第9話 2人のゴーフル

 一人暮らしをする自宅から伯父の家までは自転車で20分。伯父や伯母から米を取りに来いだの、煮物を作ったから分けるだのと度々連絡が来ていた。

 既に25歳。良い歳にもなって身内から気にかけてもらっていることが恥ずかしかった。食料はありがたかったが、無視することもあった。

 その日も、バイト終わりにスマホを確認すると、伯父からの不在通知が入っていた。ただ、いつもと違って連続で5回ほど着信が入っており、不審に思いながらもとりあえず留守電を確認した。

 そこで、自分の実の母が癌のため入院したことを知った。


 母には自分が小学3年生の時以来、会っていない。父が他の女性と出て行ったのをきっかけに、気が狂ったようになり、いなくなったのだ。

 今までどこで何をしているのかも知らず、急に入院したと言われて、心配より先に戸惑いがあった。

 しかし、そんな自分をよそに、伯父は「行くぞ」と、家に着くやいなや急かしてきた。伯父がサンダル履きで飛び出そうとしたので、思わず止めた。母はここから遠い場所にいるものだろうとずっと思い込んでいたからだ。家庭を捨てて逃げた人は、人目を避けながら、後悔と共に暮らしている。そういうものだと思っていた。

 しかし母は、ここから電車で数駅のところの病院にいると聞き、拍子抜けした。

 そのことは伯父も電話を受けるまで知らなかったらしく、

「世の中って狭いねんなぁ」

 と、的を射ているのか射ていないのか分からないことを言った。癌の宣告を受け、自身の死期を感じ、余生を地元で過ごそうと思ったのだろうか。と、伯父は考えていた。なるほど、余命が少ない人はこんな田舎でも恋しくなるのかと感じた。


 久しぶりに会う母にお見舞いの品を買おうと思った。自分はゴーフルを買って行きたかった。

 ゴーフルというのは、薄いクリームをこれまた薄いウエハースで挟んだ円形状の菓子。

 あまり母との思い出は多くはないが、昔、知り合いから貰ったゴーフルにえらく感心していた記憶がある。ウエハースを器用にスライドさせて二つに分け、クリームが多く残った方を自分に分けてくれたのだ。その時の母は優しかった。

 ゴーフルを求めて商店街を覗いたが、中々見つからない。どうやらゴーフルは風月堂という老舗菓子店のものらしい。伯父に「こんな田舎の商店街にはない」「その間に死んだら元も子もない」と縁起でもないことを言われて急かされたが、一番近いターミナル駅の駅ビルにならあると知り、渋る伯父を連れて買いに行った。


 無事、ゴーフルを手に入れたが、病院に近づくにつれ、ひどく緊張した。どういう顔をして会ったらいいのだろう。母はこれまで後悔の思いに駆られていただろう。その積年の思いに自分はどう応えればいいのだろうか。そんなことを考えていた。


 病室をナースステーションで聞き、個室に向かっていくと、中から賑やかな話し声が聞こえた。疑問に思いながら覗くと、そこは大勢の見舞い客で賑わっていた。

 母は首を起こすことすら億劫そうに、完全にベッドに身を預け、周囲の話を聞いているのみだった。

 まさか先客がいると思っていなかった。自分たちが割って入っていける雰囲気ではないと察し、伯父と二人、廊下で待つことにした。

 先客は10人弱くらいおり、母とどういう繋がりなのか分からないが、年配から子供までいて、皆、浅黒く、聞き慣れない方言を発していた。

 病室前のソファに座り、しばらく開いた扉から中の様子を眺めた。

 一人の若い女性が母の脇に座り、手を握っていた。中年男性たちが、強い訛りで冗談のようなものを言うと、母は笑い過ぎて苦しいからやめてと、手で制していた。子供たちは、キャリーケースに乗って遊んだりしていた。

 そこには自分が知らない母の生活があった。

 しばらく待っていたが、中の盛り上がりは収まりそうになく、少し離れたところに移動することにした。


 そこで時間を潰していると、一人の女性が声をかけてきた。先ほど母の手を握っていた人だった。

「もしかして、息子さんですか?」

 どうやら話を聞くと、この女性が電話をくれた人らしい。

 母の携帯電話の連絡帳から伯父のことを知ったようで、「是非、病室に来て下さい」と促してくれたが、自分は断った。

 凄い充実している。

 自分が知らない間に母の人生が凄い充実している。そのことが受け入れられなかった。

 死に際にあれだけの人が集まってくれる。自分が知っている母にそんな人望はないはずだった。自分の方が場違いにすら感じていた。

 どこか、自分の前からいなくなった母は、一人罪悪感を背負って暮らしている。そして、自分の顔を見るや否や泣きじゃくり、許しを請うだろうと思っていた。その時の返事の言葉まで用意していたのだ。すべての予想が外れ、拍子抜けしていた。憎かったし、悔しかった。


