第5話 水蓮流暗闘①

 部屋の中に一人の男がいた。

 光源は机の上の電灯のみ。その小さな灯りは机の上に置かれている文房具や紙の束、それに数枚の写真を黄色く照らしていた。


 男は一枚の写真を手に取り、舐め回すようにじっくり眺めた。

 写真に写っているのは一人の若い男だ。長い髪を後ろで束ね、どこか険しそうな目つきをしている。


 写真を手に持つ男の瞳に爛々と殺意が輝いた。


(お前に水蓮流は渡さん。水蓮流は俺のものだ)


 男は写真を机に再び置くと電灯を消した。

 暗闇と静寂が部屋を覆った。




 その日の夜、帝都中心部に位置するクロス区のある居酒屋で、常連客のラオル老人が同じ常連客の知人を相手に話をしていた。


「……旦那様が亡くなられてもう三年か。年を取ると時間の流れが一層早く感じる」


 酒の入ったグラスを置き、ラオルはしみじみとした調子で言った。


「まだ五十過ぎたくらいだったんだよなあ。死ぬには早すぎる」

「ああ、俺より二十も若かったのに死んじまった。俺の方が旦那様に看取られるだろうなって思ってたのに……」

「死ぬ一年くらい前から病状が悪化したって言ってたな。治せなかったのか?」

「医者は十分に手を尽くしてくれた。ブラウエル家の道楽者が良い医者を手配してくれたんだ。決して治らないような病気じゃなかったんだよ。あいつが――ミッジが余計なことさえしなければ」


 ラオルのグラスを握る手に血管が浮かび上がった。

 それを見た知人の男が首を振った。


「よせよせ、年寄りがそんなに血の気多いんじゃそれこそ死んじまうよ」

「でもな、あいつが人殺しなんてやらかそうとしたから旦那様は心労が祟って……」

「気持ちは分かるって。あの時は何度もお前に愚痴を零されたからな」

「旦那様は弟子が罪を犯したことで随分と気を病まれた。水蓮流は水の如く心を清らかにして剣を振るうべしとは旦那様の口癖だった。その水蓮流の名が汚されて……見ていられなかった」


 大きく息を吐いた老人を慰めるように聞き手の知人は言った。


「でも、今は水蓮流も一番弟子が継いで盛り立ててるんだろう? だったらいいじゃねえか。死んだ旦那様もきっと喜んでるだろうさ」

「ふん、あの小僧ではまだまだ旦那様には及ばん。とてもじゃないが認められん」


 そう言いながらラオルは酒をぐいと呷った。

 だが、言葉とは裏腹に表情は少し柔らかくなっていた。

 それを見た知人の男は内心ほっとした。


「……まあ、ここ最近は努力しておると聞くし明後日は少しくらい褒めてやるか」


 明後日。それはラオル老人が三年前まで使えていた主――水蓮流剣術創始者レスター・アランデルの命日であった。




 ラオル老人は居酒屋を出た後、夜風に吹かれながら川沿いの道を一人歩いていた。

 彼の脳裏には亡き主人と過ごした日々が記憶の底から次々と掘り起こされていた。

 十代で家を出て剣の道を歩み出した主人についていった時のこと、用心棒や内職の仕事で食いつないだ時期のこと、道場を開き徐々に教えを広めていった頃のこと、身体を患ってもなお剣を握るのを止めようとしない主人を諫めて大喧嘩になった時のこと、そして主人がとうとうこの世を去った日のこと――。


(あんなに早く死んでいい人じゃなかった。ようやく水蓮流が日の目を見たんだ。晴天流にも負けないって、今にも帝都で一番の流派になれるって。これからだって、そう思ってたのに……)


 ラオルの目にじんわりと涙が溜まっていく。思い出に浸りながらとぼとぼと歩く老人は、背後から忍び寄る人物の存在に気づかなかった。


 一歩また一歩と足を出す度に背後の人物はラオルとの距離を詰めていく。

 そうしてあと数歩という所まで近づいた時、ラオルはその人物の存在を感知した。


「……?」

 

