第4話 暴れ馬④
ホタルに見送られて《甘美荘》を後にした二人は、並んで市街地を歩いていた。
「これからどうするんですか?」
「……今は特にすることはないな。ちょっと散歩でもしようか」
リンは無言で頷いた。
二人はしばし無言のまま歩く。レイクはリンが何か言いたそうにしては躊躇っていることに気づいていたが、敢えて彼から話を振ることはなかった。
やがて川沿いの狭い通りへと入った。
並んで歩いていた二人は、いつの間にかレイクが先を行きリンが少し後ろからついてきていた。
リンはついに意を決したように口を開いた。
「レイクさんは何故探偵になろうと思ったんですか?」
「何故、ね。理由を訊かれると答えにくいな。言いたくないんじゃなくてうまく説明できないというか」
レイクは思案するように首を傾げた。
「エレニカさんからレイクさんのことを知りたいなら今日一緒について回って自分の目で見た方がいいと助言されました。分かったのは貴方には力を貸してくれる人が何人もいるということです。アマリさんも、先程のホタルさんもそうですね。道楽者の噂は協力者を密かに集めるための目くらましですか?」
「……道楽者であるのは紛れもない事実だよ。遊ぶついでに協力者を集めてきたんだ。そうする必要があったからね。俺が仕事を頼むこともあれば、向こうから仕事を頼まれることもある。持ちつ持たれつってやつだ」
当然のように答える様子に、リンは胸の奥に小さな棘が刺さるような感覚を覚えた。
人を頼る。リンが今までしてこなかったことだ。自分一人でも十分だと思い不要だと無意識に切り捨ててきた。
だが、レイクはリンと同程度か、あるいはそれ以上に才能を持っているようでありながら、人に頼ることを必要なことだと考えていた。
それは両者の明確な違いであった。
(レイクさんが探偵になったのも必要があったこと? ブラウエル侯爵家の出身なら司法の道に進んで事件に関わることもできたはずです。フォルナット子爵や《鳩の巣》のことも侯爵家の力を借りればもっと簡単にできたというのに……そうすることなく独自の情報網を構築しながら家から離れて動く理由は?)
リンがそこまで考えたところでレイクが立ち止まり振り返った。
その顔は凪いでいるように微笑んでいた。
「何か深い理由があると思ってるみたいだけどそうじゃない。別に俺は大層な地位を求めていないから、後継ぎや司法の道に進むのは兄さんたちに任せるのが丁度いい」
そう言うとまた前を向き、しかし立ち止まったまま空を見上げた。
青い空に浮かぶ日に雲がかかりつつあった。
「ただ、俺にはやりたいことがあまりに多すぎてね」
レイクの声は何の気なしに言っているようで胸の中に燻る感情に蓋をしているように見えた。
「全部を満足にやろうと思うと必要なものが多すぎる。金、時間、人手。自分一人じゃどうにもならないことばかりだ。そのためには手札を増やすほかなかった」
「……やりたいこととは一体?」
リンがおずおずと訊ねた。好奇心と相手の心に土足で踏み込むことへの罪悪感が混ざったような態度だった。
レイクは気を悪くした風もなく答えた。
「実を言うと君が普段からやっていることとそう変わらない」
前を向くレイクの表情はリンには見えない。だが、リンには彼の顔に強い決意が表われていることを声の響きから感じ取った。
「世の中には儘ならないことが多すぎる。帝国は過去最高と云われるまでに栄えたが、それでも陽の光が届かない所では悪鬼が蔓延る。人の出入りが増えたことで良からぬモノまで招かれてしまったんだ。理不尽や不条理が満ち溢れるなんて日常茶飯事で、どうすれば解決できるか皆が悩み答えを探し求めている。そして、残念ながらその答えを見出せた者はいない」
