箱詰め少女【KAC2024 箱】

真昼

箱詰め少女

 


 夕刻を過ぎ、月が空に浮かぶ。



 そんな折り、



 木箱を見つけた──



 歩道の無い山沿いの道路。街灯に寄り添うようにして、それはあった。



 年月を感じさせる、埃を被った古い木箱だ。



 あまりに不可解なそれは、まるで誰かを待っているかのように佇んでいる。



 神栖無人かみすなきとは怪訝に思いつつ、木箱に近付いてみる。



 それは、腰くらいの高さがある正立方体だった。



 触れてみたところ、やや湿っていて、何処かズッシリとしていることが分かる。



 そして、上部には蓋があった。



 手を掛けてみると、それは簡単に動いた。



 少しズラし、中を見てみる。



「水……?」



 街灯の灯りが、濁りのある水を教えてくれる。



 雨水が溜まったのだろうか。



 いや、そもそもの話──



 道路の脇にあるとはいえ、この木箱に誰一人気付かなかったのだろうか。



 歩行者は居なくとも、定期的に車は通っている筈──



 ふと、好奇心が湧き上がってきた。



 蓋を持ち、更にズラしていく。


 

 徐々に露わになる箱の中──



 すると、何かが揺れた。



「……?」



 蓋をズラした際の振動で、水面に波紋が出来た──



 違う。そうじゃない。



 水の中に、何かが居る。何かが潜んでいる。



 好奇心だったものが告げてくる。



 もう辞めた方がいい。これ以上は危険だ。



 しかし、動かしていた手は、そのままの勢いで蓋をズラしていく。



 やがてそれは、完全に開いてしまった。



 木箱の蓋は滑り落ち、音を立てる。



「──ッ!!??」



 無人なきとはその瞬間、弾かれたように離れた。脚をほつれさせ、尻持ちを付いてしまう。



 半透明な薄いピンク色をした水の中に、



 ──肉が沈んでいたのだ。



「あ、ああ有り得ない……っ。有り得ないだろ!」



 呼吸の乱れた身体を持ち上げるのに、沢山の時間を要した。



 なんとか立ち上がり、もう一度確かめる。



「……んだよ、これ」



 無人なきとは呟き、首を僅かに振る。否定したいが、自身の眼は正直にそれを捉えている。



 脚や頭、耳、指、唇、髪.──



 肉、肉、肉──


 

