箱詰め少女【KAC2024 箱】
真昼
箱詰め少女
夕刻を過ぎ、月が空に浮かぶ。
そんな折り、
木箱を見つけた──
歩道の無い山沿いの道路。街灯に寄り添うようにして、それはあった。
年月を感じさせる、埃を被った古い木箱だ。
あまりに不可解なそれは、まるで誰かを待っているかのように佇んでいる。
それは、腰くらいの高さがある正立方体だった。
触れてみたところ、やや湿っていて、何処かズッシリとしていることが分かる。
そして、上部には蓋があった。
手を掛けてみると、それは簡単に動いた。
少しズラし、中を見てみる。
「水……?」
街灯の灯りが、濁りのある水を教えてくれる。
雨水が溜まったのだろうか。
いや、そもそもの話──
道路の脇にあるとはいえ、この木箱に誰一人気付かなかったのだろうか。
歩行者は居なくとも、定期的に車は通っている筈──
ふと、好奇心が湧き上がってきた。
蓋を持ち、更にズラしていく。
徐々に露わになる箱の中──
すると、何かが揺れた。
「……?」
蓋をズラした際の振動で、水面に波紋が出来た──
違う。そうじゃない。
水の中に、何かが居る。何かが潜んでいる。
好奇心だったものが告げてくる。
もう辞めた方がいい。これ以上は危険だ。
しかし、動かしていた手は、そのままの勢いで蓋をズラしていく。
やがてそれは、完全に開いてしまった。
木箱の蓋は滑り落ち、音を立てる。
「──ッ!!??」
半透明な薄いピンク色をした水の中に、
──肉が沈んでいたのだ。
「あ、ああ有り得ない……っ。有り得ないだろ!」
呼吸の乱れた身体を持ち上げるのに、沢山の時間を要した。
なんとか立ち上がり、もう一度確かめる。
「……んだよ、これ」
脚や頭、耳、指、唇、髪.──
肉、肉、肉──
そして、眼球──
それぞれが完全な姿を保っていないものの、間違いなく人間のそれであることが分かった。
ピンク色の水は、全て血だ。
「け、警察か……いや、救急車!? いっそ消防車も──」
頭が回らない。ポケットを何度も探るが、携帯電話が見つからない。
脂汗が額を滲ませる。
だがしかし、決して逃げ出そうという気にはならなかった。
現実感が無いというのは、確かにそうなのだが──
ただ、ほんの少しだけ、可哀想だと思ったのだ。
長い年月──が、実際掛かっているのかは知らないが、死体を一人放置するのは、やはり出来ない。
少なくとも埋葬はしてやらないと。
そんな矢先、血の湖に一つの波紋が生じた。
「えっ……!?」
奥底から泡が湧き上がっており、それを生じさせていたのだ。
「な、なんだ──っ!?」
もう一度、またもう一度。
触ってもいないのに、波紋が作られる。
そして最後に──
眼球が浮き上がった。
心臓の鼓動が急速に加速する。
これには彼も、逃げ出してしまった。しかし、遠ざかるたび、声が聞こえてくる。
そんな錯覚。
助けて、
という声が聞こえて──
「……ん?」
彼は、脚を止めた。
本当に声が聴こえた気がしたのだ。
耳を澄ます以前から、静寂が夜を支配している。彼の元へ、簡単に声は届いた。
「おーい」
そんな女性の声が木箱から聴こえてきた。雰囲気もへったくれもない、ごく普通の声だ。
「おーい、聴こえないのー」
「な、何……?」
思わず返してしまった。
「はっ!? やっぱり聴こえるんじゃん。ちょっとぉ、戻って来いよー」
「え、えぇ……」
訝しんだ声を漏らすと、何度も彼女は戻って来るよう言ってくる。割としつこい。
