十七.豊穣祝祭

 朝食の後執務室へ向かうと、

「おはよう、ヴィン。ちょっとこちらへ来てくれるかな」

 兄上にすごくいい笑顔で手招きされた。……怖い。

「何でございましょう……?」

 恐る恐る近づくと、手首をつかまれて連行された。何事⁉

 連れてゆかれたのは宰相室だった。ダーフィトとバルタザールとオイゲンとが机を囲んでいる。私はこっそり壁際のハルトムートの横に隠れたが、兄上は三人の間にずかずか入っていった。

「昨日の成果は、今どれ程だ?」

 その問いかけに、三者三様に答えがある。

「星の丘は第一騎士団が封鎖完了いたしました。第二騎士団ともこれより協議し、判断が下るまで両騎士団で封鎖をいたします。それと祭日警備の再編を始めました。近衛のとも会議を行います」

 とバルタザールは固い顔だ。

「郵便官と宮廷事務官に指示を出しました。招待者の一覧を作成中でございます。予定は組み直されるのでしたかな、宰相殿?」

 とダーフィトは長いひげを触る。

「今日はそのつもりですよ」

「では、官を向かわせましょう」

「ありがとうございます。殿下、私の方で地図を使い表を作らせていただきました。二候三伯から承諾を得る必要があるかと思います。手紙を書かれますか? 印をいただければそれでよろしいかとも思いますが」

 とオイゲンは何がしかの書類を手に問う。

「書こう。お前が後で手を入れてくれ」

 と兄上はうなずき、

「ありがとう、お前たち。そのまま進めてくれ。オイゲン、少し時間をもらえるか? ハルトムート、地図をこちらに。ヴィンに説明をしてやりたいのだ」

 ハルトムートが動いたので、私は影から出なければならなくなった。

 バルタザールとダーフィトが退出し、机上に地図が広げられる。ユースフェルトの国土に各領が線で示されたその小さめの地図は、いくつかの領名の下に色分けした線が引かれていた。

「これは……?」

 ヤネッカー候領にだけ線が引かれていない。その周りを囲む領に赤、さらにその周囲には緑の線が引かれ、ハイスレイとツェラーは青だ。

 首を傾げる。オイゲンがヤネッカー候領を差した。

「ヤネッカー候領を取り囲んでいるのがわかりますか、殿下」

「ああ。……どういうことだ? これで何をすると?」

 問えば、彼はつらつらと、

「赤は協力を要請する重要な場所でございます。緑はその次に重要なところ。青は既に絶対の忠誠を得ている諸侯です」

 と説明する。

「先日の件、第二王子が約定を違えたこと、そして法を犯した可能性があることから、ヤネッカー候に身柄の引き渡しを求めます。向こうは応じぬでしょう。かくまうならば制裁を言い渡すのが一番早い手でございます」

「……なるほど、候領の周囲の諸侯に協力してもらって、こう……圧力をかけるということか?」

「ええ」

 とオイゲンはうなずく。

「具体的には、交易される食糧の制限と、あちらが買い求めているという武器の回収を要請します」

「兵糧攻めというやつか?」

 策戦論に書いてあった。オイゲンを見上げていると、

「そうでございます。不正金が使われている可能性が高い故、諸侯も求めに応じやすいでしょう」

 と彼は微笑んだ。

「殿下は優秀な生徒でございますね」

 私はふふっ、と笑う。

「この程度のことで。甘やかしたがりの〝おじい様〟だな、貴方は」

「ふうん?」

 兄上がくすりとした。おや、この冗談を解されるか?

「それで、この策が、私にどう関係するのでございますか?」

 問うと、兄上は目を細める。……先ほどから笑顔が怖いのだが⁉ 何を企んでいらっしゃるやら。

「なるほど、お前はよい学び手だね」

 と兄上は嬉しそうにして、

「要するに、私は貴族たちに対応したいのだよ」

「はい……?」

 首を傾げる。要点から入られましても。

「例年通り、第三聖曜日に豊穣祝祭を開くことにしたのだ。もちろん諸侯やその家族たちを招くが、そうすると応じぬ者が出てくるだろう。……私が開くことに反対だと言ってな」

 ふむ、ヤネッカー候の一族などか?

「その者らは、私に反対すると自ら表明することになるわけだ。それらに関しては対処を考えればよいとして、問題は、ヤネッカー候に影響力があるのに日和見を決め込んでいたり、あれを掲げているにも関わらず無関係を装って祝祭に紛れ込み、諜者の真似事をしたりする者がいるかもしれぬということなのだよ」

 兄上はすらりと長い指を立てて、

「第一に、ヴィンフリート、お前は以前からこの祝祭で正式に行事の参加を果たすことになっていた。第二に、私はこの集会を利用して、諸侯の説得、また今の王宮に害を為そうとする者どもの発見と確認をしたい。つまり時折主催の席を立ちたいということだ」

 ということは……。

 私は一瞬この場から逃げようかとすら考えた。これは明らかに無茶振りですぞ、兄上⁉

 しかし、兄上の威光に逆らうことはできない。

「ヴィン、お前に貴族たちの挨拶への応対を頼みたいのだ。いきなりですまぬが、オイゲンと宮官を遣わせる故、準備をしてくれぬか。私がいない間に挨拶に来る者に応えるだけで構わん。挨拶が途絶えたら他へ行ってもよい。後のことは宰相に任せよう。どうだ、やってくれぬか?」

 真っ直ぐな緑玉の眼光に射抜かれて、私はうっとつまった。

 初の正式参加の上に、大役! 正直言って断りたい。礼儀を要求される場や高位の人々と会うことに慣れているなどとはとても言えぬ身だ。

 しかし……これは好機だ。兄上のお役に立ちたいとさんざんに言ってきたのは本音。あいさつだけならば私でも役に立てるのだし、玉座の傍に王子が立っていればそれだけで目立つ。兄上の多少の不在をごまかすくらいできよう。

