月のネックレス

柴山ハチ

月のネックレス

 アストロは夜空を眺めることが好きだった。擦り切れた星座盤を回して時刻と方角を合わせて見比べ、星の動きを観察し、記録する。その熱中ぶりには村の皆が呆れていたが、本人は全く他のものは目に入らない様子だった。そして夜空の中でも彼が一番愛しているのは月だった。夜になると細長い手足で蜘蛛のように家の屋根までよじ登り、背負った鞄から古道具屋から買った小さな望遠鏡を取り出す。夜空に向けて覗き込んでみると、細かな傷の入ったレンズ越しにぼんやりと表面の模様が見える。それを丹念に紙に書き写し、部屋の至る所に飾っていた。

夜明け前には布団に潜り込むが、それからいくらも経たないうちに兄弟たちと一緒に母親によって叩き起こされるのが常だった。昼になると畑に出て土を耕し、井戸から水を汲んで来ては作物に水をやる。アストロはいつも寝不足で、目の下に隈を作ってあくびをしながら考えていた。

毎日夜空を見て暮らせればいいのに。

来る日も来る日も、夜には家を抜け出して屋根の上で星空を観察し、昼には畑仕事に出た。その繰り返しの中で、とうとうアストロは井戸の水汲みの最中に倒れてしまった。

 アストロが目覚めると、はじめ母親は心配そうな顔をしていたが、もう大丈夫そうだと分かると毅然とした態度で言い渡した。これから夜の外出は禁止。それから望遠鏡は捨ててしまいなさい。

 アストロは涙ながらに許しを懇願したけれど、母親の態度は変わらなかった。そして一向に従わないアストロに業を煮やした母親は、自らの手で望遠鏡を捨ててしまった。畑仕事から帰ってきたアストロは絶望し母親を罵ったが、彼の体調を心配する母親のなんとしてでもアストロを昼間の生活に集中させるという決意は揺るがなかった。

 生きがいを失ったアストロは、抜け殻のように毎日を過ごした。夜、兄弟たちと並んで布団を被りながらこっそりと窓から星空を眺め、手元で星座盤をなぞっては涙を流す。こんなに自由のない生活なら、生きていてもなんの意味があるだろう。

 一年に一度の村の祭りも、アストロにとっては意味のないものだった。皆が準備に浮かれる中、一人片隅に座って夕焼け空を眺めため息をつく。歌って踊って、飲んで騒いで。そんなのどこが楽しいのだか。静かな星空を一人で眺めることほど、心躍ることはないというのに。

 祭りの日には、村の外からも行商人たちがやってきて店を開いた。簡単な作りのテントが立ち並び、食べ物や小物などが並べられている。アストロは目的もなくぶらぶらと歩いていたが、片隅にある黒いテントの前で足を止めた。黒く塗られた木の看板には 『なんでも願いが叶う店』という文字が、金色の塗料で書かれていた。

 店先には様々な物品が並び、小瓶やアクセサリーがランプの明かりを受けてきらきらと光っている。端に置かれた香炉には香が炊かれていて、うっすらと白い煙がテントを満たしていた。近づいてみると、目元に仮面をつけた行商人が黒いコートに身を包み、テントの奥に座っていた。

「いらっしゃいませ」

 行商人は仮面の下で微笑んだ。

「願いが叶う店って書いてあるけど」

「はい。当店はお客様が心の底から望む願いを叶えて差し上げるのが仕事です」

「俺の願いも叶えてくれるの?」

「えぇ、あなたにぴったりのものがありますよ」 

行商人はじっとアストロを見つめると、アクセサリーがいくつか飾られている箱の中から一つを選び出した。

「たとえばこれは月を閉じ込めるネックレス」

 行商人が目の前にチェーンを垂らす。その先にはガラスの半球で両側から月の絵柄を挟んでできた球体がぶら下がっている。

「ただの月の絵だろ」

 アストロは子ども騙しにも程がある、と眉間にしわを寄せた。なにせひと目見てわかるほどの安っぽい作りのネックレスで、いかにも祭りの露店で売られていそうな物だったからだ。中に入っている月の絵も、アストロの描いたものの方が断然正確だ。

