第3話

 美術室の引き戸はすんなり開いた。美術準備室の扉にも鍵はかかっていない。

「よう」

「やあやあ、待ってましたよ坂上さん」

 箱崎は俺がきたのを認めると、首筋にかかるくらいのショートヘアを揺らしてにっと笑った。パイプ椅子にくたびれた座布団を敷き、上履きを脱いで体育座りをしていた箱崎は、俺を歓迎するかのように両手を伸ばした。歓迎しているのは俺の指にぶら下がっているビニール袋の中身だが。

 箱崎は職員用の事務机を前にして我が物のように振舞っていた。卓上にはノートパソコン。学校の備品ではなく箱崎の自前の品だ。林檎印の薄くて軽い新型。接続されているのはマウスではなくペンタブレット。やはり絵を描いていたようだ。

 コートを脱いでから、ペン型デバイスを机に置いて手を広げる箱崎に袋ごと手渡すと、黒のニットカーディガンの袖で指まで覆った手は袋の紐ではなく俺の右手ごと掴んだ。またか。

「いい仕事してますねえ」

 そう言って箱崎は俺の手を絆創膏だらけの指で這わせるように撫でさする。すり傷切り傷、大小さまざまな傷口を覆っていて、その凹凸の感触がくすぐったかった。

 何度説明されてもさっぱり理解できなかったが、箱崎には俺の骨格が綺麗だと太鼓判を押されていた。こういうスキンシップは俺以外の人間にもしている。見るたび男どもを勘違いさせてしまわないだろうかと不安になる。嫉妬ではない。断じて。

「離しなさい」

 強引に指を振り払うと、箱崎はけちんぼと未練がましい声を上げた。しぶしぶ受け取った袋の中身をまさぐる彼女は、お目当てのコンビニチキンをつまみ上げると渋面を作った。

「すっかり冷めちゃってる」

 当然だが外は寒い。職員室に寄り道している間に大分雪の勢いはおさまったようだが、美術室の奥のガラス越しにまだ降っているのが見える。箱崎は寒くないようだが俺は火に当たりたかった。部費で購入したカーボンヒーターにコンセントを挿そうと、タコ足配線になっているテーブルタップをかがみこんで掴んだ。

「ゆっくりしすぎじゃないんですか」

 箱崎はそう言うと、脱いであった上履きを片足で器用にひっかけて、そのまま俺に蹴り飛ばしてきた。俺の履いているスリッポンタイプではなくローテクスニーカーのようなデザインの上履きがスラックスの尻に当たり、少しだけほこりがついた。俺は何も言わずに叩き払った。

 箱崎の上履きは決して規則違反の代物ではない。モデルチェンジ前の旧版だ。俺も入学した当時はそれを履いていた。代ごとに色の違うラインは赤。二年生の正規の上履きにちがいないのだから、学校側としても文句のつけようがないのだろう。ただ、箱崎の世代が入学すると同時に切り替わったので、赤ラインの上履きを持っている代は入れ違いで卒業してしまったはず。入手経路は不明だ。

 すねた顔をする箱崎のところまで上履きを持っていって、俺は言った。

「買ってきてやったんだけどな」

「冗談ですよ、ありがとうございます。どうせトースターで焼きますし。これいくらでした?」

 箱崎はポケットをまさぐって懐古趣味ながま口を取り出した。金か。端からおごるつもりでいたから忘れていた。

「いらんよ」

「やった。ゴチでげす!」

 箱崎は妙な語尾をつけて礼を言い、俺が足下に置いてやった上履きのかかとを踏んで履き、立ち上がった。美術準備室には電子レンジはないが、オーブントースターがある。箱崎はトースターの蓋を開けて、網の上にコンビニチキンを入れた。