 私はこくりとうなずいた。

「はい……わかりました」

「やってくれるか」

 兄上がにこりとする。

「ありがとう、ヴィン」

 その笑顔の輝かしさに私は押し負けた。


 ……のを、とても後悔している。

 その日から強行軍のような日々が始まった。オイゲンによる招待客の名とそれぞれの特徴を結びつける特訓。宮廷事務官たちによる祝祭の進行やそれにまつわる種々の規則と慣習の確認、徹底。その合間に馬術や自学の時間がある。

 オイゲン主導の勉強は予想通り厳しかった。主要な貴族の顔と名くらいは覚えがあるからよいものの、それに加えて彼らの立場や、他候との関係も叩き込まれる。

 宮官たちは担当の者が入れ替わり立ち替わり来て、日ごとに作法や仕草から食事、踊りのことまで確認しにきた。

 たまの休みというのも鐘後の刻だけだったりする。これほど忙しくしたのは人生で初めてかもしれぬな。

「こんなに急いでつめ込まずともよいではないか……最初の参加でここまで大がかりな準備をした者があろうか?」

 宰相室の机で頬杖をついてぶつぶつ言っていると、オイゲンは笑った。

「第一王子殿下は王太子でありました故、似たようなこともなさったでしょう。これは何より、殿下、貴方が決して恥をかくことのないようにというかの方の兄心ですよ」

 そう言われては黙るしかない。

 それにしても予定がきつい。私は見舞いついでにジークに泣きつきに行った。

「ジーク……兄上が……兄上が鬼なのだが……」

 ジークは苦笑する。包帯は大げさなものではなくなり、もう少しで復帰できると言っていた。

「あの方は己に厳しく他にも厳しいというたちの人ですからね。いえ、他人とは言えませんか。期待をかけられる者には、と言うのが適当でしょう」

「それはありがたいのだがな……!」

 本当に疲れる、と言って小卓に突っ伏していると、そこは兵舎の応接室だったので、居合わせたイグナーツが、

「まあまあ、そんならエッボじーさんのとこへでも行って休憩したらどうです。体を動かせば気分も晴れますよ」

「これだけ体力が削がれておるのに馬に乗って大丈夫だと思うかお前? 今日だけで歩き方から三種の楽に合わせた踊りまでやらされたのだぞ……落ちる気しかせぬわ」

 私は文句を言ったが、ジークに笑ってたしなめられる。

「必要なことでしょう。民の前で立派な姿を見せるのは王子の義務の一つですよ、ヴィン様」

「わかってはいるがなあ」

 と私は嘆息した。宮に帰って以来勉強していなかった報いなのだろうか、これは。

 束の間のいやしと言えるのは二つだけだ。一つは、聖曜日に訪ねる姫たち。ジルケはずいぶん顔色が戻ってきたが、やはり沈んだ表情が多い。当然だろう、実の兄がかようなことをしておるのだ……。アルマは、幼いなりに姉を気づかってか、よく傍にいて、遊びに誘っているようだ。……早く、この子らが心から笑えるようになればよいのに。私は話をして二人を楽しませることはしてやれても、狭い後宮の苦しげな空気を除いてやることはできん。

 もう一つは、ヘマの手紙だ。ヘマとの文通は進展して、私は内緒で残りの手紙の数を数えていた。

 十通目の返信には、胸が温かくなる言葉があった。

『大好きなヴィン、

 お帰りなさい! お前が無事戻ったと聞いてやっとほっとしたわ! こちらの王城は不穏な平穏の内にあるのです。お前は無事かしら、姉様はやらかしていないかしらと一人でやきもきして、どうしようもなかったの。とにかく手紙を再開できて嬉しいわ。やはり、直接でなくとも、お前の声が聞きたいもの。

 ですが、そちらは静穏とは言い難いようですね。ここ白の塔にまでは、そちらの事件の話は届いていません。お前の手紙がなかったらどんなにか気をもんだことでしょう。

 ヴィン、私が世を知らないからといって、気を回して正確なことを伝えるのを避けるのだけはやめるのですよ。その方がずっと心配になるもの。私の方でもちゃんとしたことを伝えるようにするから。

 お前の姫君たちのこともとても心配です。あんなにかわいい子たちなのに。本当、私にも何かできることがあるとよいのですが。

 ヴェントゾもお前のことを、というか、お前の風のことを気にしているわ。お前の風が心底気に入りのようね。そちらの方角をしきりに見て、よい風が薄まったとか、悪い風が荒れているとかいうのです。こんなことになっていなければ、お前を塔に呼んで、この子を落ち着かせてほしいところよ!

 でも、いつか、本当にそうしましょうね。

 それでは、私も返事を楽しみにしているわ。星姫様ってどんな方かしら? 権威あるものを背負っているという共通点はあるようですが、私より大人で立派な方だと思うわよ。

 私も明日姉様に会うから、また連絡しますね。

 たくさんの愛を        

 ヘマ      

 追伸 またヴェントゾが大冒険を始めました。ちょっと落ち着くようにお前も念じてくれないかしら?』

 冒頭から私の心臓が止まりそうになったのは言うまでもない。

 いつでもヘマの手紙には彼女の心があふれていて、一文一語が胸を躍らせる。私はこの喜びにつり合うような返事ができているのかな。

 ヴェントゾは塔におっても巫女の前でもいたずら者のようだ。あまりヘマを困らせぬとよいのだが。どうやらこちらの風に反応しているらしい……なかなか鋭いことを言っておる。

 授けられる教えに忙殺される日々の合間をぬって、返信を届けた。

『ヘマへ、

 待っていると貴方が言ってくれる手紙なのに、遅くなってしまってすまん。兄上の告げた通り、ひどく忙しくさせられているのだ。

 こちらの王宮では、秋の感謝祭にあたる豊穣祝祭の準備が始まっている。私はこの祝祭で、正式に内宮の者として参加を果たすのだが、数少ない王族の代表者として、兄上の手伝いを言いつけられてしまったのだ。おかげで家庭教師をつけられるより勉学をさせられているよ。