「今はほら、月が空に出ていますから。でも新月の夜には、この中に月が帰ってくるんです」

「空の月が、この中に?」

「それはそれは綺麗な月ですよ。何せ自分だけのものですから。独り占めして一晩中眺めることもできる」

 行商人はアストロの目の前で、ゆっくりとネックレスを揺らした。それを目で追っているうちに、アストロの意識は霞がかっていった。焚かれていた香のせいかもしれない。まるで酒を飲んだかのように酩酊するうちに、ネックレスがなんだかとても良いもののように思えてきた。

「ですが一つ気をつけないといけないことが。捉えた月は、新月の夜が終わったらガラス玉を割って逃がしてあげてください。そうしないと空から月がなくなってしまいます」

「それじゃあ、これは一回しか使えないの?」

「そうなりますね」

アストロは迷っているうちに一瞬、涼やかな風が煙を吹き飛ばし、正気に戻りそうになった。けれど空を見上げると真っ白に光る満月が見えた。本当に、あれが手に入るのだとしたら。

「それ、いくら?」

 行商人はネックレスの値段を言った。財布を空にすればなんとか足りるだけの額で、アストロにとっては大金だったが、すっかりネックレスの虜になっていた彼は迷わず支払った。


 アストロが目覚めると、家の天井が見えた。 兄弟たちはすでに家を出て行ったらしく、誰もいない。おそらく祭りの後片付けに向かったのだろう。

 ポケットに手を入れると、ガラス玉が先についたネックレスが出てきた。昨日の行商人の言葉が蘇る。月を閉じ込めるネックレス。本当にそんなことができるんだろうか。

 ネックレスを眺めていると、家の入り口から幼馴染のプロドが顔を出した。

「おい、お前も起きたんだったら片付け手伝えよ」

「今いく」

 アストロがネックレスをポケットにしまおうとすると、プロドは目ざとくそれに気づいた。

「なんだそれ。女の子にでもあげるのか?」

「いいや、自分用に買ったんだ。なんでも月を閉じ込めておけるネックレスだとかで」

 プロドはアストロの手の中のネックレスを覗き込むと、鼻で笑った。

「そんなこと、あるわけないだろ。つかまされたんだよ。今回はネックレス一つで済んだけど、そのうち痛い目見るぜ」

「大きなお世話だ」

 アストロはそう言いながらも、昼の光の下で見るとネックレスのちゃちな作りがますます目について、重く気分が下がってくるのを感じた。小さな子どもでもこんなもの、欲しがったりしないだろう。


 新月の夜アストロは、布団を被ってごろんと寝転がりながら月のネックレスを眺めていた。ガラス玉の中にあるのは、やっぱりなんの変哲もないただの絵だ。なんでこんなものを買ってしまったんだろう。あの時はひどくぼんやりしていた。きっとあの店で焚かれていた香のせいだ。

「あれ?」

 一瞬、ネックレスが光った気がした。気のせいかと思っているうちに、小さな白い光がガラス玉の中で瞬いた。そしてその光はますます強くなり、一瞬ひどく明滅した後収まった。眩しさに目を閉じたアストロが、恐る恐る瞼を開いてみると、ガラス玉の中には絵の代わりに月が浮かんでいた。淡い濃淡が月の表面の凹凸を描き出しながら、ぼうっと白く光っている。

「本物だったんだ」

 アストロは嬉しくなり、その夜は布団の中で一晩中月を眺めた。次の日も、また次の日も。一度手の中に入れてしまうと、すっかり月を空に返すのが惜しくなってしまい、ずっと自分のものにしてしまいたい気持ちでいっぱいになった。

 昼間も畑仕事をさぼっては、池の側の木陰で月を眺めていた。そんな様子に気づいたプロドは、一体何をしているのかと問いかけた。

「この前見せたネックレスがあっただろう。本当に月を閉じ込めることができたんだ」

 アストロがそっと手の中の月を見せた。木陰の暗がりの中で、淡く光る小さな月。それはまるで美しい月の彫刻が施された宝石のようで、プロドはひと目見るなり、そのネックレスが気に入ってしまった。