浮かんだ眼球がスルリと回転し、
「──っ!?」
「わぁっ!! ふーん、へぇ〜。冴えない顔ね、がはは」
あまりに緊張感が無い。拍子抜けする。
「な、何なんだよ、お前……」
「何って言われても……幽霊?」
「あぁ……! そ、それは……そうだよな」
幽霊でないと、色々と説明出来ない。
「うんうん! すっごい久しぶりの外だぁ。出してくれて有難う!」
口振りが、まるで封印していたものを解き放ってしまった、かのように感じる。
もしかして、やってしまったのだろうか。
「へ、へぇ……それは良かったね」
眼球に悪寒を覚えた彼は、それの視界から逃げるように身体をズラしていく。しかし、眼球は彼を追いかけてくる。
それならばと、しゃがんでやり過ごす。
だが、眼球はヒョイと木箱を乗り越えて、
「わぁ──っ!?」
思わず声を出して驚いてしまう。
がはは、と木箱から笑いが溢れた。
僅かにあった恐怖が薄れていく。
「ね、お喋りしよう!」
「は?」
「ねっ! いいよね! ね、ねねねねね!」
「わ、分かった。分かったから。壊れたロボットみたいに連呼するのはやめろ」
「わはぁ〜! やったやった!」
喜びを露わにすると、水が振動する。
更に、
突然、眼球が泳ぎ始めたのだ。
「──っ!? き、キモいキモいキモい!! 止めろ、それ!! キモいわ」
眼球が、ピタッと止まる。
「私の特技、見せてあげよっか」
「え? い、いや、別に。というか、寧ろやだ。絶っ対キモいし──」
「えいっ!!」
眼球に付いた神経のような、血管のようなもの──先程、木箱から
そんな糸状のものを上手く動かして、水面を叩いた。
弾けた水、もとい血が彼の口に入る。
「──うっ!? ウェッ、オエェッ! ウォェェェッ!!」
彼は、ドンッと木箱を叩く。
「ばっちぃだろっ、お前!! 呪われたらどうすんだよ!!」
ぱちゃぱちゃと水を泳ぐ彼女は、肉の壁に隠れると、恥ずかしそうに言うのだった。
「か、間接キスだね……がはは」
「死ねや!!」
★
暫く箱に詰められた彼女とお話しをし、
「まるで血池に棲むオタマジャクシを見てるみたいだ」
眼球が頭とすれば、繋がっている血管がヒレだ。
「お、おい……筋肉が解けてるぞ、気を付けて泳げ」
水に指を付け、肉を纏める。筋繊維というのだろうか。彼女が泳ぐたび、肉や皮が分解されていく。
彼女は気にしていない様子だが、妙に心配になってくる。もし自分の身体がそうなってしまったら──
ゾッとする。
「ねねね、
「えぇ……マジで言ってる?」
「大マジよぉ。私、すっごい綺麗な髪だったんだから。見て欲しいの、自慢したいの」
まるでワカメを乾かしている気分になった。
頭皮がくっ付いていたり、いなかったりしているが、もう今更気にならない。
「天日干しにするからな」
「うん! 有難う!」
「はぁ……つかさ、お前。名前も過去も分からないんだろ?」
話をして、彼女のことが少し分かった。
彼女は記憶が無いのだ。幽霊だから無いのか、彼女が特別なのかは不明だ。
なんたって、
「容姿は覚えているのか?」
尋ねると、ふるふると眼球が揺れた。否定しているらしい。
「ううん。髪は綺麗にしてたなー、くらいの感覚だよ。その他は、全く分かんないや」
「そ、そっか……一体どれくらい前に、お前は死んだんだろうな。それもこんな山の中で」
街を一周するように山沿いに設けられたこの道路は、長距離輸送用のトラックが利用している。
