蹴り飛ばされる、小さな透明の箱
うたう
蹴り飛ばされる、小さな透明の箱
私は空っぽな箱だった。
無色透明で何者にも視認されることがなく、ただ蹴飛ばされるだけの物体だった。いや、物体であるのかも怪しい。私を蹴飛ばした者が怪訝に思って振り返ったりするところを見たことがない。私自身は確実に存在しているが、私には物質的な肉体のようなものはないのかもしれない。それでも蹴り飛ばされれば、私は無惨に転がるしかなかった。
ただ蹴飛ばされるのも悪くないのだ。手も足も持たない私が動くには、誰かの足を借りるしかなかった。蹴飛ばされた先には、見たことのない景色が広がっているのだ。
だがあるとき不運にも私は道路の端のほうにあった小さな亀裂にすっぽりとはまってしまったのだ。それ以降、もう誰も私を蹴ることはなかった。
どうやったら亀裂から出られるか、何年も悩んだ。が、答えは見つからなかった。それで言葉を欲した。無色透明の実体があるのかもわからない箱が言葉を得たところで、誰かと会話できるはずもない。しかし、言葉を得ることができれば、私は言葉を紡いで物語の世界へと旅立つことができるのだ。
たいていの言葉は他の言葉に言い換えることができる。例えば、「他」という言葉は「別」と言い換えることができるし、「言葉」は「単語」に置き換えることができる。
だから私は、通り過ぎる人から一語だけもらうことにした。一度もらったことのある人からはそれ以上奪わないというルールを決めた。それでも言い換えに乏しい単語というものはあるし、一般的ではない単語にしか言い換えられないものもある。「箱」という単語を奪われた人は「ボックス」だとか「容器」だとか言うしかなく、さぞや苦労しているだろうと思う。「花」だとか「月」だとか「山」だとか、そういった単語を奪ってしまった人には大変申し訳なく思っている。
だがおかげで私は未知の世界へと旅立てるようになった。
小さく空虚であった私の中に今、五万語ほどの単語が詰まっている。
私は満たされた箱である。無限の広がりを持っている。
蹴り飛ばされる、小さな透明の箱 うたう @kamatakamatari
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