 そして、眼球──



 それぞれが完全な姿を保っていないものの、間違いなく人間のそれであることが分かった。



 ピンク色の水は、全て血だ。



「け、警察か……いや、救急車!? いっそ消防車も──」



 頭が回らない。ポケットを何度も探るが、携帯電話が見つからない。



 脂汗が額を滲ませる。



 だがしかし、決して逃げ出そうという気にはならなかった。



 現実感が無いというのは、確かにそうなのだが──



 ただ、ほんの少しだけ、可哀想だと思ったのだ。



 長い年月──が、実際掛かっているのかは知らないが、死体を一人放置するのは、やはり出来ない。



 少なくとも埋葬はしてやらないと。



 そんな矢先、血の湖に一つの波紋が生じた。



「えっ……!?」



 奥底から泡が湧き上がっており、それを生じさせていたのだ。



「な、なんだ──っ!?」



 もう一度、またもう一度。



 触ってもいないのに、波紋が作られる。



 そして最後に──



 眼球が浮き上がった。



 心臓の鼓動が急速に加速する。



 これには彼も、逃げ出してしまった。しかし、遠ざかるたび、声が聞こえてくる。



 そんな錯覚。



 助けて、



 という声が聞こえて──



「……ん?」



 彼は、脚を止めた。



 本当に声が聴こえた気がしたのだ。



 耳を澄ます以前から、静寂が夜を支配している。彼の元へ、簡単に声は届いた。



「おーい」



 そんな女性の声が木箱から聴こえてきた。雰囲気もへったくれもない、ごく普通の声だ。



「おーい、聴こえないのー」



「な、何……?」



 思わず返してしまった。



「はっ!? やっぱり聴こえるんじゃん。ちょっとぉ、戻って来いよー」



「え、えぇ……」



 訝しんだ声を漏らすと、何度も彼女は戻って来るよう言ってくる。割としつこい。



 無人なきとは息を呑み、仕方なく木箱に手を掛けた。



 浮かんだ眼球がスルリと回転し、無人なきとを見た。眼が合った。



「──っ!?」



「わぁっ!! ふーん、へぇ〜。冴えない顔ね、がはは」



 あまりに緊張感が無い。拍子抜けする。



「な、何なんだよ、お前……」



「何って言われても……幽霊?」



「あぁ……! そ、それは……そうだよな」



 幽霊でないと、色々と説明出来ない。



「うんうん! すっごい久しぶりの外だぁ。出してくれて有難う!」



 口振りが、まるで封印していたものを解き放ってしまった、かのように感じる。



 もしかして、やってしまったのだろうか。



「へ、へぇ……それは良かったね」



 眼球に悪寒を覚えた彼は、それの視界から逃げるように身体をズラしていく。しかし、眼球は彼を追いかけてくる。



 それならばと、しゃがんでやり過ごす。



 だが、眼球はヒョイと木箱を乗り越えて、無人なきとを覗いてきた。



「わぁ──っ!?」



 思わず声を出して驚いてしまう。



 がはは、と木箱から笑いが溢れた。



 僅かにあった恐怖が薄れていく。



「ね、お喋りしよう!」



「は?」



「ねっ! いいよね! ね、ねねねねね!」



「わ、分かった。分かったから。壊れたロボットみたいに連呼するのはやめろ」



「わはぁ〜! やったやった!」



 喜びを露わにすると、水が振動する。



 更に、



 突然、眼球が泳ぎ始めたのだ。



「──っ!? き、キモいキモいキモい!! 止めろ、それ!! キモいわ」



 眼球が、ピタッと止まる。



「私の特技、見せてあげよっか」



「え? い、いや、別に。というか、寧ろやだ。絶っ対キモいし──」



「えいっ!!」



 無人なきとの静止も効かず、そんな可愛いらしい声をあげた。



 眼球に付いた神経のような、血管のようなもの──先程、木箱から無人なきとを覗いたのも、きっとこれを使ったのだろう。



 そんな糸状のものを上手く動かして、水面を叩いた。



 弾けた水、もとい血が彼の口に入る。



「──うっ!? ウェッ、オエェッ! ウォェェェッ!!」



 無人なきとは大袈裟に反応すると、口を何度も拭き取り、唾を地面に吐き捨てた。



 彼は、ドンッと木箱を叩く。



「ばっちぃだろっ、お前!! 呪われたらどうすんだよ!!」



 ぱちゃぱちゃと水を泳ぐ彼女は、肉の壁に隠れると、恥ずかしそうに言うのだった。



「か、間接キスだね……がはは」



「死ねや!!」





 暫く箱に詰められた彼女とお話しをし、無人なきとはすっかり慣れてしまった。



「まるで血池に棲むオタマジャクシを見てるみたいだ」



 眼球が頭とすれば、繋がっている血管がヒレだ。



「お、おい……筋肉が解けてるぞ、気を付けて泳げ」



 水に指を付け、肉を纏める。筋繊維というのだろうか。彼女が泳ぐたび、肉や皮が分解されていく。



 彼女は気にしていない様子だが、妙に心配になってくる。もし自分の身体がそうなってしまったら──



 ゾッとする。



「ねねね、無人なきとー。私の髪、乾かしてー」



「えぇ……マジで言ってる?」



「大マジよぉ。私、すっごい綺麗な髪だったんだから。見て欲しいの、自慢したいの」



 無人なきとは嘆息すると、浮かんでいる髪を掬い上げ、木箱の蓋に干した。



 まるでワカメを乾かしている気分になった。



 頭皮がくっ付いていたり、いなかったりしているが、もう今更気にならない。



「天日干しにするからな」



「うん! 有難う!」



「はぁ……つかさ、お前。名前も過去も分からないんだろ?」



 話をして、彼女のことが少し分かった。



 彼女は記憶が無いのだ。幽霊だから無いのか、彼女が特別なのかは不明だ。



 なんたって、無人なきとは幽霊を初めて見たのだ。



「容姿は覚えているのか?」



 尋ねると、ふるふると眼球が揺れた。否定しているらしい。



「ううん。髪は綺麗にしてたなー、くらいの感覚だよ。その他は、全く分かんないや」



「そ、そっか……一体どれくらい前に、お前は死んだんだろうな。それもこんな山の中で」

 