 そちらの王城でも秋の実りの祭りはあるのか? ティエビエンはユースフェルトほど農業を重んじておらぬとはいえ、同じ四大神をまつっていると思うが。もしかすると内容が違ったりするのかな。

 ヴェントゾのことだが、私が戻ったことで少しは落ち着くとよいのだがな。風の子の気ままさは私も止められん。もう少し成長するのを待った方がよいかもしれぬぞ。

 宮は祭りの予感にそわそわし出している。私の手紙も変に浮ついていたら、そのせいだと思ってくれ。星姫様はまだ到着なさっていない。少し短いが、近況報告と銘打つことにしよう。

 送れるだけの愛を込めて       

 ヴィン』     

 ところで、オイゲンに特訓を受けていると、至るところでハルトムートの活躍が見られる。オイゲンの書類を整理し、兄上との対話につき合い、他の文官たちと上手く調整をつけ……。

 なるほど彼には才能があるのだ。経験を積み、大貴族とも渡り合える度胸と実力を身につければ、兄上の御代を支える偉大な宰相となり得るだろう。

 そんなわけで彼をより知りたくなったのと、ジークが近衛に復帰するまで話しかける相手が少なくなっていたので、私は何度も彼に声をかけに行った。ささいな質問にも、彼はめんどうそうなふりをしながら、優しい目で丁寧に答えてくれる。私はけっこう彼を気にいるようになっていた。

 ジークが徐々にだが護衛に戻ることになって、けがが悪化せずに済んでよかったなとか話しかけていると、ちょうどハルトムートが通りがかった。

「お二人は名を呼び合うのですね」

 などと言うので、私はにこりとして、

「お前なら、ヴィンと呼ぶのも許してやるぞ。その代わりお前の呼び名もほしいものだがな」

「……私の?」

 彼は目をまたたかせる。

「ああ、確かに、一の殿下にはハルトと呼んでいただいておりますが。そんなものでよろしいのですか?」

 私はにんまりしてもちろんだと受け合った。かくして私はハルトの愛称を手に入れたのである。

 このことをオイゲンと兄上に触れ回ったところ、かわいらしいことだと笑われた。うっかり耳にしたハルトが少々赤面するのを見られたので、私は満足だ。

 それから、カスパーを引き連れて馬術や体術の練習に行く時間は設けてあるのだが、これもエッボめが手を抜かん。その年にしてはあり得ぬほど達者な老人は、長年の豊富な経験からか、いくつもの事件の何一つなかったかのようにひょうひょうと訓練を再開した。

「長く走ることに少し慣れたご様子ですのう。おかしな癖がつくといけませんで、走らせる練習を増やしましょうかの」

 等々といって、私の外で得たものも認めてくれるが、その分課題が難しさを増してゆく。

「兄上の手先め」

「それは光栄ですじゃのう」

 憎まれ口を叩いたが、ほっほっと笑って受け流された。この先生にはどうしても勝てん。馬たちに対する愛情の大きさが段違いゆえだろうな。

 ヘマからの手紙は、第二地曜日に届いた。

『ヴィンへ

 聞いてください、大変なことが起きたのです! 何と、あの姉様が、お酒を断つと言い出したのです! じき赤玉酒が献上されようというこの時に!

 と書いておいて今気がついたのですが、何のことか伝わらないわね。お前への返事にもなるのですが、ティエビエンにも秋の祭りはあります。実りを祝うというよりは、この豊かな季節まで再び生き延びられたことを神々に感謝するもので、森の動物を狩ってきたり、一番いいお酒をふるまったりして騒ぐものです。そちらのものとはずいぶん違いそうですね。

 王城でも開かれて、出されるお酒は血のような宝石のような赤なので、赤玉酒というのですが、皆それをとても楽しみにしているのです。私は今年中に十四になりますが、誕生日が再生祭より後でよかったわ。その前に来ていたら、薄い麦酒ですら試したこともないのに、赤玉酒を勧められ続けたはずですから。まあ、私のような小さいのに無理に進める者は少なそうですが……。というと気にするかしら、お前も同じくらいだもの。でも、お前は気にしないかしらね? 前にそう言っていたし。

 ともかくこれで、こんなお酒が好きな民の次代の女王である姉様がお酒を飲まないなんて、どんな衝撃的な報せか伝わったかしら? この原因なのですが、国王陛下が姉様の頼みを聞き入れてくださらないからなのですって。どんな頼みなのかは教えてくださらないのです。それでいて、陛下のためのお酒など飲みたくないとまでおっしゃったのよ。

 私には、姉様の考えていることはさっぱりわからないわ……。お前も兄殿下に振り回されているみたいね。でも、どう扱われても姉様への気持ちは揺らがないもの。お前がヴェントゾについて書いた通り、時を待つべきのようですね。お前もそうではない?

 不思議な報せばかりでおかしな気分だから、今度はすてきな話が聞けるといいわ。待っていますね。

 愛を込めて       

 ヘマ』     

 ふむ、祭りは祭りでもかなり異なるのだな。戦士の祭りにふさわしいと言えるかもしれん。身長のことはどうでもよいのだが、ヘマは少し気にするな?