削り取られた山の斜面がしっかり舗装されていて、土砂崩れの心配もない。落石の看板は立っているが、付近に石は見当たらない。
ここは、それ程よく利用されている道路なのだ。
それでは彼女は、事故で死んだのだろうか。
「どれくらい前かって? あー、それなら多分、一〇年くらい前だよ」
「え、そうなの? 分かるの?」
「うん! 大体そんくらいな気がする」
「ふーん。まぁ──」
ガードレールに花束や供え物は無かった。
つまり、つい最近死んだ訳では無いのだろう。
「だったら、お前のこと──分かるかも知れないな」
「え、それホント!? ホントにホント!? 大マジ??」
「ああ、大マジだ。え、何……興味あんの?」
「あるに決まってるじゃん!! 私さ、徐々に記憶が薄れてる気がするの」
てっきり記憶喪失の類かと思っていたが、どうやら違うらしい。
「私、もう長い間、暗闇の中に居たからさ……なんていうか、自分を見失ったっていうか……」
自分という存在やその記憶について、忘れてしまった。そう言いたいらしかった。
「髪を綺麗にしてる。そんなどうでもいいことだけど、きっと、当時は本当に大事にしていたんだと思う。だから、今でも覚えているの」
「そっか」
「だからね、私──」
「次来る時は、ドライヤーを持って来てやるよ」
「え?」
「お前の覚えてる過去、全部教えろ。家族や好きな食べ物、全部だ全部。そしたら、見つけ易いだろ」
「う、うん……!」
「髪の記憶があるのなら、きっと縁のあるものを見れば、思い出す筈だ。そうすれば、お前はその箱から出られるかも知れない。どうだ? やってみるか?」
「うん……」
彼女は不安そうに答える。しかし──
「うん!!」
と、決意を露わに答えた。
妙な約束をしてしまったと、内心後悔している。
木箱を好奇心で開けてしまったことによる責任に近しい何か──
そして、健気で、可哀想で、死んでいる彼女に、ほんの少しの同情──
そのままにしておくのは、気が引ける──
偽善が彼を突き動かす。
「じゃあ、一杯話すね! あのね──」
★
「よっ、二日振りだな」
「遅い遅い遅ぉっーいっ! 何してたのさ!」
「何って、学校だよ。ほら、高校の制服。分かるか?」
「分からん知らん不理解不利益高収入ぅ」
「何それ、一〇年前に流行ってたの? 忘れろよ、そんな記憶。容量圧迫するだろ、バカなんだから」
地面に座り込み、ポータルブルドライヤーで乾かし始める。
「この周辺で死んだのは、全部で四人だった。一応、誤差を考えて二〇年分調べて来た。図書館でな」
「うんうん、それで!?」
「死因は全員、車に跳ねられた交通事故だ。その内、男が一人。損傷が激しかったのが二人だ」
「やっぱりさ、私って凄いヤバいのかな? その、元の死体というか」
「さぁな。幽霊なんて、お前が初めてだし。でも、よくあるよな。死んだ時の傷のままで彷徨っている幽霊ってのはさ」
「八年前と一五年前に一人ずつ。前者は、俺と同じように道を誤って、ここを歩いていたらしい。ボーっと直進していたら、ここに着いちまうからな」
「で、当時は街灯が極端に少なかったらしい。跳ねられて芋虫みたいに、そうプチッとな……まぁ、紛れもなく不幸な事故だ」
そして後者は──
「一五年前だから、街灯はもっと少なくてな──更に当日は雨だった」
「トラックに跳ねられ、息のある状態でもう一度、跳ねられたらしい。どうやら自殺だったってさ。彼女自身の目的は達成されたけど……でも、救急車も呼ばれず、放置された肉は水で流されて──」
