デウス・エクス・キュート
櫻 友幸
プロローグ
カチ、カチカチ、カチ――ガチャン。
月明りの差す、夜の森に、金属の音が鳴り響く。
音の正体は、空から舞い降りてくる、彼女の翼だ。
機械仕掛けの翼。羽の代わりに、無数のネジや時計の針、それらを繋ぐ歯車が回り、重く、固く、しかし滑らかにはためき、近づいてくる。
「アナタのことは知っています。
鈍色の翼とは対照的に、彼女自身は、とても鮮やかだった。
綺麗なブロンドのボブヘアに、黒い罰点のヘアピン。額を大胆に出した、分けた前髪。
柔らかなセーターと、脚の線がはっきりと出たスキニーという、現代風な衣装を纏いながら、全身から溢れ出る神聖な雰囲気を隠すことはできていない。
「アンタ……誰だ?」
極力、平静を装った。しかし、震える足が、動揺を告げてしまう。
俺は、なんとなく、問いの答えを理解していた。
彼女は、きっと天使だ。じゃあ、どうしてここに?
決まっている。俺を裁きに来たんだ。人殺しの俺を、殺しに来たんだ。
「ワタシは、『デウス・エクス・キュート』――」
慈愛に満ちた笑みを浮かべ、黄金色の眼が見つめるのは、俺と、俺の足元。
俺は、血塗れのネイルハンマーを握り、黒いジャージの袖で、頬の涙と、血を拭う。
足元には、タトゥーの入った男と、卑しくはだけた恰好の女。
その二人の、撲殺死体。
「――アナタの罪を、消すために来ました。天使です」
***
事の発端は、数時間前に遡る。
夕方と呼ぶにはまだ早い、でも、昼でもない。半端な空模様。
下校時刻も過ぎ、誰もいない放課後の教室で、俺は、椅子を傾け、だらけた姿勢で窓を見る。
「遅ぇ。早く来いよな」
通信制の高校らしい、ビルの校舎から見える、すこしだけ近い空。
半ば惰性で眺めながら、ひたすら、彼女の足音を待つ。
パタパタ、パタパタ。
慌ただしいスニーカーのリズムに、俺は椅子から立ち上がり、教科書の詰まったショルダーバッグを肩に掛けた。
「二〇分もおまたせ! 正樹!」
がらら、と開かれた引きドア。
そこにいるのは、俺の待ち人である、
青いインナーカラーの入った黒いウルフヘアを揺らし、翡翠色の輝かしい瞳でこちらを見つめている。
ジャージ姿の俺とは対照的に、彼女は、長袖のワイシャツにスカートという正装スタイル。彼女曰く、いつ、どこに行くことになってもいいようにらしい。
「待たせすぎだっつの」
「あうちっ!」
歩み寄り、彼女の額をトンッと指で突くと、やたら大袈裟なダメージボイスを漏らした。
「ごめんじゃん! お詫びに、いつもの耳のマッサージしたげるから、許して? ねっ?」
「なにがお詫びだよ。美鶴が触りたいだけだろ……ったく、ちょっとだけだぞ?」
俺の言葉に、彼女は目を輝かせ、うんうん、と首を縦に振る。
ぼさりと伸びた白い髪を退け、インダストリアルの貫通した耳を差し出す。
こりこり、くにくに。美鶴の指が、耳の筋や、ピアスのそばを優しく触る。
正直、かなり恥ずかしいが、これをしないと一緒に帰ってくれないのだ。仕方なし。
「んで、なんで遅れた? なんかあったのか?」
身長差もあり、俺は前屈みで尋ねる。すると、彼女の顔色が少々陰った。
「ちょっとね。母さんと連絡してた」
「……そうか」
美鶴は、母と、その愛人から虐待されている。
本人は言いたがらないし、知ってほしくないようだったが、隠し切れないあざや、やけど痕、切り傷などから、一目瞭然だった。
幼い頃から、ずっと、彼女の傷が絶える日はなかった。
「帰り遅くなるから、部屋、片づけといてだってさ。自分で散らかしたくせに、我儘だよねぇ」
「面倒な母親だなぁ。手伝ってやろうか? どうせ暇だし」
「いやいや、いいよ! そうやって、女子のプライベート覗こうとするの、よくないんだぞぉ!」
ほらな、やっぱり隠そうとする。そんなに触れられたくないことなのか。
だが、俺としては、彼女を護るために必要なことは、すべて知っておきたい。
俺は、美鶴を、ずっと護り続けなきゃいけないから。
「もう長い付き合いだろ。今更プライベートなんか気になるかよ」
「と、とにかくダメ! まだ恋人でもないのに、家入れるとかナシだから!」
「いや、でもよ……」
「あーあーあーっ! 聞こえない聞こえなーい!」
