、果てには将棋やオセロを指している人もいる。


 5分ほど歩くと、サンロードを2つに区切る信号が見えてきた。

 屯していた人々もこの信号まで来ると潮が引くように居なくなる。

 ポツポツと残る人影は、その殆どが帰宅の途につく社会人だろう。


 周囲は静かになっていたが、居酒屋の喧騒の中に居たせいか、未だにザワザワと耳の奥で音が鳴り続けていた。


 鞄からスマホを取り出して信号を待っていると、ふいに甘酸っぱいりんごの香りがした。

 ケーキ屋でも近くに有ったかと一瞬思ったが、こんな夜更けにお店が開いている訳がない。


 りんごの甘い香りは徐々に強くなり、ついにはお香のような重い匂いに変わった。

 スマホの画面から目を離し、首を巡らす。


「…っひぅ」


 瞬間、思わず声が漏れる。

 すぐ真後ろ…息が掛かるほど近くに少女が立っていた。


 少女の大きな黒い瞳と目が合う。

 私は弾かれたように顔を正面に戻した。


 左右に目配せすると、サラリーマンらしき男性が首を落としてスマホを見ていた。

 一瞬助けを請うか迷ってから正面の信号を確認する。

 しかし、信号は未だ青に変わる気配は無い。

 いっそ赤でも飛び出してしまおうかとも思ったが、今になって数台の車が流れだしていた。


 …逃げよう。


 すっ、と息を吸い込む。

 腐臭とまごうほどに強烈な甘い匂いが肺に入り込み、体が強い吐き気を訴える。

 瞳を一瞬閉じて気合を入れると、私は全速力で車道に沿って走り出した。




「はぁっはぁっ!」


 日頃の運動不足の祟ったのか、すぐに肩と腕が強烈な怠さを訴えてくる。

 その声に耐えきれなくなった私は、電柱に手を添えて立ち止まった。


 荒い息を吐きながら、恐る恐る後ろを見る。

 そこには、少女の影はなかった。

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