「自殺……」
木箱の中から小さな声がする。
「皮肉だな。全てを無くしたかったお前が、失ってから苦しむなんて。とはいえ、これがお前だったらの話だが」
しかし、今まで一番可能性のある話だ。
「お前、本当に思い出したいか?」
チャパチャパと水の音がする。木箱を背にした
「うん……私、このまま忘れていくのは、嫌だから。これから先、
「分かった。最後まで付き合ってやるから、安心しろ」
「有難う、がはは」
「髪、乾いた?」
「え? あ、うん」
「えへへ、どぉ? 綺麗でしょ!! がはは」
「う、うん。そうだな」
「ねー、見せてよぉ。思い出せるかも知れないじゃん」
「だ、駄目だ。お楽しみは取っておけって」
「えー、ケチんぼ」
彼女はそう言うが、血飛沫をあげて喜びを表現していた。
そんは彼女に苦笑しながら、
★
「アポイントを取ったから、明日行って来る。明後日、報告しに来るから待っててくれ」
「連れてって!! 連れてけー!!」
「はい? え、どうやって……? 無理だろ、バケツも無いし……箱は持ってけないぞ」
「手貸して!」
怪訝に思ったが、
すると、彼女の眼球が絡み付いて来た。
「うぇっ、だからキショいって」
芋虫のように腕を這っていき、肩から顔へ飛び移る。口に侵入して来た。
「どれどれぇ〜。虫歯はありませんかー。なんちって、がはは」
べっと眼球を吐き出した。彼女は大人しくもう一度登ってくると、彼と眼を合わせた。
「な、何だよ……」
「そのままじっとして」
そう言うと、ゆっくりと彼女の眼球が、右眼に近付いて来る。
血管の触手を伸ばし、眼が入り込んでくる。
完全に合わさった。
「──ッ!?」
「合体っ!!」
「お、お前ふざけんじゃねーぞ!!」
「がははっ、いいじゃん別に」
「いい訳ねぇーだろ! 離れろよ!」
「ここ、住み心地いいね。ぴったりだし」
「……え、何? これで会いに行けって言ってんの?……てかこれ、今日はずっとこのまま?」
「あいあい、よろしくぅ」
眼の中に入り込んだ彼女に対し、成す術は無かった。
仕方なく
彼女はこの一〇年間を埋めるように、テレビや漫画、雑誌、その他諸々を大いに楽しんだ。
風呂もトイレも一緒だった。
夜になると幽霊の血が騒ぐのか、活発になる。「もう寝た?」「起きてる?」とか、一向に眠らせてくれなかった。
だがそれも、彼女の寂しさであると思えば、付き合うことが出来た。
そして次の日、学校を休んだ。
★
「学校行きたかったぁ。行きたかったよぉ」
「あんまり煩いと、眼を閉じるからな」
右眼に棲む彼女は、視力を共有している。目蓋を閉じれば、同様に彼女は暗闇に苛まれることになる。
勿論彼女が、右眼から飛び出したら別だが、その時は引っ張り出そうと
「この街って、こんなんだったっけ?」
「分かるのか?」
「ううん、何となぁく。言ってみただけぇ」
「なんだよ──ほら、着いたぞ。ここが十五年前に自殺した女性の、母親が住んでいる家だ」
「ふーむ、むむむ。やっぱり全然記憶になぁい」
忘れてしまったのか、否か。
だが、自身の髪について覚えているくらいだ。家の形や雰囲気を覚えていても、なんらおかしくない。
つまりは、ここもハズレか。
「まっ、そう簡単にはいかないよな。先ずは話を聞きにいこうぜ」
「うん! 行こう!」
意気込んだのは良いものの、結論から言って、彼女が何かを思い出すことは無かった。