美鶴はイヤホンで耳を塞ぎ、音漏れするほどのボリュームで音楽を流す。
都合の悪い言葉は、いつもこうしてスルーする。彼女の悪い癖だ。
鼓膜を心配した俺は、イヤホンを強引に抜き、これまた強引に手を繋ぐ。
「わかった、わかったから。さっさと帰んぞ」
「……うん。ごめんね、正樹。ちょっと、情緒おかしかったかも」
ぎゅうっ、と力強く握り返される手。彼女もまた、強引に指を絡めてくる。
「慣れっこだっての。……帰り、コンビニでも寄るか?」
「あ、カップ麺買いたい!」
「毎回それじゃねぇか。不摂生がすぎるだろ」
「いいじゃん。別になんの影響もないし」
「……ほっぺにニキビできてんぞ」
「えっ、うっそッ!」
「嘘」
「――――――ッ!」
ポカポカポカポカッ、ジャブとも言えない弱連打が、俺の胸に浴びせられる。
彼女の気が済むまで殴らせると、今度はいじけだすもので、頭を撫でてやった。
むふふ、という満足気な声と、「不敬を許そう」という偉そうな言葉。そうしてやっと、俺たちは帰路に就く。
陽はもう、鮮明な橙色になっていた。
片腕にビニール袋を引っ掛け、片手で美鶴の手を握り、電車に乗り込む。
夜闇を照らす都会の輝きは遠ざかっていき、段々と団地が近づいてくる。
目的の駅で降り、人気のない改札を抜け、車通りの少ない、やや田舎の街路を進む。
到着した、美鶴の住む一戸建ての平屋。壁の塗装は大きく剥げ、代わりに泥水や、吐瀉物のような汚れが染みている。
「毎日毎日、家までついてこなくてもいいのに……。ここ、定期通ってないでしょ?」
「気にすんな。来たくて来てんだ。必要出費だ」
「いや、でも、今日ぐらいは返す! 電車賃、行き返りで五百円!」
「いらん。その金で、次はサラダぐらい買え」
ビニール袋とともに、俺は心配を押しつける。
受け取った彼女は、心苦しそうに「ふぁい」と、涙声で頷いた。
不摂生と言ったが、一番の不摂生は、こんな家に住んでいることなのでは? と常々思う。
彼女が玄関を開ければ、むわりと漏れ出してくる煙草とアルコールのにおい。隙間から覗くと、ひっくり返った灰皿が畳を汚しているのが見えた。
「本当に、手伝わなくていいか?」
「もう、大丈夫だって。なにをそんなに心配してんの?」
彼女はきっと、自分の家庭環境を隠し通せているつもりなのだろう。
誰にも知られず、自分だけが抱える問題にしているつもりなのだろう。
……美鶴だけが、抱える必要なんてない。
美鶴は、ただ望むままの幸せをなぞり、生きていけばいい。
美鶴には、その権利がある。
だから、俺が美鶴を護らなければならない。
美鶴を護り、幸せに導く。それが俺の『義務』だから。
自分の立場と役割を再認識すると、彼女の手を繋ぎ止めた。
「家族のこと、もう隠さなくていい」
家の中へと入ろうとしていた美鶴が、息を呑み、立ち止まる。硬直する。
しかし、彼女は、俺の手を振り払って、汚れた家へと進もうとする。
「助けを求めろよ。ガキの頃みたいに、いじめっ子をやっつけろって言えよ! また、俺を頼ってくれよ! そのために、同じ学校入ったんだからよ!」
でも、退けない。これ以上、傷ついていく美鶴を見たくない。
今日で、終わらせなきゃいけない。彼女の傷を、ひとつでも、減らさなきゃいけない。
じゃなきゃ、俺は………………。
「……家族のことは、別に、いいの」
振り向かず、冷めた声で、彼女は言った。
「お願いだから……なにも、しないで」
徐々に、熱を帯びる、涙声。
小さく振り返ってくれたのは、気持ちを訴えるためだろうか。
潤んだ瞳が、俺を見つめる。いや、睨んでいる。
それが、本当の願いだから。と、告げるように。
胸にしこりを残したまま、俺は家を後にした。
家族には、なにもするな。それが彼女の願いだった。
だとしても、ただ黙って放っておくことはできない。
だから、俺は日課になりつつあった監視へ出向いた。
電車に乗り、来た道を戻り、再び都心の駅で降りる。
駅から徒歩数十分、パチンコ屋に着いた。
「どうせ今日も海なんだろ。知ってんだよ」
誰にも聞こえぬ小言を漏らし、未成年ながら、堂々と入店。
無数の筐体から出る光と騒音が、目と耳に悪い。もう慣れたものだが。
自販機でコーヒーを買い、わざとらしい猫背でダメ大人を演出し、海物語の列へと赴く。
