第6話
翌朝、わたしを起こしたのはアリカだった。
「……う?」
「朝ごはん食べて帰る? 目玉焼きを作ろうかと思うんだけど」
アリカはわたしの顔を覗き込もうと顔を近づけていた。石鹸の香りだ。わたしが母にせがんで、すげなく却下されたブランドの匂い。
血色も幾分よくなっていた。どうやら、わたしが眠りこけている間にシャワーを浴びたようだ。
「病人に朝ごはん作らせたくないんだけど」
「寝すぎて、体を動かさないことには余計具合が悪くなりそう」
アリカは肩をぐるぐる回している。昨日に比べたら相当に回復したようだけれど、蓄積した疲労は残っているだろう。
本来なら、多少無理やりにでも制止すべきなのだろう。けれどわたしはそこまで大人ではなかった。
「……手伝うぐらいはさせて」
「よっしゃ。そうしたら、冷凍庫に凍らせた食パンあるから出して。トーストにするべし」
そう言いながら、アリカは余熱したフライパンに卵を三つ、落としていく。
「そうだ。ミュアルトゥファは?」
「ゴミ出し行った。もう戻ってくるでしょ」
アリカがそう言った途端、アパートの扉が開く音がした。
「ただいまもどりました」
ミュアルトゥファは息を弾ませ、しかし汗一つかいてはいない。外見こそTシャツにハーフパンツで部屋着然としているが、今日も今日とて着た切りすずめのエアコンスーツなのだろう。もしも故障したら日本の夏、地球の夏に耐え切れず、ゆでだこになってしまうのだろう。
「ああ、アリカさん。おはようございます」
「おはよ。……ゴミ出しで、誰かに会わなかった?」
「角を曲がってきたおばさまに話しかけられて、世間話を少し。美人だって褒められました」
顔に手を添え、頬をそめるミュアルトゥファ。極力目立たず、ほっかむりでうつむいていてほしいのだけれど。
「ミュアルトゥファ、角って、土建屋の事務所の角?」
「え? ええ。佐野建設、と看板に書かれていた建物の」
アリカは渋面を作った。
「ゴミステーションの区割り、違うところの人だな」
「と、言うと?」
アリカにとって生活上の些事を、ミュアルトゥファは解することができない。わたしはパンが焼けるのをじっと眺めながら、言った。
「美人はお世辞、ってことだね」
ミュアルトゥファは覿面に落ち込んだ。わたしは品がないと知りつつけらけらと笑い、それを見たアリカも口元を手で隠していた。
パンと目玉焼きが焼け、ローテーブルを囲んで三人正座で、朝食となった。
わたしは食パンにママレードを塗って、目玉焼きには醤油をかけて食べた。アリカはトーストに目玉焼きを乗せて、マヨネーズをかけてかじりついていた。ミュアルトゥファは目玉焼きの勝手が分からず、黄身が潰れるのを見て妙に喜んでいた。
汁物がほしいと思ったが、いまさらだ。口がぱさぱさになるのは気になったので、インスタントコーヒーを淹れることにした。
「あ、わたしも頼むよ」
「具合が悪いのにカフェインはどうなの」
「いちいちお母ちゃんみたいなこと言って。過労だから、風邪じゃないから、気にしすぎ」
むくれるアリカを見て、ため息をひとつ。赤、青、緑、三色のマグカップを見つけたのでざっと洗って、コーヒー粉を入れる。
「過労って、一体なにやったの。急に具合が悪くなったって聞いたよ」
ミュアルトゥファを一瞥する。彼女もこくこくと、首を縦に振った。
「言うならば、知恵熱、かな」
名探偵よろしく顔をしかめ、額に手を当ててみせるアリカ。
「その言葉、頭の使いすぎって意味じゃないよ」
使ってもないだろうし、とは口に出さない。言わずもがなだ。
言葉の誤用を指摘されたアリカは、しかし不敵に笑う。
「いいさ、モンキー扱いしていれば。次の支配者が誰か、映画で予習しなかったツケは取ってもらうけど」
「猿の惑星ですね!」
ミュアルトゥファは目を輝かせる。あっという間に洋画フリークになってしまった。
「……そうだ、リンゴ食べる? 昨日買ったんだ」
「いただこうじゃないか。禁断の果実をさ」
そう言ってアリカはコーヒーをすすった。わたしの連想ゲームをきちんと読み解いたようだった。
包丁を水で流してリンゴを切っていく。皮は剥けない。なんてことなく言ってはみたものの、指を切りやしないか内心ひやひやしている。
「今日は布団干しなよ。というか干すから。天気もいいんだし。相当汗かいただろうから」
「うえ、めんどくさ」
ウサギの耳に挑戦してみるが、そもそもどこから切れ込みを入れていいか分からない。