年老いてしまった実の母親の顔も、
生まれ育った家の中も、
そして、飾れた遺影と写真の数々──自身が映ったそれらは、眩しい笑顔に溢れていた。
だが、やはり知らないらしい。
「……そうですか。あの、今日は本当に有難う御座いました」
そう述べてから、
「うーん、お前の反応からして、やっぱり違いそうな気がするよな……」
「ぐすん、ふぇぇえん。可哀想な話だったよぉ」
「えぇ……」
確かに可哀想ではあった。
だが、既に死を受け入れている彼らの話に、涙は不要だった。
「次行くぞ──」
八年前に交通事故で亡くなった女性の家にも訪れる。
──結果は同じだった。
「仕方ないな……」
適当にぶらついてみることにした。
顔と眼を動かして、様々なところを見て行く。もしかしたら、何か思い出すかも知れない。
だが、
「疲れたぁ……」
「楽しかったぁ!!」
夜になるまで歩いたというのに、彼女から気付きを得られることは無かった。
★
──そして日は重なり、半月が経過する。
吹っ切れた
流石にそれは信じて貰えないだろう。
噂程度の内容で良い。それを情報として活用していけば、もしかしたら──
「最近、山道に幽霊が出るってさ」
「そうそう。ずっと立ち尽くしていたり──」
「楽しそうに一人で笑ってるって聴いたよ!」
それは明らかに、
あれからほぼ毎日のように、木箱の少女を訪れている。右眼に棲み着いていたとしても、水で泳ぐ時間は欲しいとのことだ。
羽根を伸ばしたいそうだ。まるでペットのインコみたいだな、と彼は思う。
「ボサボサの跳ねた髪に、ウチの学ラン……って、さてはお前のことだな!? なぁ、
ギクリッ──
「つってな。お前の笑ったとこ、見たことねーし。有り得ねー」
「え、てか。ここの制服で男の子まで分かってるんだ」
「誰か死んだの? 交通事故なのかな?」
「最近死んだやつはいねーよ」
「そういえば大昔、道路工事で誤って──」
「隠蔽されたってさ」
様々な情報を元に、様々な場所へ行き、様々な方法でアプローチする。
そうして、気付けば半年近くが経過していた。
「
「マジ? 俺は見えなかったぞ」
「右眼操作するから、転けないでよ!」
情報屋として名を馳せた彼は、現在猫を追っているところだった。
どうやら、この通りに逃げた飼い猫がよく現れるらしい。
「居た!!」
「走って!! 早く走って!! 走れーっ!!」
彼女の煩い声が頭蓋骨に響いてくる。
頭痛薬を飲み忘れたことに後悔し、脚を動かせる。
「もっと早く走れないの!? 逃げちゃう、逃げちゃったじゃん!!」
「無茶言うな……っ。これで全力だってば……」
「
「た、確かに有りかもしれん……って、お前と居ると死生観バグるわ」
猫を追いかけ続け、公園の木にそれは登っていった。
「よし、情報通りだ──っ!」
「え、なになに!?」
「逃げると高所へ行き、降りれなくなる。そう言ってたろ? 震えてるところを捕まえっぞ」
「馬鹿猫だっ、がはは」
猫はちゃんと震えて、大人しくなっていた。
「慎重にだよ。慎重に……」
「言われなくても、分かってるよ。運動は苦手なんだ」
「私はねー、多分水泳は得意だよ。きっとそう」
「このオタマジャクシが……っ」
怯えた猫はすっかり萎縮してしまっている。持ち上げて、捕まえた。
「任務クリア?」
「そうだな」
太い枝を椅子代わりにし、
すると、眼前に赤色の空が広がっていた。
夕焼けに染まる、黄昏の空だ。
「わぁ、綺麗……!
