下層:<其の二>

 そこは、白い靄でおおわれた渓谷――あるいは、天井の見えない洞窟。


 壁面のあちこちから、無数の建築物が不安定な角度で、中途半端に突き出している。灰色のビル、赤茶けた時計塔、煤に塗れたぼろぼろの天守閣――


 更には連絡通路のように、左右の壁にまたがっている構造物もある。赤い土管、紫色のコンテナ、黄色いウォータースライダー ――


 途中で欠けた通路もあり、ただの壁に開いた穴と化しているものもある。今出てきたのは、それらの穴の一つだった。


 ――なんなんだよもう、なんで終わんねぇんだよ……!!こんなの、どうしろって言うんだよ…………!


 恋は震える手でスマホを取り出し、画面を点ける――ナビは確かに、渓谷に沿って進路を示した。


 恋は文字通り谷の底に沈むような絶望から解き放たれ、この上ない安堵の中に放たれる。


「…………ねぇ、なんか聞こえない?」


 ……だが、またすぐに水を差された。


 恋は透に言われて、耳を澄ます。


 どこかからかかすかに響く、か細い音――それは段々と大きくなり、渓谷全体に激しく反響し始めた。


「――っ!!!!?」


 恋の心拍が再び乱高下する。


 ――あいつ、まだついてきてんのか!?


 朱獅子は近くにあったコンテナの上に飛び乗り、そこから岸壁を駆け上って土管に飛び移る。


 その間にも、音はどんどんと近くなってきているようだった。


 朱獅子が木でできた橋の欄干に足をかけたその時、


『――シャアアアアアァァッ!』


 ――すぐ後ろのトンネルの出口から、包帯男が飛び出してきた。


 大刀が全体重を乗せて振り下ろされ、橋は崩壊する。獅子はバランスを崩して落下するも、近くの建物に前肢をかけて踏みとどまった。


『待て小僧共おぉっ!!!』


 朱獅子は構造物の間を縫って霧に姿をくらます。包帯男はいい加減にあたりをつけては飛びかかり、いちいち着地した場所を破壊しながら迫ってくる。


『よくもっ、よくも拙者を地の底に落としよってぇっ!!!』


「……奴当たりかな?」「奴当たりじゃねぇかっ!」


 恋と透は声を合わせた。


 姿が見られていないからまだいいものの、敵はすぐにでも追いつきそうな勢いで迫ってきている。むしろ進めば進むほど、むしろ声は近づいて――


「おいまさか――」


 いつの間にか包帯男の声と重なって、もう一つの音が響いていた――恋たちの、向かっている方向から。渓谷の、底の方から。


おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお…………!


 霧の中から、の白い顔が浮かび上がってきた。


 金色の髪を真ん中で分け、白目をむいた少女のような顔が。


 最初は、その大きさがわからなかった。だが、それが近づいてくるにつれて、次第に見えてきた――口の中にある、もう一つの顔が。


 そしてさらにその口の中に第三、第四の顔が連なる。


 第五の顔においてようやく、もはや人間のそれではない、鋭い牙をもった大口が開いていた。


 そしてその口がちょうど、2人の少年を丸ごと呑み込む大きさだった。


 更に、大きさがわからなかったせいで、もうひとつわからなかったことがある。


 だが、ここまで近づけば、それももう明らかだった。


 ――その巨体にして、あまりにも速い、と。


「っ~~~~~!!!!」


 朱獅子が立った今飛び降りようとしていたコンテナの上に、その醜悪な顔が


 巨大な芋虫のような全身が露わになる。赤い錦のようなものを何重にも纏い、金色の房布を引きずっている。


 朱獅子は真下から迫ってくる顔面から逃げ、岸壁を垂直に駆け上がる。


 ああああああああああああああぁぁぁ…………!


 芋虫が体を縮めるのが見えた――明らかに、何かの準備動作だ。


『――ちょこまかと逃げるなぁっ!』


 更に反対側の瓦屋根からは、包帯男が飛び立つ。



 一か八か。



 恋は包帯男がこちらに飛んでくるのを、ぎりぎりで朱獅子を跳躍させる。


 大刀が恋たちの頚に迫り、恋はそれを金棒で受け止める――いや、受け止めきれずに、朱獅子もろとも


 そしてまさにその直後、恋たちが浮いていた空間を、芋虫の顔が通り抜けていく……つまり、ごく当然の結果として、恋たちの代わりに包帯男が飲み込まれた。

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