第2話
学校に着く頃には、靴下まで水を吸ってしまっている有様だった。このまま上履きを履いてしまったら濡れてしまう。少し考えて、昇降口の端に設置された収納箱から来賓用のスリッパを取り出してそれを履いた。
美術室に向かう前に職員室へ寄った。清潔なタオルを貸してもらおうと思ったのだ。美術準備室でタオルを探そうものなら有機溶剤まみれの雑巾で拭く羽目になりかねない。
引き戸を開けると電話対応に追われる教師の姿が目に付いた。だがその数は常識的な範囲内だ。鉄道が止まっているとはいえ、あまり大事ではないということなのだろう。
失礼します、と小声で断りをいれ、調所の机へ向かう。昨年俺のクラスを担任した調所は恰幅のいい初老にさしかかった英語教諭だ。
「先生、こんちは」
「おう坂上、濡れ鼠だな。いや、水も滴るいい男ってとこか?」
昇降口でかかった雪を払いハンカチで一通り拭きはしたが、それでもとりきれなかった雪が滴になってコートに浮いていた。やたらと濡れているのは、俺の不器用さゆえ。傘を差すのが下手なのだ。
「できればタオルを貸していただきたいんですが」
「おう、いいよ。ちょっと待ってろ」
調所は職員室の一角を仕切って作られた給湯室から白いタオルを持ってきてくれた。礼を言って受け取る。タオルには近所の工務店の名前が刺繍されている。
ハンカチでは拭いきれなかった水分を弾かないように丁寧にタオルで吸い取りながら俺は訊いた。
「電車止まってるって知ってます?」
「ああ? さっき放送で伝えたろ」
どうやら運転見合わせは周知の事実らしかった。これから下校する生徒は少なくない。のこのこ駅に向かっては混乱の種にもなるだろう。
「いや、俺、駅からとんぼ返りしてきたんで」
「そりゃ無駄足だったな、ご苦労さん。架線のトラブルらしいからそのうち動くと見込んでるんだが」
ふん。沿線の竹林が雪の重みで倒れて架線を切っただとかそういう類だろうか。そんな状態から数時間で運転を再開できるというイメージはないのだが、本当に竹が倒れたというわけではないのだ。案外軽微な障害なのかも知れない。
調所は小テストの採点中だったようだ。赤のサインペンで誤答に注釈をつけながら答え合わせをしている。
「あんまり動かんようなら今日は無理に下校させずに校内で一泊させる予定もあるんだがよ。どうだ、泊まるか?」
「楽しそうですね。幼稚園のお泊り会みたいだ」
「ひどいたとえだな」
調所は記号問題の解答欄に大きくチェックマークをつけて、軽く笑った。
「運動部なんかは校内合宿なんかで泊まる機会はあるかも知れないですけど、俺はそういうのないですからね」
「美術部だって文化祭前は泊まり込みしただろ」
「俺は絵を描かないで女の子口説くのが目的でしたからね。ほら、美術部、女子は美人が多いじゃないですか」
「セクハラってうるさいのに聞かれるぞ、バカ」
拳で叩くようなジェスチャー。この老教諭とも教師と生徒とは言え三年の付き合いだ。俺の軽口も織り込み済みでまともには取り合わない。
調所は何かを思いついたのか、机の引き出しを開け一枚の解答用紙を取り出した。一目見ただけで分かる壊滅的な答案だ。
「全然関係ないんだけどよ、坂上。これ、どう思う?」
調所がペンの尻で指したのは長文読解の一問だった。設問の内容は、傍線部の疑問文に対する適切な応答を英語で書けというものだが、その回答がはっきり言ってひどい。中学生でも間違えないような語順で文というよりこれは単語の羅列だ。文法が崩壊している分、伝えようという回答者の痛切な意思はひしひしと感じる。それになにより、単語を拾って疑問文の内容と照らし合わせてみると、どうも内容理解はできているようなのだ。
「補講に追加するかどうかのボーダーラインなんだがこれの採点次第だ。お前ならどうする?」
三年の付き合いとは言ったが、あくまでそれは教師と生徒。教え子に他の生徒の答案の正誤を判定しろというのは無茶苦茶だ。
