下層:<其の一>

 ――その一瞬、世界のすべてが黒になった。


「――っ!?」


 恋が、無間の闇に落ちた――と思ったその次の瞬間には、世界は赤い光で塗り替えられていた。


 地面に手をついて顔を上げると、赤い蛍光灯の光が目を刺した……やけに天井が高い。屋内のようでもあり、どこかの地下道のようでもある。


「ここ、夢で見た…………。」


 透がぼんやりとつぶやく。


 コンクリートの柱が規則的に立ち並んでいる。


 右を見ても、左を見ても――柱の群れがただただ、無意味なほど延々と立ち並んでいる。目を凝らすと辛うじて、端の壁が見える……ような気がする。赤色で目がくらんで、よくわからない。


 どうやってこの場所に来たのかはわからない。だが、それ以上に、この場所の意味が分からない。


 さっきまでいた街も確かに異変に呑み込まれていた。……だが、この場所はそんなレベルではない。「異変」が起きているのではない。この場所自体が、一つの「異常」だった。


 まるで人が作った建物の構造を、その意図を知らない機械が再生成したかのような冗長さ。違和感。不条理――


 意味もない。目的もない。そして何より――が、感じられない。


 かつてそこに一度でも、人間がいたという感じがしない。


 どこかで見たことがあるはずなのに、きっと、誰の記憶の中にも無い場所。


 出来損ないの、現実の複製品。世界からはじき出された、虚ろな断片。


 そこには、人間は一人もいない。


 いるのは、ただの――


『――ねえ』


 肩の上に、手が置かれる。振り返ると、そこには血を流す虚ろな眼窩が、二つ。


『――君も、俺たちと一緒になろう?』


 恋はその腕を払いのけ、更に金棒でへし折った。


 ――馬鹿っ!何ぼんやりしてんだよ!


 恋は心の中で自分に毒づき、傍で同じように立ち尽くしていた透の手を取る。


「おいっ、行くぞ!」


『助けて…………。』『さみしい、さみしいよ…………。』『見えない……何も見えないよぉ…………誰か、そこにいるのぉ…………?』


 気づけば四方八方から、人形たちが二人を取り囲んでいる。


 恋は朱獅子を呼び出し、金棒には電流が走る。


 ――そうだ、思い出せ。


 自分は夢喰いだ。そして今は戦いの最中だ。


 単に悪夢に迷い込んだ、名無しの犠牲者などではない——獅子尾蓮は、主人公ヒーローなのだ。


「――かかってこい!雑魚どもっ!」


『――シャアアアアァァッ!』


 恋の挑発に応えるかのような奇声が、柱の間を乱反射し、何重にも響き渡る――人形の声ではなかった。


 床がぐらぐらと大きく揺れる。更に遠くで柱が次々と倒れ、粉塵が舞うのが見えた。


「何だっ……!?」


 目を凝らしていると、その間を紫色の光が飛び交い――いや、こちらに向かって飛んできているように見える。


「っ!!」


 朱獅子が大きく飛びのいたところを、大刀がきりきりと舞いながら通り抜けていく。周囲にいた人形たちと共に、柱までもがあっさりと切り刻まれて倒壊する――そしてその上の天井にも、大きくひびが入った。


 無数の柱があるとは言え、衝撃が蓄積しすぎたようだ。


「おいクソ馬鹿ふざけんなっ――」


 崩れてきた天井を避けながら恋は毒づく……見上げると、天井の上に大きな空洞ができていた。


「……ラッキー!生き埋め回避だぜ!」


『死ねぇっ!虫共がっ!全部死ねぇっ!』


 包帯男はそもそもそんな心配などしていない様子で、人形たちと戦い続けている。彼の背後から銃弾や矢が放たれるが、男は当然のようにそれらを弾き返す……振り向きもせずに。