「さっきまで大月くんがいたんですけどね」

 しゃがんでトースターのつまみを回しながら箱崎が言った。

「ああ、大月なら職員室であった」

「へえ。会ったんですか、職員室で。ふうん」

 一人で納得するような口ぶりだった。

「……なんだよ」

「いいええ、別に。そりゃあ、チキンも冷えて固まってしまいますよね」

 職員室での道草を責めているのだろうか。昇降口についた時点でチキンはすっかり冷めてしまっていたのだが、言ってもはじまるまい。

「そりゃ悪かった」

「悪びれもせずに言う」

 不服そうな口ぶりだが、本気で怒っているわけではないだろう。

 トースターがじりじりと音を立てながらチキンをあたためはじめた。箱崎は座っていたパイプ椅子ではなく壁に面して置かれたモスグリーンのソファに座って足を伸ばした。黒いタイツに包んだ足をばたつかせる姿は子供っぽい。

「坂上さんが来たので休憩します」

 椅子に座った俺に対して箱崎は宣言した。

「今日もパソコンで描いてたのか」

 ひょっとしたらキャンバスに絵の具を塗りたくっているんじゃないかと思っていたのだが。なにしろ、外は十年に一度の大雪だ。

 箱崎は棚と天井の間の空間に押し込めるように積まれたキャンバスを一瞥した。

「学校でまでキャンバスに向かいたくないですよね。予備校でもうちでも描いてるのに」

 箱崎が美術予備校に通っていることは知っていた。進路希望の用紙に特に考えないまま知っている美術大学の名前を描いたら、気付けば目指せ芸大、という流れになってしまい予備校にも入れられてしまったそうだ。

 本人は絵を描くだけで大学に入れるぐらいの軽い気持ちだったのだと言っていたが、案外、照れ隠しかも知れない。学科部分は時々家庭教師の真似事をして見ているが、熱を入れて勉強しているのが手に取るように分かっていたからだ。

 箱崎はこりをほぐすように首を回した。すくっと立ち上がって、コーヒー飲みます? と訊いてきた。飲む、と答えると事務机を迂回するように戸棚へ向かい、中からマグカップを大小二つ取り出した。大きい方には青地にシロクマやら棚氷やら極北を連想させるような絵が、小さい方には白地にシーサーや椰子の木といったトロピカルな柄がそれぞれあしらわれていた。雑貨屋で買ったマグカップに箱崎が絵付けした一点物だ。何をやらせても器用なやつだ。

 ドリップバッグを二つ並べたマグカップの縁にかけて、電気ケトルからお湯をゆっくりと注いでいく。箱崎が一点に集中している姿は独特の雰囲気があった。どんなことでも芸術の過程に昇華してしまうような。

「こう、坂上さんが部室にいると、坂上さんとのおしゃべりにリソースが割かれますよね?」

「リソースって……」

 制作中にする俺との会話で、箱崎が筆を止めて話にのめりこむ場面はあまり記憶にないのだが。

「そうすると単純な話、ミスが増えるんですよね。これがデジタルじゃなくてアナログだった場合、わたしは死にます」

「死にますか」

 以前、邪魔にならないかと聞いた時には鼻でせせら笑ってさえ見せたくせに、結局のところ能率を落としてしまっているらしい。 

「死にたくないのでわたしはペンタブでお絵描きするわけですよ」

 どうぞ、とマグを手渡された。取っ手ではなく容器そのものを両手で覆うように持つ。熱がじんわりと伝わってくる。

「その心は」

「コマンドプラスゼットでやり直しが利く」

 ソファに戻った箱崎が言ったのは直前の作業を取り消すキー操作だ。確かに、間違った線を引いても即座に訂正できるのは大きい。だが、少し気になったので訊いた。

「俺、邪魔か?」

「えっ」

 箱崎は俺の言葉に意外に大きく反応した。コーヒーには口をつけずに、ソファの背もたれに沈み込むようにしていた身体を跳ね上げてこちらを向いた。

「いや、ミスが増えているっていうんなら、黙ってようかと思うんだけど」

「なんだ、そういう……あー、そうですね、ちょっとあてつけがましかったですか」

 鼻を掻く。別にそういう意図で訊いたのではないのだけれど。知って知らずか箱崎は続ける。

「優先順位の問題なんですよ」

「優先順位?」

「これは割合マジメな話なんですけど。最近は部室では息抜きとして落書きしてるんです」

 箱崎は手の大きさの割に長い指でちょいちょいとペンタブレットを指差した。

「そして、息抜きという観点から見ると、落書きよりもおしゃべりの方がより楽ちんなんですよ」

「あ、そう」

 気分転換にはおしゃべりの方が効率がいいと言われて、心なしか俺の気分は軽くなった。リソースと言えば、俺の話を身を入れて聞いているかはともかく、箱崎はしばしば長広舌を繰り広げることがあった。あれは集中を要するかも知れない。