レイクの言葉には法を司る一族として生まれた人間の重さがあった。リンはブラウエル侯爵家が法の番人であることは知っていても、そこに至るまで苦難も煩悶も知らない。ただ、生きる上で否応なしに降りかかる災厄へのやるせなさだけは、ほんの一端だけ理解できる気がした。
「俺は家柄の関係で幼い頃からそういうのを目にする機会があった。それらについて詳しく教えてくれる教師となる存在にも恵まれていたから、それが本来決して看過されるべきでない命題だと子供心に理解できた。そして、ブラウエル侯爵家に生まれた者として帝都の栄華の裏に潜む陰惨な現実を父上から知らされたよ。フォルナット子爵や《鳩の巣》みたいな連中もそうだ」
フォルナットと《鳩の巣》の名を口にした時、レイクの声に静かな怒りが宿った。
「法の番人といえども手の届かない隙間や目の届かない場所は存在する。その隙間に手を差し込むには侯爵家の手は大きすぎると父上は言っていた。父上は公明正大な人間であったがすべての悪徳に目を光らせるなんて不可能だった。最初に知った時は失礼だけど父上を軽蔑した。法の番人を名乗っておきながらなんてザマだとね。でも、一つずつ自分の目で現状を確かめていって――簡単な話ではないと分かった。これは単に財力や権力でどうにかなる問題じゃないってね。で、俺はその現状を打破したいと願うようになった」
そこでレイクはもう一度振り返る。リンは彼の顔を真っ直ぐ見据えた。
レイクの表情は、あの夜パール公園で見たものと同じだった。
本能的な畏怖を覚える姿。だが、今リンが彼にその感覚を覚えることはなかった。その畏怖が何に向けられているか理解できたからだ。あの時レイクはダールに怒りを発していた。眼前で行われる悪しき行いを正す意思を持って彼はあの場へやって来たのだ。
「学ぶ環境は十分にあったから計画を練るのに不自由しなかった。俺は普段目の届かない裏側を知るため様々な分野のプロたちと交流を持つことにした。権力者や公的機関に顔が利く者だったり、裏の世界を知るその道の人間だったりいろいろだ。アマリは後者に当たるな。俺は十三の時から探偵稼業を始め、誰も相手にしないような小さな事件を一つ一つ解決していくことで信用を獲得していった。最初は貴族の子供のお遊びだと相手にされないことが多かった。だから俺も――君みたいに少しばかり
リンはレイクの話に驚くしかなかった。彼女が幼い頃から英雄の片鱗を見せつけていた裏でレイクも活動を開始していた。それもリンのように華々しく目立つようなやり方ではなく帝都の裏側で密かに、それでいて確固たる支持を集めながらだ。
「幸い家督を継ぐ立場じゃないから多少は好き勝手しても問題ないと父上の許しも得ているしね。警察長官なんてお堅い仕事に就いてるわりに融通が利くんだ。だから、やりたいと思ったことは全力でやらせてもらっている。そして、
その言葉にリンは思わず目を見開いた。
やるからには妥協しない――それはあの夜に《黒い羊》で彼女がマオに言った言葉だ。
ただし、レイクとリンでは言葉の意味は大きく異なっていた。
リンは目の前に出された問題に対して機械的に対処するだけだ。それに対してレイクは己の意思でやりたいと思ったことをやっている。そこには著しい隔たりが存在していた。
マオがリンが心の奥底で理解者を求めていると推測した。リンは今その欲求を正しく理解できた気がした。
理解とは意思への把握と分析の結果であり、意思なき行動に理解者が現れることはない。
レイクのように確固たる信念を持って行動する人間にこそ賛同する人間が現れる。
リンは自らの内面に潜む問題の正体を掴めた気がした。
自分は理解者を求めていたのではなく、己が辿るべき道を示す指針を欲していたのだ。
目的を持つことができない自分を導いてくれる存在を。