 街を一周するように山沿いに設けられたこの道路は、長距離輸送用のトラックが利用している。



 削り取られた山の斜面がしっかり舗装されていて、土砂崩れの心配もない。落石の看板は立っているが、付近に石は見当たらない。



 ここは、それ程よく利用されている道路なのだ。



 それでは彼女は、事故で死んだのだろうか。



「どれくらい前かって? あー、それなら多分、一〇年くらい前だよ」



「え、そうなの? 分かるの?」



「うん! 大体そんくらいな気がする」



「ふーん。まぁ──」



 ガードレールに花束や供え物は無かった。



 つまり、つい最近死んだ訳では無いのだろう。



「だったら、お前のこと──分かるかも知れないな」



「え、それホント!? ホントにホント!? 大マジ??」



「ああ、大マジだ。え、何……興味あんの?」



「あるに決まってるじゃん!! 私さ、徐々に記憶が薄れてる気がするの」



 てっきり記憶喪失の類かと思っていたが、どうやら違うらしい。



「私、もう長い間、暗闇の中に居たからさ……なんていうか、自分を見失ったっていうか……」



 自分という存在やその記憶について、忘れてしまった。そう言いたいらしかった。



「髪を綺麗にしてる。そんなどうでもいいことだけど、きっと、当時は本当に大事にしていたんだと思う。だから、今でも覚えているの」



「そっか」



「だからね、私──」



「次来る時は、ドライヤーを持って来てやるよ」



「え?」



「お前の覚えてる過去、全部教えろ。家族や好きな食べ物、全部だ全部。そしたら、見つけ易いだろ」



「う、うん……!」



「髪の記憶があるのなら、きっと縁のあるものを見れば、思い出す筈だ。そうすれば、お前はその箱から出られるかも知れない。どうだ? やってみるか?」



「うん……」



 彼女は不安そうに答える。しかし──



「うん!!」



 と、決意を露わに答えた。



 妙な約束をしてしまったと、内心後悔している。



 木箱を好奇心で開けてしまったことによる責任に近しい何か──



 そして、健気で、可哀想で、死んでいる彼女に、ほんの少しの同情──



 そのままにしておくのは、気が引ける──



 偽善が彼を突き動かす。



 無人なきとは、彼女の話に耳を傾けた。



「じゃあ、一杯話すね! あのね──」





「よっ、二日振りだな」



 無人なきとは木箱の蓋を開ける。すると、彼女の眼球は主人を迎えた犬のように、泳ぎ始める。



「遅い遅い遅ぉっーいっ! 何してたのさ!」



「何って、学校だよ。ほら、高校の制服。分かるか?」



「分からん知らん不理解不利益高収入ぅ」



「何それ、一〇年前に流行ってたの? 忘れろよ、そんな記憶。容量圧迫するだろ、バカなんだから」



 無人なきとは水に浮かぶ髪を掬いあげる。天日干しにしていた髪と合わせた。



 地面に座り込み、ポータルブルドライヤーで乾かし始める。



「この周辺で死んだのは、全部で四人だった。一応、誤差を考えて二〇年分調べて来た。図書館でな」



「うんうん、それで!?」



「死因は全員、車に跳ねられた交通事故だ。その内、男が一人。損傷が激しかったのが二人だ」



「やっぱりさ、私って凄いヤバいのかな? その、元の死体というか」



「さぁな。幽霊なんて、お前が初めてだし。でも、よくあるよな。死んだ時の傷のままで彷徨っている幽霊ってのはさ」



 無人なきとは、取り敢えずその二人に絞って話を続ける。



「八年前と一五年前に一人ずつ。前者は、俺と同じように道を誤って、ここを歩いていたらしい。ボーっと直進していたら、ここに着いちまうからな」



「で、当時は街灯が極端に少なかったらしい。跳ねられて芋虫みたいに、そうプチッとな……まぁ、紛れもなく不幸な事故だ」



 そして後者は──



「一五年前だから、街灯はもっと少なくてな──更に当日は雨だった」



「トラックに跳ねられ、息のある状態でもう一度、跳ねられたらしい。どうやら自殺だったってさ。彼女自身の目的は達成されたけど……でも、救急車も呼ばれず、放置された肉は水で流されて──」



