第7話 助手席の風景

 20才の頃の自分は、この先もずっと何もない片田舎にいることに漠然とした不安を感じていた。

 小学校や中学校は6年間、3年間と期間が決まっているからたとえ不満を持っていても我慢できた。しかし、卒業し、働きに出てしまうとそこから先は区切りがない。これからずっと同じ場所に居続けると思うと憂鬱になるのだ。

 金村とはお笑いの件で一度打ち合わせをしようと言っていたが、あの日以来、連絡がなかった。別に金村とのお笑いに期待していたわけではないが、変化を求めていた自分は肩透かしを食らった気分だった。

 きっかけさえあれば変われると思っていた。


 そういうわけで、一人暮らしをしたいと考えた。

 場所は天王寺あたりか、思い切って難波でもいいか……。などと不動産屋のフリーペーパーを見ていると妄想は止まらず、内覧だけなら無料だと知るや、実際に物件を見に行くことにした。

 不動産屋に入るのは初めてで、緊張して店内に入れず、軒先の物件の貼り紙を見ていると、

「大学生?」

 と、声をかけられた。『岸本れい子』。胸の名札にはそう書いてあった。

「いや、フリーターでして」

 と言うと、

「一人暮らししたいんや」

 と、ぶっきらぼうに言って、店内に促された。話が早そうだった。

 岸本さんは自分より少し年上に見えた。若いのにこなれた接客をしていた。

 カウンターで奈良と大阪の路線図を見ながら相談に乗ってもらったが、次第に自分の口数が少なく、声も小さくなっていくのが分かった。通勤圏内がいいのか、それとも引っ越し先で仕事を新たに探すのか。そもそも地域による家賃の相場が分からないし、今のバイト代から家賃をいくら程度まで出せるのかも計算していなかった。あまりにも無計画すぎた。

 要領を得ない自分を見て、岸本さんは大きく笑った。

「ほんまに一人暮らししたいだけなんやな」

 岸本さんは、物件探しのポイントをリストにしてくれた。親身な対応は、まるで弟の友達の面倒でも見ているかのようだと感じた。それを持って家に帰った。


 翌日、また不動産屋を訪れると岸本さんはいた。

 連日の来店が少々恥ずかしかったが、岸本さんは笑顔で接してくれた。

 今回は準備をしてきたので話は早かった。希望家賃からいくつか物件を提示して貰う。

 ・生駒市、1K、15㎡、家賃3万、和室。

 ・八尾市、1R、15㎡、家賃3万3千、最寄り駅から徒歩30分。

 ・岸和田市、1R、17㎡、家賃3万、風呂無し。

 正直、どこも冴えない街ばかりだったし、物件としてもピンとこなかった。

 しかし、理想の生活からは遠いものの、今の収入を考えると全て妥当だった。

 腑に落ちない様子の自分を見て、岸本さんは、

「とりあえず見に行こうや」

 と車を出してくれることになった。


 軽バンで一番近い生駒市の物件へ向かった。

 後部座席に乗り、運転席斜め後ろから岸本さんを見ていた。片手ハンドルの男前な運転だった。

「運転お上手なんですね」

 と声をかけると、大学時代から時々この仕事を手伝っているらしく、運転にも慣れているということだった。この不動産屋は父親の経営する会社らしい。

「この辺だと運転出来へんとどこへも行けへんしな」

 とも言っていた。


 生駒市の物件は日当たりがすこぶる悪く、埃っぽい畳の匂いの印象しか残らなかった。

 申し訳程度に部屋を見回ると、岸本さんも申し訳程度に収納スペース等の説明をし、すぐに車に戻った。

 部屋自体も不満だが、なにより不満なのは場所だった。

 先ほどの物件は今の家からほど近く、職場にも一番通いやすい場所ではあるが、その反面、生活を変えたいと思っているのに、今とあまり雰囲気の変わらないこの街には魅力を感じられなかった。

 その旨、岸本さんに伝えると、

「分かる」

 とだけ言い、エンジンキーを回した。

 岸本さんは、神戸の大学の国際学部に通っていたそうだ。その大学にしたのは、神戸という街に憧れたからで、街で選ぶのも大事だと思う、とのことだった。

「大学って楽しいですか」

 自分はふと気になった。岸本さんは、

「そりゃ楽しい」

 とだけ言った。

 時々、周囲からキャンパスライフの様子を聞いていたが、誰もが一様に以前より垢抜けていた。

 酒を飲み、彼女を作って、サークルで新しい趣味を得て、ファッションを覚え、あらゆるものに感化されている印象だった。そんな友人たちの短期間での変化を目の当たりにして、正直羨ましかった。


