第2話
五年前、この世で初めて迷宮が確認された。
世界中に、同時に発生したのだ。まさに発生としか言いようがない突然の災害だった。その全てが都市部に現れた。建物から樹木、大地、当然そこに住んでいた人間までが巻き込まれる形で呑み込まれ、あとには広大な更地と、その中央に巨大な灰色の箱が残った。箱。大きさは地域によってまちまちだったが、六面体であることは共通していた。その巨大な六面体に触れると、誰もが迷宮の中に入れてしまう。そして大抵が内部の魔獣、防衛機構、あるいはグールに殺されて強制的に帰還することになる。発生当初、迷宮内部に取り込まれた人々もほとんどはすぐに殺され、帰還した。当然、どこの国でも危険視され、調査目的の人員以外迷宮に近寄らないよう徹底されたが、ある日潮目が変わった。
迷宮発生から一ヶ月、ある帰還者が現れた。迷宮発生に巻き込まれながらも一度も死に至ることなく、自力で外への帰還を果たしたもの。当然ニュースとなったが、少ないながら同様のことを成し遂げたものはそれまでもいた。一ヶ月という長期間の生存も相当に注目されたが、最大の問題はそこではなかった。彼女が持ち帰ったものこそ世界中の耳目を集めた。集めてしまった。
若返りの薬。
他にも即効性のある傷薬、現代の技術では再現不可能な道具、超常の力を宿した少女自身と、着目すべきところは山ほどにあった。それでも、世間の欲望を駆り立てたのは「いらないから」と彼女が国に提供した若返りの薬を自ら強く希望することで投与され、見事に往年の美貌を取り戻した老女優の姿だった。
以降、迷宮は危険視され、忌避されるものではなくなった。新たな資源、新たな技術の獲得、そして老いと死を遠ざけたいという人々の普遍的な欲望を叶えられるフロンティアとなった。
五年が経過した今もなお、人々の熱狂は衰えることなく、むしろ勢いを増し、際限なく大勢の探索者が迷宮に集い、偽りの死を捧げ続けている。
◇
『盾、ジャケット、ズボン、ブーツ、プロテクター……リュックの中には財布、それにスマホかよ。モバイルバッテリーまで。電波繋がらないのに持ち込んでどうするんだ』
強制帰還によって主人だけが急に消え去り、力なく地面に広がった装備を漁る。帰還の対象となるのはあくまで肉体であり、それに特殊な処置を施し肉体と同一性を得たインナー程度のものだ。どれだけ強く、使い慣れた道具であろうともその場に置き去りになる。仲間が回収してくれれば別だが、強制帰還に至る事態ではそのような余裕などない場合が多い。最後の希望でもあるが同時に、道具に頼る探索者の絶望となりえる。それが強制帰還だ。
一方で、置き去りにされた道具がそのままその場に残っていることは稀だ。そもそも迷宮の同じ場所に戻るには準備が必要であり、やはり緊急事態ではそんな余裕はないのが普通。諸条件をクリアして同じ場所に戻った数少ない事例においても、回収できた話は聞いたことがない。
このように、ほとんどグールに奪われていたからである。
『こんなもんでいいだろ』
残された装備をありがたく身にまとい、短剣を背中の鞘に納めて俺はうなずいた。倒した男は小柄だったが、ジャケットとズボンだけなら身につけられた。プロテクターも関節を保護するものは問題ない。リュックはひとまず身につけずにおく。
まさに何度となく対峙してきた、探索者界隈では「泥棒」と名高いグールの姿そのままだ。
あとはヘルメットと、財布と、スマートフォン。ヘルメットはグールの頭部に固定された仮面とかち合ってどうやっても上手いことかぶれない。財布は普通にいらない。身分証とか入ってるが大丈夫かこれ。
スマートフォンは……いずれ充電も切れるが、ロック画面でライトやカメラが使えるのは便利といえば便利。残すか、と思ったところで気づいた。