 ラオルは怪訝な表情で振り返った。

 彼の眼前に一人の男が立っていた。

 整えていないぼさぼさの髪、老人よりもずっと高い背丈、一番目立つのは右の頬を彩る痣のような暗い紫色だった。


「あれ、あんたは……」


 男の顔に見覚えのあったラオルは意外そうな声を上げた。

 それほどに目の前に立つ男は彼の意表を突いたのだ。


 それ故に、ラオルは男が抜刀して自分へ殺意の籠った一撃を加えようとするのを呆けて見ていることしかできなかった。


 斬られた首筋から血が舞う。流れ出る血がラオルの衣服と地面を濡らした。ラオルは呆けた顔のままよろよろと後ろへ下がると柵へ寄り掛かり、そのまま体勢を崩して後方に広がる水面へと落ちていった。


 川が大きな水飛沫を上げた。


 たった今人を一人斬り捨てたばかりの男は川を見下ろし、老人が這い上がってくる様子がないことを確かめるとその場を悠々と去っていった。


 紫色の頬が邪悪な笑みと共に歪んだ。




 レイキシリス・ブラウエルはイスメラ区の商店街を歩いていた。彼の後ろからメイドのエレニカ・ブレイズが足音を立てず、静かについてきている。

 エレニカの両手にはいくつかの荷物が下げられている。食料品や日用品など生活に必要な物の他に、レイクが個人的に使う品が詰まっていた。総重量はそれなりになるがエレニカは一切負担を感じないような様だった。


「ええと、家で使う分は全部買ったね。後は明日の追悼式に持っていくやつか。花だろ、菓子だろ、それから――」

「レイク様、《ブロワ酒店》に注文したお酒をまだ確認していません」

「ああ、それだ。アルジャンさんに訊きに行くんだっけ」


 レイクは商店街を通り抜けると《ブロワ酒店》を目指した。

 《ブロワ酒店》は創業四十周年を迎える老舗で、創業当初の小ぢんまりとした店は既に取り壊され、今は商業区の建物の一階に店を構えている。

 レイクが店に入ると、顔馴染みの店員がすぐに気づいて声をかけてきた。


「あら、レイキシリスさんいらっしゃい。店長なら奥にいるわよ。呼んできましょうか?」

「ありがとう、お願いね」


 侯爵家の三男坊と知りつつも親しみある態度で応対した中年の女性店員が店の奥へと消える。しばらくすると壮年の男が姿を現した。


 《ブロワ酒店》の二代目アルジャン・ブロワは、目の細い頼りなさそうな顔つきの男だ。しかし、その身体は水蓮流剣術によって鍛え上げられてがっしりとしており、繁華街の裏路地で見かけるようなごろつき程度では相手にならない。


「レイクくんいらっしゃい。明日の追悼式に持っていく酒のことだろう?」

「そうそう。先生が好きだったやつ取り寄せてる?」

「ばっちりだよ。ほら、水魔酒の『山雫』だ」


 アルジャンの手には地方の有名な酒蔵から取り寄せた一品が包まれていた。

 澄み渡るような青色をした酒がボトルの中で揺らめき、店内の照明を反射していた。

 魔術をかじった人間であれば、その青が水属性の魔力由来の色であると気づけた。


 魔力酒は酒を造る工程で魔力を込めることで生まれる。魔導機関時代の到来と共に誕生した製品の一つであり、通常の酒と異なり魔術的効果を有する特徴がある。呑むだけで身体の芯から力が湧き立ち、魔術の触媒としても使うことができる。製造には専用の魔導機器と、酒に魔力を注入、維持するための素材が必要となり現状いずれも高価である。そのため魔力酒を造る酒蔵はまだ少ない。


「水魔酒の青はいつ見ても綺麗だね」

「燃えるような味わいの赤が魅力の炎魔酒も人気だが、やはり透き通るような色合いでは水魔酒が一番だね」

「うんうん、俺も水魔酒が一番好きだな」


 レイクとアルジャンはボトルを前にうきうきとして語り合う。

 その様子をエレニカは少し離れた場所から無言で眺め、溜息を吐いた。主人が帝国各地から値の張る水魔酒を取り寄せていることは彼女にとって悩みの種だった。


「レスターさんも水魔酒はいろいろ試していたけど、最後はやっぱりこれが一番だって言ってたね。僕にとっても思い出深い酒だ」

「この酒を求めに店に来たのが切っ掛けで知り合ったんだっけ?」

「うん。あの出逢いがなければ僕も水蓮流と出逢うことはなかっただろうね。僕にとってはあれが運命の日だった」


 二十年前、レスター・アランデルは前の《ブロワ酒店》を訪れ、店で父親の手伝いをしていたアルジャン青年と邂逅した。アルジャンはアランデルが剣術家であると知り興味本位からその技を見せてもらった。当時はまだ魔導剣術がはっきりとした技術体系として確立されていなかった時代であり、単なる個人の特技あるいは大道芸と考えられていた。そんな話を聞いていたアルジャンは大した期待もせずレスターの技を目にした。それが人生を変える瞬間だと、その時は夢にも思わず。