「後、放課後って言うほどまとまった時間があるわけじゃないでしょ。その間に準備と片付けするの、すっごくめんどいんですよね。岩絵具とか特に」

 受験勉強としての絵に疲れ、気分転換で絵を描くのにストレスを溜めていては本末転倒だ。キャンバスで絵を描かなくなったのはそういう理由があったのか。

 たまには、汚れないように着る裾を引きずるような大きさの白衣に袖を通したいかにも画家らしい箱崎の姿も見てみたいのだが、この流れで言ってしまえば野暮になる。黙っておこう。

「めんどくさいのは嫌いだな……」

 箱崎はソファに座ったまま、足を両手で抱えるようなポーズをとってそのままごろりと後ろに転がった。絵に描いたような情景だ。絵を描くだけではなく絵にもなるのだ、こいつは。

 口に出しては言わない。綺麗だとかかわいいだとか、そういう褒め言葉は好きだと伝えてしまった今では気軽に口に出すのがはばかられた。見返りを求めているように聞こえるので嫌なのだ。

 俺が何も言わなかったから、お互い会話の接ぎ穂を見失って沈黙が降りる。気まずいとは思わないが、何故だか箱崎が急に俯いて目をさまよわせているのに気付いた。

 窓も見ないで箱崎がぽつりと。

「いやな天気ですね」

 そんなことを言った。本題に入る前の導入にはうってつけの話題。俺は梅雨にした話をさも細部は忘れてしまったかのように言った。

「いつだったか、天気にいいも悪いもないって言ってなかったっけ」

 箱崎はとぼけるような口調。

「そんな話もしましたっけねえ。でも矛盾はしてないですよ。いい悪いと好き嫌いは別ですからね」

 確かに筋は通っている。なら、

「箱崎は雪嫌いなのか?」

「嫌いですね。雪というより、白い画面が好きじゃなくなりました」

 意外な答えだった。ステレオタイプな考えだが、雪を見て綺麗だと思うのが女の子というものだという印象があったのだ。

「今だって、中庭の雪にありったけの絵の具をぶちまけてやりたい気分です」

 箱崎はやはり窓の方は見ないまま、うつむいて、くつくつと笑った。どこか気だるげに目を細めた笑い方だった。

「そう言えば、天気の話をしたのって雨降りの時でしたっけ?」

「そうだったかな」

「白って言っても、真っ白い洗濯物は好きですよ。でも、白って色は難儀です」

 箱崎は俺の方に向き直った。視線に力があって俺は緊張した。何を話すか決まっている時のそれだ。

「白という色は紙や生成りの色であることから、多くの場合何かを描く時のニュートラルな色になります。

 その白というのは、着色するその他の色と違い、不可逆なんですよ。一度、色を乗せてしまったら、その上にまた白色を重ねて塗ることはできても、元の白は取り戻すことができないんです。白を表現する時、まあこれもものによりますが、白色を塗るか、下地の白を残すか、二者択一です」

 箱崎はよどみなく白さについて話していく。俺は相槌も打たずそれに聞き入っていた。

「油なんか、誤った線や色にでも重ねて塗ることである種の醍醐味が生まれますけれど、ま、わたしは油に手を取られる感覚があまり好きじゃないですけどね、それはともかく、そもそも筆を走らせてはいけない面に色を載せてしまえば、極端な話、その絵が破綻することになりかねません」

 そこで箱崎は諦観の表情を浮かべてこう言ったのだ。

「雪は破綻した絵の白です」

 チン、とトースターから音がして、その音で俺は我に返った。いきなり美術論を展開されてしまい圧倒されてしまったが、そうか、雪の話をしていたのだった。しかしどういう意味だろう。雪の白がキャンバスの白だと言うなら分からないでもない。純白に土汚れをつけてしまうことに多少なりとも罪悪感を抱くという話なのなら、話の意図こそ不明でも、理解はできる。

