第5話
「その前にお聞きしたいんですが、どうですこの身体? 結構いけてると思いませんか。猫という名前の動物らしいんですよ。この地ではもっぱら愛玩動物として見られているようで。始めの出現時に何匹か出くわしましてね、こりゃいいぞと思ってコピーさせてもらった次第で。ま、さすがにちょっといじくってますがね。とにもかくにも小さく機敏に動くのがいい。それにもし侵入者に見つかったとしても、彼らはこの身体に刃物を向けるのためらうんですよね。愛玩動物ここに極まれり。余裕のある社会って素晴らしい! まぁその余裕を我々が破壊したわけですが、その分リターンもあったようですしイーブンといきましょう。……いってくれません? ダメかも? そりゃ仕方ない。仕方ないので目と耳を塞ぐしかありません。ええ、ええ。ここでは誰も彼も何もかも頼りとはなりません。光は届かず音も遠く、香りは偽り風は幻、運命さえも吹き溜まり、生命ばかりがポイ捨てに。ここは迷宮、灰塵楼閣。死しては帰れぬ後始末」
……何も言えなかった。
口自体がそもそも開いてくれないのだが、そうでなかったにしろ同じことだったろう。圧倒されていた。それだけ異様な光景だった。
突如として壁に現れた暗い穴から現れた青い猫がすらすらと人語を喋っている。日本語だ。猫の声帯がそのまま使われているとはとても思えない。猫型のラジオから妄言が垂れ流されていると言われたら信じてしまいそうだ。
『嘘だろう……』
「いいえ、本当です」
あっさりと想像は打ち砕かれた。そいつは流し目で俺を捉え、おかしそうに身体を揺らす。
「はっきりと意思が残っているご様子で。何がどれほどその仮面の奥に残されているかは存じ上げませんが、今このときを嘘と思いたくなるような頭の回転をなされているとはまことにご同情申し上げます。おかわいそうに。いっそ何もかもお忘れに、赤子のような素寒貧のおつむでいられた方がよほど幸せであったことでしょう。いえ真実、心の底から左様に思います。おわかりになられていらっしゃらないようですからしっかり釘を刺しておきますが、ここは地獄ではありません。ただの現実。生き損ないの揺り籠とでも申しましょうか。救いもなければ罰もなく、だらだらとした苦役があなたをお待ちしております」
何を言っているか、まるでわからない。
意味のあることを口にしているとも思わない。そいつはおどけた口調で、嘲るように、哀れむように、馴れ馴れしくただそれっぽい言葉を吐き出しているだけにしか聞こえない。
それでも、こいつは間違いなく何かを知っている。
明らかに迷宮側の、公式には確認されていない知的生物。
こいつから何かを引き出さねばならない。探索者であった俺としても、グールになってしまったこの状況からも聞きたいことは山ほどある。幸い、こいつはこちらの考えていることがわかるようだ。念話と言ったか。なら、聞き出してやる。
まず――お前は何者だ。
「……はて。今、何かおっしゃいましたか」
こてん、と猫の首が傾けられた。
「おそらくですが、念話をお試みになられたのでしょうか。微弱ながら感じるものがありました。なるほどなるほど、実に賢いお方だ。私が口にした念話という言葉からすぐにそこに行き着くとは。しかし、さすがに難しいでしょうな。念話に必要な口と耳をあなたは備えておられます。意思あるもの全てにその器官はあると言ってもよいでしょう。ですがたとえば赤子が生まれながらに聞く耳、語る口を持っているでしょうか。何、持っているかもしれない? そうですね、探せばいるかもしれません。産声代わりに母を口説き、涙の代わりに父を嘲笑うような新生児も、もしかすれば現実にいてくれるかもしれません。夢がありますねえ。しかし夢は夢のままに眠らせておきましょう。大多数の凡人が覚める浮き世の話です。みな親の言葉を聞き覚え、拙く真似て片言を口にするもの。念話も同じです。誰もが最初から自在に念じることは叶いません。そう、はじめにこんな言葉を聞いたのではありませんか? ――奪え、と」
今は聞こえない、頭の中に響いた命令を猫は口にした。
「味も色も飾りもない。ついでに品もなければへったくれもない。ただそれだけの言葉だったでしょう? ですがそうでもなければご理解いただけなかったはずです。いえ、あなたには届いたかもしれません。優秀な感受性をお持ちだ。あなたであればあの号令が複雑でも聞き取れたやも。しかし、ほとんどの子はいけません。二つ以上の意味はけして受け取れないでしょう。考える頭を持っていても。聞き慣れ、耳が育つまでは」
ほう、と猫はため息をついた。
「迷子を驚かせ、落とし物を箱に入れるよう指示するくらいが関の山。無論、それさえ叶えてくれれば十分ですが、それでは子らに報いることができません。ええ、ええ。労働には十分な報酬があって然るべきもの。無為の石積みとはいえ相応の飴は差し上げねばなりません。――そのために、私がいるのです」
不快な思いを抱えながら、俺は意思を絞り出すように一つの言葉を脳裏に浮かべ、放った。
『お前は、何者だ』
「おお、申し遅れました」
ニヤリ、と猫は人間のような笑みをその顔に浮かべた。
「わたくし、塵拾いの皆様の案内役を務めさせていただいております。今この地、この姿ではただ青猫と呼んでいただければ」
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