「あれから魔導剣術を使えるようになるために魔術の勉強を始めたんだよね。父さんには反対されたな。酒屋をやるのにそんなもの必要ないって。でも諦めきれずに頑張って、無理を言ってレスターさんに弟子にしてもらって……本当に良かったと思ってるよ」

「アルジャンさんが資金援助してくれたお陰で道場を開くことができたから、先生も心から感謝していたよ。自分がここまで来れたのもアルジャンさんがいてくれたからこそだって」

「……そう言ってもらえたなら頑張った甲斐があったな」


 アルジャンはそのまま黙ってしまい、しんみりとした空気が漂った。

 レイクはその空気は払うように話題を変えることにした。


「先生もきっとあの世で喜んでるよ。一時はどうなるかと思ったけど今じゃルカが立派に道場を継いでいるから安心しているさ」

「それもそうだね。最近は顔を見てないけど精力的に活動しているらしいよ。門下生も順調に増えてるそうだ」




 レイクが《ブロワ酒店》にいた頃、リン・クレファーはクロス区の市街地にある菓子店でショーケースに並ぶ菓子を吟味していた。ケースの中に並んでいるのは饅頭や最中などの焼き菓子だ。


 リンがどれを買おうか迷っていると、新たに店に入ってきた客が彼女に気づいて声をかけた。


「リンさんじゃないですか、お久しぶりです」


 リンが振り返ると長い金髪を後ろで束ねた青年がいた。


「おやルカさん、お久しぶりです。ひょっとして貴方も明日の追悼式に持っていく菓子を買いに来たんですか?」

「ああ、貴女もそうでしたか。ええ、先生はこの店の菓子が好きでしたから」


 アランデル道場の主ルカ・ガードナーは、リンの知る剣術家の中でも優れた技術を持つ一人だ。若くして師の道場を継ぎ、師に並ぶため剣を極めんとする様をリンは良く思っていた。


「ベスナー先生からアランデル先生の好物は聞かされていましたから私もここへ来たんですよ。ベスナー先生も追悼式に参加できないことを申し訳ないと仰っていました」

「仕方ありませんよ。二級魔獣が複数体出没したとなれば人手は必要ですから。何より場所がベスナー先生の故郷ですからね」


 リンの師ヴァイス・ベスナーは現在故郷である北部の都市ベルデイルへと赴き、友人からの頼みで現地の対魔獣部隊に力を貸している。ベルデイルはベスナーが興した晴天流剣術発祥の地であり彼の知名度は凄まじく、その力を借りれると知った対魔獣部隊の隊員たちは士気が高揚しているとリンは聞いていた。

 ベスナーは追悼式まで討伐を終えることはできないと判断すると、リンに代理参加を頼んだ。リンはアランデルと面識があり生前の彼に世話になったことがあったため、快く引き受けた。


「実は菓子を選ぶのは苦手なんです。意見が欲しいので、良ければ一緒に選びませんか?」

「はい、いいですよ」


 それから数分後、二人は並んで菓子店から出てきた。途中まで帰路が同じこともあり、二人は歩きながら互いの近況について語り合った。一見すると男女が仲睦まじく話しているように見えたが、実際はどこの流派と親善試合を行っただの新たな技の開発に向けて試行錯誤しているだのと剣術の話題に終始していた。


「おやおや、ルカくんにリンさんじゃないですか。随分と仲が良さそうですね」


 二人の話題を打ち切ったのはねっとりとした口調の男だった。

 その声を聞いた二人は顔を顰めた。

 現れたのはアランデル道場の門下生ジャドだった。彼の傍には取り巻きの門下生二人がついている。


「……どうもジャドさん、こんにちは」

「こんにちはリンさん、ルカくんとそこまで親しい間柄だったなんて知りませんでしたよ。言ってくれたら良かったのに」

「向こうの菓子屋で偶然出逢っただけだ。くだらん憶測は止めろ」


 ルカは不機嫌であることを隠そうともせず突き放すように言った。

 リンもまた警戒するような目でジャドと相対した。


(苦手なんですよねこの人)


