美学:<其の一>

「…………うわあああぁぁっ!!!」


 それと「目」があった少年は、先ほどまでの少女に対する威勢が嘘のように、絶叫した。

 ……果たしてそれを、「目」と呼んでいいものか。むしろ、縦に裂けた穴に眼球が挟まっている、と言った方が適切であろうか。


 その目が埋め込まれた頭部はと言うと、端的に言えば毛を狩られた山羊と言ったところか。面長の骨格に、大きく巻いた二つの角。だがそのハート形の口からは、山羊にしてはあまりにも凶悪な牙が覗いていた。ぬらぬらと光る灰色の肌。額から角にかけての頭蓋の隆起は、かつて「ぬらりひょん」と呼ばれた個体にも似ている。


 甘井は恋の手から藁人形をもぎ取り、ぶつぶつと文句を言う。


『全く、なんて哀れなのでしょう……愛を知らない人間は、破壊するしか能がないのですね!私の作品に対して何の感動も畏敬の念も抱かなかったのでしょうか!?』


 そのグロテスクな相貌に反して、服装は気障な白いタキシードだった。大きな頭部に対して、いやに密度の小さな、細い体。

 そして不自然に大きく開いた胸元には、ネクタイの代わりに赤いハート型の文様が光っている。どくっ、どくっ、と――あたかも本物の心臓のように拍動が聞こえてくる。


 だが総じて、それほど悍ましい見た目という訳でもなかった。むしろくねくねと身をよじらせる姿に滑稽な印象を受け、恋はいくらか平静を取り戻した。


「作品……お前、あの『芸術家』か!確か、ジェイソン何とか――」


『ジョナソン!ジョナソン・甘井・スイートハートですッ!人の名前を間違えるだなんて失礼ですねっ!』

 

 甘井は大きく口を開いて、恋の顔に唾を吐き散らす。恋はひるみながらも、震えていることを悟られぬように強い語気を保つ。


「……お前、男子と女子をくっつけるのが随分好きらしいな。あれに一体何の意味がある!?」


『ふん!愚問ですね!展示会では解説などは一切添えませんでしたが、それは作品そのものが伝えるメッセージを却って損なう無粋な行いですから。しかし観る者の質がこうも低いと!そんな配慮も無意味と言うこと!ああ嘆かわしい……!』


「……じゃぁ、センスのない俺にもわかるように教えてくれないか?」


 恋は今度は多少理性的に、尋問と時間稼ぎを同時に行う。この手の、特定の儀式的行動に拘る怪異は、相手が人間であろうと自分の話をせずにはいられない――師匠から聞いたことがあった。


『はっ!いいでしょう。わざわざ言うのも馬鹿馬鹿しいくらいですが——共通するテーマはずばり、『永遠の愛』ですよ!』


 甘井は左手を胸にあて、右手を天高く伸ばして高らかに言う。


『少女の恋情とはこの世で最も美しいものです!脆く可憐な華の中に宿るとは思えないほどの激しい炎!そしてその柔らかな魂とは絶対に相容れることのない、異なる性を、青く不安定な少年の炎を求めてしまうその悲しき運命!ああ、二重の矛盾!これ以上尊いものがあるでしょうか!?そしてそのような共存しえない矛盾をも包摂し形にしなければならないと言う不条理こそ、まさに芸術の極み!そこに辿り着くことこそが、私の悲願!』


 甘井の心拍が加速し、空気を震わす。だが彼の熱弁も、恋にとっては全て怪異のたわごとでしかなかった。


『そのために私は、少女が少年と一つになるまさにその瞬間を様々なアプローチで『捕え』、永遠のものに変えてきました……それもそれで一つの美の完成!しかし、それでは何かが足りないと思っていた。……そしてある時気づいたのです!私の芸術は全て、美をしまっているのだと!それはある瞬間の美を人為的に固定したものであり、自然の美からは程遠い!いわば、あれらの作品は死んでいるのです!』


 確かに、死んでいる……物理的な意味で。恋はその一点だけは、甘井の言うことを理解できた。


『確かに、美術作品とは伝統的に静物であり、額やショーケースの中で完結することは当たり前のことでした。しかし、その当たり前に捕らわれている限り、新しい芸術の発展はありえない!そんな時に!あの糸が手に入った!』


 恋は「糸」と聞いて、耳をそばだてる。正直、それ以外の情報に興味はない。


『これまでの作品では、二つの魂を結び付けるために、少女の個界に少年の魂を埋め込む形をとってきました。しかしこれでは、合一を保つためには1つの器としての自由な動きを犠牲にするしかなかった、しかし!あの糸は二つの魂を、1つの器の中で完全に融合させることができる!わかりますか!少年は永遠に少女の中で生きることになる、そう2人は文字通り一心同体!少女は少女のまま、汚れることなく永遠の愛を手にする、すなわち完全な美へと昇華されるのです!これまで古今東西の少女たちが、願っても決して叶わなかった不条理が実現した!あぁ、なんと素晴らしい!これこそアートッ!芸術の極みィッ!』


 甘井は自分の身を抱きながら、天を仰いで興奮にいななく。


「……で、その糸は一体、どこで手に入れたんだ。」


『はぁ?はっ、そんなことはどうでもいいでしょう?今重要なことは、そう――』


 甘井は再び恋を睨みつける。


『――あなたが私の作品を損壊したということです!』


 ――時間稼ぎは、もう終わりらしかった。

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