気後れした俺に気付いた調所は、お前の意見をそのまま採用するわけじゃない、と付け足した。
「俺の腹は決まっててね。他人がどういう採点するか、ちょっと興味があってな」
ふむ。名前の伏せられた下級生の回答を個人的に評価するだけというなら、倫理的な逸脱と誹りを食らうことはないか。
「文法が成立しているかどうかを優先するならゼロですけど、読解の問題ですし部分点は上げてもいいような。うーん、でも、他の答案と露骨に差をつけるのも……やっぱり、ノーコメントで」
遊びとは言え生半可な考えを開陳するわけにはいかない。それゆえの保留だったのだが、
「そうか」
と調所は再び解答用紙を引き出しの中にしまってしまった。もしかして調所は本当に俺に採点を委ねていたのではないだろうか。もしそうなら、俺は後輩の某君ないしは某さんの生殺与奪を握っていたということになる。
「先生、冗談にしては度が過ぎてるんじゃないですか」
「怒るなよ坂上。こいつはペケだ。……まあ、今後の参考ぐらいにはするかも知れんが」
参考、ね。寸評を差し控えるという俺の答えに見るものがあったのだろうか。
その時、背中側で扉が開く音がした。そしてすぐに、
「あれ、坂上先輩じゃないっすか」
と俺を認めた男が近づいてくるのが分かった。
「大月か」
「なんで職員室に? 部室行かないんですか?」
俺が美術準備室に行くのを当然のことのように言うのは大月だ。美術部員で箱崎とは同じクラス。俺の後輩だが、箱崎ですら多少は影響された美術部のやる気のなさが伝染することはなかったようだ。部員でも随一の制作数を誇っていた。出来もなかなかで、文化祭の展示発表では二人の作品をせいぜい客寄せになるよう使わせてもらった。ちなみに現部長だ。
「行くよ、行くとも。俺だって寄り道はするんだ」
「寄り道だらけの人生じゃないですか、先輩」
「大月ィ!」
毒舌を振るう背の低い後輩を一喝する。腹の底でどう思っているのかまでは知らないが、大月は絵を描けない俺のことを茶化しはしても馬鹿にはしなかった。いわく、下手でも文化祭に一作出した先輩はそれで充分です。公平な男だなと感じたのを覚えている。
「すんません冗談っす、ははは」
度つき漫才をする俺達に調所は笑いながら注意した。
「あんま職員室で騒ぐんじゃねえぞ、お前ら。それと大月、お前な、今更のこのこ出てきやがって」
どうやら俺と違い、大月は調所に呼び出されていたようだ。急に真顔になって九十度に頭を下げた。
「調所先生本当にすみません! 堪忍してください、忘れてたわけじゃないんです」
「故意に遅刻したって言うか?」
「いえ、大月嵩信、一世一代の大舞台がですね」
「お前みてえな三文役者はな、大見得切る前に稽古するんだよ稽古」
大月、お前は一体なにをしたんだ。
「本当、次やったら進級させねえぞ。本気だからな。……なあ坂上?」
大月を叱責していた調所は、急に俺に話を振った。赤ペンで机を叩きながら俺を見ている。
「話が見えないんですが、俺に関係のあることですか」
「いや、大月なんだがね。成績不振の生徒を集めた補講にかけてたんだが出席率が悪い。そんで欠席者用の課題まですっぽかしたから、呼び出しだ」
なるほど。大月も脇が甘いというかなんというか。俺は大月に言った。
「調所先生の寛大な処置もここまでだぜ。次下手打ったら留年だな」
「なんで分かるんですか」
大月は直角のお辞儀のまま、首だけ上を向いて言った。どんなにまじめな顔をしても狐目のせいで笑っているように見えてしまうのもあり、もはや誠意のかけらも感じられなかった。
「英語、追試の再試まで受けたことがあるからだよ……」
「まじすか先輩。そんな頭悪かったんですか」
素の口調でストレートに辛辣なことを言う大月の頭に俺はどつきを食らわした。
「悪かねえよバカ」
「まあ悪くはねえな」
うんうんとうなずく調所の同意に大月はうろたえた。
「え、なんですかその代わり身は」