「わたしが干しますよ」
ミュアルトゥファが挙手をした。アリカが倒れてからこっち、なにかにつけて手伝いを申し出てくる。仮宿の恩義みたいなものを感じているのかも知れない。あるいはいい加減、居候に引け目を覚えたか。
アリカが知らない昨夜の会話を思い出す。食わせものなのは確かだが、人間味があるのは間違いない。
「……ウサギ?」
「忘れて」
中途半端に皮が剥がれたリンゴをめいめいにかじる。アリカがテレビの電源を入れた。
ニュースでは、ロケットの打ち上げと南の海に発生した台風との関連について話されていた。
台風がペースを急に変えたら、打ち上げが順延になるかもしれない、と気象予報士が解説している。
「順延になったら、いやですね」
ミュアルトゥファがぽつりと呟く。
「あれ、意外な感想」
「だって、地球のロケットが打ち上げられる様子、なかなか見られたものじゃないでしょう」
それもそうか。地球人でも珍しいイベントだ。いわんや火星人をや。
「結局さ、何しに地球きたの、あんた」
アリカが言う。もっともな疑問だ。わたしも昨日訊いて、はぐらかされたよ。
「いろいろあるんですよ。もちろん、いろいろには仕事も観光もあります」
「火星にも仕事って文化があるんだ」
「まあ、さすがに」
アリカの着眼点にわたしは少し感心した。当然、火星人も仕事をしていると思い込んでいたが、労働が根絶された理想郷である可能性もあったのか。
「その発想はなかったよ、アリカ」
「仕事論を語らせたらわたしは長いよ。ワーカホリックだし。サードウェーブコーヒーが僕のクリエイティブな部分を刺激する」
そう言ってアリカは青いマグカップに口をつけた。
「一日寝込んだだけでもプロジェクトの進行に大きな痛手だよ」
クライアントのいないプロジェクトのくせに、大げさだ。ただ、ミュアルトゥファもあまり長居はできないだろうから、結果はほしい。
夏休みも折り返しを過ぎ、九月が近づいている。
「あっ、ああー!」
わたしの物思いを吹き飛ばす素っ頓狂な声を上げたのはアリカだ。
「葛葉、ごめん、本当にごめん」
立ち上がってわたしに頭を下げ始めたので、わたしは不気味に思った。
「……わたしにどんな迷惑をかけるつもり」
「話が早い。実は、文化祭の手続き書類の締め切り、一枚過ぎてたのをたった今思い出して」
「この馬鹿野郎」
「書いてはあるんだ」
「ますます馬鹿野郎」
書いていたなら早く出してくれ。
「今から、シオちゃんに渡してきてくれない?」
わたしはため息をつくかわりに、かじりかけのりんごを頬張った。
「へいへい。大王様の不始末は、部下のわたくしの仕事ですゆえ」
「大王って言うなよ。それなら這ってでもいくぞ」
「やめろ、やめろ。行ってやるから」
病み上がりであることを狡猾に利用するアリカ。ここで折れるわたしは、案外人がいいのではないのかとさえ思える。
赤いマグカップを小さな両手で包むように持っていたミュアルトゥファが、苦い、と小さく舌を出した。
「失礼します」
「あら、屋島さん。なんだか久しぶりですね……って、夏休みだから当たり前なんですけど」
職員室。ノートパソコンでなにかの原稿を書いていた潮崎先生はわたしを認めると軽く笑った。
「毎日顔を出していたわたしとアリカがおかしいんです」
「そんなことないですよ。吹奏楽部の子なんか休みなしです」
「ああ。県大会突破したんでしたっけ」
クラスメイトにも吹奏楽部の子は何人かいた。彼女たちの夏は、受験勉強ではなくまだ部活にある。
わたしの青春は着実に横道へとそれつつある。
「なにかお話ですか? お茶請けも出せませんが」
潮崎先生は立ち上がって給湯室へ向かう。わたしは慌てて後を追った。
「いいですって。大した用じゃないですから」
「わたしも喉がかわきました。屋島さんもよければ」
「……まあ、そういうことなら」
先生は熱湯で煎れた緑茶に氷を入れてわたしに渡してくれた。
「今度はようかんを買っておきますから」
「……期待しときます。あの、これ、清津から預かってきました、すみませんです」
席に戻った潮崎先生は、手渡した書類に目を通すと、お茶をすすった。
「あー、はいはい。確かに受け取りました」
「すみません。締め切り破ってしまって」
申し訳なくて頭を下げる。わたしにもいくばくかの責任はある。書記とは総務だ。役員のミスをカバーしないのは、職務怠慢以外の何物でもない。