「なぁ、ちょっとこれ、俺に貸してくれない?」

「だめだ」

「三日、いや一日でいいから」

 プロドとアストロが揉み合っていると、相手に渡すまいと振り上げたアストロの手からネックレスのチェーンが外れ、飛んでいってしまった。

「あっ」

 二人が口を開けて見ている間に、ネックレスはちゃぷんと音を立てて池に落ちてしまった。

 アストロは血相を変えて池に飛び込んだ。けれど深みに足を踏み出しかけて我に帰返り、岸に腕を乗せながら縁を移動した。なんとか手の届く範囲で血眼になってネックレスを探したが、小さなガラス玉は見つからなかった。そもそも池の真ん中は深い沼底になっており、そこに落ちたのだとすれば取り戻す手立てはなかった。


 アストロはひどく落ち込み、食事にもろくに手をつけなくなってしまった。それを見かねた母親は事情を問いただしたが、ただ アストロは力無く首を横に振るだけだった。

 池に月を落としてからしばらく経ち、村人たちが異変に気づき始めた。最近月を見ていない。最近はほとんど晴れていたにもかかわらず、最後の新月の夜から月を見たものはいなかった。アストロは行商人の言葉を思い出し、怖くなって黙っていたが、声を上げたのはプロドだった。

「アストロだよ、あいつが月を池に落としたんだ」

その噂は若者や子どもたちの間で広がり、その親へ、そして親たちから村長へと伝わった。

村では集会が開かれ、アストロは皆の前に引き立てられた。

「お前のせいだと皆が言っているぞ」

「月をどこへやったんだ」

「月の光がないんじゃ、ちっとも夜道を歩けやしない」

小さな声でしどろもどろに事情を説明したアストロは、最後に蚊の鳴くような声で皆に誓った。

「俺、月を取り戻す方法を探してきます。見つかるまで、この村には帰りません」

 

 アストロは母親からもらったわずかばかりの路銀と食べ物、持ち物の中で一番大切なものを鞄に詰め、村を出て月を取り戻す方法を探す旅に出た。まずはあの行商人に会うために、方々の村の祭りを見て回ったが手がかりがない。街に出て人に訊いてみたが、気のふれたおかしなやつだと相手にされることはなかった。そうこうしているうちに手持ちの資金は尽き、途方に暮れながら野宿を繰り返すほかなくなってしまった。

 冬の寒さが忍び寄る中、アストロは街を囲む壁の外で焚き火をしていた。みすぼらしい格好をした宿なしたちが、同じように火に当たっているのが見える。アストロ自身も服は擦り切れ、表情はくたびれていた。かじかむ手を焚き火から離し、鞄の中から星座盤を取り出した。黒い厚紙に金の箔押しで星座が描かれた美しい星座盤にじっと視線を落とす。灰色のインクの濃淡で星雲が表され、細かな白文字で星の名前が書き込まれていた。わずかにためらった後、唇をかみしめて顔をそらしながら燃え盛る火に星座盤を投げ入れた。


 飢え死ぬ前に街でなんとか住み込みの仕事を見つけたアストロは、もう月のことは考えなくなっていた。大工の下働きの仕事だったため、昼間は重い資材を運び、夜になると何を考える間もなく眠りについた。華奢なアストロはいつも力が足りず、親方や同僚たちに罵声や時には拳を浴びせられては謝罪の言葉を繰り返した。ここしばらく、星空を見た記憶がない。日々生きるために働くことで、精一杯だった。


 ある日仕事が長引いたせいでくたくたになりながら、空を見上げると夕闇の帷が落ちかけていた。思わず何か見えないかと目で追ってしまったが、やっぱり月はない。それに明々と灯された街灯の光が目に滲んで星すらろくに見えない。

 ふと横を見ると、ガラスのショーウィンドウの中に、立派な天体望遠鏡が飾ってあるのが見えた。疲れを一瞬忘れ、それに惹かれるように店の中に入ったアストロは、店の奥から店主に声を掛けられた。

「いらっしゃいませ。何かご入用の物が?」

「そこの望遠鏡が気になって。あ、でも買うお金はないんだけど。すみません」

 アストロは手持ちがないことを思い出して踵を返そうとしたが、店主は呼び止めた。

「ちょうど暇をしていたところです。ゆっくり見ていってください。あなた、星が好きでしょう?」

「昔は好きだったんだ、特に月が」

 アストロはそう言いながら、胸が痛むのを感じた。もう月のことは考えないようにしていたのに。

「けど、今は嫌いかもしれない」

 正直にそう言うと店主は首をわずかに傾げた。

「何か嫌なことが?」

「最近月が見えないだろう。あれ、俺のせいなんだ。月が好きだったから、閉じ込めて独り占めしようとしたんだけど無くしちゃった。もうどこにもないんだ。そのせいで俺は村を追われたし、ろくなことにならなかった」