「あの真っ白い雪が、白色を塗った白ってことで合ってるか」

 自分自身でもそれが何を意味しているのか分からないまま問うた。箱崎はトースターに向かうことすらせず、ゆるゆると首を振った。

「雪の白は、白色を塗った白であると同時に、下地の白でもあるんですよ」

 箱崎は溜息をついた。憂いを帯びた顔を、俺は綺麗だなと思った。好きだと気持ちを伝える前、箱崎は美人だと面と向かって言ったことがある。その時はお化粧にだまされてますよと笑われたが、これで化粧しているのかと疑いたくなるくらい自然なものだった。絶妙なバランスで化粧を振るのにどれほどの努力を重ねたのだろう。それも含めて洗練された魅力に感じられた。

「塗った白は、元の白ではないのに、それを変わらない白であるかのように装う。そんな風に感じるのが嫌です」

 箱崎のその言葉は果たして降る雪に対して向けられたものなのか。

 俺は何も言えずに、ただ箱崎を見るばかりだった。

「先輩、卒業するんですよね」

 唐突に箱崎が訊いた。伏目がちな彼女の表情からは考えを読み取ることができなかった。今度はなんだ。確かに三月になればこの学校から卒業だ。俺は大学に進学し、箱崎は受験生になる。離れ離れ。それは箱崎だって知っていることだ。

「ああ」

「じゃあホテルいきます?」

「は?」

 ホテル?

 呆気に取られた俺を箱崎はじっと見据えていた。睨むというわけでもなくただ凝視されている。発言が発言だけに覿面にうろたえてしまった。

「悪い、文脈がうまく読み取れないんだけど」

 ここで言うホテルは一体何を指しているのだろうか。下り列車の終着駅にある温泉街のそれではないだろう。国道沿いの外国の城みたいな外観の建物のことだとも思えないのだが。

「極限時に暖をとる手段のお話ですよ、坂上さん?」

 箱崎は、子供じゃないんだからと言わんばかりの顔。ひどくつまらなそうにして組んだ指をこすり合わせている。

「冗談だよな」

「さあ、どうなんでしょう」

「さあ、って」

「冗談のつもりではあったんですけど」

 雪の話をしていたら、今晩の宿泊の提案をされた。あまりに突拍子がないと思いきや論理が成立していることに俺は驚いた。帰る足がなければ泊まればいい。……そういう話だっただろうか?

「坂上さんはわたしとそういうところにいきたいという気持ち、ないですか」

 その台詞に俺は少しいらついた。卑怯な質問だ。俺は箱崎に気持ちを伝えてある。その上でそんなことを聞かれて、ないと言えるわけがないじゃないか。

「女の子に対しては誰にでも下心は持ってる」

「ふうん。じゃあ、もし電車が動かなかったら、いきましょう」

 見つめる箱崎から視線をそらすこともできず、俺はどうしようもなく追いつめられているという気持ちになった。

 はっきり言おう、混乱しながらもホテルに行こうという言葉に小躍りしている自分がいた。しかし、多少は理性的な部分が、安易にここでうなずいていいものか、と警鐘を鳴らしていた。

 なぜ、今、こういう話になるんだ。雪の話をして、白さの話をして、どうしてこうなる?

 たとえば、何か心境の変化があって、俺との関係性を変えようとこういう話をしているのか。それとも俺の知らないところで箱崎に何かがあって、箱崎の言葉は遠まわしに助けを求めているのか。それ以外に、俺の想像のおよびもつかない理由でこんなことを言ったのだろうか。

 俺が知っている、俺が信じている箱崎の姿のはずなのに、途方もなく違うものに見えた。

「俺には分からない」

 結局、口をついたのは降参に等しい言葉だった。立ち上がる勢いでパイプ椅子ががたがたと音を立てた。

「そういうとこ行くってことは、そういうことするってことだ。もし俺と付き合おうって気になって言ってるんなら、恥をかかせるようで申し訳ないけど分かりづらくて仕方がない」