 それにしても、ペルペトゥア様がかようなことを……。ヘマの言うように、兄上も含め年の離れた我らの主たちの考えは読めぬな。前にも兄上と内密の約束があるといったような話があったし、お二人は案外、似た考えを持っているのかもしれん。あちらの王城にはこんな混乱はないことを願うが。

 聖曜日、私は兄上に命じられて、姫たちに会いに行った。ことに二人に伝えよと伝言を預かって。

「明日、星姫様が到着なさるそうだ」

 告げた言葉に、姫たちは目を丸くして、

「お兄様、星姫様にお会いしますの?」

「えっ、あのほしひめさま? ユーザルのおひめさまでしょ?」

 私はうなずいたが、

「会うのは私だけではないぞ、お前たちもだ。兄上が正装に近い衣装を用意しなさいとおおせだよ」

 とつけ足すと、二人ははしゃいでしまって妃様方のもとへ駆けていってしまった。やれやれ。

 それぞれの母君にまとわりついてドレスや髪形を話し合う姫たちを愛らしく思いながら、妃様方に要件を伝える。

「星姫様が、姫たちにもお会いになりたいとおっしゃったそうです。私がご案内することになりそうで……。内宮にお通ししますゆえ、姫たちにきちんとした格好をさせて、応接室を準備していただけませぬか?」

 お二人は、星姫様に直にお目にかかれるなんて光栄ね、と微笑んで了解してくださった。

 さて、本物の星姫様はどのような方か……。



 今日は特訓の代わりに星姫様をご案内してくれとの兄上のご命令で、私は近衛たちと馬車を待っていた。

 天気までが歓迎するようにからりと晴れて、ひやりとしてきた空気に高い空が広がっている。王都の門から登ってくる馬車は淡い色合いで、紺のベストの騎士に導かれ、薄茶の地に青の模様を入れたマントと巻いた騎士たちが続いていた。

 馬車は私たちの目の前の石畳に止まり、マントの騎士たちが馬を降りて戸に手をかける。

 その手を取って降りてきた人は、私より少し高いくらいの背にきゃしゃな体つきで、伝統的なユーザルの衣にドレスの仕立てを組み込んだスカートの下に、ほっそりとした白のブーツをのぞかせ、腰まで届く長い金の髪を日にきらめかせていた。頬は子どものものと異なり細いが、肌は健康的に輝き、目を惹く銀の星のような瞳は生気にあふれていた。

 つまり、どう見ても美女というよりは美少女だったのだ。

 私はぽかんとした。この方が星姫様? どう見ても私より少し年上にしか見えぬのだが。

 彼女と、長い黒髪を丸めてくくったそこそこ背の高い人に、茶の短髪にいかめしい顔をしたいかつい男の二人の付き人が、こちらへ進み出てくる。

 私ははっとして、周りの騎士たちが一様に姫に見とれているのを発見した。わざと少しかかとの音を立てて彼らの目を覚まさせ、同時に一行へ出迎えの礼をする。

「ようこそいらっしゃいました、星姫様、ならびにその騎士よ。私が案内を務めさせていただきます、三の王子ヴィンフリートと申します。よくぞ我が一の君の呼びかけに応じてくださいました」

 少し見上げて微笑むと、星姫様は目を細めて笑い、

「お迎えくださってありがとう、殿下。それで、私を呼びつけた貴方の王はどこにいるのかしら?」

 王。一瞬その言葉にどきりとしたが、はきはきした物言いに、この方流の言い回しかもしれぬと思い直す。

「今よりご案内いたします。どうぞこちらへ」

 私はご一行と護衛たちを連れきびすを返した。

 兄上は謁見の間にいるとうかがっている。ぞろぞろと応接間の並ぶ廊下を抜け、開かれた白い大扉から広間へ入る。兄上とオイゲン、それにジークら近衛たちが玉座の陛のすぐ横に立っていた。

「兄上、星姫様をお連れしました」

 近くに寄って声をかけると、兄上は自ら歩み寄って、

「ようこそおいでくださいました、星姫様」

 と右手を胸もとに添え、ほんの少し頭を傾ける。

 騎士たちのまとう空気が緊張するのがわかった。この国において唯一、王と目される人が頭を下げねばならぬ相手。

 ユースフェルト最大のまじない師にして、位に即くべき王を認める、ユーザルの巫女——星姫。

 星姫様は、きらきらと輝く銀の目で兄上を上から下までざっとながめると、その背後の玉座や宰相、広間に並ぶ兵士たちにも目をやって、言った。

「なるほどね、玉座にも座れない王の雛のままでは心もとないことだわ。殿下、杖などはないの?」

「ございます。長旅でお疲れでしょう、まずは部屋で休まれてはいかがか? その間にここに全てを用意させておきましょう」

 と手で広間を示し、兄上は礼儀正しい。

 私はこっそりあごに手をやって考えた。兄上のこの態度、まさに隣国の王女殿下に対するものと同じだが……。

「では、そうしましょうか。けれど、仕事は早く始めたいわ、時間はいくらあっても足りないほどですから。急いで準備をしていただける?」

 ええ、と兄上はうなずき、

「ヴィンフリート、星姫様をお部屋へ」

「はい」

 私は考えるのを中断して、再び一行を率いて謁見の間を出た。廊下を少し戻り、左へ曲がって、広い部屋の戸の取っ手を引く。

「こちらになります。護衛の者たちの部屋は、騎士に案内させましょう」

 滞在の荷解きもあるだろうから、昼までお休みになるか、といったことを提案すると、星姫様は一拍おいて、

「一理あるわね。でしたら、またお昼にお願いするわ、殿下」

 とにこりとした。

 その笑みはどこか年配の女性を思わせ、私はまた心の内で首をひねる。そんな、十六、七とかではなかったと思うのだが……。

 侍従たちを手配などし、昼食の手はずを整えて、鐘が鳴ってからまた部屋の白い戸を叩く。今日はカスパーたち近衛も私と一緒になって動き回っているな。

 昼餉をこちらに運ばせようか尋ねると、星姫様は

「そうしてくださる? そうだわ、殿下はどうなさるの?」

 と言うので、いつものように兄上のところで、と答えた。

「それなら、ご一緒なさらない?」

 え?

 目をまたたく間に、星姫様は侍従たちにぽんぽんと指示を出して、私の分も持って来させてしまった。断るのもどうかと思ったのが敗因か、応接間のソファに星姫様と対面して座ることになっていた。……仕方ない。

「では、ご相伴に預からせていただきます……」

 意味のわからぬ状況ながら、普通に、星姫様はお麗しいし、食事は美味いのであった。

 私のことを気に入ってくださったのだろうか? それとも、これは品定めか?