 口を開くと、堰を切ったかのように言葉が止まらなくなった。黙って話を聞いてくれる人間に久しぶりに会ったせいかもしれない。店主はアストロの話を聞き終えると、一つ共感を示すかのように頷いた。

「それは、大変でしたね。けれど、月は本当になくなってしまったんでしょうか」

「え?」

 思いがけない問いかけに、アストロはぱちくりと瞬きをした。

「最近あまり空を見ていらっしゃらなかったのでは? 来てごらんなさい」

 店主はアストロを連れ、二階に上がった。棚やテーブルが置かれ、大小様々な物品が所狭しと並ぶ部屋の奥には窓があった。店主がレースのカーテンを横に引くと、家々の屋根と夜空が見える。いくつか星が見える中、上方には一際煌々と輝く丸い月。

 呆気に取られたアストロは、目を見開いて言葉に詰まった。

「どうして……あんなに探しても、なかったのに」

「はじめから、なくなったりなんてしていなかったんです。月はずっと、そこにありましたよ。ただ見えなくなっていただけ」

店主はテーブルから仮面を手に取ると、目の上を覆うように顔につけた。アストロが振り返ると、その姿はあのネックレスを売りつけた行商人そのものだった。

「お前……!」

 アストロは幽霊に出会ったかのように固まった後、怒りも露わに行商人に詰め寄った。

「お前のせいだ! 願いが叶うどころか、全部無くなっちゃったじゃないか」

「あなたは言いつけを破ったでしょう。月を閉じ込めて、自分だけのものにしようとしたのは誰ですか」

 その言葉に、アストロはぐっと言葉を飲み込んだ。そんな彼に、行商人は微笑んだ。

「けれどあのネックレスは本当に、あなたの願いを叶えるためのものでした。何かを手に入れるには、まずはそのための余白を作ってやらねばいけません。あなたはこれまでの暮らしを手放した。だからこれから新しいものを手に入れることができるのです」

 

 店を出て、アストロは行商人の言葉を思い出しながら夜道を月と共に歩いた。新しいものを手に入れるための余白? そもそも今の自分の願いってなんだろう。

 中央広場を通り過ぎるとき、何気なく視線を向けた街の掲示板。そこにはいくつかの求人票が張り出されていた。

ざっと見た限りでは、めぼしい内容のものはない。それでも端からもう一度眺めていると、二枚重なっている部分があることに気づいた。めくってみると、ずいぶん古びた紙が出てきた。書いてあった文面は、天文学者の家で下働き。雑用が中心。住み込み可。

 アストロは求人票を掲示板から破り取り、ポケットの奥に押し込んだ。


その後アストロは、町はずれに住む天文学者の屋敷の下働きとして働き始めた。ずいぶん前に出して忘れていた求人票を握り締め、突然現れた得体の知れない若者に学者は難色を示したが、熱心に頼み込む様子に根負けしたのか、試しに三月の期限付きでアストロは雇われた。学者は気難しく、あれこれと細かく仕事に注文をつけた。朝食の目玉焼きは半熟で。規定の場所にソックスは丸めて収納すること。庭で飼っている鶏の餌と水は絶やさないように。全く想像した仕事ではなかったが、拳が飛んでくるよりはまし、とアストロは言われたことを忍耐強く片っ端からこなした。最初は雑用ばかりだったが、偶然腰を痛めた学者の代わりに星の動きの観測を手伝った際に、その記録の正確さが認められ、徐々にではあるが星図の記録を手伝うようになった。そのうちに三月が過ぎ、一年が過ぎ、気づけば三度目の冬を迎えていた。


観測用紙とペン、真新しい星座盤を手に、天文台に登り夜空を見上げる。吐く息はまるで白い煙のようだ。冷たい空には冴えざえとした月が静かに浮かんでいる。その光は手の中に収まりはしないが、アストロにとってはそれで十分だった。

(了)

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