「自殺……」



 木箱の中から小さな声がする。



「皮肉だな。全てを無くしたかったお前が、失ってから苦しむなんて。とはいえ、これがお前だったらの話だが」



 しかし、今まで一番可能性のある話だ。



 無人なきとは改めて彼女に問う。



「お前、本当に思い出したいか?」



 チャパチャパと水の音がする。木箱を背にした無人なきとは、それを身体で感じるのだった。



「うん……私、このまま忘れていくのは、嫌だから。これから先、無人なきとみたいな人が現れるとも限らないし……力を貸して欲しい……」



「分かった。最後まで付き合ってやるから、安心しろ」



「有難う、がはは」



 無人なきとは、髪を乾かしていたドライヤーを消した。



「髪、乾いた?」



「え? あ、うん」



「えへへ、どぉ? 綺麗でしょ!! がはは」



「う、うん。そうだな」



「ねー、見せてよぉ。思い出せるかも知れないじゃん」



「だ、駄目だ。お楽しみは取っておけって」



「えー、ケチんぼ」



 彼女はそう言うが、血飛沫をあげて喜びを表現していた。



 そんは彼女に苦笑しながら、無人なきとはバサバサの髪を大切に握り締めた。





「アポイントを取ったから、明日行って来る。明後日、報告しに来るから待っててくれ」



 無人なきとが言うと、バシャバシャと水を立てて彼女は反論する。



「連れてって!! 連れてけー!!」



「はい? え、どうやって……? 無理だろ、バケツも無いし……箱は持ってけないぞ」



「手貸して!」


 

 怪訝に思ったが、無人なきとは水に手を付けた。



 すると、彼女の眼球が絡み付いて来た。



「うぇっ、だからキショいって」



 芋虫のように腕を這っていき、肩から顔へ飛び移る。口に侵入して来た。



「どれどれぇ〜。虫歯はありませんかー。なんちって、がはは」



 べっと眼球を吐き出した。彼女は大人しくもう一度登ってくると、彼と眼を合わせた。



「な、何だよ……」



「そのままじっとして」



 そう言うと、ゆっくりと彼女の眼球が、右眼に近付いて来る。



 血管の触手を伸ばし、眼が入り込んでくる。



 完全に合わさった。



「──ッ!?」



「合体っ!!」



「お、お前ふざけんじゃねーぞ!!」



「がははっ、いいじゃん別に」



「いい訳ねぇーだろ! 離れろよ!」



「ここ、住み心地いいね。ぴったりだし」



「……え、何? これで会いに行けって言ってんの?……てかこれ、今日はずっとこのまま?」



「あいあい、よろしくぅ」



 眼の中に入り込んだ彼女に対し、成す術は無かった。



 仕方なく無人なきとは、そのまま家に帰るのだった。



 彼女はこの一〇年間を埋めるように、テレビや漫画、雑誌、その他諸々を大いに楽しんだ。



 風呂もトイレも一緒だった。



 夜になると幽霊の血が騒ぐのか、活発になる。「もう寝た?」「起きてる?」とか、一向に眠らせてくれなかった。



 だがそれも、彼女の寂しさであると思えば、付き合うことが出来た。



 そして次の日、学校を休んだ。





「学校行きたかったぁ。行きたかったよぉ」



「あんまり煩いと、眼を閉じるからな」



 右眼に棲む彼女は、視力を共有している。目蓋を閉じれば、同様に彼女は暗闇に苛まれることになる。



 勿論彼女が、右眼から飛び出したら別だが、その時は引っ張り出そうと無人なきとは画策している。



「この街って、こんなんだったっけ?」



「分かるのか?」



「ううん、何となぁく。言ってみただけぇ」



「なんだよ──ほら、着いたぞ。ここが十五年前に自殺した女性の、母親が住んでいる家だ」



「ふーむ、むむむ。やっぱり全然記憶になぁい」



 忘れてしまったのか、否か。



 だが、自身の髪について覚えているくらいだ。家の形や雰囲気を覚えていても、なんらおかしくない。



 つまりは、ここもハズレか。



「まっ、そう簡単にはいかないよな。先ずは話を聞きにいこうぜ」



「うん! 行こう!」



 意気込んだのは良いものの、結論から言って、彼女が何かを思い出すことは無かった。



 年老いてしまった実の母親の顔も、



 生まれ育った家の中も、



 そして、飾れた遺影と写真の数々──自身が映ったそれらは、眩しい笑顔に溢れていた。



 だが、やはり知らないらしい。



「……そうですか。あの、今日は本当に有難う御座いました」



 そう述べてから、無人なきとは家を出た。



「うーん、お前の反応からして、やっぱり違いそうな気がするよな……」



「ぐすん、ふぇぇえん。可哀想な話だったよぉ」



「えぇ……」



 無人なきとの右眼から涙が溢れ出てくる。どうやら、涙も共有しているらしい。



 確かに可哀想ではあった。



 だが、既に死を受け入れている彼らの話に、涙は不要だった。



「次行くぞ──」



 八年前に交通事故で亡くなった女性の家にも訪れる。



 ──結果は同じだった。



「仕方ないな……」



 適当にぶらついてみることにした。



 顔と眼を動かして、様々なところを見て行く。もしかしたら、何か思い出すかも知れない。

 


