第4話

 あの後、落ち着いた箱崎が冷め切ったチキンを頬張りながら、雪だるまでも作ろうと中庭を指差した。見ると雪はすっかりやんでいて、もう日が暮れはじめているのだろう、曇天の空は一層薄暗くなっていた。

 美術室の奥のガラス戸から中庭に出た。俺はスリッパを履いたままで、このまま雪の上に出たらぐしょぐしょになってしまうので下駄箱に靴を取りにいこうとしたら、箱崎がどこからかゴム製の長靴を引っ張り出してきたのでそれを履いている。美術準備室に何があろうともはや驚かない。

 箱崎の履いている長靴は爪先部分に色がまだらについていた。絵の具か何かがはねたのだろう。雪を蹴るように歩いても少しも取れそうにない辺り、水溶性ではないらしい。

 校舎は中庭を取り囲むように回廊上になっていて、美術室側以外の三辺は廊下だ。誰かが通れば必ず視界に入ってしまうが、今は廊下に人の気配はない。

「うひゃひゃ、ちべたいっ」

 箱崎は真っ白な雪に手を差し入れその冷たさに笑っていた。

「冷たいですね」

「そりゃ、雪だ」

 雪は冷たい。当たり前だ。我ながらつまらないことを言ったな、と思う。

「冷たいんですよ!」

 そう言って、触っていた雪を両手ですくったかと思うと、雪玉を作って俺へめがけて投げてきた。胸元に飛んできたそれを咄嗟に出した右手で払い落とす。雪がぶつかった袖口が冷たい。

「雪だるまを作るんじゃなかったのかよ」

 しゃがんだままの箱崎は右手だけで雪玉を投げる姿勢を作っていた。それを再び俺へと投げつけた。横着な投げ方をしたからか、雪玉は届くことなく俺の足下に落ちた。

「作りましょうかとは言ったんですけど、そもそもわたし、作ったことないんですよ」

「雪だるまを?」

「雪だるまを。坂上さんはあります?」

 そう訊かれて、本格的な雪だるまは俺も作ったことがないことに気付いた。作れるほど雪が降ったことすら数えるほどしかないし、降ったところで、子供の頃の俺は雪合戦に夢中で雪だるまなんて眼中になかっただろう。

「ないけど、作り方は知ってる」

 俺はそう言ってから、不意を突くようにしゃがんで雪を拾い、起き上がる反動でそのまま投げた。塊にすらなっていない雪は細かく砕けて箱崎の頭上で降り注ぐようにこぼれた。箱崎は頭をかばうようにして両手を出したが、ぶつからないことに拍子抜けしたようだった。

「作り方も何も、雪玉を地面で転がすだけじゃないですか。幼稚園児でもできますよ」

「いや、意外と難しいらしいぞあれ」

 下から睨むような視線をぶつける箱崎に俺はそう答えた。

「だから、作るとしたら不細工になるだろうな。泥混じりの」

 それを聞いて箱崎は、ふうん、とそっけない反応。そして何かを思いついたのか、整えられた黒髪を揺らしながら冗談っぽく笑う。

「じゃあいっそのこと、雪だるまじゃなくて雪像作りましょう。スコップで」

「スコップだと小さいだろ、それはシャベルだ」

「塹壕を掘るのがスコップで園芸用の小さいのがシャベルですよ」

「石炭をかき入れるのがシャベルじゃなかったか」

 言っていてどっちがどっちだったか分からなくなってきた。もともと同義語であるらしいが詳しいことは分からない。

「どっちでもいいです。スコップでもシャベルでも雪の上澄みだけすくって、うんときれいなの作ればいいんですよ」

「だるまじゃなきゃ何を作るんだ」

「マルスでもメディチでも、部室にモデルはいくらでも。あ、でも、ラボルトだけはやだな」

 ラボルトとは石膏像の名前なのだろうが、可哀想にラボルトは箱崎に嫌われているらしい。何をしたら彼女に渋い顔をさせるようなことになるんだろうか。

「それは反則っぽいな」

「坂上さんが雪だるま作りたくないんでしょ? それなら、もっとスマートに洗練されたものをわたしが作ってあげますから、坂上さんは黙々と雪かきをしていればいいです」

 古代の貴族みたいなことを言う。俺は奴隷か。鞭打つ女主人というのは、箱崎には似合いそうもない。

「誰も作りたくないなんて言ってない。俺もお前も作ったことないなら下手くそなのしか作れないって言ったんだ」

 箱崎はにっこりと笑った。

「下手っぴいでも気にしません。じゃあ作りましょう」


 雪を転がし転がし、もうどれくらいの時間が経ったろう。ひとかたまりの雪玉を転がし転がし、そろそろ胴体の大きさが見えてきた。

 雪に埋もれているから分かりにくいが、中庭はでこぼこと一見気付かない程度の起伏がある。フォルスストレートを走る競走馬よろしく気付かぬうちに体力を使った俺の腰は猛烈に痛い。