「ああ。綺麗だ」
右眼が楽しそうに見開いた。
「なぁ、その……ごめんな」
「え、急に何!? 何の話!?」
「いやだってさ……全然お前のこと見つけられなくて。猫探しなんてボランティア、やってる暇無いよな」
「え……? あーううん。別に気にしてないよ?」
「そ、そうなのか?」
「うん! だって、
彼女は笑って、そう答える。
「そっか」
「ねぇ、
「……ああ。十五年間で一番楽しい」
「やったぜ、がははっ!」
「あのさ、その笑い方……いや、何でもない」
猫を無事に届けると、
夜が更けるまで、いや更けても彼女の傍にいる。もう彼女は、身体の一部となっていた。
「お、髪の毛発見。はい、回収〜」
「ねぇってばぁ。私の綺麗な髪、いつ完成するの!? どうして見せてくれないの!?」
彼女は血管を器用に動かし、不機嫌そうに泳いでいる。
「まだ駄目だ。完璧にしてから返してやる。少し待っててくれ」
「むぅ、ウェーブかけてよ」
「いや、それは無理」
木箱に保たれ掛かるようにして座り、今日も今日とて髪の手入れをする。櫛で髪をとかし、高い石鹸で洗う。ドライヤーも当然、掛けた。
以前よりは遥かにマシになった。
だが、やはり綺麗とは程遠かった。正直に言って、これ以上は無理だ。
どうしてもっと早く言わなかったのだろう。
ここまで期待させておいて、こんなボロボロになった髪を見せる訳にはいかない。
彼女が唯一覚えていることなのだから、生前は相当綺麗だったのだろう。
健気に死んでいる彼女の、最後の取柄だ。プライドといっても差し支えない。
悲しませたくない。そう彼は思うのだ。
「ここで何してる」
それは不意に現れた。
濃い皺を携えた白髪の老婆が、そこに居た。
「幽霊……?」
「なんだって!?」
「あ、すいません。つい……」
仮に幽霊だとしても、失礼な発言だったかも知れない。
「あ、あの──」
「ここで何してる」
「……えっ、それは」
老婆は敵意を露わにしていた。
どのように答えるのが正解だろうか。
木箱に助けを求めても、彼女はパシャパシャと水を泳いでいる。
老婆の方は、木箱を視えていないようだ。
「私の大切な場所で、何してる」
老婆は痺れを切らし、そう言った。
大切な場所……?
「お、お婆さん……あの、俺は──」
「なんだ。何故、下を見ている」
下とは木箱のことだ。
「そ、それは……」
「ゆ、幽霊が……俺には幽霊が見えるんです!」
「何だとぉ……っ!?」
老婆はカッと眼を見開いた。
「どんなだ!? どんな姿だ!?」
「ま、待って下さい。落ち着いて──」
「それは……それは、私の姉なのか!?」
「ま、待って──え、あ、姉!?」
老婆は確かにそう言った。
若くても七〇歳を超えているように見える。
そんな彼女の姉が、ここに?
仮に、木箱の少女が二〇年前に死んだとして──
老婆は当時、五〇歳。その姉なら、それ以上になる。
木箱の少女の言動からして、五十歳以上とは到底思えない。記憶を失っていく過程で、幼くなった可能性は充分にあるが──
「お婆さん、落ち付いて聞いて下さい。俺が見えているのは、木箱なんです。木箱に入った、ぐちゃぐちゃの──」
流石に不謹慎な発言をしてしまった。
「ぐちゃぐちゃだと?」
「えっと……は、はい」
すると、老婆は力なく地面に座り込んでしまった。
そして、
「……なら。それは私の姉に間違いない」
「え!?」
老婆は、懐から紙を取り出す。それを懐かしそうに眺めていた。
「お前さん、最近よう噂になっとる。ここで何をしていた。正直に言うてみんせん」
「それは──」
出会いから何から何まで、
「そうかい。姉の為にな……」
「いえ、俺はただの話し相手くらいの存在です」
「それでも、礼を言わんとな。姉はなぁ──」
曰く、六〇年前にここで亡くなったらしい。不幸な事故だったそうだ。
「ほ、本当ですか? それは、本当にお姉さんで間違いないんですね!?」