 だが、

「疲れたぁ……」

「楽しかったぁ!!」



 夜になるまで歩いたというのに、彼女から気付きを得られることは無かった。



 


──そして日は重なり、半月が経過する。



 吹っ切れた無人なきとは、両親や友人にも相談していた。幽霊のことや、右眼に棲み着いていることは言っていない。



 流石にそれは信じて貰えないだろう。



 噂程度の内容で良い。それを情報として活用していけば、もしかしたら──



「最近、山道に幽霊が出るってさ」

「そうそう。ずっと立ち尽くしていたり──」

「楽しそうに一人で笑ってるって聴いたよ!」



 それは明らかに、神栖無人かみすなきとの噂だった。



 あれからほぼ毎日のように、木箱の少女を訪れている。右眼に棲み着いていたとしても、水で泳ぐ時間は欲しいとのことだ。



 羽根を伸ばしたいそうだ。まるでペットのインコみたいだな、と彼は思う。



「ボサボサの跳ねた髪に、ウチの学ラン……って、さてはお前のことだな!? なぁ、無人なきと



 ギクリッ──



 無人なきとは思わず眼を逸らした。



「つってな。お前の笑ったとこ、見たことねーし。有り得ねー」

「え、てか。ここの制服で男の子まで分かってるんだ」

「誰か死んだの? 交通事故なのかな?」

「最近死んだやつはいねーよ」

「そういえば大昔、道路工事で誤って──」

「隠蔽されたってさ」



 様々な情報を元に、様々な場所へ行き、様々な方法でアプローチする。



 そうして、気付けば半年近くが経過していた。



無人なきと、あっちに居たよ!! あっち、早く!!」



「マジ? 俺は見えなかったぞ」



「右眼操作するから、転けないでよ!」



 情報屋として名を馳せた彼は、現在猫を追っているところだった。



 どうやら、この通りに逃げた飼い猫がよく現れるらしい。



「居た!!」



「走って!! 早く走って!! 走れーっ!!」



 彼女の煩い声が頭蓋骨に響いてくる。



 頭痛薬を飲み忘れたことに後悔し、脚を動かせる。



「もっと早く走れないの!? 逃げちゃう、逃げちゃったじゃん!!」



「無茶言うな……っ。これで全力だってば……」



無人なきとも死んで幽霊になっちゃいなよ! ぱぱーっと死んで、ぱぱーっと捕まえちゃいなよ!」



「た、確かに有りかもしれん……って、お前と居ると死生観バグるわ」



 猫を追いかけ続け、公園の木にそれは登っていった。



「よし、情報通りだ──っ!」



「え、なになに!?」



「逃げると高所へ行き、降りれなくなる。そう言ってたろ? 震えてるところを捕まえっぞ」



「馬鹿猫だっ、がはは」



 猫はちゃんと震えて、大人しくなっていた。



 無人なきとは木に手を掛けると、ゆっくり登っていく。



「慎重にだよ。慎重に……」



「言われなくても、分かってるよ。運動は苦手なんだ」



「私はねー、多分水泳は得意だよ。きっとそう」



「このオタマジャクシが……っ」



 怯えた猫はすっかり萎縮してしまっている。持ち上げて、捕まえた。



「任務クリア?」



「そうだな」



 太い枝を椅子代わりにし、無人なきとは疲れた身体を労る。



 すると、眼前に赤色の空が広がっていた。



 夕焼けに染まる、黄昏の空だ。



「わぁ、綺麗……! 無人なきと、見て。すっごい綺麗だよぉ!!」



「ああ。綺麗だ」



 右眼が楽しそうに見開いた。



 無人なきとは苦笑し、言うのだった。



「なぁ、その……ごめんな」



「え、急に何!? 何の話!?」



「いやだってさ……全然お前のこと見つけられなくて。猫探しなんてボランティア、やってる暇無いよな」



「え……? あーううん。別に気にしてないよ?」



「そ、そうなのか?」



「うん! だって、無人なきとといるこの時間は、暗闇だった十年よりずっと長くて──でもあっという間で、凄く楽しいから!」



 彼女は笑って、そう答える。



「そっか」



「ねぇ、無人なきとはどう? 楽しい?」



「……ああ。十五年間で一番楽しい」



「やったぜ、がははっ!」



「あのさ、その笑い方……いや、何でもない」



 猫を無事に届けると、無人なきとは今日も木箱の元へ訪れた。



 夜が更けるまで、いや更けても彼女の傍にいる。もう彼女は、身体の一部となっていた。



「お、髪の毛発見。はい、回収〜」



