第10話

 わたしの問いにアリカは顔を上げず、書類に何事かを書き込んでいる。

「冷蔵庫に残しておいた火星ソーダのオリジナル、あるいはエーテル。あんたが過労でぶっ倒れた時、冷蔵庫を開けたらだいぶ減ってた」

「味見に使ったからね。そりゃあ、減るよね」

「あの時、母親が風邪の時に飲ませてくれたって言っていたのを思い出して、飲ませてやろうかとも思ったんだよ。一瞬だけどね」

「わざわざ自家製ポカリ作ってくれたんでしょ? ありがとうねえ」

「でも、結局火星ソーダに欠けていた最後のピースはビールだった。火星ソーダはビアカクテルだった。飲ませなくて正解だよ」

「ショウガにハチミツなら、滋養強壮の薬になるよね。生薬っていうの? 養命酒みたいなもんだったんだって思ったよ」

 アリカは電卓を叩いて、数字を書き写していく。

「大人なら、そうかもね」

 アリカのシャープペンシルは金属軸の製図用だ。いい文房具を使っているのを見ると、うらやましくなる。

「でも、アリカの思い出が本当なら。アリカの母は、風邪をひいた幼い娘に、アルコールを飲ませたことになる」

 アリカはそうだね、と生返事だ。わたしは演説が苦手だ。自分だけが話し続けるのは、焦れる。

「火星ソーダに薬効がないとは言わない。でも、あれは子供には絶対飲ませない。何があっても」

「うちの母を信用しすぎだよ。底抜けのアホだったかもしれないじゃん」

 まともに取り合おうとしないアリカにむっとして、わたしは反射的に言ってしまう。

「アリカよりは、アリカの母親の方がまともだったって考える方が妥当だよ」

 これにはアリカも思うところあるのか、書き物の手がぴたりと止まる。

「言ってくれるね」

 ようやく話をする気になったようだ。またのらりくらりとかわしはじめる前に、ここはストレート勝負。

「因果が逆だったんじゃないの、アリカ。小さい時のあんたは、体調を崩したから火星ソーダを飲んだんじゃなくて、火星ソーダを飲んだから体調を崩した」

「まあ、お酒だったんだし。アルコールがてんでだめ、ってことはあるよね」

「いいえ、違う。あんたの言葉を信じるなら、少なくとも四度、アルコールを口にしている。幼少期、ミュアルトゥファが現れた日、寝込む前の味見、そしてレプリカの完成の日。そのうち、体調を崩したのは幼少期と味見の時。毎回のことじゃない」

「打率五割。恐怖のバッターだね」

「そもそも、あんたは過労って診断されてる。酔い潰れたならそうとわかるはず」

「藪医者だったか。かかりつけの病院変えようかな」

 懸念通り、アリカは軽口でどれもこれも片付けようとする。

 そうは行くか。今回ばかりは、逃がしはしない。

「その、ジョークを言わなきゃ気がすまないところ。迂闊だったよね」

「へえ?」

 わたしの挑発もまた、十八番ではある。人を苛立たせる話し方だと思う。

「あんたは寝て起きて、知恵熱だ、って言ったんだよ」

アリカはシャープペンシルのノック部分をこめかみに押し当て、思案顔。

「……ああ、言ったね。頭の使いすぎは誤用だって話、した」

「今回は、その誤った用法での知恵熱の話をしよう。脳はもっともエネルギーを使う器官だから、使いすぎで消耗するってことはあるでしょう。じゃあ、短時間でぐったりするくらい脳を酷使した作業って、何?」

「そりゃ、受験勉強だね」

 嘘をつけ。この手の話で脱線すると長引くから、取り合わない。

「ミュアルトゥファはずるいよね。自転車の練習で転んでも、プロテクトスーツのおかげで痛くもなんともないんだから。わたしはあざやらすり傷やら作って乗れるようになったのに」

 結局ふらつきながらも自転車に乗れるようになったミュアルトゥファだが、過保護なスーツがなければわたしよりもっと長く、練習の時間が必要だったろう。痛い思いをして、体得したことだろう。