老婆は頷く。
「六〇年前……」
「え、私、六〇年も昔に死んでたの!? サバ読みすぎたぁ!?」
「サバっていうか、なんていうか……」
彼女が感じていた一〇年は、実際のところ六〇年経っていた。
暗闇で、時間感覚を保てる筈も無かったんだ。
一日ですら、数時間単位でズレることがある。それが六〇年積み重なれば、彼女のようになっても不思議ではない。
「これだ。これが──姉との最後の写真だ」
老婆は、取り出した紙を差し出してくる。
白黒写真だった。
そこには二人──小さな少女と、
「ねー、見せてよぉ。見せて見せてー」
「あ、ああ……」
木箱の少女の眼球が水を跳ねた。
彼の右眼に侵入すると、早速写真に眼を落とした。
「…………」
煩くしていた彼女が、途端に口を閉じた。
「どうかしたか?」
聞き返すと、彼女は静かに告げた。
「──これ、私だ」
刹那、右眼に映像が流れ始めた。
その映像は、様々な時間、様々な場所、様々な人──
次々と移り変わっていく。
だがその時々で、同じ人間が何度も登場していた。老婆の若い頃の姿だった。
余程、仲が良かったらしい。楽しく遊んでいる。
特に老婆が好きだったのは、姉の髪だ。同じ髪型にするよう、姉にせがんでいる。
そんな老婆の自慢の姉になりたくて、彼女は鏡の前で髪を綺麗に解かしていた。
しかし──
映像は突然、ぶつ切りに途切れてしまった。
それは、彼女が押しつぶされて死んだ瞬間だった。
気付けば、右眼から大粒の涙が流れていた。
「おぼいだじた……おぼぃだしだよぉ」
彼女は泣き咽びながら言う。
「今の映像は、お前の記憶か……」
「わだじ……わだじはぁあぁぁ!!」
ひとしきり泣いた後、
老婆が無人に言う。
「椿。あの子の名前は、葵椿だよ」
「椿──」
木箱に閃光が迸る。
「──っ!?」
木箱から骨が浮き上がっていく。
空中で組み立てられ、人の形を作っていく。
筋肉が貼り付けられ、血が戻り、血管が伸びていく。
椿の左の眼球が付けられると、それが
「
「え?」
無人は自分の頬に触れる。
いつの間にか、左眼に涙が浮かんでいた。
「どうしてだろう……」
「おかしな、
彼女はそう言うと、
右眼に収まる前、
「礼はいいよ」
ふるふると眼球が震え、彼女の右眼となった。
皮膚が付き、服が戻る。
殆ど、生前と変わらない姿をし始める。
「
しかし、彼女は困ったように言う。もじもじとし、背後で手を組む。
「私の髪の毛、返して……恥ずかしいよぉ」
「でも……」
「どうしたの?」
「でも俺は──」
葵椿は、
「いいの。ほら、見せてみて。貴方が乾かしてくれたんでしょ?」
今度は
到底綺麗とはいえない、彼女が生前大切にしていた髪を、遂に見られてしまった。
「こ、これは──違っ」
「綺麗でしょ?」
「え?」
椿は、手渡された自身の髪を見て、笑顔で言う。
「自慢の髪なのよ、がはは」
どうしてだろう。涙が止まらなかった。
「ああ……ああ! とても綺麗だ……っ」
「大事にしてくれて、有難うね」
「椿……っ!」
髪は、彼女の頭部へ戻っていく。
時間が巻き戻ったように、荒れたそれは生前の姿に変わっていく。
重力を一身に受け、黒い長髪が真っ直ぐ地面を目指して垂れている。艶やかに輝き、無人を魅了する。
とても、美しかった。
葵椿という女性が、生前の姿となった。
すると光が消え、静かな暗闇が訪れる。
彼女は老婆の元へ歩いて行くと、包み込むように抱き締める。
「居るのか? そこに居るのか!?」
老婆は椿を感じ取り、眼を見開いた。
「ええ、今はお婆さんの傍に……っ」
「そうか……お姉ちゃんが……」
「すっかりお婆ちゃんになったね、十女」
白髪を撫で、身を寄せ合う。
「また会えてよかった。本当に」
椿が言った。
「もう一度、会えるなんて……っ。信じられない」
老婆が言った。
