個疑人:<其の一>

 恋は悲鳴を聞くなり、何も言わずに走り出す……寸前で、思い出したように透の手を掴んだ。


 宿の従業員や野次馬よりも先に、二人は三階に辿り着く。ちょうど廊下に、腰を抜かした男が後ろ向きに這い出てくるところだった。


「おい、そこのあんた!何があった!?」


「あ、ああぁ……お、おんな……部屋ん中に、白い、女が…………!壁、壁通り抜けて、隣の、部屋に…………!」


 男が出てきたのはちょうど一番奥の部屋だった。恋は迷わずに、手前から全ての部屋の襖を引き開けていく――だが、どの部屋にもそれらしき姿はない。


 叩き起こされた数少ない客が、困惑した顔で廊下に出てくる。恋は慌てて、手に持っていた金棒を消し去る。


 恋は仕方なく、目撃者の男に詳しい話を聞くことにした。


「おいあんた、何見たんだ?詳しく教えてくれ。」


「し、白い服着た、長い髪の女だった……。」


「……死に装束か?」


「違う、白い、ぱんつすーつだった。」


「めちゃくちゃ現代じゃねぇか。」


 恋は思わずツッコんでしまった。


「で、でもありゃ間違ぇなく幽霊だ。体の輪郭が揺らいで、影みてぇなもんがまとわりついてて……そんで、壁まで通り抜けて……。」


 ――あれ?「幽霊」、って……?


 透はふと、その言葉遣いに困惑した。


「そいつはどんな目ぇしてた?」


「目……ああ、そうだよ、目が赤かった。血、血の涙が出てたんだ。おっかねぇ……おら、呪われたんでねぇか。なぁ坊主、おらなんかおかしい所ねぇか?」


「……呪いの気配も痕跡もねぇよ……あ、でもおかしい所って言ったら、大の大人の癖に漏らしてるところだな。」


「え……?ひぇっ!ほんとだっ……。」


「……間違いない、個疑人コギトだな。」


「……ねえ、恋くん。」


「なんだ?」


「個疑人って、何?」


「俺たちと同じ、現世うつしよから来た人間……の魂だ。」


「それって、幽霊なの?」


「……まあ、いわゆる、な。ただし生霊って可能性もあるが。体が死ぬか、現世から完全に『解脱』したら生霊じゃねぇ。ほとんど怪異と同じだ。」


「……じゃあ、。」「おいバカっ!」


 恋は突然、血相を変えて透の口を塞いでくる。


「お前、知らねぇのかよ……!?」


 幽霊を見た客と、彼を介抱する従業員たちが、怪訝な顔で恋たちを見る。恋はそちらを気にしつつ、小声で透にささやいた。


「……とにかく、今は絶対何も言うな。こいつらに気づかせたら駄目だ、絶対っ!」


 そこへ、かなり遅れて宿主が姿を現す。黄緑色の太った体躯に、三つの赤い目――まごうこと無き、異形だった。


「お客様方、いったいどうされましたか?」


 その言葉からは気遣いや心配はみじんも感じられず、ただただ睡眠を邪魔された不愉快さと厄介ごとを煙たがる態度だけがあった。


「何?幽霊……?ああ、そのお面……あなた達が例の『夢喰い』の方々ですか。これはこれは。」


 従業員から話を聞いた宿主は、恋たちを見て、何か含みのある笑みを浮かべる。


「ああそうだよ。なんか困ることでもあるか?」


 恋はあからさまに敵意を込めて言葉を返す――怪異と言うだけで、第一容疑者と見なすには十分だった。


「いえいえ、とんでもございません。むしろこれは私共としましても、大変良い運のめぐりあわせと言うほかありませんな。……どうです、この幽霊騒ぎ、あなた方に解決をお任せしてもよろしいですかな?」


「ああ、いいぜ。本当に解決されてもいいならな。」


 恋は宿主を睨む。


「……?何をおっしゃっているのかよくわかりませんな。私は真剣にお願い申し上げているのですが。このままではお客様方が安心してお泊りになれませんから。……本当に、きちんと解決していただけるのですね?」


 宿主の、いかにも厄介ごとを他人に押し付けたくてしょうがないという態度は、正直そのものに見える。取り敢えず、彼に対する恋の疑いは弱まった。


「ああ、当たり前だ。数日中にどうにかしてやる。」


「素晴らしい!それでは何卒、よろしくお願いいたします。お客様方!今お聞きになった通りです。幽霊は夢喰い様がすぐに退治してくださいます!どうぞご安心ください!」


 客たちは、「そう言われても……。」と言わんばかりに顔を見合わせる。


「お、おらもう無理だ……数日も待ってられねぇ。すまねぇけど、明日んなったら出てくだ……。」


 目撃者の男も首を振る。


「そうですか、それは申し訳ありません。またのご利用をお待ちしております……はあぁ、ったく、踏んだり蹴ったりだよ畜生。なんで幽霊なんかがウチに……。」


 宿主はぶつぶつ言いながら、どすどすと階段を下りていく。


「あぁ、よければその、なんだ、『夢喰い』の坊主?あんた、お祓い屋さんかなんかなんだよな?今晩、俺んとこに一緒にいてくれねぇか?」


「はあ?……ああでもそうか、無差別じゃないって可能性も……わかったよ。」


「お、恩に着るだ!」


「透、お前も一緒にここで寝ろ――さっきの話の続きもしてやる。」

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