そして今、リンはレイクの信念に自分自身でも驚くほど強い共感を示していた。
彼女の中でこれまで無秩序だった彼女自身の構成要素があるべき位置へとぴたりと嵌まる。
何を目指すべきか、その答えが目の前に開けた。
(ああ、私は彼を羨ましいと思っている。彼のようになりたいと憧れている)
「妥協しない、ですか。良いと思います」
「ありがとう」
レイクはそう言い屈託のない笑顔を見せた。
その日の夜八時半に、レイクの家の電話が鳴った。
エレニカが応じると少し相手と話をしてからレイクを呼んだ。
「レイク様、《甘美荘》のホタル様からです」
レイクが代わると受話器の向こうからホタルの弾むような声が聞こえてきた。
『レイクさん、《アナグマ警備》の方探りをれてきましたよ』
「早いね。たった六時間でもう片付けたの?」
『楽な仕事でしたよ。会社に忍び込んで記録を漁るだけでしたからね』
「流石だね。盗賊時代よりも腕に磨きがかかったんじゃないの?」
『きっと親切な道楽者が
かつて“影踏みのホタル”と呼ばれていた盗賊は、腕前を褒められた気恥ずかしさを誤魔化すように軽口を叩いた。
『レイクさんの読み通りフォルナット子爵は子飼いの医療魔術師に左腕の傷を治療させています。それも本来は病院の医療魔術師に治療を頼むような怪我です。手を尽くしたみたいですが完治はできず、経過も良くないとのことです。最初に治療した日も半年前の事件の翌日です』
「分かった。報酬は後日支払う。急な仕事で申し訳なかった」
『いいですよ。今後も頼りにしてくださいね』
レイクは電話を切ると居間へ行った。
リンは椅子に座りレイクが戻ってくるのを待っていた。
「裏が取れたよ。やっぱり半年前に君を襲ったのはフォルナット子爵で間違いなさそうだ」
「そうでしたか……」
「ここまで来れば後はフォルナット子爵が《鳩の巣》に依頼した証拠を掴むだけだ。攻めるなら子爵の方がやりやすそうだけど……」
顎に手を当て考え込むレイクをリンは眺めていた。
フォルナットが事件に関与していると分かってからリンの頭の中に浮かんだ考えがあった。
本来であればリンが選択することのない手段。
だが、この日の経験がリンに新しい道を与えた。
「レイクさん、私に一つ案があります」
「ん? 何か思いついたの?」
「はい、フォルナット子爵を罠にかけましょう。その上で彼を完膚なきまでに叩き潰します」
リンは身体の芯から湧き上がるようなやる気に満ち溢れていた。
(私もレイクさんに倣いましょう。持てる手札を使うんです)
それからリンは思いついた案をレイクに説明した。
説明を聴く内にレイクの口の端が愉快そうに上がっていった。
リン・クレファー襲撃から三日目の夕刻のことだった。
パイネス・フォルナットは邸の書斎で机の端に溜まっていた手紙の整理をしていた。
一段落したところで私用の電話機が鳴った。
フォルナットは受話器を取った。
『パイネス・フォルナット子爵ですね?』
「誰だ?」
『こちら《鳩の巣》よりケレス・グレイズ様から緊急の伝言を預かっております』
「……グレイズから? ひょっとして何か進展があったのか?」
フォルナットの声にはリン・クレファーの死を報せるために電話をかけたのではという期待が込められていた。
だが、受話器の向こうから返ってきた言葉は無情なものだった。
『それが……帝都警察が我々に目をつけたらしく、フォルナット子爵にも疑いがかけられていると報告がありました』
「何だと!」
突然の悪い知らせにフォルナットは急に不安に駆られ出した。
額と背中に汗が滲み、左腕の傷が疼いた。
『どうやらクレファー伯爵家が帝都警察に働きかけたようです』
電話の相手が言葉を続けるが、フォルナットの耳には届いていなかった。
(どうする? 今度も揉み消せるか?)