そこには、既に二人組のカップルが、並んで座っていた。
何食わぬ顔で、二人の後ろの台に座り、カップルの会話に耳を傾ける。
「今日は、家でヤれんの?」
長い金髪を束ねた男が、女へと尋ねる。
「だから、夕方以降は娘がいるからダメだって言ってんでしょ?」
色落ち気味の茶髪を掻きながら、女は答える。
「またホテルかよ……。オレ、金無ぇってのに」
「今日はパートだったの、仕方ないでしょ。そのホテル代を稼ぐためにね」
「とか言って、結局割り勘なんだろ? ケチ臭ぇ女だ」
「お金出したくないなら、そっちの家貸してよ」
「嫁の前でハメろってか? バッカじゃねぇの?」
ジャラジャラジャラ、カラカラカラ。
規則的なノイズ。玉が転がり、溜まり、打ち出される音。
二人の静寂を埋めるように、鳴り続けていた。
「……ねぇ、いいこと思いついたんだけど」
女の言葉を、男はハンドルを捻ったまま、聞いていた。
「――美鶴が死ねば、色々楽になると思うの。どう?」
***
細かいことは、あまり、憶えていない。
どうやって、この森に誘い出したのか。はたまた、彼女らからここへ来たのか。
憶えていない。記憶に割く、脳のリソースなんて無かったから。
怒り、憎しみ、悔しさ、悲しさ、負の感情を煮詰めたナニカで、いっぱいだったから。
俺は、美鶴の母親と、その愛人を殺した。
死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。何度も叫びながら。
叫んで、殴って、殺して、蹴って、まだ殴って、殴り続けた。
転がる男女の頭部には、もう原型がない。
陥没し、赤黒い血とぐずぐずのゼリーが漏れ出ている。
ハンマーには、血と脳髄が。握る手には、人殺しの感覚が、こびりついて剥がれない。
不快だ。気持ち悪い。今にも、吐きそうだ。
それは、美鶴を傷つけるゴミを処理した、嫌悪感じゃない。
俺は、きっと、すぐに警察に捕まる。
そして、何年も何十年も、もしかしたら一生、美鶴と会えなくなるだろう。
美鶴を、護れなくなる。義務を、責任を、果たせなくなる。
それが、あまりに怖くて、泣いてしまうほど、苦しかった。
「――アナタの罪を、消すために来ました。天使です」
そんな中、突如として現れた、天使。
最初は、裁かれてしまうというのではという、明確な恐怖を抱いていた。
しかし今は、正体不明、理解不能という意味の恐怖でいっぱいだった。
***
デウス・エクス・キュートと名乗った、その天使。
彼女は、厚底のブーツで、目の前に着地し、笑みを崩さず、俺の髪を撫でてきた。
「あの……デウス・エクス……」
「あぁ、フルネームは長いでしょう。キュートとお呼びください」
「じゃあ、キュートさん……? 一体、なにを、して……?」
「正樹さんの記憶を、覗かせていただいております。罪の消去には必要なことですので、ご容赦くださいませ」
罪の消去? それが、具体的にどういうことか、問いたかった。
だが、彼女はその『記憶を覗く』という行為に、随分真剣で、口を挟む気になれなかった。
「ふむふむ、なるほど。事情はすべてわかりました。幼馴染のために、ですか」
ほかの誰にも語ったことのない。俺の動機。彼女は本当に、記憶を読んだのだろう。
間違いない。彼女は、本物の天使だ。そう思った。
「隣人を護るための殺人。それ即ち、隣人を尊ぶ意志の現れ。地に転がる彼らは、処されるべき悪であり、アナタは裁かれるべきではない善である。というのが、神の考えであり、ワタシがここを訪れた理由です」
要は、大切な人を護るための殺しだったので、神様が赦しました。というお話です。
彼女の補足説明で、ようやく、すこしずつ状況を吞み込めるようになった。
だが、罪を消去や、赦すと言われても、具体的になにをするのか、俺にはまるでわからない。
死後、地獄逝きを免除とかそういう感じなのか。もしそうなら、悩みはまるで解消されない。
「ただし、それはあくまで神のお考え。デウス・エクス・キュートであるワタシの考えは、別にございます」
「……やっぱり、裁くのか?」
「ふふふっ、可愛らしい誤解を。そんな人間にできることをするために、天使が出向くと思いますか?」
「じゃあ、その、アンタは……なにを考えて」
