第6話
青猫と名乗った奇妙な生き物はとことこと部屋の中央に進んだ。
「さて、話が長くなるのは私の悪い癖。よく主様にも叱られておりますれば。ここらでしっかり働くといきましょう。幸い、あなたはすでに迷子を帰したご様子で。ならば宝箱も? よろしい、よろしい。やはり実に優秀。いえ、ここで手間取る方も多いのですよ。記憶どころか認識さえおぼつかない方も中にはいらっしゃいます。まぁそういう方にこそ主様のバカでかいだけで雑なお声がけが効くのですが。迷子を帰し、落とし物を懐に収めるか箱に入れる、ここでのお仕事はそれだけと言ってしまえばそれだけでございます。いえ、それだけでは私のお仕事がなくなってしまいますね。無職は虚しいもの。世のため人のために日々転職をお祈りしておりますが、だからといって目の前のお仕事を投げ出す理由にはなりません。はい、それでは少々失礼」
またべらべらとくっちゃべっていた猫が、たん、と尻尾で灰色の床を叩いた。
「ほう、ほう。なるほど。一人を帰し、一人は去り、一人はもとから扉に手をかけていたと。初戦としては運が良かったような、そうでもないような、微妙なところですね。身につけていらっしゃるのは帰した一人のものですか。良いですね」
波紋が広がった、と思った。
音ほどはっきりしていない。そよ風に撫でられたほどの感覚もない。しかし、何かが広がった。
「宝箱に入れたものはさほど多くないようで。いえ、問題ございませんよ。朝もはよから散財するのはお大尽様だけに許された豪遊というもの。庶民である我々はなけなしの小遣いを費やして身の丈にあった夜遊びで満足しなければなりません」
この感覚は知っている。
呪文だ。迷宮の怪物や探索者が自身の外に働く呪文を使用したときの感覚。不可視の力が空間に満ち、包まれている。
迷宮の中、呪文は発見される。発見者だけが習得できる。他に教授することはできない。譲渡も貸与も不可能だ。少なくとも今のところは、それは個人に刻み込まれる。その効果は様々であり、単純に自身の肉体を強化するものもあれば、不可思議な減少を引き起こすものもある。
呪文を使う人間は言う。自身の肉体、技術、あるいは道具と一緒にしてはいけない。自然現象、災害のようなもの。それを呼び起こしている。最低限の操作法は用意されているが、油断すればたやすく呑み込まれかねない。異常な力。それが呪文だと。
警戒しなければならない。
だが、一体何を?
「ですが、いえ、やはりここは悩みどころですね。今現在貧しい方でも大志抱く俊英であれば瞬く間に見違えましょう。わずかな小銭を惜しんで大魚を逃す愚か者と呼ばれるやもしれません。ええ、私の裁量の範囲内ではありますが、多少のサービスもいたしましょう」
訝しむ間にも猫は話を続けている。何やら聞こえの良い言葉を並べ立てているが、おそらく似たようなことを常に口にしているのだろう。白々しく、上滑りしていく。
態度だけはうやうやしく、さも一大事であるかのようにゆったりと猫は続けた。
「改めまして、私の名は青猫。この迷宮で任されている仕事はあなたたち塵拾いの案内役。小間使いのようなものでございます。あなたたちが求めるものを全て提供するよう命じられております。ただ、まぁ、そのう。この世は全て交換で成り立っておりますれば、いささかの手間賃が必要となります。いえいえ、何も特別なことはございません。この部屋はあなたの領土。そこに迷い込んだものの応対と塵拾いがお仕事であり、そこに追加も変更もありえません。それ以外は全て自由。なんと素晴らしき言葉でございましょうか。しかし、自らを由とするには先立つものが際限なく費やされます。結論を申し上げますれば、箱に納めた塵が多ければ多いほど、私としましてもあなた方の望みを叶えやすくなるのです」
迂遠な物言いだった。
一方的で、詳しい説明もなく、相手に理解させようとする気がまるでない。それでもかまわないという意図が透けて見える。むしろ、十分に理解されることを望んでいないのかもしれない。
それでも、多少なりともわかることがある。
塵拾いとは、当然グールのことだろう。他の怪物たちを指すかどうかまではわからないが、何となくグールのみを言っている気がする。迷子は探索者か。迷宮の迷子とはまた安直だが、軽侮の念からなら納得もする。
脳裏に響いた声は言った。奪え、と。それとは関係なく自分の忌避感によって俺は探索者を撃退し、しかしその声に従って残された装備の一部を宝箱に入れた。
猫の言っていることはそれだろう。落とし物、塵。探索者から奪ったものを宝箱に入れれば入れるほど、やつから――迷宮から便宜を図られる、ということではないか。
では、便宜とは何か。
『何ができる?』
念話を青猫に向ける――意思を絞り出す。少しわかってきたが、まさに絞り出すという表現が正しい。俺の思考の中に小さな、本当に小さな穴が空いていて、そこにまとまった言葉を押し込み、なんとか外に放つような感覚だ。穴は一度無理に広げると反動か、しばらく閉じてしまう。このしばらくがどの程度かまだちゃんとわかっていない。
念話に習熟するとは、この穴を自在に開閉できるようになることなのだろう。
「なんでも、ですよ」
猫はまた、ニヤリと笑った。
「私に叶うことであれば。それは間違いありませんが、およそあなたが考えつくことは何でも叶えられましょう。対価ある限り」
く、く、と身体を揺らす。
「差し当たり、今この部屋で叶えられるのは……そうですね、二つあります。一つは、この部屋を二倍程度なら広くできましょう。さすがに今のままでは迷子をもてなすにも、ただ暮らすにも手狭でしょう。もしくは、忠実な使い魔を差し上げられます。我が身より小さく、そこらを歩き回る程度の力しか持たないものですが。この二つであれば十分叶えられますが」
……なるほど。
思ったとおり、それはこの迷宮で探索者を相手どるために有用なものだ。陣地の拡張と、頭数の補充。一貫して、こいつは俺に探索者と戦えと言っているのだ。
そうせざるをえないのだろう、ともわかってはいた。回避するために手は打つが、望み薄だ。
「――さて、どちらになさいます?」
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