言葉が届かなくとも、彼女らは互いを理解し合える。それが家族というものらしい。
思い出を語らう訳でもなく、ただ黙って感じ合う。やがて二人は、同時に離れた。
健やかな表情をしていた。
そして、椿はもう
「
「そんなこと言われたって……っ」
「もう、皆んな子供なんだから」
額が触れ合う。
体温の無い肌は、彼女が死んでいることを改めて
心がギュッと収縮する。
「大好きだよ、
「俺も、好きだ……っ」
自然と、唇を重ねた。
暖かさは無いが、温もりはあった。
「間接キスじゃないでしょ?」
「ファーストだった……」
「がははっ、私もー」
椿が笑うから、
「それじゃあ、そろそろサヨナラしないとね」
「そ、そんな……っ。待って、俺はもっと……っ!」
「その為に頑張ってくれてたんじゃないの?」
「それは……」
「
唐突に訪れた別れの時──
出会った当初は、これを望んでいた。
しかし、いざそれが間近に迫ってくると、
「椿……」
「あれ、さっきから呼び捨てだよぉ? おかしいなぁ。これでも私、七〇歳近く歳上よ?」
「え? あ、それは……その」
「うそうそ、がははっ!」
幽霊とは思えない盛大な笑顔は、夜空よりも輝いている。
「また……会えるかな……?」
彼もそれを力強く握り返した。
「ううん。もう……会わない」
「え……? ど、どうして……っ!?」
「
「ま、待って……待ってよ! 椿が居ない人生なんて──」
「そんなこと言わないで、ね? 私はここで終わる。貴方はこれから始まる。これ以上の幸せを、貴方には感じて欲しい」
「……椿」
「知ってる? 夜明け前が一番暗いんだって」
「う、うん。有名な言葉だ」
「じゃあこれは? 黄昏が一番美しい」
「え? 誰の言葉……?」
「私の言葉、がはは」
「なんだよ……で、意味は?」
「そのままの意味だよ。貴方はこれから希望のある未来が待っている。私は──現在から過去、あらゆる思い出が今、眼前に広がってるの」
椿は言うと、両腕を広げてみせた。
「振り返ってみれば、輝かしい思い出ばかり──終わる瞬間がね、一番美しいの。ああ、良い人生だったって」
「そんなこと言うなんて……ズルいじゃないか」
「そうだよ。なんたって、歳上のお姉さんだからね。ズル賢いんだ」
「……くそ」
「ほら、よしよし。男の子でしょ」
「……はぁ分かった。分かったよ──俺は、俺の人生を生きよう」
「良い子ね、がはは」
きっと彼女は知っていたのだ。
半年間眼に棲み着いたことで、彼の弱さを、そして彼が自身に依存し掛かっていることを。
無人は悔しそうに顔を顰めると、姿勢を正した。
終わりの時がやって来たと、肌が感じ取ったのだ。
「サヨナラ、だね」
「ああ。サヨナラだ」
すると、椿の身体が徐々に薄くなっていく。
握り締めた彼女の左手に、力が抜けていく。
「ねぇ、無人」
「なに?」
「本当はね、私が成仏出来ないから言ったの、がはは……バイバイ、
手の中から彼女という存在の厚みが消えた。
「椿──っ!?」
伸ばした手は、雲を掴むように空を切る。
彼女が最期に溢した涙は、風に乗って空へと消えて行く。
彼女の象徴ともいえる木箱も無くなってしまい、彼女は跡形も無く消えてしまった。
残されたのは残酷な今と、優しい思い出だった。
そして訪れるのは、輝かしい未来だ。
「……たかが七〇年で、ズルしやがって」
もう二度と、ここへは訪れない。
何故なら、葵椿はもうそこには居ない。
死者は終わりを迎え、全く新しいものに生まれ変わる。その瞬間は、最も美しいらしい。
だったら、そうしよう。
その瞬間を、より輝かしいものにする為──
今を、そして未来を、精一杯生きるとしよう。
生者の始まりは、とても暗いのだ。
箱詰め少女【KAC2024 箱】 真昼 @mahiru529
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