回想 中等部三年の夏休み①
中等部三年の夏休みに入ったばかりの頃だったと思う。
俺は何かの部活で学校に来ていた。演芸部だったのか演劇部だったのかよく覚えていない。
とにかく午後三時に近い時間帯だった。俺は校内をうろついていて、良い匂いに引き寄せられた。
この甘い匂いは何だ。正体を突き止めずにはいられない。
それは家庭科室から漂って来ていた。
気になって覗くとそこには多くの女子とともによく知るメンバーがいた。
「何だこのうまそうな匂いは?」
俺は大袈裟に驚いて自分の存在を彼女たちに示した。俺がよく使う手だ。
「あら
「
時々梨花は
「家庭科部のお手伝いでクッキーを焼いたの」
純香が言った。エプロン姿のプリンセスも可愛い。
「食べる?」と明音が訊く。
「うん」俺は力一杯頷いた。
「えっと、大地にはねえ」梨花が出来上がったクッキーの中から適当なものを選んだ。「小物には普通のね」
可愛い顔してひどい言い草だ。星形のクッキーだった。
「じゃあ、あたしがハート型をあげるよ」こういう時の明音は太っ腹だ。
「ほれ。感謝しな」口は悪いが。
サクサクっとした食感がした後、甘い味が口の中にひろがった。
「うまい! 美味しいな」
「こちらもどうぞ」
純香がプレートにいくつか載せてくれた。悠然と用意した分、たくさんくれる。
「召し上がれ」プリンセスの笑顔は極上だ。
「ありがとー」俺は至福のときを迎えていた。
そこには家庭科部の先輩たちもいた。高等部の女子だ。ただ、おっとりとしたタイプが多いらしく、俺のような異分子が入り込んでも冷たい目を向けることはなかった。
「
「明音のレシピは完璧だね」梨花が絶賛する。
男みたいなところがあるが明音は家庭科が得意だ。コスプレ衣裳は作るし、料理をさせると右に出るものがなかった。家では年の離れた双子の面倒を見ていたらしいからすでに育児の経験もあった。
「明音をお嫁にもらいたい」梨花が明音にまとわりつく。
「あたしが嫁を貰うんだよ。鍛えてやるから梨花が嫁な」
「えええ!」
何だ、この光景は。顔がほころんで崩壊するぞ。
慎ましい先輩女子たちは微笑ましく明音たちを見ていた。
「その特上品はどうするんだ?」
俺は彼女たちが大事そうに囲っている特別そうなクッキーのことを訊いた。
その一部だけ、さらに美味しそうに見える。形もよくできていて、俺がもらった不揃いのものより明らかに出来が良い。
「これはダメだよ」梨花が明音と目を合わせた。
「写真に撮ってから先輩方の品評会にまわすの」純香が答えた。
それなら仕方がない。俺は諦めた。
そのタイミングで家庭科室にまた来訪者があった。中等部の夏服を着た男女。中等部生徒会長だった
その頃の
「失礼します」
真っ先に礼を尽くさなければならない相手を見つけて接遇する。それが泉月だった。その姿はとても
さらさらの黒髪は下ろしていた。腰の辺りまで真っ直ぐに下りている。睫毛が長く、伏せ目がちになることが多いから特徴的だ。
整った顔立ちでとても美しい。美貌の恭平の隣にいても全く遜色なかった。ただ、表情は乏しい。笑うことはなく、クールビューティと評されていた。
横についている恭平もまた静かに頭を下げる。
先輩女子たちは恭平の美貌にやられて顔を赤くした。
今みたいなチャラさはなく、その頃の恭平には慎ましさがあった。決して会長の泉月より目立とうとはしなかった。それでも女子には目立ってしまったが。
二人は生徒会として校内をまわっているとのことだった。
「オーブンは異状なく動いていますか?」などと泉月は訊いていた。火の元が気になるということか。
「恭平」梨花が恭平を呼び寄せる。
その横で純香がクッキーを取り分けた。
何か役割分担されているみたいでその鮮やかな手口に俺は舌を巻いた。そしてそれを見て俺は自分が「小物」だったのだと思い知らされた。
「食べて」梨花と純香がクッキーを並べたプレートを恭平に差し出した。「食べる?」ではなくて「食べて」だ。
「何だよー、俺とは扱いが違わね?」
俺は
恭平は俺を無視してクッキーを一枚手に取った。そしてかじる。サクッとした音がして、恭平は笑みを浮かべた。「美味しいね」
「でしょう?」梨花は嬉しそうだ。
すると遅れを取り戻すように明音が前に出てきた。「仕方ないわね、特上品を分けてあげるわよ」
明音はとっておきのクッキーを並べたプレートを手にしていて、その一枚を恭平の
それをパクッと食べる恭平。何だか餌付けされているみたいだ。明音の指も恭平食べたんじゃね。
いったい俺は何を見せつけられている?
それは品評会用ではなかったのか?
「大物って、恭平のことだったのか」
俺がボソッと言うと、純香が目を細めて微笑んだ。それは肯定を意味した。
まだその頃の恭平はS組女子たちに面倒を見て貰うような手のかかる美少年だったと俺は思う。
「美味しいよ」恭平は明音と目を合わせた。
「本当? 嬉しい。あたしが焼いたんだ」明音は心底嬉しそうに微笑んだ。
恋する女の子みたいな顔で笑う明音の顔を俺は初めて見た。
「ずるーい。私もとっておきを渡す」
その頃の梨花はグイグイ行くタイプだった。まわりに自分がどう見えているか意識せず感情のままに動く。それもまた眩しい姿だった。
恭平は女子に囲まれてクッキー責めにあった。
梨花と純香に恭平を譲ったかたちになった明音は、静かに
「私は……」泉月は逡巡して固まった。「校内でお菓子をいただくのは……」
「これは家庭科部の活動だよ。文化祭に向けて腕を磨いているの」
明音も梨花も純香も家庭科部の部員ではなかったが、こうしてお邪魔して調理させて貰うことは珍しくなかった。
「だから食べて。そして感想を聞かせて」
「あなたがそう言うのなら」
堅物として孤高の存在になりつつあった泉月だったが明音の言うことはよく聞いた。
明音が手にした一枚に顔を寄せ、そのまま口にした。
ここでも餌付け?
俺は誰かに何かを食べさせて貰う泉月を初めて見た。
「とても美味しいわ。甘くてサクサクとしていて、それに温かい」
「焼いたばかりだからね」
夏だったが家庭科室は寒いほどエアコンが効いていた。
「紅茶もどう?」
「いただくわ」
何だか尊い光景だ。それを見ることができて俺は得した気分になった。
後から思えばこの時すでに俺たちの関係を揺るがす
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