 結局スコップ、いや、シャベルだったか? とにかく道具は使った。最初の雪玉は強度不足で途中で瓦解してしまったので、やり直す際にちゃんと固めてある程度大きい玉にしてから作り始めたのだ。

 箱崎は一緒に転がしてくれるのかなと思っていたら、完全に役割分担らしく、彼女は頭部を担当していた。

 形は見えてきたとはいえ、今の大きさではいまひとつ見栄えがしない。箱崎の頭部とのバランスの兼ね合いもあるし、もう少し転がしてやる必要があるようだ。

「おお、すごいすごい」

 箱崎は俺の雪玉を見てはしゃいだ。手が空いていれば拍手ぐらいは送ってくれただろうか。

「坂上さん、立体作るの上手じゃないですか。平面構成は全然リアルじゃないのに」

「小さい頃、粘土遊びが好きだったからな」

 少し誇らしげな俺に気付いたのか、じゃあ一緒に陶芸教室でデートでもしますかとからかわれた。魅力的な提案だが、実力の差を思い知らされそうで恐ろしい。

 それにしても。

 さきほど部室で見せた暗い顔が想像できないくらい屈託なく笑う、と思う。よく笑う子なのだ。

 考えてみれば、部室での会話はそんなに長いものではなかったはずなのだ。天地の感覚がなくなるくらい緊張していててっきり一時間ぐらい経ったと思っていた。

 ほてってぼうっとしていた心と体に冬の冷たさは心地いいものだった。

 手袋もはめず、雪の冷たさで真っ赤になった手をじっと見つめて思う。

 嫌われたくないのだと箱崎は言った。嫌われないためにうわべの白さを取り繕っているのだと。それは俺にもあてはまることだった。

 それがなんであるというのだろう?

 誠実でないということの告白は、その行為そのものが誠実さの証明ではないのか。そんなことを思って、しかしそれを箱崎に伝えることはしない。自己弁護に聞こえるかも知れなかったし、何より、俺はそこまで優しくはないのだ。

「保留だなんて言ったけど、きっと俺たち、付き合うに違いないんだ」

「おお、すごい自信。かっこいいですね、惚れそうですよ」

 箱崎は感心したような表情でオーバーリアクションをとっている。冗談で言っているんじゃないんだが。

「嫌われることを恐れて、それでも好かれたくて。似た者同士、お似合いって考え方もある」

 頭部を転がしながら箱崎が近づいてきた。疲れたのか少し息が荒い。あちらこちら動き回って血色のいい彼女に、雪のように白い肌なんて形容は使えそうになかった。

「付き合って、もし別れても、お互い、平気でいられるようになれますかね?」

「それをどうにかするための保留だよ」

 箱崎が持ってきた頭部を二人で一緒に抱えて、胴体の上に慎重に載せた。完成した雪だるまは、雪の白いところだけをかき集めて作ったはずなのに、そこかしこが土で汚れていた。

「あら、面白い顔」

 箱崎が雪だるまの顔を指差して言った。なるほど、石と泥がなんとも言えない表情を作っていた。不細工だが愛嬌はあった。

「お付き合いをはじめたら、いろいろ直してもらいますよ。一層の努力を期待します」

「お互いにな」

 俺から見れば文句のつけようのない彼女はそれを聞いて微笑んだ。

「来年もこうしていられるように、お互い、頑張りましょう」

 その言葉に俺は頷いた。そして、箱崎に顔を見られないよう、天を仰ぐ。雪はやんだけれど、空はいまだ厚い雲に覆われ晴れる気配はない。けれども俺はいつかの話を思い出して笑った。曇天、結構なことだ。雪が降るより寒くはないし、何より天気にいいも悪いもない。

 ぐちゃぐちゃになった中庭の雪に、箱崎がまた一つ足跡をつけたようだった。

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雪の白さ @heynetsu

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