第9話

 風の音が聞こえる中、わたしたちはアパートの階段の前に立つ。

 明け方のニュースでは、ロケット打ち上げの失敗と、奇跡的に死傷者が出ないことがトップで報じられていた。十一時のストレートニュースの話題は、台風と順位が入れ替わっていた。

 昼を過ぎて、この街は台風の目に入ったようだった。先ほどまで激烈な雨が窓を叩いていたのに、今は青空さえのぞかせている。

 ミュアルトゥファが、ここを発つと言ったのは、昼食の後だった。

「この上ない機会でしょう。この暴風雨の中で、よもや墜落現場の歩哨がいるはずもありません」

 結局不時着じゃなく墜落だったのだ、とわたしは場違いなことを思う。

「天候の回復は」

「待ちません。台風に紛れて出発する方が観測も困難ですし」

「台風の目の間に、山まで着ける?」

「問題はそこです」

 アパートから墜落現場まで、決して歩けない距離ではない。けれど、歩いている間に吹き返しの風雨に飲み込まれてしまうだろう。

「その、ひとつお願いがあるんです」

 ミュアルトゥファは苦笑いを浮かべた。

「アリカさん。あの自転車を譲ってはいただけませんか」

「自転車?」

 ミュアルトゥファが指しているのは、練習に使っていたオンボロ自転車のことだろう。そもそも使っていなかったから、失ってもアリカは困らないだろうが。

「乗れるの……?」

 結局、ミュアルトゥファがまっすぐ走っているところを見ることはなかった。アリカが熱を出してから、練習するような時間はなかった。

 少し胸を張るようにして、ミュアルトゥファはこう言った。

「今朝、わたしは自転車にまたがり一本道をどこまでも走っていました。なるほど、自転車に乗るとはこういうことなのだ、それが頭よりもさらに深いところで理解されたのです」

「夢の話でしょ、それ」

 アリカは呆れた顔をしてミュアルトゥファを見た。

「大丈夫です。我に勝算あり、です」

 まだ酔いが残っているのだろうか、ミュアルトゥファは謎の自信に満ち溢れている。飲酒運転になるからなおさら止めなければならない。

「まあ、いいでしょ」

 けれど、アリカはあっさり了承した。戸惑うわたしに、

「種は分かってるから」

 と小声で囁いた。

 ミュアルトゥファは荷物らしい荷物を持っていないから、仕度の必要はなかった。

 ただ、まだ開封していない赤ワインを前にして、苦渋の決断を迫られていた。

「持っては帰れない……。いや、でも……」

 散々うなった末、赤ワインの封を切ろうとしていたので、わたしはミュアルトゥファの頭をはたいた。

「また来た時まで取っといてあげるから」

 わたしはつい、ナイーブな発言をしてしまう。それを聞いてミュアルトゥファは、

「約束ですよ」

 と笑った。

 いよいよ、さよならだ。

「吹っ飛ばされたりしない?」

 自転車にまたがったミュアルトゥファに言う。

「知っていますか? 火星の嵐のほうが、もっとずっと強烈です」

 わたしも映像としてしか見たことはないですけれど、と笑う。どうやら、アリカの言うジオフロント説は大当たりのようだ。

「まあ、調子に乗り過ぎないように」

 アリカの態度はそっけない。彼女らしくはあった。それをミュアルトゥファも理解しているようだった。

「ご心配なく。それではまた、近いうちに」

「それじゃあね」

 叶うことはないだろう再会の約束を、それでも交わす。

 ミュアルトゥファはペダルに足をかけ、そこで、

「ああ、そうだ」

と、振り返って、言う。わたしと目が合った。

「袖振り合うも多生の縁、ですよ」

 何を言うかと思えば、極めて宗教的な背景に拠った日本の故事だった。

「それもテレビで覚えたの?」

「いえ、これはラジオです」

 なるほど。知識への貪欲さは見上げたものだ。しかし、その言葉は余計だよ、ミュアルトゥファ。わたしも言い返さなければならないじゃないか。

「ミュアルトゥファ」

「はい?」

 微笑むミュアルトゥファの顔が歪むと、わたしは知っていた。

「よかったね」

わたしの言葉に彼女は絶句した。目を見開いた彼女に、続けて言う。

「待ってるから。また会おう」

 ミュアルトゥファは瞑目して、泣きそうな顔で、やはり笑う。

「ええ、本当に」

 そう言って、彼女は自転車を漕ぎ始めた。危なっかしく左右に振られながら。

 それでもしばらくすると、まっすぐに走り始めて、やがて角を曲がって見えなくなった。


「行っちゃったね」

 甲子園、ロケット、台風。それこそ、嵐のようにトップニュースが取って代わり、めまぐるしい。

 火星人、母星に帰る。そんなのは地方欄の小見出しで十分だ。

 わたしの言葉には構わず、アリカは問うた。

「よかったね、って、何?」

「ああ、あれ?」

 アリカは気づいていなかったのか。まあ、大した話でもないのだけれど。

「カマをかけたっていうか、額面通りのつもりで言ったんだけど」

「はあ」

 ぴんと来ていないようだ。空もだんだん雲の割合が広くなってきた。また、嵐がくる。

「ひょっとしたら、ロケット打ち上げに細工するために来たんじゃないかなあ、って」

「は」

 わたしの言葉に、アリカは息漏れのような声を出した。

「台風で紛れられるなんて、それは事実かも知れないけど、本心じゃないよ。だってあんな雲ひとつない天気の日に隠れて空を飛んでいたんだから。だからタイミングとしては、ロケット打ち上げに失敗したのを見届けた、の方が重要」