「ああ、あれね。多分、ミュアルトゥファは本当に乗れるようになったわけじゃないと思うよ」

「へっ」

 駆け引きであろうその言葉に、今度はつい釣られてしまった。

「サイコキネシスだよ、葛葉。魔法で自らに外的な力を作用させれば、見えない補助輪をつけるようなことぐらいはできる」

 ミュアルトゥファの旅立ちの日、種は分かっているとアリカは言った。そういうことだったのか。

「苦手分野を、得意なことでカバーしたわけだね」

「帳尻を合わせた、とも言える」

 アリカのその言葉で、わたしは本題に立ち返った。帳尻が合った。ありがとう、アリカ。

「本当にね。でも、使えるものを使うのは当然と言えば当然だ。地球人は練習しなければ自転車には乗れない。火星人も、魔法は練習しなければ使えない」

 書類受けに手元の紙を移し、アリカは顔を上げた。

「それで?」

 分かっているくせに。とどめを刺せというのなら、わたしは躊躇しない。

「あんたが倒れたのは、単なる過労でも、酔っ払ったからでもない。火星ソーダのストックが減ったのは、味見のしすぎでもない。火星ソーダを使って魔法を唱えようとしたから、過負荷がかかったんだ」

 わたしの言葉を、アリカは否定しなかった。小さく頷き、そして、言う。

「驚いたね」

「まるで論理的じゃないし、こじつけもいいところだと思うけれど」

 わたしの自虐に、そうじゃない、とアリカは笑った。

「違うって、葛葉。驚いたのはそこじゃない。だってそうでしょう。この結論に達するには、許容しがたい条件が必要なんだから」

 そう。この理屈は、清津アリカが火星人であるという前提に立脚している。

 魔法を使えるか。をわたしが問うということは、目の前の彼女を、違う星から来た者だと認めるということだ。

 何をいまさら。分かっていたことだ。火星のエーテルと同じ液体に、地球人が、火星ソーダと名付ける。

 そんなのは偶然ではない。

 ミュアルトゥファを問い詰めたあの夜から、いやもっと前から、わたしはアリカが、わたしよりもミュアルトゥファの側に近い人間だと、感じ始めていた。

 そういうことだ。分かっているんなら、何か言ってくれよ。

「そんな、せがむような顔をされると、ちょっといけない気持ちになっちゃうよ。やばいね」

 つり目がちな大きな瞳を細めて、いたずらっぽく笑う。しかし、その目をじっと見つめても、何の答えも得られそうにないのだ。

 あくまで、こちらの出した札に対して返すことしかしないというわけか。

 遠回しにせっついても、応じる気はないというなら。

 言わなければならないだろう。

 どうせ、アリカにはお見通しなのだから。

「絵を見たよ」

 わたしの短い告白。

「そっか」

 アリカはなんでもなさそうに、そう呟くだけだった。

 高校三年の夏に、隕石騒ぎがあった。わたしは友人に連れられ衝突現場へ向かい、しかし警察に門前払いにされる。引き返すわたしたちは、アッシュブロンドの少女と出会う。彼女は火星人を名乗り、わたしたちは彼女を匿いながら、魔法の液体の制作に没頭した。