調所は歯を剥いて笑ったが、目が本気だ。ヤツには分かっているだろうか。
「期末テストを寝坊で欠席、追試の日は風邪で休んだだけだから、な。大月、お前に今言ったのと同じことを坂上にも言ったんだ」
「その節は本当にすみませんでした。ご迷惑をおかけしました」
大月の脇に並び、俺もふかぶかと頭を下げた。もういい頭を上げろ、どうせ反省してねえんだ、と言われてしまい少し凹む。
「そんな問題児の坂上くんも進路を決めて卒業してくれるらしい。俺としてはほっとするばかりだね」
「大げさな」
「他の先生方だってお前の進路は心配されてたんだ。いっそ浪人を勧めてあげたらどうだって」
「はっはっは、なめられてますね」
「要領がいいんだか勝負どころが分かってるのかは知らんが、まあ、よくやったよ」
調所はねぎらうように俺の肩をぽんぽんと叩いた。皺の刻まれた老人の手だった。
「だがよ大月、坂上は参考にするんじゃねえぞ。お前はどっちかっていうと箱崎に倣え」
引き合いに出した名前に俺はどきりとする。後ろめたいことをしているわけではないが、何故だか動揺してしまう。顔に出なかっただろうか。
「成績優秀、品行方正、おまけにトモの肉付きもいい」
「トモってなんすか」
説教の最中だというのにけろりとしている大月の疑問に、辞書でも引いて調べな、と調所はまともに取り合わない。
「セクハラですよ、調所先生」
呆れて指摘するが、調所は俺の発言にセクハラだとつっこんだことなどどこ吹く風という態度だ。教材でオブジェを作るかのように散らかっている机といい、厳格なのかちゃらんぽらんなのか。
「そう言いなさんな。ま、それはともかくよ。清廉潔白って生徒はやもすると扱いづらいもんだ。腹の底が見えねえっていうか」
「箱崎もですか」
よく知る人間によるよく知る人間の人物評に俺は食いついた。
「箱崎については心配してないよ。俺の目利きだがね、あれはよくも悪くも臆病者だ。そういう奴は自分の嘘に我慢できなくなるからな。悪さをしても行き過ぎない。ちょうどいい塩梅になるもんよ」
「悪さって。かわいい後輩の弁護をさせてもらえば、あんないい子はいませんよ」
「いい子の近くに悪い虫が二つも飛んでたら気にもなるでよ」
あしらうような口調の調所の目は細められていて、俺はからかわれたのだと知った。
そう言えば、と大月が俺の進学先を訊ねた。虫扱いされたことは耳に入らなかったらしい。都合のいい耳をしている。俺の合格した大学の名前を告げても素通りするんじゃないかと思ったが、大月は信じられないものを見たという顔をした。
「すげえ、超頭いいじゃないですか」
「いや、試験問題の傾向やなんかがたまたま山を張ってた範囲だっただけで」
「名門大学の入試問題がツキでどうにかなるってレベルなのがすごいっす」
見直しましたと手ばなしでの賞賛に俺は恥ずかしくなる。よせと手振りで制した。お世辞や社交辞令ではなく、こいつ自身の価値観から見て褒めるに値すると思ったから褒めているんだろうが、むずかゆくなってしまう。
一緒になって笑っていた調所は、だがよ、と教師らしい警句を忘れなかった。
「坂上、前途洋洋に浮かれても余計なことはするなよ。この時期につまらないことでつまづく奴ってのはいるもんだ。もちろん、やることはきちっとやっていけ。荷物は少しずつ片しておかないと、卒業式で別の意味で泣くぞ」
「肝に銘じときます。じゃあ、まあ、俺はこの辺で」
嫌味ではなく、尊敬する人物の言葉だ。忘れまいと思いつつ、一礼して踵を返した。そこに大月が声をかけた。
「先輩、部室、なるべく早く行ってあげてくださいよ」
「急かすのか止めるのかどっちだ。もう行くよ」
神妙な口ぶりで言う大月に俺はすかさずぼやく。大月は肩をすくめて大仰な芝居。大根役者だな。
「言うのは野暮ですが、まあ、俺の男気と言ったところっすね」
なんのこっちゃ。
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