赤い夜

 次の日の夜。

 

 宿屋の一階の中広間には数少ない客たちが集まって、世間話などしている。

 

 昨夜に幽霊に遭った男は、宣言通りに朝早く宿を出てしまった。


「ねぇあなた、あたしはやっぱりこの宿、早く出た方が良いと思うんだけど……。」


「そうだなぁ、その方が良いかねぇ。別に大事は無かったとは言っても、なんだか少し心配ですしねぇ。」


「ハハハッ、やれやれ、みんなどんどん出て行ってしまいますな。そうするとさすがのあたくしも、年寄り一人だけ残る訳というんじゃ心細いですからなぁ。人込みばかりの旅路を通ってきた身としては、この宿の静けさもそれなりに気に入ってたんですがねぇ……。」


 壮年の夫婦と老人が、幽霊の件で談笑している。曰く、両者とも旅をしているらしい。

 老人の方は歌人か何かで、若い頃からよく旅をしていたらしい。今回が恐らく、死ぬ前の最後の楽しみになるだろう、と言う。


 その「最後」は果たして、いつ訪れるのか。それとももう、とっくの昔に通り過ぎていて、気づかないだけなのか。


 いっぽう夫婦の方は、都会でやっていた商売をやめて、郷里に帰る途中だと言う。


 だがなぜか、その郷里に行く道がいっこうにわからず、長いこと彷徨っているらしい。


「ご隠居さんは、どれくらい長くここに?」


「もうかれこれ一週間になりますかな。」


「その間に幽霊とかは……。」


「いや、残念ながら全く。」


「はあ、そうですか……別にこの建物にいわくがあるとかじゃないそうですしねぇ……。」


「もしかすると、幽霊も我々のように旅でもしているのかもしれませんな。ハハハハッ!」


 老人は全く危機感のない様子で酒に酔っている。


「幽霊っつったって、見間違いかも知れないんだろぉ?しかもただ通り過ぎてくだけってんだから、恐がることなんかねぇよ!ったく、どいつもこいつも慌てふためきやがって、だらしねぇなぁ!」


 老人以上に酔った別の男が、盃を振り回しながら言う。


「でも、あんただって明日出てくんだろう?幽霊が恐いんじゃないのかい?」


 夫婦の男の方がからかうように言う。


「いや、それは……ほら、俺はあれだよ、あれだ、辻斬り!あっちの方が心配なんだよ……!いや別に、恐いってんじゃねぇぞ!恐いとか、怖くねぇとか関係なしに、辻斬りはあぶねぇじゃねえか、なぁ!」


「うーん、確かになぁ。俺たちも、もっと気を付けた方が良いかもなぁ。」


「そうねぇ。」


 恋はそんな客たちの様子を、少し離れたところから睨んでいる――怪しい言動をする者がいないかどうか、耳をそばだてているのだ。

 ……はた目から見れば、獅子の面をつけ、幽霊退治をすると言いながら客に敵意を振りまいている少年こそ怪しいのだが。







 ――やがて夜も更け、客たちは各々、自分の部屋に戻っていく。恋と従業員が廊下を見回ると言うのを聞いて、すっかり安心している様子だった。


 彼らは幽霊を多少とも恐れこそすれ、日常にあってはならない異物の様には思っていない。その感性は、彼らがかつて生きた時代に似つかわしいと言う以上に、こちらの世界の不条理に馴染んでしまった結果でもある。


 だが獅子尾恋は、そのような異物を決して許さない。現実と虚構の境界を破るものは、なんであろうと排除する――それが、夢喰いとしての使命だ。


 恋は右手に金棒、左手にランプを持って、三階の廊下を見回っていた。


 ――何も異常はない。


 障子窓から、淡い月明かりが差し込んでいた。


 恋は廊下を端まで渡り切り、階段をきしませながら降りていく。


 ……そして同時に、廊下の反対側から透が顔を出した。


 真っ暗な廊下に、静寂が下りる。上の方の階から、時折わずかに足音が聞こえてくる。



 ――そしてそのまま、5分ほど経った頃。



 月が雲に隠れ、廊下は完全な暗闇になった。


 何も見えない。何も感じない。


 透はぼんやりと、夜に溶け込んで消えていく――あとにはただ、少年の形をした黒い影が残るのみ。

 


 

 ――不意に、目の前の部屋に灯りがともった。


 行灯の黄色い光ではない…………それは赤、だった。行灯と言うよりむしろ、ネオンのような。だがそれにしては暗く、妖しい揺らぎを持っている。


 障子に浮かび上がった赤い影は、人の立ち姿のような形だった。その影が音もなく、ゆらり、と動き出した――そしてそのまま、隣の部屋の障子に移る。



「――やっぱりお前か!観念しやがれっ――」


 透は――否、身代わりと入れ替わった恋は、手前の部屋の障子を叩きつけるように開いた。


 ――そして、出窓が開け放たれているのを見つける。


「逃がすかよっ!」


 恋が窓枠に足をかけるのと同時に、隣の部屋の主が悲鳴を上げた。

 赤い影はそのままどんどんと、奥の方の部屋に移っていく――ちょうど、昨夜と同じように。


 ……だが、それだけでは終わらなかった。


 出窓から見下ろした庭にも、赤い影が、一つ――否、二つ。


 恋がそれらを視認している間に、更に新たな影が現れる。


 三つ、四つ、五つ……次々と、地面からゆらりと立ち上ってくる。


 十に二十に三十に、と――視界の左から右に向かって、まるで地の底から這い出すように、増えていく。


 うじゃうじゃと――うじゃうじゃと。さながら虫の群れのように――


『うぅ……。』『アァ、アァァ…………。』


 か細い無数のうめき声が立ち上る。


 みちっ、ぎちぎちっ…………。


 人形たちが頭や腕を不自然な方向にくねらせるのに合わせ、小さな異音が響く。


「なんだよ、これっ…………。」


 更に階下からも呼応するように、次々と客の悲鳴や驚きの声が沸き起こる。


 人形たちは不揃いなテンポながらも、全員が同じ方向を目指して行進している――東の方、街の中心の方へと。


「まさかこいつら、全部個疑人か……!?」


 ――そうして唖然としている恋の背後にも、新たな影が現れる。


「……ねぇ。」


「っ……!?ってなんだお前かよ……。」


「おじいさん、いなかったの?」


 透は暢気に尋ねる。


「逃げられた……っていうか、今それどころじゃ――」


 恋がそこまで言った時、街の方から更に無数の叫び声が聞こえてきた。


 家々に明かりが灯り、騒ぎ声が増えていく――それらはまるで波のように、西から東へと広がっていった。


 通りの闇に目を凝らしてみると、何やら赤い靄のようなものが蠢いている。


「おいまさか……街中全部…………!?」


 うじゃうじゃと――うじゃうじゃと。


 うじゃうじゃうじゃうじゃと。


 うじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃ——

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