「ねぇってばぁ。私の綺麗な髪、いつ完成するの!? どうして見せてくれないの!?」



 彼女は血管を器用に動かし、不機嫌そうに泳いでいる。



「まだ駄目だ。完璧にしてから返してやる。少し待っててくれ」



「むぅ、ウェーブかけてよ」



「いや、それは無理」



 無人なきとの手元には、沢山の髪の束が出来ている。



 木箱に保たれ掛かるようにして座り、今日も今日とて髪の手入れをする。櫛で髪をとかし、高い石鹸で洗う。ドライヤーも当然、掛けた。



 以前よりは遥かにマシになった。



 だが、やはり綺麗とは程遠かった。正直に言って、これ以上は無理だ。



 どうしてもっと早く言わなかったのだろう。



 ここまで期待させておいて、こんなボロボロになった髪を見せる訳にはいかない。



 彼女が唯一覚えていることなのだから、生前は相当綺麗だったのだろう。



 健気に死んでいる彼女の、最後の取柄だ。プライドといっても差し支えない。



 悲しませたくない。そう彼は思うのだ。



「ここで何してる」



 それは不意に現れた。



 無人なきとは声に驚いて立ち上がる。



 濃い皺を携えた白髪の老婆が、そこに居た。



「幽霊……?」



「なんだって!?」



「あ、すいません。つい……」



 仮に幽霊だとしても、失礼な発言だったかも知れない。



 無人なきとは改めて、老婆を見据える。



「あ、あの──」



「ここで何してる」



「……えっ、それは」



 老婆は敵意を露わにしていた。



 どのように答えるのが正解だろうか。



 木箱に助けを求めても、彼女はパシャパシャと水を泳いでいる。



 老婆の方は、木箱を視えていないようだ。



「私の大切な場所で、何してる」



 老婆は痺れを切らし、そう言った。



 大切な場所……?



「お、お婆さん……あの、俺は──」



「なんだ。何故、下を見ている」



 下とは木箱のことだ。



「そ、それは……」



 無人なきとは困り果て、思わず言うのだった。



「ゆ、幽霊が……俺には幽霊が見えるんです!」



「何だとぉ……っ!?」



 老婆はカッと眼を見開いた。



 無人なきとに詰め寄り、襟を掴む。



「どんなだ!? どんな姿だ!?」



「ま、待って下さい。落ち着いて──」



「それは……それは、私の姉なのか!?」



「ま、待って──え、あ、姉!?」



 老婆は確かにそう言った。



 若くても七〇歳を超えているように見える。



 そんな彼女の姉が、ここに?



 仮に、木箱の少女が二〇年前に死んだとして──



 老婆は当時、五〇歳。その姉なら、それ以上になる。



 木箱の少女の言動からして、五十歳以上とは到底思えない。記憶を失っていく過程で、幼くなった可能性は充分にあるが──



「お婆さん、落ち付いて聞いて下さい。俺が見えているのは、木箱なんです。木箱に入った、ぐちゃぐちゃの──」



 無人なきとはそこで口を閉じた。



 流石に不謹慎な発言をしてしまった。



「ぐちゃぐちゃだと?」



「えっと……は、はい」



 すると、老婆は力なく地面に座り込んでしまった。



 そして、

「……なら。それは私の姉に間違いない」



「え!?」



老婆は、懐から紙を取り出す。それを懐かしそうに眺めていた。



「お前さん、最近よう噂になっとる。ここで何をしていた。正直に言うてみんせん」



「それは──」



 出会いから何から何まで、無人なきとは全てを老婆に話した。



「そうかい。姉の為にな……」



「いえ、俺はただの話し相手くらいの存在です」


 

「それでも、礼を言わんとな。姉はなぁ──」



 曰く、六〇年前にここで亡くなったらしい。不幸な事故だったそうだ。



「ほ、本当ですか? それは、本当にお姉さんで間違いないんですね!?」



 老婆は頷く。



「六〇年前……」



 無人なきとの呟きに、木箱が反応する。



「え、私、六〇年も昔に死んでたの!? サバ読みすぎたぁ!?」



「サバっていうか、なんていうか……」



 彼女が感じていた一〇年は、実際のところ六〇年経っていた。



 暗闇で、時間感覚を保てる筈も無かったんだ。



 一日ですら、数時間単位でズレることがある。それが六〇年積み重なれば、彼女のようになっても不思議ではない。

 