 八尾市の物件。ここは先ほどよりはましな物件だった。

 2階で日当たりも良く、収納も広かった。ただ、工場が近いため空気が悪く、外で洗濯物を干している人はいない。

 ろくに見もせず車に戻り、

「ここも悪くないですねぇ」

 と言うと、

「決める気ないやろ」

 と岸本さんは笑った。ものの2分程しか見てなかった。自分は、

「決めさす気もないでしょ」

 と言い返した。岸本さんは部屋の説明もせず、ベランダから向かいの更地を見ていた。

 自分はもう岸本さんといることを楽しんでいるだけだった。

 岸本さんも自分を客というより、話し相手として、仕事の息抜き的な気持ちで接していたと思う。

 2件目が終わると、運転中「ごめん」と断ってタバコを吸い出した。

「いる?」

 と差し出された。高校の時ふざけて吸った以来だった。絶対にむせるのは分かっていたので、ふかすにとどめたが、それでもメンソールは刺激が強かった。


 家賃とか職場とか家族のことを考えなかったら、どんな街に住みたい? という話になった。自分は神戸だった。神戸で過ごした楽しかった高校時代の思い出のせいだ。

 岸本さんも神戸とのことだった。それも自分と同じように、大学時代を過ごした場所だからだという。

「あの時より楽しいことはもうないんやろうな」

 と、岸本さんは呟いた。


 もう内覧はどうでも良かった。どうせ次も同じような物件なのだろうと思った。

 自分は冗談めかして、

「次の角で曲がって、高速乗っちゃって下さい」

 後部座席からタクシーのごとく言った。標識には神戸方面の高速入り口が見えていた。すると、

「了解です」

 と、インターチェンジに突入した。

 まさか冗談を真に受けると思っておらず、「すいません。冗談です」「変なこと言ってすいません」などと慌てたが、岸本さんは笑って、あたふたする自分を手で制し、

「息抜き、息抜き」

 と言った。

 自分はそれでも、仕事中なのに、と気になったが、

「大丈夫。家族経営だから」

 と言っていた。家族経営だと何をしても許されるものなのだと納得した。

 車は湾岸線を快調に走った。

 大阪湾が陽を反射し煌めいている。まだ夕暮れまで時間があった。

「行きたいとことかあるん?」

 と岸本さんは言った。

 神戸でしたいことは山ほどあった。昔通ったボーリング場やゲーセン、元町高架下のショップも久しぶりに覗いてみたい。だが、それは自分だけの思い出の場所だ。岸本さんにも楽しんでもらいたかった。それに、岸本さんのことをもっと知りたかった。

 それで、大学生時に住んでいた家を見に行きたいと言った。

 岸本さんにとって想定外の返答だったのだろう、「なんやそれ」と驚いたようだったが、間を置いたのち「じゃあ思い出巡りに付き合ってもらうか」と言った。


 その部屋は、阪神電車・春日野道駅近くの5階建てマンションだった。1年前まで住んでいただけあって、迷うことなく近くのコインパーキングに車を止めると、そこから歩いて向かった。

 岸本さんは大学時代の思い出を語ってくれた。

 アカペラサークルの新歓コンパで憧れていた先輩の前で嘔吐してしまい、仲の悪い同級生にお持ち帰りされた話。

 後期テストで彼氏の為に必死にカンニングペーパーを作ってあげていたが、その間に浮気された話。

 はたから聞くと楽しい思い出に聞こえないのだが、話している岸本さんは楽しそうだった。

 と、マンションに着いた。それは自分が内覧したアパートより数段グレードの高いところだった。こんなところに自分とそう歳の変わらない人が住めるんだ……などと感じた。

 岸本さんは、その2階部分の灯りがついてない部屋を指差すと、

「まだ誰も住んでへんのかな」

 と呟いた。

 ここに大学3回生から卒業まで彼氏と住んでいたらしい。卒業して結婚の話も出たそうだが、彼氏は東京へ行ってしまって、それきりだそうだ。

「ついていかへんかったんや」

 と聞くと、

「私、一人っ子やから」

 と、言った。

 当時の自分は「一人っ子だからなんなんだ」と意味が分からなかったが、

「そうですか」

 と、分かったような返事をした。


 すると、2階の部屋に灯りがついた。

 若い女性がカーテンを開け、会話する男性の声も聞こえてきた。

「岸本さんもあんな感じやったんやね」

 と、声をかけると、岸本さんは目も合わせず、

「帰るか」

 とだけ言った。


 どこか声をかけることが憚られ、無言のままコインパーキングへ向かった。

 岸本さんの背中が寂しく見えた。大切な思い出の場所はもう他人のものになっている。

 神戸に行こうなどと言ったことを後悔していた。

 後部座席に乗り、岸本さんを斜め後ろから見た。日が傾き暗くなった車内では表情がよく見えなかった。

「ごめんなさい」

 自分の声はちょうど車のエンジン音にかき消され、岸本さんには届かなかったようだった。助手席に座りたかった。何も言えなくても、近くにいたら岸本さんの気が少しでも紛れたかもしれない。

 湾岸線にさしかかる頃、ちょうど大阪湾に夕陽が沈み、空がグラデーションを作っていた。

「あぁ、きれい」

 岸本さんは呟いた。

 助手席からなら、岸本さんと同じ景色が見られただろうなと思った。


 結局、最初に見た生駒市の物件で一人暮らしをすることにした。それは単に一人になっただけの一人暮らしで、代わり映えのない生活が続いた。

 金村からは相変わらず連絡はなかった。

 何か変わりたいのなら、自分から行動を起こすべきだと思う。ただ、そこまでの熱意はなかった。そういう自分にはこの町がお似合いなのだろう。

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