迷宮のエサ(仮)
雑木
第1話
――奪え。
声が聞こえた。
頭痛と吐き気と目まいと全身に及ぶしびれに襲われる中、その声だけはいやに鮮明だった。
奪え、奪え、奪え、と脳裏にこだましていく内、身体の不調が引いていく。消えたわけではないが、思考できるほどに回復する。
『何だってんだ』
心中でただ悪態をつく。全く状況を把握できていないが、良い状態ではないはず。それだけは想像がついた。
閉ざされていた目を開くと、灰色の床が見えた。横たわっている。重い身体をゆっくりと立ち上がらせる。ぐるりと見渡す。さほど代わり映えのしない光景だった。
そこは、灰色の部屋だ。
床も壁も天井も、つるりとした奇妙な質感の、よくわからない材質でできている。おそらく八畳程度の広さで、高さは三メートルほどか。がらんとしている。
窓はなかった。扉もない。確認できない。前方に通路があるにはある。ひと一人が十分に通れるほどの幅の通路が、十メートルほど続いている。
その先は、見えない。
暗く塗りつぶされている。ある地点から先が急に闇が降りている。見通すことができない……というより、通れない、気がする。近づきたくない。そこに意識を向けると、忌避感が生じるのだ。近寄るとまずい。立入禁止のマークが貼られ、実際に強制力を持たせている。そんな印象だった。
『俺の部屋じゃない』
ほとんど寝床でしかなかったが、自身の領域と感じていた場所ではなかった。馴染みのない場所だ。しかし、
『見覚えがある……』
幾度となく目にした光景だった。正確には、こちら側からはあまり経験ないが、反対側からであれば数えきれないくらいに。正確に同じ場所ではないのだろうが、知っている。
問題は、だから、なぜ自分がここにいるのかということだった。
周囲に向けていた目を、手に落とす。
灰色だった。床や壁と似たような質感の、およそ生き物とは思えないような色が肌一面に濃淡もなく塗りつぶされていた。それが自分の手だった。
呆然としながらも、すぐに手を顔にやる。
予想通り、つるりとした感触が返ってくる。凹凸がない。
目鼻が、骨格が形作るそれとは違い、なだらかな球面が顔を――頭部全体を覆っている。首で途切れたそれは、仮面と呼ぶべきものだろう。
知っている。
やはり何度となく、対峙したものだ。
『なぜ』
こんなことに、と声を出そうとした。しかし声は出なかった。のどはある。声帯もあるかもしれない。ただ口が開かない。舌も存在は感じられるが閉ざされた口の中、ぴたっと固定されている。
そうだ。そうだった。
やつらとはそういうものだった。
全身灰色。一様に仮面を被り、声も発さず、ただこちらを攻撃してくる存在。
グール、という呼び名が日本の探索者界隈では最も浸透している。
迷宮に巣食う怪物の中で最も数多く、最も異様なやつら――それに、自分がなっている。意味がわからなかった。
思考が混乱する。論理的な考えができない。
また床に身を投げ出してしまいたくなる。
――奪え。
声と、気配を同時に感じ取った。
自分の頭の中に響いた声に関しては、ひとまずいいものとする。気配は外にあるものだ。変わらずわかる。慣れた感覚だ。それに少し安堵する。
気配は通路の奥、闇の向こうから漂ってくるものだった。
『三人……軽いやつ、重いやつ、離れたやつ』
こちらをうかがっている。すでに発見されている。
誰だ、と思い、考えるまでもないと気づく。迷宮を徘徊するものなど決まっている。
グールか、魔獣か、それとも、
「なんだ、警戒して損した。グールが一匹、それも武器なしじゃあないか、こいつ」
「おい、だからって声出すなよ。……まぁ、マジでそうかもな。こんなまっさらな部屋もあるんだな」
「これじゃあ宝箱も期待出来なさそうだよな。骨折り損かよ」
「とりあえず倒してから考えようぜ。つーかこいつ、ここまで近づいて声出しても無反応かよ。気味悪い」
素人だ、と思った。
探索者なのは間違いない。頭部、胸部など、要所にプロテクターを装備し、遺物と思われる武器を手に、闇の中からどんどんこちらへ近づいてくる姿は自分の意志で迷宮へ訪れた人間のものだ。
ただ、どうにも素人くさい。防具を基本に忠実に身につけているのはいいとして、こなれている感じがしない。服に着られている状態だ。闇の中から姿を現したのは男が二人。長剣タイプの遺物を持った大柄なやつと、短剣と盾の遺物を持った小柄なやつ。どちらもそんな様子だから、ほぼ確実に新人だろう。その割にいい装備だから、裕福なのかもしれない。
まずい状況だった。
二人の男はすでに通路から部屋にまで入ってきている。間合いを計り、油断なくこちらを見据えている……わけではなく、足踏みしている。こちらを見ながら、時折もう片方に視線を送っている。お前がやれ、いやお前が、なんて声が聞こえてきそうなほど雄弁な仕草だ。丸腰のグール一匹相手に腰が引けている。
……ここまで不慣れであるのなら、それこそ今日初めてまともに探索しているのかもしれない。最後の一人が姿を現さないことも合わせて考えると、いわゆる教習だろうか。
これならばどうとでもできる。確信がある。
だからこそ、まずい状況だった。
『どうとでもしていいのか?』
今、自分はグールだ。どうしてか。変身か転生か。夢であってくれと願うが、だとしたら意識も感覚も鮮明にすぎる。思考を放棄してしまえば楽だろうがそれはできない。迷うのはいいが、捨てることは駄目だ。
現実であると考えたとき、自分は人間と戦って――殺して、いいのか?