 恋を乗せた獅子は天井の穴に飛びつき、さっさと脅威から距離を取った。


「撃ってくるってことは、まだ人形遣いが操ってるのか……近くにいやがるのか?」


 天井の上に広がっていたのは、真っ暗なトンネルだった。壁際には無意味な標識や掲示板が乱立し、さながらレトロな街並みを模したセットのようになっている。


 恋はスマホを取り出し、GPSのようなアプリを立ち上げる。


「方位はわかるけど、問題は深さか……取り敢えず、行くしかねえか!」


 獅子は地面を蹴り、張りぼての街並みを通り抜けていく。どこかからか、くすくすと押し殺した笑い声がする。


『待てっ!!餓鬼どもおぉぉぉっ!!!』


 背後から包帯男の叫び声が追ってくる。


「はぁっ!?なんで俺たちまで!?」


 恋たちの目の前に、工事中のサインと共に、その先の道に立つ交通整理員が現れる――だがそれは、壁に描かれた偽物だった。


「っ!ざけんなよクソッ――!」


 だが、幸いそこには曲り道があった。その先には電気街を模したのか、壁一面にブラウン管のテレビが埋め込まれている。


 四肢がその前を通り抜けるのに合わせて、テレビが順番に点灯し、ノイズを叫び散らす。


 ざざっ!ざざ、ざざざざざざっ!ざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざっ――


 妨害電波でも出ているのか、スマホの画面が乱れ、位置情報が失われる。……そして恋たちが向かう先には、三本の分かれ道が。


「おいっ……まさか、わざとやってんのかっ!?」


 恋はトンネルに向かって叫ぶ――勿論、返事はない。


 この状況で、あの包帯男と戦う訳にはいかない。仕方なく恋は、真ん中の道を突き進んだ。


 背後でテレビががしゃがしゃと割れる音がする。どうやら包帯男は、傍にある者を手あたり次第壊しながら進んでいるらしい。


『――シャアアアアアアアァァッッ!!!』


 トンネルの壁はレンガ造りに変わり、分かれ道が次々と増えていく。


 暗すぎて見通しがつかない上、トンネルが複雑すぎるためか、端末はもはや分かれ道さえ映し出さない。包帯男から逃れるためには、できる限り手前の曲がり角を選ぶしかなかった。


   ← 左カーブ 下り坂 → → → 右カーブ――


『――アァァァァ…………』


 包帯男の声が遠ざかり、それでもなお、背景のノイズのようにかすかにこだまし続ける。


 → → → ← ⤵ ↑ → ← ⤵ → ↓――


『――ァァアアアアアアッ……!!!』


「っ!なんで近づいてんだよ!?」

 

『アアアァァァッ――ァァァアアアッ!!!』


 声はまた遠ざかり、そしてまた近づく。


 出口は見えない。


 ↑ → ← ← ↓ ⤵ ――


「…………ねえ、恋くん。」


 恋の背中に頭を押し付けながら、透が言う。


「このまま、ずっと出られないのかな?」


「っ!な訳ねぇだろっ!」


 恋の声は震えている。そんなこと、考えたくもない……いや、考えては駄目だ。


 だが透としては、このままずっと終わりが来なくてもいいと思っていた。


 右、左、右、左左右―—その不協和なリズムが脳を振り回すのが、心地よかった。


 遠ざかるあの声は眠気を誘い、しかしまた近づくとびりびりと世界を震わせ、目が覚めてしまう。その繰り返しが、何とも言えないぞくぞくとした感じを引き起こす。


 ――このまま逃げ続ける?それとも、捕まっちゃう……?捕まったら、どうなっちゃうのかな?


 それは、ずっと出られなくなるのと同じくらい駄目だ……いや、駄目なことなのか?その結末を、見てみたい気もする。


 透は混乱し、そしてその混乱に酔いしれていた。


 日常的な善悪が、選択の意味がわからなくなる。全てがかき乱され、どの結末も等しく不条理になる。


 これが——これこそが、虚世!


 右左上下左下左右右上左上下下右左右下左上右上上下左上上左右下右上下右下上下下左上左左左下右下右上右左右右左右左右左上右上左下下左左右上下右右上左右上下左左上右右下右左上右右上右上右上左――



 左……に曲がった瞬間、視界が突然開けた。


 そして、獅子は落下する。


 着地の衝撃で、恋たちの体は大きく跳ね上がる。


「はぁっ、はぁっ…………なんだよ、もう……………………。」


 恋は周りを見渡しながら、泣きそうな声を出す。


 トンネルからの脱出には、成功した……そして今、目の前にはだだっぴろい渓谷が広がっている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る