 今になって、からかっているのではないか、という思いつきが頭に浮かんだ。この場のことだけでなく、箱崎が本当は誰とでもホテルに行くような女の子で、俺が告白した文化祭のあの日以来、馬鹿正直に待つ俺を適当にあしらっていただけなのでは、という。下衆の勘繰りだ。

「わたしは坂上さんのこと好きです」

 箱崎も両手で身体を持ち上げるようにしてソファから腰を上げ、ことなげに好意を口にした。

「坂上さんが、今は分かりませんが、わたしのこと好きって言ってくれたことも覚えてます」

 改めて指摘されると頬の紅潮は抑えられない。今も好きだ。喉が渇いた。冷めたコーヒーが飲みたい。

「うぬぼれっぽく聞こえます? いや、本当に、別に深い意味があるわけじゃないですよ。さっきも言いましたけど、冗談のつもりだったんです。ちょっと深刻な響きになっちゃいましたけど。坂上さんは今でもわたしのこと好きなんだろうし、わたしも坂上さん好きだし、雪降ってるし、いい機会かなあって」

 そんなものなんだろうか。雪が降っていて、電車が止まっているから。それだけのことなのだろうか。

 そうじゃないだろうと思った。

「外したら謝る。箱崎、お前さ、大月となんかあったか?」

 俺が思い出したのは職員室での大月の態度だった。どうしたことか、大月は俺に美術準備室へ行くよう急かしていた。その時になんと言っていたか。「俺の男気」、そんな芝居がかった台詞を口にしていなかったか。

「やだなあ、変な勘ぐりはしないでください。何かきっかけがあって言うんじゃないんです。なんとなくなんですよ」

 箱崎は手を振りながら笑って否定した。しかし俺は撤回しない。数秒待って、何やってるんだろう、と呟くのが聞こえた。

「すいません。混乱して、プロセスを間違えました。失敗です」

 どうやら大月絡みで間違いないようだった。箱崎はこれからおかしな話をしますと俺に小さな声で言った。俺は黙って頷いてやることしかできなかった。

「まずですね、さっき、大月くんと部室で二人、いたんです」

 大月がいたことは知っているが、他にこの部屋に人はいなかったようだ。雪の日の土曜日だ、用がなければ帰ってしまった人間の方が多い。

「そこで、なんというか、大月くんに好きだって言われちゃって」

 なるほど、大月が。ということは、あいつは箱崎に告白した後、平気な顔して職員室にいけしゃあしゃあと出頭したことになる。大根役者だと思ったが、なんてこった、いい面の皮をしている。

「まあ、わたしが好きって言うくらいです。わたしと坂上さんの関係も、おおよそ分かってたらしくて。付き合ってても関係ないけど、付き合ってないのなら、なおさら俺が告白してもいいよね、って」

 少女漫画の男の子みたいで面食らっちゃいました、と箱崎は少し笑った。

「大月くんには坂上さんとの話を含めて色々な話をしました。わたしは坂上さんが好きで、坂上さんもわたしのことを好きだって言ってくれているので、確かに付き合ってはいなくても、大月くんの気持ちに応えることはできない。そういうことを。

 そこで大月くんに言われたんです。じゃあなんで、坂上先輩に曖昧な態度をとっているんだ、って。それなんですよ、そこなんですよ」

 一旦言葉を切って、箱崎は視線をさまよわせた。それも一瞬のことで、再び俺を見据える。

「坂上さん、わたしのことかわいいと思います?」

「思う」

「ですよね」

 即答した俺も俺だが、箱崎、なんて自信過剰な。

「かわいいと思ってデザインしているんです。かわいく見えなきゃおかしいですよ」

 箱崎の見かけの魅力は持って生まれたものというより努力によって洗練されたものという印象を持っていた。しかし、彼女は外見のことだけを言ったのではなかった。

「外面も内面も、演出です。まあ女子はそういうものだって知っているかも知れませんが」

「随分露悪的だな。役作りとかそんなん、今日び当然すぎて誰も言わん」

 俺は少々鼻白んだ。かわい子ぶりっ子しているのだ、なんてことぐらいで今更騒ぐことかと思ってしまったのだ。

「結論を急かないでください。着地点はもう少し先です。そう、なんちゅうんですかね。自分との折り合いの問題なんですよ」

 折り合いで振り回して、と漏らしてから箱崎は再び喋り出した。

「人によく思われようと自分に色を塗る、確かに誰もがしてるんだと思います。それはきっと、坂上さんもそうなんでしょうね。でも、そうするのって、好かれようとするのと、嫌われまいとするの、二通りあるじゃないですか。わたし、ほとんど全部後者なんですよ」