 リンは過去に何度かアランデル道場とベスナーが経営する銘雪館の親善試合に参加しジャドと打ち合ったことがある。いずれの試合もリンの勝利に終わったが、ジャドは毎回麗しき女性に花を持たせるのが礼儀だとのたまい、あたかもわざと負けたような素振りを見せてばかりだった。それを取り巻きたちが褒め称え、紳士的な男性であるかのように装った。この態度には銘雪館の門下生はおろか水蓮流の門下生たちも辟易した。第三皇子ルカに至っては「著しく見下げ果てた性根」とまで吐き捨てたほどだ。


「明日でアランデル先生が死んで三年。早いものです。先生はきっと今のアランデル道場の現状を見て嘆いているでしょうね」

「先生の思いを勝手に汲み取るのは止めろ」

「今の道場がどうなっているかご存じでないわけではないでしょう? 貴方が道場主になったのを認めない門下生は大勢いるんですよ」

「お前御自慢の取り巻きどもが、だろ?」


 ルカを批判している門下生の多くは会社経営者の息子や貧乏貴族の三男四男といった者であり、ジャドから金銭面で便宜を図ってもらっていることは周知の事実だった。


「彼らは純粋に僕を支持してくれているに過ぎませんよ。元々先生の後継者は僕かミッジの二択でした。そこへ先生を欺いて取り入り後継者の地位を簒奪したならず者がいれば、反発するのは当然でしょう?」

「ジャドさんの言う通りだ! お前が選ばれる余地などなかったのに!」

「アランデル先生は素晴らしいお方だったが最後だけは目を曇らせた。何故こんな男に騙されたのか……」

「正直ミッジくんの気持ちは分からないでもありませんよ。自分の手に入りそうだった地位が横取りされたとあらば殺したくなっても無理はない」


 わざとらしく首を振りそう言ったジャドの言葉を、流石にリンも見逃すことはできなかった。


「それはいくらなんでも言葉が過ぎます。ルカさんはアランデル先生亡き後道場を栄えさせているでしょう。水蓮流を知ってもらうために教育団体が主催する幼年向けの剣術教室にも講師として参加して、それがあって門下生の数も増えたでしょう。貴方たちは水蓮流を高尚な人間の嗜みだと言って嗤っていましたが、水蓮流を評価する声が高まったのは偏にルカさんへの信用があるからです。それに――」


 リンは一度言葉を切って、後に続く言葉を強調するように間を開けた。


「アランデル先生が遺した未完成の技を完成させたのはルカさんです。あの“三連飛沫”は相当の修業を積まなければ成し得ない技。あれを完成させたことこそ彼を選んだのは誤りでないという何よりの証拠ですよ」


 反論できない三人はむうと唸った。


 “三連飛沫”はアランデルが生前ついに完成させることができなかった技だ。下段から切り上げると同時に水の魔力を波飛沫のように三つ放つ。魔力を三つに分け、かつ切り上げに合わせて刃としても形作りながら放つために非常に繊細な魔力操作を要求されるため水属性を極めた人間であっても容易ではない。事実アランデルも苦慮し、病状の悪化により完成を断念した。その研究を引き継ぎ完成に漕ぎつけたのがルカだった。


「俺を侮辱するのは構わん。雑音程度で心を動かされるほどやわな修業はしていない。だが、先生の判断を間違っているということは先生への侮辱と受け止めるぞ。そもそも後継者に最も相応しい人間がいるとすれば、それは俺でもなくお前でもなく、勿論ミッジでもなく――レイクしかいない」


 闘志に魔力を上乗せして全身から放つルカに、ジャドたちは思わず後ずさった。


「あいつが道場を辞めてなければ文句なしにあいつが一番だった。俺が選ばれたのは先生が目をかけてくれたのと、レイクが俺を推薦してくれたからだ。だから俺はあの二人に恥じないようにするだけだ。分かってるか? お前がしゃしゃり出る隙間なんてどこにもないんだ」


 ジャドは分が悪いと判断したのか、精一杯の虚勢を張って嗤った。


「……まあ、いずれ誰がその地位に相応しいのかははっきりするでしょう。その時が来るのを覚悟しておくことです」

「無用な心配に感謝するよ」


 ジャドは悔しさと怒りを顔に滲ませ、鼻を鳴らすと取り巻きたちを連れて足早に去っていった。


 ジャドたちの姿が完全に見えなくなった後で、リンとルカは揃って大きな溜息を吐いた。


「アイツには本当に困らせられる。道場でも稽古より政治工作ごっこの方に精が出るみたいで邪魔になっていますよ」

「あの人本当に道場内で支持が高いんですか?」

「腕は悪くないし金を持ってるから世話になってる奴が多いんです。あいつの父親が印刷会社を経営していることは知ってますか? 四男坊で末っ子、父親から目に入れても痛くないほど可愛がられているから増長しているみたいですよ。ああして取り巻きたちから煽てられながら調子に乗ってばかりです。気にしない方がいいですよ」