フォルナットは馴染みの顔役の顔を思い浮かべた。これまでに何度も問題を処理させてきた彼らなら引き受けてくれるだろうか。
だが、今度はどこにでもいる平民とは訳が違う。相手はクレファー伯爵家である。帝都の裏社会を生きる者でも簡単に敵に回せる相手ではない。クレファー伯爵家とフォルナット子爵家では比べるまでもなく前者の価値が上回る。仮にフォルナットに味方するとしても大きな争いに発展するのは目に見えていた。
(奴が私を切り捨てようとすれば――)
フォルナットの脳裏に最悪の未来が過ぎった。
『どうか落ち着いてください。今はまだ疑惑に過ぎません。手を打つ時間は残されています』
「そ、そうだな」
『一先ずこの件について話し合う時間を設けたいと上が申しております。これよりすぐこちらへお越し頂けますか?』
「こちらというと《鳩の巣》か? 前は直接出向くなと言われていたが……」
「此度は緊急事態ですので万が一に備えて安全な場所で話し合いとのことです」
「そういうことなら了解した。今から向かう」
フォルナットは電話を切ると執事に急用で出かける旨を伝えるなり、身なりを整える余裕もなく邸を飛び出した。
脇目も振らずに走り去っていくフォルナットは、遠くから見つめる人物に気づくことはなかった。
《鳩の巣》の事務所ではロイド・プライムとケレス・グレイズが顔を突き合わせて唸っていた。
ガラステーブルには酒のボトルとグラスが置かれているが、二人とも酒の味を楽しむことなく両手を揉んでいた。
リン・クレファーに新しい動きはない。ブラウエル侯爵家の三男に家に外泊してからは、外出する際には彼と一緒だ。彼もまた腕の立つ人間だとダールに付けていた見張りが報告していたことから、恐らく不意の襲撃に備える目的で行動を共にしているのだと思われた。今のところ襲撃者の正体を探るような真似は見られなかった。ただ、クレファー伯爵家が持つ人脈は太く、ここにブラウエル侯爵家も加わるため既に別の場所で調査の手が広がっている恐れがあった。
新しく送る刺客の選定も済んでいない。プライムとグレイズは一旦様子見をする意見で一致していた。
誰かが事務所の扉をノックした。
「入っていいぞ」
「すみません。たった今フォルナット子爵が訪ねられていますが……」
扉が開くと従業員が困った顔で立っていた。
「フォルナット子爵が? 何でまた? 緊急の用件があれば渡しておいた連絡先に電話するように言ってあるはずだが……」
「とりあえずここに案内してくれ」
グレイズは訪問の理由が分からず首を傾げた。プライムも同様だったが、まずは訪問者の話を聴くことにした。
しばらくすると足音をどたどた鳴らしてフォルナットが事務所へとやって来た。
「どうしましたかフォルナット卿。あまりここへ来られるのは人目について困るのですが……」
「何を馬鹿なことを言っている。貴様らが呼びつけたのだろう」
フォルナットの癇癪持ちを知るプライムが刺激しないように下手に出ると、フォルナットは眉を寄せた。
「警察が目を我々に目をつけたから対処のために話し合うのだろう。だから急いで来てやったんだ」
「……はあ?」
「何を呆けた顔をしている! つい先程電話をかけてきただろう! 相手は《鳩の巣》の者と名乗ったぞ! 依頼の内容も知っていたから間違いはない」
フォルナットはこめかみに青筋を立てて怒鳴った。
プライムとグレイズは顔を見合わせた。二人の顔はみるみる内に青ざめていった。
「旦那、これは――」
「まずい。すぐにここから――いや、もう外に手が回ってるかもしれん。地下から出るぞ!」
「おい、何の話をしている! 説明しろ!」
「今説明している暇はありません! 私たちについてきてください!」
プライムは壁の電飾を掴むと左に大きく捻った。がちゃりと壁の奥から音が鳴る。それから部屋の隅に陣取っていた本棚が奥へと四十五度回転した。