 星姫様の方をうかがいながらパイを切る手を動かしていると、

「三の殿下は食べ方がお綺麗ね」

「……そうでしょうか? ありがとうございます」

 予想外の言葉に驚いて返す。特訓の成果でも出たかな?

「済ませたら、玉座のところへ参りましょう。早く取りかかってしまいたいものだわ」

 と星姫様は目を伏せた。


 謁見の間へ、騎士たちをぞろ引き連れてゆくと、陛の下に木机と椅子が並べられ、クッションに金杖が、机に何かの袋がいくつか置かれていた。オイゲンが待っていて、星姫様に一礼すると説明を始める。

「こちらに、お話しいたしましたものは全部揃えました。まじないが残っておらぬとも限りませぬ故、お気をつけください。手伝いの者が入り用ですか?」

「いいわ。あ、でも……少し殿下をお借りしていい?」

「私ですか?」

 驚いて口を挟む。そう、と星姫様はうなずき、オイゲンに目をやった。

「貴方が新しい宰相殿ね? 三の殿下をお引き留めしても、あちらの方がお怒りにならないようにできるかしら」

 言い当てられたオイゲンは目を丸くする。

「そうでございますね……できますかと」

 また二つの返事を一つにしておるな、〝おじい様〟は。

「なら、よろしく。さ、殿下、こちらへいらっしゃいな」

 星姫様は微笑み一つでオイゲンを退かせ、私の鐘後の予定を変えさせてしまった。

 これが権威というものだろうか。取り巻く護衛たちと見つめるうちに、彼女は袋の中身を改めていた。軽く首を傾げると、長い金の髪がさらさら揺れる。

「殿下、杖を取ってくださらない?」

 ふむ?

 私は近づいていって、クッションから金杖を取り上げた。手の平に沈むような重み。……細いこの方に、このまま渡してよいのだろうか?

 そっと手渡す。彼女の思ったより骨張った指が軽く杖をつかみ、そのまま軽々としてぶんと振った。

 私はぽかんとして見上げた。私たちの背ではずいぶん頭上で、しゃらら、と鈴のような音が響く。

 騎士たちがどよめいた。王権の象徴が星姫の手の中にあることにだろうか。特に若いのは彼女に見とれている。仕事をしろ、お前たち!

「……軽く、振れるものなのですか?」

 思わず問うと、彼女は笑って、

「私、きっと殿下が思われるより力持ちなのよ。魔術も働いているし、何より、私は殿下よりずっと長く生きているもの」

 え? と聞き返しそうになった口を閉じる。やはり……。

 星姫様は何度か杖を持ち変え、握り直す。そこへ問いかけた。

「あの……女性に、このようなことを聞くのは、失礼にあたるかと思うのですが……」

「あら、何かしら? 私、どんなことについてでも、体重以外のことだったら、知っている限りお答えしてよ」

 と彼女は陛の階段を上りながら、茶目っけたっぷりに目配せしてみせる。

 ……本当によいのだろうか?

「あの……私にはどうしても、貴方様が、兄上より年上・・・・・・だとは見えぬのですが。いったい、本当はおいくつであらせられますか……?」

「え⁉」

 若い騎士たちが騒ぎ出す音がした。うるさい!

 騎士たちをにらみつけると、何人かが気づいて急に姿勢を正す。

 星姫様の付き人は、がたいのよい男は無言で腕を組み、すらりとした方は肩を震わせていた。笑われておるではないか、全く。

「ふふふっ、まあ、礼節を知る方だこと!」

 星姫様は軽やかに笑い、玉座に金杖を立てかけると、ゆっくりと階段を下りてきて、私を見下ろす。

「会う人皆に同じようなことを聞かれるけれど、兄君と同じくらい礼儀正しくされたのはそれ以来だわ。ええ、そうよ、わたしは一の殿下がお生まれになった時は四つだったの」

 ……ということは、二十八?

 若いのがざわついている。私はじっと星姫様を見つめ、

「とてもそうは見えませぬよ。お若くていらっしゃる……ああ、ですが、一昨年には確か、お子が生まれた祝いがございましたな」

 そういえば、と言うと、彼女はにっこりする。

「ええ。夫も王家からのお祝いには感謝していたわ」

 背後で、一目ぼれでもしていたらしい者どもの声のない叫びがする。うむ、振り返らぬことにしよう。

 ともかく、兄上のあの態度は年上の姫に対するもの、という私の見解は正しかったわけだ。

 星姫様は今度は袋の口を開きながら、

「魔力が強いからなのか、生まれつきか、いつまでも美しい母の血筋か知らないけれど、年よりもかなり下に見られるのよね。おかげで、年よりも上に見られがちな夫に結婚をうなずかせるのには苦労したわ。でも今も息子を預かってくれているし、いつも優しくて、苦労したかいはあったわね」

 しゃべり方だけ聞いていれば、年相応に思えぬこともないのだが。というか、傷心の者どもの傷をえぐるのはやめていただきたい。

「あ」

 その手が鎖に赤玉の首飾りを取り出すのを見て、声を上げた。

「星姫様、お気をつけて……」

「大丈夫よ」

 彼女は目を細めると、首飾りの石を目の高さに掲げる。

「まあ……随分といじくったわね。お金に困ったまじない師がやりそうなことだわ、まじない石をこんなに……。ふうん、王都の解析者は優秀なようね。……これが王女殿下に?」

「はい」

 私はうなずき、少しうつむいた。星姫様が呟く。

「同じ石を砕いて術を繋げているのね、小賢しいこと。条件を組み合わせて魔力の制限を成し遂げたのね。こんな法に触れたまじないをかけなければ、うちの研究者にしてやってもよかったのに、可哀そうに……。脅されてならまだ酌量の余地もあるけれど。効果も一回きりにしているみたいだし」

 危険は失われたようで、ほっとする。

 それにしても……この方は、二の王子には反対しているのだろうか。声が少し重い。

「王女殿下は大丈夫なの?」

 それとも、姫たちを心配してくださっているのだろうか。

「ええ。……体の方は、問題ないようです」

 応えると、彼女は私の目をのぞき込んで、

「妹君が大切なのね」

 銀の光が、心までのぞくようだった。ええ、と短くきっぱり返す。

「姫たちは、私の宝ですから」

「そう。……それで、隠してでも、守りたい?」

 目を見開いた。この方は、どこまで見通されているのだ?