倒した探索者の、おそらく少年といっていい年齢の彼はもしかしたら迷宮配信者志望だったのかもしれない。半年前から迷宮探索資格が相当緩くなったのを契機に、迷宮内部の光景を撮影しネットに上げる探索者が増えたとは聞いていた。迷宮内部情報の公開も発見当初は厳しかったが徐々に制限を解いてきていた。その流れの一環と言えるだろう。
世間の流れの速さについていけてなかったのは薄々感じていたが、まさかこのような事態になってまで実感することになるとは。
『本当にどうなってるんだ……』
ため息代わりに内心でぼやく。すると、
――奪え。
また、頭の中で声が響いた。
奪っただろ、もう。
感触がまだこの手の中に残っている気がする。迷宮の中では何だって起きる。発見当初にはよく交わされた言葉であり、現在ではあまり聞かないが、それでもこの言葉の重みは消え失せていない。宝物を巡って揉め事が起きれば容易に刃傷沙汰が起きる。迷宮内部では損傷などないも同然だ。だが記憶は持ち越される。強制帰還が発生すれば損失も。内部での揉め事が外部にまで持ち出されると、取り返しのつかない結果になることもありうる。数少ないがいくつかそういう事例も知っている。表沙汰になっていないものはもっとあるだろう。
巻き込まれたこともある。襲われたことも、相手に損傷を負わせたことも。
だが、強制帰還に至る傷を……致命傷を負わせたことは初めてだった。
いい気分ではない。死んでいない、はずだ……自分がこのザマだから絶対にそうと言い切れないのが本当に嫌だ。これが外であったらと思うときっと吐いていただろう。その口さえ今は開かない。
『最悪だ』
強く思う。迷宮に潜ると決めたときと同じくらいの感情が全身を染め上げている。これは、最悪だ。
――奪え。
それでも声は止まない。一方通行であり、対話ではないのだろう。今まで自分が倒してきたグールもこの声に従って探索者たちに襲いかかってきたのだろうか。
奪え、奪え、奪え。
声が脳裏に反響し、意識がある一点に向かう。そう広くない部屋の中、いつの間にかそれはあった。見覚えのあるものだった。
全てが灰色の部屋の中に唯一、異質な赤銅色の物体がある。
宝箱だ。迷宮内部で稀に発見される、外ではありえない物が納められた箱。それが、いつの間にか部屋の片隅に出現していた。間違いなく、目覚めてすぐに見渡したときはなかった。少なくとも見えてはいなかった。
目が離せない。探索者の性として宝箱があれば必ず開けたくなるものだが、これは、違う。
身体が勝手に動く。ふらふらと宝箱に向かっていく。
手をかけると、それはあっさりと開いた。何も入っていない。おかしなことと思わない。当然のことだ。
入れるのはこれからだからだ。
手にしたヘルメット、財布を宝箱の中に入れる。閉める。するとすぐ、すうっと宝箱がその存在を薄めるのがわかった。灰色の中異彩を放っていた赤銅が、灰色に染められていく。色を失い、ついで厚みを失い、ふと気づけばそこには平坦な灰色の、つるりとした質感の床だけがあった。
満たされた感覚があった。
ほんのわずかな充足感。求めていたものを得た、そんな心地。仮面に口をふさがれたこの身が、実はしっかり飢えていたとようやく気づいたような。
『奪えって、そういうことか……?』
呆然とする。
脳内に響いていた声はいつの間にか止んでいる。これで正解ということだろう。
だとしたら、本当にろくでもない。
つい先ほど、迷宮のグールたちはこの声に従って探索者を襲ったのではないか、と考えた。それは正しかったのだろう。いや、もっと切実であったのかもしれない。本当に必要なことだからだ。
顔面を覆われたグールは普通には食事ができない。何か迷宮内特有の不思議パワーで稼働している不思議怪物だと思われていたのだが……そういうことなのか?
探索者を倒し、その装備を回収し不要なものを宝箱に捧げる。それによって活力を得られる。そんな生態だとでも?
そんなものに俺はなってしまったと……?
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