 火星人とのひと夏の交流。彼女との偶然の出会いで、遠い記憶の中にあった味と、新たな友情を手に入れて、わたしたちはまた一つ大人になった。

 思い出として語るなら、どこまでも綺麗になるものだ。

 つい昨日まで、ミュアルトゥファは確かにあのアパートにいた。わたしの体験は未だ地続きだ。だからこそ断言できる。これは、真っ当で背中がかゆくなるような話ではない。

 わたしはさんざん飲み明かした後、アリカの部屋で一枚の絵を見た。

 鉛筆で執拗に塗りつぶされた後ろに見えた、赤。

 目を凝らして、わたしはそれが何であるかを悟った。

 赤鉛筆で描かれたのは、丸い球体。すなわち、火星だ。

 あの絵は、描かれた赤い星を、宇宙の闇に葬らんとばかりに、黒鉛の線をめちゃくちゃに重ねたものだった。

 憎しみをこめて描かれた、子供の絵だった。

 わたしはアリカについて、確かめようとしなかったことが一つある。

 彼女に火星ソーダの味を残した、両親の行方だ。七年前に火事で亡くなったという噂。

 四年三組、清津アリカ。

 当然の符合だと思った。

 潮崎先生の言葉を思い出す。今でこそ宇宙に純粋な魅力を感じるけれど、最初は悪い宇宙人をやっつけなきゃって一心だった、と。

 わたしは、アリカと出会って三年も経ってはいない。

 彼女の心を見透かせるなんて思わない。

 けれど、なんとなく想像はつくのだ。

 アリカはかつて火星に恋い焦がれ、それがある瞬間から、憎悪に裏返ったのではないのかと。

 文化祭出店、学生起業、経済学、打倒コカ社。それらすべてが虚言ではなく、彼女のロードマップだとすれば。

 彼女はこの地球で地位を得ようとしている。実権を得ようとしている。そして手始めに、地球の科学史には載らない、枠組みの外にあるエネルギーの一端を得た。

 火星人にしか使えない魔法。地球人には無用の長物。

 だとしても、火星人のルーツが地球人類だとすれば、逆立ちをしているうちに、魔法は使えるようになってしまうだろう。人類は月にまで行ってしまったのだ。

 そして、最終目標はどこにあるのか。

 ぐちゃぐちゃになった、火星の絵。

 夢が打ち砕かれ、悪夢が生まれる。軽やかな絶望は裏返り、おぞましい希望へと化けた。

 わたしには、地獄を現出させようとするアリカの姿しか、思い浮かばない。

 アリカは、火星に復讐しようとしている。火星が自らを捨て、両親を焼き殺したと考えている。

 だから彼女は地球人としてこの星に根ざし、そこから火星へ手を伸ばし、握りつぶすつもりだ。

 悪意などどこにあろうかといわんばかりの笑顔で。すべては冗談なのだという風に。ミュアルトゥファの前ですら、毛ほども悪意を見せずに。

 オリジナルドリンクに火星ソーダなんて名前をつけて、火星儀をくるくる回して、火星大王なんておもちゃで遊ぶ。正真正銘の火星人。

 あれだけ火星ソーダにこだわって、実験の最終盤で彼女が優先したのは、ロケットの打ち上げ中継だった。火星ソーダは、手段にすぎない。

 推論の中で、一つだけ、どうしても理由が分からないことがあった。

 それは、アリカにはミュアルトゥファの遮蔽魔法の効果がなかったこと。

 根拠のない憶測を続けるならば、わたしはこう考える。

 あるいはそれこそが、アリカが地球にいる理由ではないのかと。

 潮崎先生が同居している宇宙人の話。竹取物語。かぐや姫は何故地球へやってきたか? 古典の授業で習った。罪人だから地球に流されたのだ。

 人間は歴史を繰り返す。どこでも、同じようなことをする。結局、同じ枠の中で、繰り返す。

 だとすれば、アリカは恐らくは今も、監視をされているだろう。

 監視者は潮崎先生かもしれない。はたまた、十日市かもしれない。見極めることはできない。

 ミュアルトゥファもまた、火星からの牽制の意味をこめて送り込まれたように見えるだろう。

 わたし自身は、ミュアルトゥファは偶然この街にやってきたものだと理解している。だが、ミュアルトゥファに指令を下した人間がいるとして、その真意がどこにあったかまでは分からない。ミュアルトゥファは火星探査ロケットに細工をして打ち上げを阻止した、と思う。それでは、ミュアルトゥファの宇宙船の墜落にも、作為があった可能性はないか。