「守りたい、とは思います。ですが……」

 彼女が首を傾げる。私は一度口を閉じた。

「……いえ。私だけで答えることではございません」

 後宮のことは、王家全体の問題だ。そう、と彼女はうなずき、

「ところで、これ、ユーズ伯領に持ち帰ってもいいかしら。絶好の研究材料なのだけれど」

「それも、私めの一存では……」

 途方に暮れて言う。

「兄上におっしゃってください」

「それもそうね」

 星姫様は首飾りを袋に戻し、私に向き直った。

「それでは、もう一つのことを聞きましょう。星の丘にまじないがかけられていたそうね?」

「はい」

「それを、殿下が呪いと言われたと伺ったのだけれど」

 ああ、とうなずく。

「実際に丘へ向かったのは私ではなく兄上でございますゆえ、確かなこととは申せませぬが、風の魔術の音を聞いたのです。どんな攻撃的な風でも立てぬような、ひどいうなりがしておりました」

「殿下って、まじない師だったかしら?」

 不思議そうに問われるので、慌てて手を振る。

「いえ! ただ、風の力があるだけでございます。それも刃を創ったりは本領と言えませぬので……ですが、あのような音を出すのでは、当たり前の術だとは思えません」

「ああ、そうなのね? それは、殿下が風を聞き分けられて本当によかったわね。フォレーヌの息子ももっと酷いことになっていたかもしれないわ」

 ? 首を傾げると、彼女は笑って、

「あらごめんなさい、ジークベルト殿のことよ。私は彼のお父様と知り合いなの」

 それで彼は王宮へ行ったのよ、とつけ加える。新情報にへえ、とあいづちを打つと、

「ごめんなさいね、おしゃべりばかりして」

 と星姫様は笑う。

「構いません。知らなかった話を聞けるのは好きですから」

「ならよかったわ。手伝ってくださってありがとう、殿下。兄君に、私はもう少しここで調べていくから、明日星の丘へ馬を出せるか尋ねていただける?」

 かしこまりました、と答えると、星姫様はクッションを引き寄せて座り込み、例の石を調べ始めてしまう。声をかけてゆくべきか悩んでいると、すらりと背の高い、黒髪を結った人がこちらに顔を寄せて、

「王子殿下、星姫様はああなってしまうとすぐには動きませんから……ご用がございましたら、私めに」

 その声が思いの外高く澄んでいて、私は目を見開いた。女性だったのか。マントに隠れて体つきは見えぬし、鍛えてもいるようだからわからなかった。

「そうなのか。では、王妃様が夕食をお誘いになっているゆえ、降の鐘が鳴ったら支度をしていただけるようお伝えしてもらえるか?」

 はい、と彼女はうなずく。私は微笑み礼を言って、カスパーだけ連れて執務室へ向かった。

 兄上は書類仕事の最中だった。星姫様の伝言を伝えると、おかしそうに笑む。

「相変わらず仕事熱心な方だ。お前は気に入られたようだね、ヴィン、かなり引き留められおって。そこのの変な顔といい、何かしたのか?」

「ええ?」

 何か……? 首をひねっていると、カスパーがおずおずと、

「とても丁寧にお年を聞いてらしたでしょう」

「ああ」

 兄上が聞き留めて笑う。

「あの方はまこと変わられぬな。私も初めてお会いした時はヴィンと同じくらいだったが、年上だとは思えなくてな。最初は別人かと疑ったりしたものだよ」

「いや、驚きました。二十歳くらいと言われるなら、まだ納得もしたのですが」

 言うとカスパーが熱心にうなずく。

「お前もそうか?」

「ええ、心底驚きましたね」

 と言うその様は、どうやら純粋な驚きらしい。

「お前は他の若いのとは違って、妙な衝撃は受けなかったようだな? ……まあ、好みが違うか」

 にやりとすると、彼は焦って、

「えっ、な、何故ご存じなのですか? ヴィン様⁉」

 モニカとの仲がすでにうわさになっているのは、まだ教えないでおこう。私はひょいと執務室を出て、少し顔を赤くした彼が追ってくるのににまにましながら、結局宰相室へ向かった。

 星姫様を手伝ったのだから課題を軽くしてくれぬかと迫ったのだが、オイゲンに手抜かりはなかった。時間一杯を使い切るちょうどの量に、また夕刻まで勉強させられてしまった。

 夕食は内宮の賓客用の食堂で、本式ではないが正装をしていった。とはいえ、四人しかおらぬゆえこじんまりとしたものだ。ユーザルの紋様が染められたドレスに白のショールを合わせた星姫様は、エルヴィラ様や兄上と対等に政について会話していて、そこで私はようやく、彼女の実年齢に納得がいったのだった。



 翌日、星姫様は星の丘へ向かわれた。戻ってくる頃に、私は鐘後の訓練を終えて、エッボや近衛たちとしゃべっているところだった。

「あら、こんなところにいらしたの、殿下」

 白馬から降りてきた星姫様は、一つにくくった金の髪を揺らして私に話しかけた。エッボがうやうやしくその手綱を受け取る。

「今から兄君のところへご報告に行くけれど、一緒にいらっしゃる?」

「よろしいのですか? では、ご一緒しましょう」

 誘われるまま従ってゆく。星姫様が、よい馬番ね、とおっしゃるので、エッボは一流だとか彼のことを自慢していると、彼女はころころと笑った。

「殿下、他人ばかりでなくご自分のこともおほめにならないの? 殿下っておいくつだったかしら」

 私は眉をしかめたように思う。

「十三でございます。……そんな年ですから、誰よりも力がないのは私が一番わかっておりますよ」

 次いで、言葉がこぼれるように出てきた。言い過ぎたかと口をつぐむ。そう、とまた星姫様はうなずいて、微笑む。

 どういうことだ? 探られている……?