「いえ。夏休みなので締め切りを早く設定しただけで、十分間に合います。……あら? 今日は屋島さんがおつかい担当ですか。珍しいですね」
言外に、十日市のことを言う潮崎先生。やはり教師として、上下関係の行きすぎは気にかかるのだろうか。
「清津は役割分担なんて考えてませんよ。手元にあるものを使う主義です」
「そうですか? 清津さんの参謀役として、信頼されていると思いますけど」
わたしは苦笑する。彼女にそんな殊勝な心がけがあれば、わたしは今日ここにはいない。
「清津さんは今日も自由研究ですか? ここのところ、生徒会室では活動してませんよね」
「ああ。ちょっとアリカが熱を出して。だからこの書類も代理でもってきました」
「それは、大丈夫なんですか? 夏風邪だと長引きそうですね」
言葉と表情と、嘘が感じられない。この人は心底アリカのことを心配しているのだ。大人なら当然の態度、とは思わない。優しい人だ。
「うちの母が病院に連れていって、過労みたいなもんだって。点滴打って寝たら、今日はぎりぎり平熱にまで下がってました」
「……過労ですか。勉強のしすぎで、って話はごくたまに聞きますが。心配です」
「しばらくわたしが様子見ておきますから」
正確にはわたしとミュアルトゥファの二人で。
「なにかあったら頼ってくださいね。それも給料分の仕事のうちです」
現金な物言いだけれど、これはジョークか照れ隠し、はたまた配慮か、だ。
「……それじゃあ、早速」
その言葉が呼び水になったのか、わたしは半ば無意識のうちに言葉に出していた。
「おお。ご相談ですか? 勉強の質問から下着の採寸まで、どんとこいです」
今度はスルーを決め込んで、わたしは考える。アリカが動かなければ、完成には近づかない。そしてアリカは、今日一日ぐらいは休ませたい。書類の提出を代理したように、火星ソーダもまた、わたしが担当するのが筋であると思われた。
「その、アリカが作ってるけったいな飲み物についてなんですが」
言ってしまった。少し口の中の渇きを覚えて、冷たい緑茶を口にふくむ。
「ああ、火星ソーダ」
「どん詰まりなんですよ。なにかブレイクスルーがあればと」
「うーん。わたしにお役に立てるとは思わないんですが」
化学は得意じゃないから理科の教諭にはならなかったんです、と潮崎先生は言う。
「実は、さる筋から火星ソーダのオリジナルを手に入れまして」
「……え?」
先生は口を半笑いの形にして、戸惑いの色を浮かべた。
「火星人、ですか」
大当たりだ。わたしは小さく頷いた。
「あああ、いいなあ、火星人。だからここのところ生徒会室が空だったんですね。仲間はずれですか」
疑うどころか、潮崎先生は極めて正確に状況を把握している。火星人なんて与太話を自分から言い出すのだから、やはり不思議な人だ。
「といいますか、まずは、その人に作り方を当たるべきなのでは?」
もっともな指摘だ。
「その人は持っているだけで、作り方や組成は知らないと」
わたしたちは作り方の分からないものに囲まれて日々を過ごしている。タブレット端末だったり、中華調味料だったり、議会制民主主義だったり。それは火星人も変わらない。
「まあ、動いていればブラックボックスで構わない、という発想はよく分かるんですが。その方が上手く回るということも」
みなが研究者である必要はないんですが、と潮崎先生は歯切れが悪い。建前と本音は別、ということか。
「それを解き明かそうというのが、清津なんですよ」
「なるほど。バランスが取れていますね」
内心、アリカは研究者というよりは政治家だと思うが、口には出さない。
「しかし先生、付き合いいいですよね。火星人がどうだの、火星ソーダがどうだの、真に受けますか、普通」
「まあ、普通の感性なら、敬遠するんじゃないですか?」
「自分が変人だと?」
「というより、経験の違いですね。わたしの親友も、宇宙生まれだって小さい頃からずっと言ってたし」
わたしは、大人がなんの照れももなく親友という言葉を使うのをはじめて聞いた気がした。
「じゃあもう、未知との遭遇は済ませてるんですね」
「ものごころついたころには」
わたしとは年季が違った。
「その人、今はどうしているんですか」
火星ソーダという本題から脇道に逸れていることを自覚しつつも、訊かずにはいられなかった。
「どうもこうも、部屋で寝てますよ」
「部屋?」
「わたしたち、ルームシェアしてるの。出張から帰ってきたばかりで」