「これだ。これが──姉との最後の写真だ」



 老婆は、取り出した紙を差し出してくる。



 白黒写真だった。



 そこには二人──小さな少女と、無人なきとよりも歳上か、同程度の女子高生が写っていた。



「ねー、見せてよぉ。見せて見せてー」



「あ、ああ……」



 木箱の少女の眼球が水を跳ねた。無人なきとに取り憑き、腕をよじ登ってくる。



 彼の右眼に侵入すると、早速写真に眼を落とした。



「…………」



 煩くしていた彼女が、途端に口を閉じた。



「どうかしたか?」



 聞き返すと、彼女は静かに告げた。



「──これ、私だ」



 刹那、右眼に映像が流れ始めた。



 その映像は、様々な時間、様々な場所、様々な人──



 次々と移り変わっていく。



 だがその時々で、同じ人間が何度も登場していた。老婆の若い頃の姿だった。



 余程、仲が良かったらしい。楽しく遊んでいる。



 特に老婆が好きだったのは、姉の髪だ。同じ髪型にするよう、姉にせがんでいる。



 そんな老婆の自慢の姉になりたくて、彼女は鏡の前で髪を綺麗に解かしていた。



 しかし──



 映像は突然、ぶつ切りに途切れてしまった。



 それは、彼女が押しつぶされて死んだ瞬間だった。



 気付けば、右眼から大粒の涙が流れていた。



「おぼいだじた……おぼぃだしだよぉ」



 彼女は泣き咽びながら言う。



「今の映像は、お前の記憶か……」



「わだじ……わだじはぁあぁぁ!!」



 ひとしきり泣いた後、


 

 老婆が無人に言う。



「椿。あの子の名前は、葵椿だよ」



「椿──」



 無人なきとが彼女の名を口にした瞬間、



 木箱に閃光が迸る。



「──っ!?」



 木箱から骨が浮き上がっていく。



 空中で組み立てられ、人の形を作っていく。



 筋肉が貼り付けられ、血が戻り、血管が伸びていく。



 椿の左の眼球が付けられると、それが無人なきとを見つめた。



無人なきと……? どうして泣いてるの、がはは」



「え?」



 無人は自分の頬に触れる。



 いつの間にか、左眼に涙が浮かんでいた。



「どうしてだろう……」



「おかしな、無人なきと



 彼女はそう言うと、無人なきとの右眼から飛び出した。宙に浮かぶ彼女を、よじ登っていく。



 右眼に収まる前、無人なきとを一瞥した。



「礼はいいよ」



 ふるふると眼球が震え、彼女の右眼となった。



 皮膚が付き、服が戻る。



 殆ど、生前と変わらない姿をし始める。



無人なきと……」



 しかし、彼女は困ったように言う。もじもじとし、背後で手を組む。



「私の髪の毛、返して……恥ずかしいよぉ」



 無人なきとは狼狽した。



「でも……」



「どうしたの?」



「でも俺は──」



 葵椿は、無人なきとの頬に触れる。



「いいの。ほら、見せてみて。貴方が乾かしてくれたんでしょ?」



 今度は無人なきとの左腕に触れ、背中に隠したものをゆっくりと引き寄せていく。



 到底綺麗とはいえない、彼女が生前大切にしていた髪を、遂に見られてしまった。



「こ、これは──違っ」



「綺麗でしょ?」



「え?」



 椿は、手渡された自身の髪を見て、笑顔で言う。



「自慢の髪なのよ、がはは」



 どうしてだろう。涙が止まらなかった。



「ああ……ああ! とても綺麗だ……っ」



「大事にしてくれて、有難うね」



「椿……っ!」



 髪は、彼女の頭部へ戻っていく。



 時間が巻き戻ったように、荒れたそれは生前の姿に変わっていく。



 重力を一身に受け、黒い長髪が真っ直ぐ地面を目指して垂れている。艶やかに輝き、無人を魅了する。



 とても、美しかった。



 葵椿という女性が、生前の姿となった。



 すると光が消え、静かな暗闇が訪れる。



 彼女は老婆の元へ歩いて行くと、包み込むように抱き締める。



「居るのか? そこに居るのか!?」



 老婆は椿を感じ取り、眼を見開いた。



「ええ、今はお婆さんの傍に……っ」



「そうか……お姉ちゃんが……」



「すっかりお婆ちゃんになったね、十女」



 白髪を撫で、身を寄せ合う。



「また会えてよかった。本当に」



 椿が言った。



「もう一度、会えるなんて……っ。信じられない」



 老婆が言った。



 言葉が届かなくとも、彼女らは互いを理解し合える。それが家族というものらしい。


 