本棚の裏に壁はなく暗い通路が続いていた。
「よし、じゃあ行くぞ」
プライムが先頭に立ち通路へ踏み込もうとした瞬間だった。
突如プライムの眼前を何かが通り過ぎたかと思えば、床板や壁を突き破って刺さった。ぎょっとしたプライムが視線を向けると、それは細く尖った何本もの氷の塊だった。
氷は隠し通路の入口を完全に塞いでいた。
「逃走用の隠し通路か。用意のいいことだ」
背後から聞こえてきた声に三人がはっとして振り返る。
事務所の入口に若い男女が立っている。
レイキシリス・ブラウエルとリン・クレファーだった。
レイクの手からは青い水属性の魔力が立ち上っており、彼が氷を放った事実を窺わせた。
「リン・クレファー!」
フォルナットはリンの姿を認めた瞬間、困惑よりも憤怒が勝った。
彼は憎しみを込めた声で叫んだ。
「こんばんは、フォルナット子爵。私を殺せなくて随分と機嫌が悪そうですね」
リンが冷笑して挑発するとフォルナットはさらに興奮を増した。
「私を呼び出したのは貴様だったのか! ふざけた真似をしおって! おい、お前たち誰か人を呼べ! こいつを殺すのだ! 今なら闇討ちなんかしなくとも……」
「闇討ちに失敗したのは貴方でしょう? 左腕の傷は治りましたか? 手加減ができない性格なので、傷が残ったら申し訳ありません」
リンは傷が残っていることを知りながら心の籠っていない言葉で謝罪をした。フォルナットは人を呼ぶように言っておきながら、今にも自分が飛びかかりそうな様子だった。
プライムは罠に嵌められたことを悟り、どうすべきか迷っていた。
「大人しくしろよ。裏稼業なんかやっていれば覚悟の決め時くらい知っているだろう」
レイクが一歩近寄った。
グレイズは逡巡していたが意を決したように懐に手を突っ込むと短刀を取り出し、レイクへ向かって床を蹴った。魔力操作は荒いがそれでも身体強化された脚力はレイクの懐まで飛び込むには十分だった。
「馬鹿が」
レイクは向かってくるケレスを捉えていた。そして、小さく呟いた後瞬き一つする間もなく刀を抜いていた。
それはリンが目にしたものと同じ早業だった。
レイクが片手を振るい、グレイズの身体が左肩から胴にかけて斜めに斬られた。
床に崩れ落ちたグレイズを見てプライムは放心した様子だったが、すぐに観念したように項垂れた。
最後に残ったフォルナットはわなわなと震えながら目の前の二人を凝視していた。
「フォルナット子爵、そんなに私のことが気に入らなかったんですか?」
「当たり前だろう! 貴様のような無作法な娘がソル殿下に近づくなどあってはならん! 殿下も殿下だ。一体何故こんな恥知らずを気に入るなど……」
「闇討ちを図るのは恥知らずじゃないのか?」
「黙れ! ブラウエル侯爵家のドラ息子が生意気な口を叩くな!」
レイクが口を挟むと矛先がレイクへと向いた。
最早感情の制御がままならないようだ。
「ソル殿下を引き合いに出すのはやめてください。貴方は殿下のことを考えて行動したのではない。ただ私が気に入らなかっただけでしょう?」
リンの青い瞳が子爵を射抜いた。幼馴染であり弟分であり敬愛する青年を愚行の理由にされたことへの静かな怒りがあった。
フォルナットは思わずたじろいだ。
「お前がリンを殺そうとした理由は見当がついている。
フォルナットの身体が電撃を浴びたように硬直した。
図星だった。
「知り合いに頼んでお前のことを調べさせたんだが普段からリンへの不平不満を口にしていたらしいな。その大きな理由が国防勲章を授与された話だ。お前は剣の腕はそこそこだが先代には劣る。だが、プライドが高いから先代と比較されて見劣りすると評価されるのが我慢ならなかった。過去に起こした暴力沙汰でもそれを揶揄されたのが原因になった件がいくつかあったらしいな。だから会社を盛り立てて実業家として功績を挙げようとしたんだろうが……劣等感は燻ったままだった」
