SOS
駅のホームは、通勤ラッシュであふれかえっていた。
何の変哲もない、いつも通りの光景。
私は周りのほとんどの人がそうしているように、俯いてスマホの画面を眺めていた。
『――まもなく、2番線に、電車が参ります。危ないですから、黄色い線の内側に……。』
――そのときだった。
突然、耳元に誰かの息遣いを感じたのは。
『アァ……アァ、ア…………。』
――まるで地の底から響くような、掠れた声。
ぞわっ、と半身が凍り付く――でも振り返ると、そこには誰の顔もない。後ろに立っている人たちは、みんなうつむいてスマホを見ている。
電車がホームに這入り、ゆっくりと停車する。
機械的に開いた扉の中に、機械的に人々が流れ込んでいく。
私もそんなみんなに合わせて、何もなかったかのように電車に乗り込んだ。
車内にはまだそれほど人はいなかった。でも、すぐに人の肉で埋め尽くされる。
――ふと、空いている座席が目に留まった。
座ろうとしたわけではない。ただ、一か所だけ空いていて、注意を惹かれたのだ——
……見なければよかった、と後悔した。
ごぽっ、ごぽごぽっ。
赤いシートの表面が、液体のように泡立っている。そしてその泡の中に、同じように赤い、人間の顔が浮かび上がっていた。
『お母さん…………痛いよう、痛い、よう…………。』
その顔はすぐに、誰かの尻で覆われる——そして、声はもう聞こえなくなった。
そこに座った人を含め、だれ一人気づいていない。
――また、始まった。
私はため息をついた。
扉が閉まり、車体が大きく揺れる。それに合わせてみんながバランスを崩し、よろめく。
『――糞ッ、糞糞糞糞糞糞糞…………!よくも、よくもよくも俺を俺を見下しやがって許さない絶対許さない死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね…………!』
扉の前から、誰かのつぶやき声が聞こえてくる。でも、他の人は気にも留めない。
――だから、私も気にしたら駄目だ。あれは、存在しない声なんだ。
そう、自分に言い聞かせる。
物心ついた時から、時々こうやって、急にどこかの誰かの声が聞こえたり、姿が見えてしまうことがよくあった。
でも、単に見えて聞こえるだけで、それ以上は何も起こらない。だから気にする必要はないし、気にしたところでどうにもならない。最近はそう、開き直っていた。
『ねえしってる?人間の血管って地球2周もできるんだって。』
『えぇ~、すごぉゐ。ここにいっぱいあるから、ためしてみようかなァ?』
――駄目だ、聞くな。
私は無線イヤホンを耳に差し、動画を縦にスクロールすることに没頭する。
『あぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼっ!』
『きれいきれいにしませうね。』
『殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる…………!』
電車が止まり、人込みがはけていく。それと共に、あのたくさんの声もなくなった。
私はようやく、ほっと息をつく――その時だった。
『――助けて。』
また、何か声が聞こえた。私は当然、聞かなかったことにし、視線を動かさないようにする――だが寄りにもよって、まさにその先に声の主の姿があった。
制服姿の女の子が――窓の向こうに。
私は振り返る――でも、背後には少女の姿はない。反射ではなかった。まして、反対側のホームにいる訳でもない――彼女は文字通り、窓の向こうに、と言うより、鏡の世界の中に、いた。
その両目から血を流しながら、こちらに向かって。
『――助けて、お姉ちゃん。』
――もしかして、私に、言ってる…………?
ぞっとした――まさかあれは、私の存在に、気づいているのか?
今まで、そんなことは一度もなかったと言うのに。
扉が閉まり、電車が発進する。
私は当然、その場を離れた。
隣の号車に移り、窓から離れて吊革につかまる。
――何も見てない。何も見てない。何も見てない。
イヤホンの音量を上げ、画面をスクロールする。音楽に乗せて女の子が躍る動画、動物が遊んでいる動画、料理の動画――次の瞬間、画面が暗転する。
画面に私の顔が反射…………
あ。
『ねえ、助け――』
私はスマホを取り落とす。電車はトンネルに入った。
周りの人に変だと思われないよう、仕方なくスマホを拾う。
恐る恐る画面を確認するが、特に異常はなかった。
ついでに周りの様子もさりげなく確認する。
――よかった。
窓の外にも、誰もいない。トンネルの中は何も見えない、まっかやみだ。
……………………え?何?
真っ赤?
私は窓の外を二度見した。
――そこは、トンネルではなかった。
どこかのビルの地下構造のような、赤い蛍光灯の群れに照らされた空間。
無機質なコンクリートの天井と柱だけの、四角い構造が、無限に続いている――そう、文字通り、無限に。
まるで鏡合わせでも作ったかのように、柱の並びの直線が、無限に小さな点に向かって収束していく……グロテスクな集合体に近いもので、それを見通そうとすると、恐怖とも嫌悪ともつかぬ、ぼんやりと呑み込まれていくような、何とも言えない感覚になる。
そして、そんな異常な景色の中に、ぽつん、ぽつんと、赤い人影が点在していた。
口をパクパクさせながら、こちらに向かって何かを訴えている。
そして電車も際限なく、トンネルの中を進んでいく。どこまでも、どこまでも——
――おかしい。
その時になって私は、車内に私以外誰もいないことに気づいた。
――おかしい、おかしいおかしいおかしい…………!
私は前の号車に駆け込む。
「だ……誰か!誰かいませんか!」
更に前に、前の号車へと——
「誰か!誰かぁ!」
突然、車内の明かりがプツン、と消えた。
外の赤い光も消え、一切が暗闇に沈む。
「きゃああぁぁっ!」
私はその場にしゃがみ込み、頭を抱える。
――お願い、誰か…………。
「誰か、助け…………。」
パチッ――車内に赤い明かりが点く。
「て——」
車内の人影が、はっきりと見えるようになる。
『――助けて』『助けて』『助けてお願い』『お姉ちゃん、助けてよぉ』『助けてくれぇ』『タスケテタスケテタスケテタスケテ――』
私の声に応じるかのように、みんなが同じ言葉を一斉に唱える。
――やだ。
みんなが私の体に、しがみついてくる。
――なんでなんでなんで。
触れられた所から、何かが私の体に入り込んでくる。
――こんなのおかしい。やだやだやだやだやだやだやだ…………!
腕が肢が、だんだんと、動かせなくなってくる――
――ああ、みんな、私と同じだったんだ。
一人は嫌だった。助けてほしかった。
だから、他の誰かを呼んだ――
――だから私も最後に、誰にも聞いてもらえない声で叫んだ。
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