潮崎先生は少しはにかんで言う。普段のですます調もくだけていた。これはルームシェアという表現では済まない仲なのではないかと思う。というか、恋人なのではないか。わたしに恋は分からないけれど。
でも、とわたしは思う。そうか、そういうのもあるのか。
「星には帰らなかったんですね」
「迎えに来なかったかぐや姫だったんですよ。知ってます? 竹取物語」
知らない人間の方がこの国では珍しい。かぐや姫ということは、女性か。
「それじゃあ、地球人となんも変わらないですね」
「というか、地球人ですよ。木星系地球人。そうだ、ミヤコならアドバイスもできるかも、火星ソーダ」
ミヤコというのが宇宙人さんの名前だろう。どういう字を書くのかは分からない。
「寝ている人をたたき起こすほど切羽詰まってはいませんから。あの、今日は火星ソーダのオリジナル、持ってきたんですよ」
わたしはしゃがんで、床に置いたカバンの中から密閉容器を取り出す。
「これがオリジナル?見た目は似てますね」
潮崎先生は、100ccほどまで減ってしまった火星ソーダをまじまじと観察する。
「これ、飲んでほしいんですよ」
なんでもないように言ったつもりだが、実のところ無茶なお願いをしていると思う。基本的には罰ゲームのような味に違いないのだ。
「うーん。そんなに味が分かる舌ではないですが」
自信はないですよと言って、潮崎先生は火星ソーダを口にふくんだ。
たちまち怪訝な顔をして、右へ左へ首を傾げた。ちょっと面白い。
「……あ、あ? あー……」
あー、とか、んー、とか、声にならない声を出して眉根を寄せる。どうやら、心当たりはあるようだ。
「これ、本当にもらいものですね?」
潮崎先生は椅子の座りを直して、いたって真剣な声色で訊いてきた。
「ええ。そのことについて、嘘はつきません」
アリカに黙って持ち出してきたことは関係がないだろうし。
「うーん」
人差し指でこめかみをとんとんと叩き、考え込んでいる。
「あの、無理してアドバイスしていただかなくても」
「そうじゃなくて、なんていうべきか、悩んでいるんです」
「はあ」
しばし沈黙。職員室のどこかでテレビがついているようで、高校野球の中継が聞こえてくる。歓声と金属音。どうやら、決勝戦のようだった。
わたしの気が緩んだのを見計らったかのように、潮崎先生は残っていた火星ソーダをあおり、飲み干してしまった。
「あ! なんで!」
突然の出来事にわたしは素っ頓狂な声を上げた。人のものを勝手に全部飲んでしまうという行為が信じられなかったし、お世辞にもおいしいとは言えない火星ソーダを一気飲みする勇気に驚きもした。「さあ。なんででしょう」
「仮にも教師がやることですか」
「教師じゃなきゃわざわざこんなことしません」
どこか不機嫌そうに先生は言う。こういうことをしたくはないのだと顔に書いてある。どこまでもおひとよしな人だ。
「わたしのだったらいいんですけれど。アリカに内緒で持ってきちゃったんですよ。なんていえばいいか」
その良心を攻め立てるようにわたしは言葉をもてあそんだ。底意地の悪さはわたしの数少ない有効手段だ。使える時に使わなければ。
「今の顛末を素直に話してください。怒りの矛先はきちんとわたしに向けてください。あなたの信頼を損ねないよう」
潮崎先生はワークチェアをくるりと回して、わたしに背を向けた。そして、言う。
「火星ソーダからは手を引いたほうがいいです」
わたしは噴き出しそうになる。急に芝居がかった様子で、しかし声が平板だ。大根役者ぶりを見せ付けられたら、こみあげるものはある。
しかし、その変わり身は素直に疑問だ。態度から察するに、火星ソーダの正体に気付いたようではあるのだが。
さて。潮崎先生の意図はどこにあるのか。一口飲んでから言いよどみ、結局証拠隠滅を図るかのように飲み干してしまった理由は何か。
「聞いてもなにも答えてくれませんね?」
「その通りです」
「もう帰った方がいいですか?」
「わたしも仕事がありますので」
返答がそっけない。わたしは少し意地悪をしたくなった。
「ようかん、楽しみにしてたんですけど」
「……また遊びにきてください」
ず、ずるい。
仏頂面を装いながら、顔を赤らめているのだ。その様子に耐えかねて、とうとうわたしは声を上げて笑ってしまった。
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