「そうですね」


 リンはこれ以上ジャドのことで煩わされるのを嫌い、話題を終わらせることにした。彼女には他に訊きたいことがあった。


「ところで、先程本当の後継者になるはずだった人の話をしていましたが……レイクというのはブラウエル侯爵家の?」

「ええ、そうです。レイキシリス・ブラウエルですよ。ご存じですか?」

「はい、彼には先日大変お世話になりました」


 フォルナット子爵と《鳩の巣》の事件の後、リンは何度かレイクと逢い、彼の家に招かれた。レイクは剣術にも魔術にも造詣が深く、話し相手として最適とも呼べた。最新の魔術研究の論文にも目を通しており、夜遅くまで魔術談義に花を咲かせてエレニカに叱られたこともある。

 父親のガーランド・クレファー伯爵はレイクとできるだけ誼を通じるようにと言い含められていたが、それがブラウエル侯爵家と伝手を作りたいという意味ではないことをリンは漠然と悟っていた。


「レイクさんがアランデル道場にいたなんて知りませんでした。親善試合に参加したことはなかったですよね?」

「あいつはもう何年も前に辞めました。まだ十三か十四って頃でしたね。既に先生からは教えることはないと言われていた天才ですよ。辞めた後は時々世間話がてら様子を見に来るくらいです」

「よろしければ彼が道場でどんな風に過ごしていたか聴かせていただけますか?」


 リンは目を輝かせながら頼み込んだ。

 その様子を見てルカは微笑みながら二つ返事で受けた。




 その頃、リンとルカがいる市街地からずっと南へ下った川沿いの道に大勢の人々が集まっていた。

 彼らの視線は川岸で職務に励んでいる帝都警察の職員や、川岸に横たえられ布を被せられた死体に向けられている。


 川の中から男の死体が引き揚げられたのは三十分ほど前の話だった。釣り人が橋の袂に引っ掛かった死体を発見し、すぐに警察へと通報した。


「うわあ、酷いな。正面から一太刀で斬られてやがる」


 二等捜査官のアーネスト・パインは亡骸に刻まれた傷跡を目にして顔を歪ませた。彼の隣に立つ三等捜査官のリーヤ・マリガンが悲痛な表情を作った。


「財布はあるな。傷は一つだけだし迷いもない。ハナから殺す目的で斬ったか?」

「物取りじゃないなら辻斬りか何かでしょうか?」


 二十四歳のマリガン捜査官は初めて目にする陰惨な死体を前に気分が悪そうだった。


「頼むぜマリガン。上級試験に合格して三等捜査官からスタートしたエリート様なんだ。こういう現場で吐くようじゃ出世できないぞ」

「分かってますよ。少し気持ち悪いだけです。なんとか我慢できますから」


 死体は白髪交じりの老人だった。

 斜めに斬られた傷は深く、ぱっくりと開いた傷口から抉られた肉が覗いでいる。


 パイン捜査官は財布の中身を調べ、一枚のカードを取り出した。


「身分証があるな。調理魔術師の資格証明書か……ラオル・バンザ、住まいはカリム区か。いや……ラオル・バンザ?」

「どうかしましたか?」


 突然はっとしたパインに、マリガンは怪訝そうに訊ねた。


「ラオル・バンザ……そうだ、思い出した。この爺さん、四年くらい前に起きた殺人未遂事件の目撃者だ。確か長官が気にしてた事件だったから憶えてる」

「え? 長官が?」

「事件が起きたのは水蓮流の道場で、長官の御子息が昔そこに通ってたって話だ。まだ犯人が捕まってないんだよな」

「水蓮流って今ちょっと話題になってますよね。水の魔導剣術に特化した流派で晴天流のヴァイス・ベスナーも一目置いているとか」

「この爺さんはそこの道場主の下男だったはずだ。何でまた……」


 パインは死んだ老人の顔を見下ろした。

 苦悶と驚愕に満ちた死に顔が、彼に不穏な先行きを予感させた。

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