 執務室にいた兄上は、星姫様を見ると隣の会議室へ通した。私もユーザルの騎士たちと入り込む。

「丘を見てきたわ。色々見つけたものがあるのよ」

 口を開いた星姫様は、腰に細い手を当て、なぜか勧められた椅子を放置して立っている。兄上は主の席に腰掛け、私をその左隣——つまり次席——に座らせた。兄上は私の肩に軽く手をかけながら、

「まことにありがたいことです。教えていただけますか——あれは本当に呪いだったのですか?」

「そのようね」

 星姫様はあっさりとうなずいた。

「あれは確かに呪いよ。魔術というのは、元来心のはたらきによるもの……三の殿下のように風を操る力も魔術だし、まじない師がその言葉に願いを込めて〝まじない〟をかけることもまた、魔術。一の殿下のような常時発動型の能力は厳密には魔術とは呼ばないのだけれど、同じように、呪いも厳密にはまじない、魔術とは区別されるわ。それは魔術を使う者の心が異なるから。敵意なんていう安易なものではない。それだけならどの攻撃型の魔術も持っているわ。呪いは悪意そのもの……恨み、憎しみ、どこまでも相手を追いつめようとする暗い心でもってかけられるもの、それが呪いよ」

 ふう、と彼女は小さく息をつく。

「ここまでの前提はいいでしょう? ごめんなさいね、つい魔術研究者の血が騒ぐものだから」

「いえ……」

 私は首を振ったが、心臓はどくどくいっていた。あれは本物の呪いだったのだ。

「丘にまじない石があるのはご存じ? まじない石は海岸からこの辺りまで点在しているけれど、星の丘には特にごろごろあるものね、利用するのも簡単だったでしょう。昨日例の首飾りを調べたのだけど、どうやらあちらには、大きな石を割って作った姉妹石を複数繋げて、魔力の制限を達成できるまじない師で、呪いをかけるのも厭わないほど世を恨んだやつがいるらしいわ。全く面倒ね!」

 と星姫様は肩にかかる金の髪を払う。

「なるほど……」

 私の肩から外した手をあごにそえ考え出す兄上に、星姫様は大きくわざとらしいため息をついてから、

「でも、朗報が三つあってよ。一つは、三の殿下が風の力をお持ちだったおかげで、フォレーヌの息子が余計な苦しみを得ずに済んだことよ。呪いで受けた傷はすぐ膿むのだから。王宮なら魔護の清めの道具も多いことだし、とにかく早く対処できてよかったわね」

 ちらりと私を見て、彼女は片目をつぶった。驚くと同時に、嫌に早かった胸の音が静まっていくのを感じる。

 では、ジークのことだけは悪くならぬのだ。とにかくほっとした。

「二つ目は、その呪いはかなり雑にかけられていたから、私がさっさと解いておきました。もう封鎖は解除して大丈夫よ。そうそう、雑っていうのも……ねえ殿下、一日はこの辺りではちゃんと星が出ていました?」

「む?」

 兄上が顔を上げる。

「いや、曇り空で星はなかったが……丘の辺りだけ妙に明るかったはずです。そう、呪いが発動した時私の指輪が輝いたのを覚えていますよ」

「ああ、やっぱり!」

 星姫様は安堵とも落胆ともつかぬ声をあげた。

「そのまじない師、制限は制限でも、殿下の星を目当てに制限をかけたようなの! 星はいつだって沈黙しているわ、空の星が呼びかけない日は。そいつの呪いは、丘の上さえ晴れなかったり、殿下が星を身につけずに行ったりしたら、発動しなかったかもしれないくらいだったのよ。実際に見たこともない星を目標にするなんて、信じられない馬鹿か、頭がおかしいかだわ! そいつは多分、殿下のお命は眼中にないのよ。星に囚われているのだわ。そう、それで三つ目よ!」

 彼女はびし、と三本立てた指を突き出す。

「二の王子の方に、彼の指輪になっている以外の星はないわ。そのまじない師が魔力の制限をできるから、星を使ったと思わせてだますことができると思ったのね。でも、下手くそな隠蔽の跡もない首飾りを私に見せた時点で論外よ。あっちは碌な部下も抱えていないわ!」

「!」

 私と兄上は顔を見合わせていた。

「……では……星が使われることはない」

 呆然として呟く。私たちが恐れていた最悪の事態にはなり得ん。あやつは最初から星など持っていなかったのだ。二つの脅しのうち二つが明らかにされた……こちらが強気に出ても何の問題もない!

 いきなり兄上が立ち上がった。

「感謝いたします、星姫様……!」

 震える声に、それでも優美な一礼。星姫様はそれを冷たいほど静かに見下ろして、

「まだ礼を言われることはないわ、殿下。何も解決してはいませんよ。この私を王宮にまで呼び出されて、こんな簡単な仕事だけで帰らすおつもり?」

 しかしその声は温かかった。その銀の瞳もきらめいていた。

 兄上はその目としかと目を合わせて、

「お願いがございます。……私を玉座にお即けください。不完全でもよいのです」

「そんなことでどうにかできるとお思い? それに、私の承認は、そんな曖昧な言葉で得られるものではなくてよ」

 星の瞳が輝く。きらきらと……。

「あれが星を持たぬのなら、追いつめるまでは私の力でできる。この頭と、この手の内にある全ての力を使えるのなら、あちらの駒を盤の隅へすぐにも追いやってみせましょう。そのために、ただ一つ欠けている力が欲しいのです。皆に、私が次の王なのだと示すためのただ一つの光を」