「最初からそのために、潜伏してた?」

「どうだろ。うん、やっぱり、事故は事故だったんじゃないのかな」

 テレビを見るなら家電量販店のテレビコーナーへ行けばいい。彼女には遮蔽魔法がある。

 それに、わたしは奇妙な確信があった。

 彼女は、本当のことは言わなかったかもしれないが、嘘もついてはいないのだと。

「じゃあ、最後のはあてつけだ?」

 アリカはいたずらっぽく笑う。わたしも、せいぜい悪い顔をしてみせる。

「いつかやり返しにくるでしょ、ああ言っておけば」

 雨粒がわたしの頬に触った。わたしたちは、階段を上る。


「結局、完成品は処分っすか。一度確かめて見たかったっすけど」

 翌日、アリカとわたしは久しぶりに生徒会室に顔を出した。伝えたわけでもないのに十日市も来ていて、火星ソーダを飲めなかったことを残念そうに話した。

 火星ソーダ計画は凍結となった。材料がビールでは、どうにもならない。法律的はもちろんのこと、コスト面も馬鹿にならない。それにあの味では、清涼飲料としてコカ社を打倒することもできないだろう。

 ここに火星大王の野望は潰えた。

 レシピを書き記した後、試作品は全て破棄することになった。

 どこに消えたのかは、わたしの口からは、言えない。

「まあ、完成品もろくな味じゃなかったから」

 肝心要のところで助っ人としての役割を果たした十日市に、せめてもの言葉をかける。

「そう言われると余計に気になりますよ。せめて、レシピだけでも」

 食い下がる十日市だったが、アリカは至って冷徹に言う。

「門外不出」

 十日市はうなだれる。ああ、辛気臭い。暗い顔の人間が生徒会室に増えてしまった。

「なんで打ち上げに失敗するんだよお……」

 わたしたちのやり取りを意に介さず、長机に突っ伏して、潮崎先生はうめいていた。

「ショックですか」

「ショックですよう」

 先日の探査ロケットの打ち上げ失敗が相当堪えたらしい。

「空気が重くなるんで、できれば職員室でやってくれませんか」

「そういうわけにも行きません。この間の申請書類はともかく、清津さんの進路調査票は回収しろと厳命でして」

「え、アリカまだ出してなかったの」

 進路調査票の締め切りはそもそも一学期末のはずだ。夏休みもそろそろ終わろうかというのに、まだ提出していなかったのか。

「今まで催促されなかったから、いいのかなって」

 アリカは平然と言ってのける。

「わたしもそう思っていたんですけど、出てねえ、って進路指導の先生がおかんむりで」

 なにもかもが杜撰だと思った。

「第一志望、葛葉はどこにした?」

 アリカが問う。

「わたしの志望校、そのまま書くつもり?」

「大学の名前、思いつかないし。アリカと成績同じくらいでしょ、それなら」

 気軽に言ってくれるが、わたしも一応人並みには受験勉強をしている。ここ数日がイレギュラーだっただけだ。

「わたし、浪人にまで付き合ってられないよ?」

「なにおう」

 ぎゃあぎゃあと喚くアリカに、

「先生も他の仕事をしたいので、ちゃっちゃか書いてください……」

 どんよりと潮崎先生はつぶやいた。こんな精神状態でもきっちり仕事はこなさなければならないのだから、大人って大変だ。

 そうだ、仕事と言えば。

「食堂の生徒会ブース、バドミントン部に譲ったから」

 火星ソーダの封印は、文化祭の販売計画が頓挫したことをも意味する。押さえていたブースは早々に他の団体に譲渡した。後回しにすれば困るのはこっちだ。

「あっ、そ」

 もはや興味を失ったとばかりに手をひらひらと振るアリカ。それに対し、

「えっ。ちょっと待ってください。バドミントン部の企画申請書、わたし目通してませんよ」

 慌てて潮崎先生は立ち上がった。

「ああ、それ、わたしがハンコ押しちゃった」

「えっ」

 前提からひっくり返された。バドミントン部は出店希望があったのに場所の問題で出せないものとばかり思っていたのに。

「ダメですよ! ああ、確認しに行かないと。体育館で今日練習してますから」

「よし副会長、ちょっとシオちゃんと一緒に行ってきて」

「了解っす」

 アリカは十日市に指令を発した。自分では動かない生徒会長様だ。

「さて、これで調査票の提出まで時間を稼げる」

「ずるいやつ」

 二人だと、生徒会室の広さは少し寂しく感じる。

 夏休みの後半は、ずっと三人組で行動していたように思う。わたしとアリカと、火星の子。

 元に戻ったといえばそうなのだろう。けれど、一度広がった世界を再び元の大きさに狭めるのは不自然なことだ。

 宇宙のニュースを見るたびに、炭酸飲料を飲むたびに、自転車を漕ぐたびに、きっとわたしは思い出す。

 何もかもが失われても、思い出は残る。そしてそれは、望むにしろ望まないにしろ、世界の隙間を埋めるように、薄く引き延ばされていくだろう。

 思い出になってしまう前に、この夏が終わってしまう前に。

 わたしは残されたカードを切る。

「何の魔法が使えるようになったの?」

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