「それは、俺に対しても?」

「そうです。なんべんもいいますが、わたし、坂上さんのこと好きです。好いてくれるのもすごい嬉しい。

 でも、好かれるってことは嫌われる余地があるってことです。わたしは、自分が好きな人に嫌われるくらいなら、好かれなくていい」

 ようやく話が見えてきたような気がした。が、しかしそれは錯覚なのだろう。俺はまだ、箱崎を何も理解していない。

「告白された時、好きだけど付き合わない、って言いました。ずっと思ってました、あれはものすごく卑怯だって。どうしてわたしが付き合わないって言ったか、坂上さん覚えてます?」

 忘れるほど薄情な人間ではないつもりだが、やはり緊張していたのだろう、即座には思い出せなかった。

「……恋人って関係性に魅力を感じない、そう言ってた」

「そうですね。それ、嘘です。本当は坂上さんと恋人、なりたかったです。

 大分前から、坂上さんには嫌われたくないなって思って、嫌われないようにいたんです。それが、坂上さんたら、告白したでしょう。あの時、内心、とうとうきたな、って思ったんです。

 だって、付き合うか付き合わないかの二者択一では、どうやったって関係性は変わってしまう。そして、そのどちらも危ういんです。付き合って、もっとわたしのことを好いてくれるかも知れない。それは嬉しい。でも、綻びが生じて、嫌なところをいっぱい見せて、嫌われたら元も子もない。恋人になって、もし嫌われたら? もし坂上さんを嫌いになったら? だって、わたし、付き合うとしたら文句をつけたいところ、今だって坂上さんにいくつも見つけてるのに。

 そう思ったら、もう恐ろしくて、お付き合いなんてできなかった」

 いつの間にか、箱崎の声は震えていた。鼻の先を赤くして何かをこらえるような顔。

「でも、断わることもしたくなかった。なくしたくないです、ずるいんです、わたしは。だからこの期に及んで、わたしは坂上さんと付き合える気がしないんです。だから、ホテル行こうって言ったんです。セックスはいいものですよ、必要だってことが確実に通じますから」

「セックスなんてそんな特別なもんかなあ」

 俺はその手のことに疎いので知ったような口をきくのがはばかられる。大月なんか、聞いたら最後笑い転げてしまうかもしれない。だが、そんなに大それたことでもないのではないだろうか。

「なんか坂上さんの口からそういうこと聞きたくない!」

 箱崎は俺の言葉に敏感に反応した。地団太を踏む彼女に理不尽な理由で怒鳴りつけられた。

「話振ったのどっちだよ」

「そうですけど! 好きな人の口からセックスとかそういう単語聞きたくないですよ」

 それ、どっちかって言えば俺のセリフなんじゃないのかなあ。

「じゃああれか、俺は恥じらいながら顔を赤らめてセックスって言えばよかったんだろうか」

「いいですねえ」

 泣きそうな顔のまま箱崎はにへらと笑う。その笑顔に俺は少し安堵した。少しでも空気が和らげばと、軽口を叩いた。

「ファンタジーだな」

「女は男の人より現実も夢もよく見えてるんですよ」

 夢か。こんな話をしていること自体、俺にとっては夢のようなものだ。人から見れば、高校生の恋愛ごっこだと笑うのかも知れない。だが、当事者にとって見れば、こんな事は人生に二度とないとも思うのだ。

「大月くんは、わたしのことを不誠実だって言いました。大月くんに対しても、坂上さんに対しても。わたしだって誠実でありたい。でも、でも、最初にあったかも知れない誠実さにわたしは泥をつけた。それを雪みたいに上から白く覆って、それをやめることもできない。今更どうすれば誠実でいられるのか、もうわかんない」