不意に、ハンマーを握る手が、彼女の手袋に、ぎゅっと握られる。
コットンとも、サテンとも感じる優しい生地が、手の甲を撫でてくる。
キュートは、どこか熟れた笑顔で、上目遣い。ねだるように、こう言った。
「ワタシの恋人になってください。そうすれば、アナタの罪の証拠を、すべて消しましょう」
「………………は?」
思わず、へんてこな声が出た。
誰が予想できたであろう、この提案。
俺にとっては、拒むことのできない、半ば命令のような言葉。
選択の余地の無い選択肢が、用意されてしまった。
「それは……なんで、そうなるんだよ!」
「答えてさしあげたい気持ちは山々なのですがぁ……そうも言っていられない状況のようです」
ざく、ざく、ざく。森の奥から、足音が聴こえた。
それが酔っ払いの千鳥足であることを示すように、呂律の回っていない怒号も、静かな森に轟いた。
「マジ、かよ……。ここ、人来んのかよ」
「さぁ、正樹さん。どうなさいますか? 恋人になると誓ってくだされば、今すぐこの死体も、凶器も、証拠の一切を残さず、消してさしあげますが?」
俺は、大きく揺らいでいた。
恋人になど、なりたくない。美鶴という護るべき存在がいるのに、他人にかまけてはいられない。それは、あまりに無責任な選択だ。
だが、ここで死体が見つかり、通報され、最悪死刑にでもなろうものなら、美鶴を護るどころではなくなる。それもまた、義務を放棄する考えだ。
ざく、ざく。近づいてくる足音と怒鳴り声。悩む時間などないのに、ぐるぐると、同じことを悩み続けた。
そうして出た言葉は、苦し紛れの、雑な屁理屈だった。
「消せるっていう……証拠を見せろ」
「ふむ?」
「罪の証拠を消せるっていう、その証拠を見せろ! 証拠も無しに、誓えるわけないだろ!」
まずい。まずい、まずい。失敗した。
俺の声に反応し、足音は、まるで目的地を見つけたように、こちらへ真っ直ぐ近づいてくる。
「はぁぁ……っ」
キュートの深いため息に、後悔が湧く。
こんなに都合のいい要求を、彼女が呑むわけがない。しかし、これしか術が浮かばなかった。
愚かさに、涙が溢れる。ぎゅっとまぶたをつむる。雫が、女の死体に落ちる。
「人らしく、普通に我儘なのですね。ますます、愛おしくなりました」
カチ、カチカチカチ、カチンッ。
彼女の開いた翼、その歯車が、右に回る。鈍色が、何度も、くるくると。
まるで、時計の針のように、時の経過を示すように、転がった死体たちは、瞬きひとつで白骨化し、瞬きふたつで、塵となり、消えた。
「嘘……マジで、消えた?」
「死体は、消してさしあげましたよ。それ以外は、誓いの後に……」
キュートにぐいっと手を引かれ、俺は木の陰に隠れた。
彼女が握る俺の手。まだ、血の付着したネイルハンマーを握っていた。
黒いジャージにも、よく見れば、赤黒いシミが見える。証拠は山ほど残っている。
しかし、死体が消えたことで、酔っ払いはその場所を素通り……すると思えば、そこに汚らしく茶色い吐瀉をこぼし、去っていった。
足音が遠のく。ひとまず危機は去ったようだ。
胸を撫で下ろすと、キュートは、俺のことを両の腕と、翼を使い、包み込む。
強く、それでいて優しく、温かい抱擁。冷えた肝が、熱を取り戻していく。
……いや、それどころじゃない。顔が、胸が熱い。恥ずかしい。やめてほしい。
「さぁ、証拠はお見せしましたよ? 如何でしょう。ワタシを恋人に……」
確かに、証拠はこの目で見た。彼女の力は本物だろう。
だが、まだ、割り切れない。まだ、決めあぐねている。
目撃証言、凶器、血痕、人間関係。まだまだ、消さねばならない証拠が山ほどあり、そのためには、彼女の力がどうしても必要。
でも、でも、でも……。
「……すこし、考える時間、くれ」
今日は、色々ありすぎた。
そのひとつひとつの出来事を、俺は処理しきれていない。
頭も心も体も、疲れきっていた。休みたくて仕方なかった。
デウス・エクス・キュート 櫻 友幸 @Sakura_Tomoyuki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。デウス・エクス・キュートの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます