箱入り娘

真愛 凛

六月の日曜日

「あの、すみません」


 冴えない男性が話しかけてきた。首周りが伸び切っている緑のシャツに、すっかり色落ちしたジーンズ、それに禿げ上がった頭と無精髭。それらから察するに、彼の生活は自分と似たようなものだろう。会話の時に目線を合わせないところもそっくりだ。鏡を見ているようで嫌になる。


「どうしました?」


 だからといって突き放すことはできず、私は精一杯口角を上げて、なるべく優しい口調で返事をする。たとえそれが喫茶店で休日を満喫している最中だとしてもだ。まあ別に、突き放す理由がないというだけで、私は率先して人助けをする性格ではない。むしろ、厄介ごとはなるべく避けたいと思っている。


「えっと、小さい子供が喜びそうなメニューを教えてほしくて」


 店員に訊け、とはもちろん言えなかった。しかし何故、同じく冴えない男性である私に訊いたのか。きっと、子供がいるように見えたのだろう。しかしこのだらしのなさは、育児ではなく堕落が原因である。勘違いさせて申し訳ない。この三段腹は私自身のせいだ。


「ここは昔ながらの純喫茶店ですし、やっぱりプリンとかですかね。今どきあんなにもレトロなプリンを出してくれるのは、ここぐらいです」


 知らないながらも何とか捻り出してみる。やはり子供なのだし、コーヒーやトーストより分かりやすくて甘い物の方が好まれるだろう。

 安直すぎる自覚はある。

 今どきの子供は大人よりも大人びているし、むしろエスプレッソと言うべきだったのかもしれない。


 しかし、べつに私が彼の質問に本気で答える義務はない。やってくる物事は全て受け流せばいいのだ。私はそうやってきたし、そうするし、これからもそうしていく。答えはすれど正解にあらず。本当の正答が知りたければ、向こうにいる話好きの主婦に訊いてほしい。


「わあ、ありがとうございます。娘は甘い物が好きなんです」


 それはよかったとうそぶく。私は喜んでプリンを注文している男性を横目に、冷めつつあるカフェオレを飲む。私はこだわりのない人間なので、これが上質なものかわからない。不味くないから飲んでいるだけだ。ここに居るのは安心できる場所だからであって、質の良いメニューを求めているわけではない。何もない日常こそ、何も持っていない私に与えられた唯一の目的なのだから。


 私は本のページをめくる。店に置いてあったアウトドア雑誌なのだが、楽しそうな初老男性の姿が延々と続いているだけで、肝心の内容が全くない。こういう雑誌は協力会社の商品を紹介するものかと思ったが、どうやら違うらしい。商品の値段どころか名前すらない。この雑誌を読んでいると、アウトドア商品より初老男性に詳しくなっていってるような気がする。


 私は本を閉じて、一つに向けていた意識を周囲に散らす。


「ほら、カエデ。プリンだよ」


 先ほど聞いたばかりの声が聞こえた。私が見たときは男性一人だけだったが、いつのまにか娘さんが席についていたらしい。思いのほか雑誌に集中していた自分に驚いた。

 娘さんはどんな人なんだろう。隣の席に視線を移す。自分が出した答えに従った男の結末も、少しばかり気になるし。


「美味しいかい?」


 歪な光景が、そこにはあった。


 なんだ、あれは。


 自分の目と耳を疑ったが、どうやら正常な現実を認識しているらしい。ただ内容が異常なだけである。


 そこには、プリンが乗ってあるスプーンを四角の物体に押しつけている男の姿があった。


 ぐりぐりと。


 あの真っ黒で正方形の物体は、箱だろうか。こちらからは装飾の類は見えない。若干距離が離れているので正確性はないが、大きさはギリギリ片手で持てるサイズくらいだろう。そこらの雑貨屋にでも売ってそうな、シンプルな箱である。


 それにスプーンを押し付けている。男は微笑を浮かべながら、とろけたような目をしていた。すこしだけ羨ましいと思ってしまうほどに、幸せそうに見えた。


 いや、冷静になれ。


 これはおかしい。何がとは断言できないが、明らかに間違っている。関わってはいけない。会計を済ませて、今すぐにでもここから離れるべきだ。流石に通報まではしないが、もうあの喫茶店には行かないようにしよう。あんな不審者がいる所なんて、たとえ金銭をもらえるとしても居たくない。


 私は席を立つ。


 けれど、彼の笑顔が脳に焼き付いてしまって、その影響で私が消えてしまうのが嫌で、私は私の中にいる私を大事にしたくて、でも明らかに危険なのはわかっていて、今すぐ忘れるべきなのに、


「あの、すみません」


 どうしても、幸福を知りたかった。


「娘さんって、それですか?」


 後悔も反省もしている。ないのは理性だけだ。


「ああ、先ほどの……あなたのおかげで娘が喜んでくれました! ありがとうございます!」


 綺麗なお辞儀に加えて、さっきとは別人のようにハキハキとした声が返ってきた。勢いがすごい。吹き飛んでしまいそうになったので、しっかり床を踏みしめる。


 彼のテーブルには例の四角形の物体と、原型を思い出せないくらい台無しにされたプリンが散乱している。それは作ってくれた人への侮辱であって、決して許される行為ではない。テーブルに飛び散ったカラメルのために、いったいどれほどの労力と命が消費されたのか、考えるだけでぞっとする。