「そんな時に私が一級魔獣を討伐した」
十五か十六の少女が兵を指揮して一級魔獣を討伐した。
皇帝から称賛の言葉を直接賜り、名誉を手にした。
民から英雄と崇められた。
これらの事実がパイネス・フォルナットに衝撃を与えた。
「自分と関わりない世界の出来事であれば呑み込むことができたかもしれない。だが、その少女はあろうことか自分が所属する派閥に出入りする人間であり、第三皇子と親しく彼からこれ以上ないほど高く買われていた。それがお前のプライドを大きく傷つけた」
「そうして私への憎しみを募らせ――半年前にとうとう爆発したんですね」
フォルナットは反射的に左腕を抑えた。
「やはり傷は完治させられなかったか。高度な治癒魔術を習得した医療魔術師に診てもらうべきだが、情報漏れを嫌がったのが仇となったな」
「フォルナット子爵、もう諦めてください。この期に及んで逃げ延びることは叶いません」
リンは鋭く言葉を突きつけた。彼女にとって最後の慈悲だった。
フォルナットは左腕を抑えたまま荒く呼吸を繰り返していた。顔は赤く瞳は充血している。今にも破裂しそうな風船のようだった。
「貴様のせいだ……“暴れ馬”などと呼ばれて図に乗って……こんな小娘が勲章を賜るなんてあっていいことじゃない。そうだ、私はただ懲らしめようとしただけだ。こいつがどれだけ不興を買っていると思っている? 私に手を出せば貴様への不満が爆発するぞ。これ以上悪評が広まるのはクレファー伯爵家としても困るだろう。家のことを思うならこれで――」
突然部屋の温度が急激に下がったような感覚がリンとフォルナットを襲った。
リンはこの感覚を前にも体験したことがあった。
あの夜パール公園にレイクが現れた時の感覚だった。
レイクが大きく溜息を吐いた。
「もう黙っててくれないかな?」
レイクの口調は普段と変わらない。それが逆に恐ろしいとリンは思った。
「……リン・クレファーという人間はお前が思っているよりずっと立派だ」
普段と変わらない、それでいて冷たさを感じる声。しかし、出てきた言葉はそれとは裏腹にリンに対する温かみを含んでいた。リンはそのギャップに戸惑った。
「彼女は貴族の本分をこの上なく果たしている。彼女の働きがどれだけこの国に寄与したと思っている? 一級魔獣の討伐に犯罪組織の殲滅。父親を殺そうとした連中を排除したなんて話もあるな。研鑽を怠らず、家族を守り、帝国の民を守る。彼女と同じことができる貴族が他にどれだけいる? “暴れ馬”としての在り方は、何者にも左右されない彼女の本質の一端に過ぎない」
リンはレイクの言葉がそのまま自分の身体へ沁み込んでいくのを実感した。功績を褒められたことは何度もあった。しかし、これほど彼女の胸に言葉が響いたことは一度もなかった。
心臓の鼓動がその反響に共鳴するように力強く脈動する。
それは憧れを抱く相手から認められたことへの歓びだった。
「それに引き換え貴様はどうだ? 肥大化した自尊心、幼稚な嫉妬心、挙句の果てに暴力に訴えて返り討ちにあった末の逆恨み」
レイクは大きく息を吸い――咆哮した。
「パイネス・フォルナット! 帝国貴族にあるまじき振舞いの数々! その所業、帝国貴族の名誉を汚すと知れ!」
今この場所に立っている青年は道楽者などではなかった。
貴族の家に生まれ、不条理を赦さぬ心を持ち、己が掲げる信念のため邁進する。
アルトネリア帝国の貴族がそこにいた。
フォルナットが怒声を上げて飛びかかってきた。武器も構えない獣の如き有様だった。
レイクは対応しようとしたが、それより先にリンが動いた。
リンの剣が真横に振るわれる。空気を斬る硬い音に追従するようにフォルナットの左腕の肉が裂けた。
「ぎゃあ!」
フォルナットは痛みを堪えきれずに勢い余って床に転がり、壁にぶつかった。