 思い出を語らう訳でもなく、ただ黙って感じ合う。やがて二人は、同時に離れた。



 健やかな表情をしていた。



 そして、椿はもう一度無人なきとに向かい合う。



無人なきと、もう泣かないで」



「そんなこと言われたって……っ」



「もう、皆んな子供なんだから」



 額が触れ合う。



 体温の無い肌は、彼女が死んでいることを改めて無人なきとに教えた。



 心がギュッと収縮する。



「大好きだよ、無人なきと



「俺も、好きだ……っ」



 自然と、唇を重ねた。



 暖かさは無いが、温もりはあった。



「間接キスじゃないでしょ?」



「ファーストだった……」



「がははっ、私もー」



 椿が笑うから、無人なきとも無理やりに笑ってみせる。



「それじゃあ、そろそろサヨナラしないとね」



「そ、そんな……っ。待って、俺はもっと……っ!」



「その為に頑張ってくれてたんじゃないの?」



「それは……」



無人なきと、ありがとね。本当に、良く頑張ったね」



 唐突に訪れた別れの時──



 出会った当初は、これを望んでいた。



 しかし、いざそれが間近に迫ってくると、無人なきとに、溢れんばかりの淋しさが込み上げてきた。



「椿……」



「あれ、さっきから呼び捨てだよぉ? おかしいなぁ。これでも私、七〇歳近く歳上よ?」



「え? あ、それは……その」



「うそうそ、がははっ!」



 幽霊とは思えない盛大な笑顔は、夜空よりも輝いている。



「また……会えるかな……?」



 無人なきとが言うと、椿が手を握る。



 彼もそれを力強く握り返した。



「ううん。もう……会わない」



「え……? ど、どうして……っ!?」



無人なきとには幸せな人生を送って欲しいから」



「ま、待って……待ってよ! 椿が居ない人生なんて──」



「そんなこと言わないで、ね? 私はここで終わる。貴方はこれから始まる。これ以上の幸せを、貴方には感じて欲しい」



「……椿」



「知ってる? 夜明け前が一番暗いんだって」



「う、うん。有名な言葉だ」



「じゃあこれは? 黄昏が一番美しい」



「え? 誰の言葉……?」



「私の言葉、がはは」



「なんだよ……で、意味は?」



「そのままの意味だよ。貴方はこれから希望のある未来が待っている。私は──現在から過去、あらゆる思い出が今、眼前に広がってるの」



 椿は言うと、両腕を広げてみせた。



「振り返ってみれば、輝かしい思い出ばかり──終わる瞬間がね、一番美しいの。ああ、良い人生だったって」



「そんなこと言うなんて……ズルいじゃないか」



「そうだよ。なんたって、歳上のお姉さんだからね。ズル賢いんだ」



「……くそ」



「ほら、よしよし。男の子でしょ」



 無人なきとは椿に身を委ねると、諦めたように嘆息する。



「……はぁ分かった。分かったよ──俺は、俺の人生を生きよう」



「良い子ね、がはは」



 きっと彼女は知っていたのだ。



 半年間眼に棲み着いたことで、彼の弱さを、そして彼が自身に依存し掛かっていることを。



 無人は悔しそうに顔を顰めると、姿勢を正した。



 終わりの時がやって来たと、肌が感じ取ったのだ。



「サヨナラ、だね」



「ああ。サヨナラだ」



 すると、椿の身体が徐々に薄くなっていく。



 握り締めた彼女の左手に、力が抜けていく。



「ねぇ、無人」



「なに?」



「本当はね、私が成仏出来ないから言ったの、がはは……バイバイ、無人なきと



 手の中から彼女という存在の厚みが消えた。



「椿──っ!?」



 伸ばした手は、雲を掴むように空を切る。



 彼女が最期に溢した涙は、風に乗って空へと消えて行く。



 彼女の象徴ともいえる木箱も無くなってしまい、彼女は跡形も無く消えてしまった。



 残されたのは残酷な今と、優しい思い出だった。



 そして訪れるのは、輝かしい未来だ。



「……たかが七〇年で、ズルしやがって」



 無人なきとは、葵十女あおいとおめという彼女の妹と共に、この場を後にする。



 もう二度と、ここへは訪れない。



 何故なら、葵椿はもうそこには居ない。



 死者は終わりを迎え、全く新しいものに生まれ変わる。その瞬間は、最も美しいらしい。



 だったら、そうしよう。



 その瞬間を、より輝かしいものにする為──



 今を、そして未来を、精一杯生きるとしよう。



 生者の始まりは、とても暗いのだ。

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