「いえいえ……ところで、そちらは?」


 私は視線をテーブルの上に移す。


 観察してみると、黒いそれはやはり箱のようで、蓋は上に被せてあるタイプのようだ。傷などはなく、プリンだった物が付いていること以外は何の変哲もない。


 どう見ても箱である。


「ああ、紹介が遅れました。こちらはカエデ、私の娘です」


 ほら、挨拶なさいと男は言った。


 何も聞こえなかった。


「すみません、カエデは人見知りでして」


「いえ、お気になさらず。私には箱のように見えるのですが、気のせいでしょうか」


「たしかに、あまり外出はしてないですね」


「箱入り娘という意味ではないです」


 私は上手く表情を作れているだろうか。真っ直ぐ立つだけで精一杯で、そこにまで気を回せない。呼吸だけは、まだスムーズにできているはずだ。


 この深淵に、どこまで踏み込んでいいのだろう。不用意に突っ込むと飲み込まれてしまう気がする。少しずつ、ゆっくり解き明かさねば身を滅ぼす。


「おや、カエデ」


 男は唐突に箱を持ち上げ、自分の耳にあてた。

 ぴったりとくっつけて、中の音を確認しているようだ。耳にプリンやカラメルがくっついたが、そんなことはまるで気にしていない様子である。


「そうか、それはすまない。では私はあちらにある喫煙場で一服してくるよ」


 そして男は箱を丁寧にテーブルへ置いてから、私に向かって


「すみません、娘が貴方と二人きりで話したいそうで……少し席を外しますね」


 と言った。


 私は呆気に取られて、男がさっさと店の隅にある喫煙ボックスへと入っていくのを、止められなかった。


 箱はそのまま置いてある。


 男の様子は、こちらからは見えない。


「…………」


 席について、自分のテーブルにあったおしぼりで全体を丁寧に拭き、間近で見てみる。


 重さは殆どなく、感触は均一に硬く冷たい。木や紙だとしたら、多少なりともカラメルの水分を吸収して湿っているはずなので、その二種類ではない。


 しかし不思議なことに、理由は言えないが、肌触りから鉄ではないと断言できる。根拠は全くないのだが、限りなく鉄に近い何かであって、しかし絶対に鉄ではない素材から作られている確信がある。


生命の鼓動のようなものが、手から伝わってくるのだ。プラスチックやシリコンだろうか。しばらく考えたが、わからなかった。


 少し振ってみると、カラカラと音がした。


 何かが、入っている。


 鍵の類は見当たらないことを確認し、私は箱を開ける。


 そこには、何者かの歯が二本入っていた。


 必死に叫び声を抑えて店の隅を見る。まだ男は出てきてないようだ。


 虫歯や黄ばみなど全くない綺麗な歯が一本と、ボロボロにかけた歯が一本。

 

 たしかに入っていた。


 私はすぐに蓋を閉めて、元あった場所へ箱を戻す。何度もおしぼりで自分の手を拭いたが、全く落ちた気がしなかった。


 正直、ある程度の覚悟はしていた。なので今、恐怖というより謎の方が、私の頭の中を支配している。


 形やサイズからして奥歯だろう。しかし、歯を入れるにしても、綺麗なものと虫歯だらけの二本を選んだのだろうか。そもそも、一本でも、二十八本でも、親知らず含めた三十二本でもなく、二本という微妙な数なのだろう。


 男が戻ってくるまで考えたが、答えは出なかった。彼の幸福のルーツを理解できなかったが、そもそも理解してはいけないような気がした。


「さて、カエデとは上手く話せました?」


「いえ、あまり……私が口下手なせいで、娘さんに気を遣わせてしまった」


 そう言って、形だけの謝罪をした。一方的なコミュニケーションだったのは、少しだけ悪いと思っている。


「まあ、お気になさらず……おや、カエデ」


 どうした、と言いながら男は耳を箱に当てる。そういう通信器具だと言われたら、信じてしまいそうだ。やや絵面が間抜けところも含めて。


「どうやら、貴方はカエデの髪をとかしてくれたとか……」


「ええ」


 困惑を肯定で無理やり塗装したが、男の様子を見る限り、勘づかれなかったようである。


 もしや、おしぼりで拭いたことを言っているのだろうか。


 いや、もう、私にはわからない。


 今はただ、この幸福の皮を被った地獄から逃げるだけだ。


「それでお礼を言いたいらしいのですが、大きな声では言えないらしいので、失礼ですが、すこし片耳をお借りしますね」


 そう言って男は箱を私の耳に無理やり当てた。ひんやりとした冷たさが心地良いと思った。

 

その瞬間、箱の奥から


「みたな」


 と聞こえた。


「カラダ、拭いてくれたから、許してあげる」


 男が無理しても決して出ないくらいの、高い声。そもそも男は気持ち悪いくらいニコニコしていて、口や喉を動かしていない。


「パパとママの歯、ナイショだよ」


 それ以降何も聞こえなくなったので、ゆっくりと耳を離した。


 男は笑っていた。

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