 お見舞いを断ったことに、その女性は驚いた様子で、明日手術をするから、その前に会っておいた方がいい、と勧めてきたが、自分は、

「また来ますんで」

 と言い、立ち去った。

 家に着きしばらくすると、ドアを叩く音がした。伯父だった。

 伯父は、「なんで帰ってん」「最後なんやから会え」と責めてきた。自分は何も言わずただスマホを見ていると、伯父はベッドに腰を下ろし、会話の糸口でも探すように、失踪してからの母の暮らしについて話し出した。どうやら先ほどの母の知り合いから聞いたらしい。

 宮崎の伊勢ヶ浜というところに住んでいる。籍こそ入れていないが、男の人と暮らしていて、一緒にサーフショップをやっているという。

 我慢ならなかった。自分の知らない母に会いたくなかった。それなのに目の前の男は淡々と傷口をえぐって来る。

「そういうの嫌やねん!! 帰れや!!」

 初めて伯父に乱暴な言葉を使った。伯父は怯んだが、それでは威厳が保てなくなると思ったのか、

「うるせぇ!!」

 と、一番簡単な言葉を放ち、殴ってきた。

 伯父は調子がついたのか、

「俺の息子として認めない!」

 などと見当違いなことを言って、自分を力づくで部屋から引きずりだした。

「今から行くで」

 もう散々だった。

 どうでも良くなって、引きずられるようにして病院に行くことにした。


 病室には先ほどの団体はおらず、母は一人寝ていた。伯父はそんなことはお構いなしに近づき、制止する自分を無視し、母の体を揺すった。

「寝てるとこ悪いけど、見舞いにきたで」

 母は薄く目を開けた。そして、自分を認めると更に目を細めて笑った。自分はどう振る舞ったらいいのか、どんな顔をしていたらいいのか分からず、まるでふてくされた子供のように突っ立っていた。だからか母は、

「昔と何も変わってないわね」

 と笑った。もっと、真っ当な精神状態の時に会いたかった。

 間近で見ると、母はますます痩せて見え、実際の年月以上に老いて見えた。

「老けましたね」

 こんなことを言うつもりはなかったのに、照れ隠しで酷いことを言ってしまった。続く言葉が見当たらず、また突っ立っていると、

「ほら、渡すもんがあるやろ。苦労して買ったんや」

 伯父が小突いた。自分のタイミングで出したかったが、母が「何?」と言い出したので、仕方なくゴーフルを出すことにした。

「ありがとうね」

 母はサイドテーブルにその包を置いた。その場で開けて食べて欲しかった。あの時みたいに器用に分けられなくても、二人で食べたかった。そう思っているのが伝わったのか、

「食べたいねんけど、今は食べられへんのよ」

 と、母は謝った。

「昔、食べたわね。二つに分けてね」

 母はそう言った。自分は泣いてしまった。自分だけの思い出じゃなかった。覚えてくれていたのだ。自分は思わず顔を伏せた。泣き顔を見せたくなかった。

 母は自分の前からいなくなったことを謝った。何度も繰り返し謝った。その声は細く、泣いていた。自分は母の肩をさすり、抱きしめた。


 母が死ぬ前にわだかまりが消えて、思い残すことはないと思っていたが、手術により母は全快した。というか、別に元々、危ない状態というわけでもなかったらしい。再発の可能性はあるが、しばらくの入院を経て、通常の生活に戻れるという。伯父が癌だと聞いた時に勝手に末期だと思い込んでしまったようだった。

 伯父の早とちりにまた憤慨しそうになった。最期だと思っていたから少々感情的になったし、母のことを許そうと思えたのだ。

 母がこの病院に入院したのも、どうせ知っている先生がいるとか、有名な病院という理由だけで、余生を地元で過ごそうなどという気持ちはなかったのだろう。その証拠に、すぐに宮崎に戻ってしまった。退院後、連絡くらいくれると思っていたがそれもなく、その淡白さにも気が抜けた。

 母は無事、癌の手術を終え、息子とも和解でき、心置きなく宮崎での生活を謳歌しているに違いない。

 それからというもの、母が入院していた初夏を迎えると、嫌がらせのようにゴーフルを送りつけることにしている。

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