呻き声を上げながらもぞもぞしているのを二人は見下ろした。
「また同じところを斬ってしまって申し訳ありません」
「器用だね。狙ったのかい?」
「これくらいなら簡単ですよ」
同じ箇所を狙ったのはリンなりの意趣返しのつもりだった。いかにもレイクが好みそうなやり方だと考えて実行に至ったのだ。
「医者……医者を……」
フォルナットはうわ言のように何度も助けを呼んだ。
その願いに応えるかのように男の声がした。
「安心しろフォルナット子爵。医者ならすぐに手配してやる」
その言葉と共に一人の男が入室してきた。長い金髪を後ろで束ねた中背の若い男だ。仕立ての良い服を着こなした美男子と言える。
フォルナットは男の顔を見て愕然とした。
「ソル殿下……」
第三皇子ソル・レヴィノスは沈痛そうな表情で首を振った。
「残念だよ子爵。其方には幼少の頃から世話になったから恩義を感じていたのだがな。其方にはもう少し帝国貴族としての在り方を弁えてほしかった。リン・クレファーのようにな」
フォルナットはその言葉で止めを刺された。彼は放心したように口を開けたまま天井を見上げていた。
その直後、複数の警官が部屋に踏み入ってきた。彼らは手際よくフォルナットと項垂れたままだったプライムを連行していった。グレイズは医療魔術師が近づいて簡易的な治療を施されてから、二人の警官に両脇を支えられて連行された。
リンはソルに深々と頭を下げた。
「ソル殿下、御足労いただき誠に感謝します」
「構わない、貴女の役に立てるなら大歓迎だ。こういうときのために連絡手段を教えたのだからな。とはいえ実際に頼ってもらえるとは意外だった。貴女なら自分一人で解決するとばかり思っていたからな」
「私にも思うところがあったんです」
そう言ってリンはちらりとレイクへ視線を向けた。彼女を変えた理由はその視線が雄弁に物語っていた。
ソルはそれに気づかない振りをしてレイクの方へ向き直った。
「レイキシリス・ブラウエル殿、貴公にも感謝を。貴公のことはガレリス兄上から聞いている。是非一度手合わせしたいものだ」
ソルの表情は底知れぬ強者へ挑戦する気概に溢れた若者のそれだった。
「機会があれば」
レイクは肩をすくめて小さく笑う。
それから三人は事務所の外へと出た。
店の外に出ると店の周りに野次馬が集まって見物していた。その中にリンの顔を知る者がいたらしく“暴れ馬”の単語が飛び交っていた。
近くで警官と話していた女性が彼らの姿を見つけ、近寄ってきた。
「ご苦労様。まさかこんなに早く片付けてくれるとは思ってなかったわ」
「やあブラン。ああ、リンにはちゃんと紹介してなかったね。彼女はブラン・アルケイン。帝都警察の刑事部長を務めてる」
リンは驚きに目を丸くした。ブラン・アルケインは二十代にして帝都警察の刑事部長に抜擢されたアルケイン侯爵家の長女だ。リンとはまた別に名の知れた才媛だった。
だが、リンが驚いたのは帝都警察の重要人物が現れたことに対してではなく、彼女と以前にも顔を合わせたことがあったからだ。
「三日ぶりね。《黒い羊》で会った時はまさかこんな形で早く再会するとは思ってなかったわ」
レイクが《黒い羊》でエスコートしていたその女性はくすくすと笑った。
今日のブランは変装用の丸眼鏡をつけていなかった。服装も良家の令嬢のような淑やかな装いではなく、身体のラインを強調する紺のスーツだった。
「まったく俺も驚いてるよ。暗殺者を探して《鳩の巣》に辿り着いたと思ったら、ガレリスから弟の派閥にいる不逞の輩を潰すように頼まれて。とりあえずアマリにフォルナットの調査だけ頼んで、ブランに《鳩の巣》が関与している事件を洗ってもらって結果を受け取った直後に、今度は暗殺者と戦うリンを助けて。そいつが実は《鳩の巣》が送り込んだ奴で、依頼主がフォルナットで……こんなにうまい具合に話が繋がるなんてあるか?」