「くそっ、突っ立ってる相手に何やってんだ俺らは」
「もういいよ。いっせーので行こうぜ」
「ああ」
いっせーの、と彼らが声を上げる。本当に雑すぎる。そんなでもやっていけると思えてしまうぐらい危機感のない姿に呆れと羨望が湧く。状況は待ってくれない。連携も何もない、ただ同時に刃が二方向から迫ってくる。
似たような光景を、つい最近、見た。
嫌だ、と理由もわからず思った。あれはもう嫌だ。
小柄な方に突進する。あえて盾に肩から体当たり。衝突する。さすがに倒れはしないがぐらつく。盾に隠れて背後に滑り込み、足を蹴飛ばしてやる。
「うあっ!?」
「後ろだ、気をつけろ!」
腕が伸びている。短剣を持った手だけが、どうぞとばかりに中空に差し出されていた。手首を打つと簡単に短剣を手放してくれたのですぐに受け取り、そのまま首を掻っ切った。おそらく防刃仕様の首まで覆うインナーをあっさりと切り裂いたのだから、やはりこの短剣、相当に物がいい。けれど感心している暇はない。
ぱっと跳んだのと、直前までいた地面がバン! と弾けたのはほとんど同時だった。
短剣を構え、残る大柄な男と対峙する。
「えっ、えっ、えっ」
そいつは状況を理解していないようだった。目を見開き、こちらと地面に倒れ首を切られた仲間を何度も見比べ、意味のない音を口からこぼしている。
自分と通路の間にその男が入るように調整し、それ以上には近寄らない。ただ短剣の切っ先をぴたりと向ける。
男はうろたえるばかりで、その足も震え始めた。
「退却だ。背を向けずにゆっくり戻ってこい」
と、声が通路の向こう、闇の中から聞こえた。女のものだ。声音は鋭く、それでいて淡々と必要とみなしたことだけを告げていた。
「で、でも――あいつが」
「もう死んでいる。反応が消失した。君たちは失敗したんだ。……運が悪かったな」
「死――う、嘘だ」
「別に嘘だと思うならそれでもいい。そいつと決着をつけてくれても私は構わない。ただ、彼だけでなく君の装備まで失うのは厳しいはずだ」
「……」
数秒ためらう様子を見せた後、大柄な男はゆっくりと後ずさり始めた。妨害はしない。ただ男を、その向こうの気配にひたすら注意を向ける。
男が闇の中に消えていく。気配が遠ざかり、完全に闇の向こうへと消える。その瞬間だった。
カッと光が閃いたと思うや、短剣に強い衝撃が走った。落とさなかったのはまぐれだ。短剣に当たったのも。銃タイプの遺物持ちなら去り際に一撃放り込んできそうだと思った。頭か心臓で迷い、とっさに頭の前に置いたから助かった。
「ちっ」
舌打ちが一つ聞こえ、直後、気配が消えた。
この部屋の入口と彼らの場所との接続が途絶えたのだろう。これで、ひとまずの脅威は過ぎ去った。
ため息をつきたい気分だったが、あいにく仮面に覆われた口はそれを許さない。せめて地面に倒れてやろうか、なんて思ったとき、しゅううう、という音が聞こえた。
見ると、部屋に残された死体が上げる音だった。
血も流れず、臭気もなく、ただ首を掻っ切られただけのその肉体が蒸発するように白い煙を上げている。いや、ように、ではない。まさに肉体そのものがゆっくりと薄煙とともに消えていっている。
やがて身につけていた装備だけがその場に残された。
何度となく目にした光景だった。エスケープ、リスポーン、死に戻り。俗称は多いが、一般的には単に強制帰還とだけ呼ばれている。探索者が致命傷となりうる損傷を負ったとき、その場から肉体が消え去り、迷宮の外に再び出現する。完全に無傷の肉体で。例外はない。なかった。
探索者は迷宮内部で死亡することはない。少なくとも迷宮が世に現れてから五年、死亡例は確認されていないのだ。迷宮内で死に至る損傷を負うと、迷宮外で蘇生する。それは、探索者にとっての常識だった。自身で経験したことはなかったが、他人のを見たことはある。もはや疑うべき事象ではなかった。
『……なら』
この記憶は、一体何だ。
思い出す。つい先ほど、刃を向けられた際に脳裏によぎった光景を。
振り上げられた異形の剣。仮面で顔を隠した男。迫りくる刃――そして、なにか大事なものをごっそり奪われた、極大の喪失感。
それが最後の記憶だった。意識の連続性はそこで絶たれている。断絶から目覚めたのは、今だ。
多分、つまり、俺は殺されたのだ。
死なないはずの迷宮で殺されたと思ったら、迷宮の怪物――グールになっていた。
『……何だってんだ』
動かない口を恨みながら、俺は心中で吐き捨てた。
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