 言葉を終えてもなお、箱崎は泣き出さなかった。言い終えて立ち尽くす彼女に対して、職員室でのおどけたそれではなくなけなしの誠意の表現として、俺は頭を下げた。

「悪かった」

 ただ謝ることしかできない。どうして、と箱崎が呟くのが聞こえたが顔は上げない。今、箱崎の顔を見てしまったら、間違えてしまいそうだからだ。

「箱崎の態度に俺は甘えてた。お前がお前の都合で俺を宙ぶらりんにしていたって言うんなら、俺はそれにつけ込んでた。不誠実なのは俺も同じだ。嫌われたくなくて、でもこのまま卒業して終わりっていうのも嫌で、好きだけど付き合わないって言われて、俺は努力をやめてたんだ」

 デートもしない、キスもしない、セックスもしない。それでも互いに好きだと睦言を繰り返す。そんな仮初の恋人のような関係に俺は甘えていた。臆病者もいいところだ。箱崎はそもそもあの場で、今後について訊かれてこうも言っていたのだ。「やぶさかではないですね」と。その言葉に報いるための態度を俺は示してなどいなかった。

 目をそらしていた。幸福に対して無意識に居心地の悪さを覚えていたのは、好きだと口にした俺と、曖昧な態度をとった彼女との間に距離があったからだ。それを、あの告白以来、勝手に縮んだものだと錯覚して、彼女との距離感を推し量らないまま、埋めようとしないまま安寧に甘えていたのだ。

 たとえば晩夏のあの日、俺と箱崎が付き合いはじめていたのなら、俺は恋人としての努力をしただろうか。意思確認をとっただけで満足する男に、一人の女性と向き合い続けることはできただろうか。

 それは仮定の話だ。答えようがなかった。現実には、自分からは何もせずに、関係の進退を左右する決定権は箱崎にあるのだと詭弁を弄していた。喧嘩だって半分意識的に回避していた。本音ではなく心地の良い上辺だけを駆使していた。それが善きことだと、理想的な関係だと言い聞かせ、欺瞞で塗り固めて核心に触れないようにしたのだ。

 箱崎にとって俺が都合のいい男であるなら俺にとって箱崎は都合のいい女。お互いにとって都合のいいならそれでいいだろうと、宙ぶらりんのままずっとほったらかしでいたのだ。川を挟んで見つめ合うことでなく、橋を渡すことをすべきだったのに。

 好きな女の子が泣きそうだ。それに何かできるのは、今は俺だけ。大月にはできないことだ。

 抱きしめてあげればいいのだろうか。抱きしめればいいのだろう。けれど、その資格は俺にあるのかと、いもしない何者かに赦しを乞うてしまう。自分自身の態度すら自分では決められない男なのだ。こんな情けない男を好きだと言ってくれるのに、どこまで!

 その場しのぎの言葉を雪のように重ねて誤魔化したくはなかった。俺の沈黙を箱崎はどう捉えているのだろうか。俺は深呼吸をして、一度、美術準備室の全景を捉えるように見た。開きっぱなしのノートパソコンがあった。とぼけた顔のシーサーが描かれたコーヒーマグがあった。二人並んで座ったら肩が触れるくらいのソファがあった。そして箱崎がいた。箱崎を見つめて一息に言った。

「多分、今、付き合うって言ったとしても誤魔化しにしかならないと思う。セックスしたって同じことだ。今、俺達の関係が劇的に変わるなんてことは、無理な話なんだよ、きっと。

 だから箱崎。改めて、保留ってことでどうだろう。この関係を、二人でいずれどうにかしよう、ってことで、どうだろう」

 俺はこんなことしか言えなかった。甘っちょろい逃げの一手なのかも知れない。だけれど、俺一人では冴えたやり方は考えつきもしなかったのだ。そして箱崎一人で考えた結論もやはり俺から見れば破綻していた。

 一人の力でどうにかならないことなら、二人で向き合うしかないんじゃないのだろうか。

 箱崎は目を見開いて俺をじっと見つめていた。彫刻のように完成された曲線の輪郭がふっと揺らぐ。箱崎は顔をくしゃくしゃにして笑った。

「一緒に、ですからね」

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