「本当幸運に恵まれてるわね」
レイクが第一皇子ガレリスから極秘にフォルナット子爵の調査依頼を頼まれたのは二週間ほど前だった。
発端はフォルナットの揉み消した事件の被害者が泣き寝入りせず訴えようとしたのをある貴族が耳にしたことにあった。その貴族はガレリス派閥の貴族にその話を伝え、そこからガレリスに話が届いた。
ガレリスはフォルナットを調査しようと考えたが、第一皇子が第三皇子の取り巻きを潰したとなれば妙な疑いをかけられる懸念があった。二人の関係は良好であるが派閥同士の対立は根深い。いらぬ波風を立ててしまうことだけは避けたかった。
そこでガレリスはレイクに調査を委任することにした。
「じゃあ、後のことはいつも通り任せるから」
「ええ、責任もって対処するわ。長官にも私から言っておくわね」
ブランは軽く手を振り去っていった。
その背中を見つめながら喧騒の中でレイクはほっと息を吐いた。
リンはレイクの横顔をずっと見ていた。
数日後、クレファー邸の庭園に面したテラスにリンとレイクの姿があった。
「フォルナット子爵のことは聞いた?」
レイクはテーブルの上の皿から菓子をつまみながら訊ねた。
「はい、一昨日拘留施設で死んだそうですね。夜中に心臓が停まったと聞いています」
「半年前の傷をちゃんと治療しなかったのが祟ったらしい。検視した医者が言うには傷口から性質の悪い魔力性の病気に罹っていたってさ。その上、元々興奮しやすい性格で、君にプライドを打ち砕かれたりソル殿下から見放されたりといろいろな要因で心臓に負担がかかって――そのまま逝ってしまったらしい」
「裁判の前に死ねたのは彼にとって良かったと思いますよ。衆目に晒されるのは我慢ならなかったでしょうから」
「自分の命を狙った悪党にかける温情としては大きいな」
「私自身は借りを返しましたから」
リンは必要以上の感情を抱くこともなく、フォルナットの存在を頭から振り払った。
「《鳩の巣》にも捜査の手が入ったよ。ロイド・プライムは大人しく尋問に応じている。あの時も潔く負けを認めていたし、悪党なりに矜持はあったのかもしれない。ケレス・グレイズは命に別状はなく尋問もできる状態だ。こちらもそう時間をかけることなく落とせるだろう」
帝都警察は《鳩の巣》の捜査に当たって過去に依頼をした人間の洗い出しを行っていた。レイクの元に持ち込まれた殺人の依頼者もいずれ日の下に引き摺りだされるだろうと彼は語った。
リンは姿勢を正した。
「レイクさん、貴方には本当にお世話になりました。今回の事件を早期解決できたのは貴方の御協力あってこそです。報酬は言い値で支払う準備ができています」
レイクは厳かな雰囲気のリンに思わず苦笑した。
「報酬はガレリスの野郎と宝石商の奥方から支払ってもらっているから問題ない。結果的とはいえ俺は依頼された仕事を完遂しただけだ。それでも恩に感じると言うなら――そうだな、俺のやりたいことを君にも手伝ってほしい」
「アマリさんたちのように?」
「ああ、是非力を借りたい」
レイクが手を差し出す。リンは顔を少し赤らめて微笑み、自分も手を差し出して握手を交わした。
「そう言っていただけたら幸いです。私も貴方といればやりがいを見つけられそうです」
それから数分後、庭園を並んで歩く二人の姿をガーランド・クレファー伯爵は二階の窓から見つけた。
彼は近くにいたギルトレットを手招きした。
「ギルトレット、レイキシリス・ブラウエルについて調べてくれ。彼の性格、嗜好、能力、交友関係など余すことなくな」
「何か気になることでも?」
執事が訊ねると、ガーランドは叫んだ。
「気になるなんてものじゃない! ようやく“暴れ馬”に手綱をつけられる乗り手が現れたんだ。これを逃がす手はないぞ!」
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