 疑いはじめればきりがない。そしてアリカは、全てを疑っているはずだ。

 屋島葛葉もまた、友人の顔をした監視者に映っていることだろう。

 アリカに、魔法を使えるか、と問うこと。

 それが彼女にはどう捉えられるのか。

 恐怖そのものだ。

 分かっていて、それでもわたしは問うた。

 何故なら、正体不明のままわたしが近くにいることもまた、彼女が恐れるに足ることだから。

 わたしがアリカの友人であることそのものが、彼女の負担になる。

 それならば、わたしは一歩踏み込むことを選ぶ。

 わたしはこれから、友人という立場に甘んじることなく、行動を持って示していかなければならない。

 アリカは注視する。事情の一部を知った人間が、どう動くか。

 この人間を手元に置いておくべきか、排除するべきか、どう処遇すべきか、考えるだろう。

 彼女はわたしを見る。わたしは彼女に、空っぽの手を上げて見せ続けよう。

 猜疑心の塊である火星大王には、言葉はきっと、届かないから。

 誰かが言ったように、わたしが清津アリカと対等でいるには、こんな歪なやり方しかないのだから。

「話は、それだけ?」

 わたしの長い思索を切るように、アリカはそう問うた。

「今はこれだけ」

 魔法を使えるのか、復讐が目的なのか、火星人なのか、何を訊いたところで、決してアリカは答えない。

 だから、話すべきことはもう何もない。

 アリカは白磁のような指で、火星大王の顔を弾く。ごとんという音がして、火星大王は仰向けにひっくり返った。

「喉が渇いたね。葛葉、飲み物買ってきてよ」

 アリカが財布を下投げでわたしに放る。

「いい度胸じゃない」

 せいぜい強がって笑みを作る。飲み物に毒を仕込まないぐらいの信用はあると、前向きに捉えられるから。

 高校の自動販売機のラインナップには炭酸飲料がない。無糖のウィルキンソンぐらいおいてくれてもいいのに。

 何がご所望かは計りかねたので、麦茶と紅茶を一本ずつ買う。好きな方をアリカに選ばせよう。

 廊下を歩いていると、木管楽器の音があちこちから聞こえる。吹奏楽部が廊下で音出しするのは原則禁止なのだが、ところ構わず譜面台は広げられている。わたしも口出しはしない。いかにも夏休みの学校という感じで、好ましかった。

 階段を昇って、二階へ。科学講義室が並ぶ一角、突き当たりの教室が生徒会室だ。日当たりが悪くて、なんとなく空気がひんやりしている。冬場はともかく、夏場は過ごしやすい。

 ペットボトルを胸の前で抱えたまま、指だけで生徒会室の扉を引く。

 教室の中に、アリカの姿はなかった。

 途端に、不安になる。

 二人でさびしい生徒会室。一人ではなおさらだ。

 前歯の裏側を、舌先でそっとなめる。

 喉が渇いていた。

 アリカが戻ってこないことには、飲み物の封は開けられない。

 わたしを待たせたまま、あっけなくいなくなってしまうんじゃないだろうな、アリカ。

 突然、室内からがたりと物音がした。

 わたしは飛び跳ねんばかりに後ずさった。

 恐る恐る、音のする方向を窺う。すると、アリカのデスクの上を、ブリキのオモチャ、火星大王が歩いていた。

 電池を入れても動かないはずのロボットが、哀れにも転ばされた王様が、電池もないのにのしのしと机の上を闊歩している。

 これが答えか、アリカ。

「ただいまー。おっ、早かったね」

 扉を開けて、アリカは生徒会室へと戻ってきた。

「なんで夏は暑いのにお手洗いには行きたくなるんだろうねえ」

 くだらないことを言う。ミュアルトゥファのスーツでも着ているといい。

「アリカ。手、ちゃんと洗った?」

「わたしをなんだと思ってるんだ」

 スカートのポケットから濡れたハンカチを取り出してひらひらと振った。わたしは軽く笑った。

「どっちがいい?」

 わたしは両手に持ったペットボトルを突き出した。

「……あ、コーヒーじゃないんだ」

 がっかりと肩を落とすアリカ。一言もそんなことは言わなかったので、わたしは有無を言わさず麦茶を投げつけた。

「まあ、紅茶よりは、麦茶かな」

 この理不尽にもいい加減慣れた。あるもので我慢してもらうしかない。

 しかし、アリカも詰めが甘い。十日市やミュアルトゥファには具体的指示をしたのに、わたしには横着をするからだ。

 さっき言われた言葉をそのまま返す。わたしをなんだと思っているんだろう。

 わたしは一番の友達についてさえ、まるで知らない薄情な人間なんだよ。勘違いするんじゃないぞ、アリカ。

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火星ソーダ @heynetsu

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