 兄上の声は王の声だった。

 私は息を飲んで二人を見つめていた。星姫と王がそこにいた。その瞬間、私にはわかっていた——星姫様はすでに次の王を定めているのだと。そのためにここへ来てくださったのだ。

 星姫様がすっと目を細めた。

「——よいでしょう。どうあっても完璧なものにはできないけれど、貴方様に金の椅子を差し上げるわ……ただし、その前に、先王の全ての子にお目にかかりたいの」

 ふっと空気がゆるむ。

 かしこまりました、と兄上は微笑むと、目をこちらに向けて、

「ヴィンフリート」

「はいっ」

「明日、星姫様に姫たちがお会いできるよう、手はずを整えてくれるかな。それが星姫様の条件だそうだから」

 この空間に圧倒されていた私は降ってきた仕事に飛び上がって、それから勇んで後宮へ向かった。

 足ははやり胸は躍っていた。今何かが変わったのだ。流れはよい方へ傾き、星々は我らに味方しつつある。

 途中でカスパーを拾い、後宮の白の間へ入っていって明日の予定を告げると、姫たちははしゃいで手がつけられなくなった。

 ……これが原因でお二方の取り決めが破られることだけはないとよいのだが! もう少し落ち着かぬか、特に手まりの姫は!



 内宮のとっておきの応接室に、姫たち二人を座らせておく。ジルケは焦げ茶の生地に銀の刺繍を入れたドレスを、アルマは薄紅の薄い生地を重ねたスカートのドレスを選んできた。二人とも櫛を入れただけの大人しい髪形をしている。

「用意はばっちりだな。星姫様も気に入られよう」

 ほめると姉妹は喜んで手を取り合い、こちらを期待に満ちた目で見つめてくる。私は二人に笑いかけて、星姫様をお通しした。

「ご機嫌よう、王女殿下」

 星姫様が見せた輝くような微笑みに、姫たちはぽかんとして見とれる。それからジルケが遠慮がちに、

「あの……星姫様? お目にかかれて光栄ですわ」

「はじめまして! あなたがほんもののほしひめさま?」

 とアルマも笑顔を見せる。

「ええ、そうよ」

 と星姫様はいつくしみの目をなさる。恐れ知らずの小さい姫は続けて、

「ほんとう? もっとおばさまだとおもってました!」

「まあ、アルマ! 失礼よ!」

 姉姫に叱られている。星姫様は楽しそうに笑って、

「本当よ。こう見えてもお二人の一番上の兄君より年上なのですもの」

「えええ⁉」

 先日見たようなやり取りだな。

 ジルケが私の袖を引く。

「お兄様、ごぞんじでしたの? アルマに教えてくださればよかったのに」

「お若く見える方だとは言ったがなあ」

 答えると彼女は肩を落とした。

 席に着いた星姫様は変わらず楽しげに、

「可愛らしい姫君方だこと! さあ、お話をさせて頂戴。ここの星を起こす前に、聞いておきたいことがあるの」

 その言葉にジルケが目を上げる。

 星を起こす、か。玉座を与えるとはどうやるのだろう?

 星姫様の質問は幅広かった。姫たちの母君の出身から、普段何を勉強しているかまで。私は机の横の一人掛けに少し離れてかけてながめていただけだが、三様の美が机を囲むさまは見ていて飽きん。

 姫たちは素直に答えていった。母君のことについては、

「お母様はウィルマー候しゃくの姫ですわ。おじ様が次の候しゃくになりますから、お母様は王家にとついだそうですの。よく候領のお話をしてくださいますわ、白いお花の林のこととか……ね、アルマ、お前のお母様もそうでしょう?」

「ええ! でも、ははうえさまのおはなしは、まちのことです。ははうえさまのちちうえさまは、ミレネアだんしゃくというのですよっ。まちはゆたかで、みな、おじいさまのことがすきなのですって!」

 勉強のことについては、

「物語を読むのが好きですわ、かぜをひいた時だって楽しめますもの。昔の人のお話も好きです。最近はししゅうをしていますわ、まだ下手ですけれど」

「あねうえさまはじょうずですよ? わたしはつづりとけいさんのおべんきょうをしてます。でも、まりであそぶ方がすき。けいさんは、ははうえさまや三のあにうえさまが、お店ごっこをしてくれるならたのしいのですけど! ねっ、あにうえさま?」

 そうだな、と私はくすくす笑った。

 好きな料理や色の話も——ジルケはきのこのシチューと深緑だし、アルマは柔らかいパンと薄紅色——していたが、関係あるのだろうか、これは。

 星姫様はどの返答にもうなずいて聞いてくださるので、あと少しだけ聞かせてね、と言われた二人は寂しそうにした。

「おいそがしいのがざんねんですわ。もう少しゆっくりしていかれたらよろしいのに」

「そうですっ、ほしひめさまのこともおはなししてくれませんか?」

 せがまれた星姫様は困ったように笑む。

「一の殿下に頼まれたことを済まさなければならないの。あの方が王と名乗るためには大事なことなのよ」

 姫たちは顔を見合わせる。ジルケが姿勢を正し、

「それは……わたしたちにお手伝いできることがありますの? わたしができることなら、何でもいたしますわ」

「……殿下は、もう一人兄君をお持ちだったわね」

 星姫様が呟くように言う。ジルケはドレスの上の手をそっと握った。薄紫の目が真っ直ぐで、ふいに私はどきりとした。

「はい。……同じ人をお母様とお呼びする兄がございます」

「その者と、一の王子殿下とでは、どちらが王の椅子に座るべきだと思われる?」

 私とアルマは示し合わせたようにジルケを見つめていた。彼女は小さな唇を開き、小さいがはっきりした声で言う。

「……アレクシスお兄様です」

「それは、どうして?」

「あの男は、お母様をうらぎりました。きずつけたのですわ。……あの人がお母様にあやまらないかぎり、わたしはもう、あの人をお兄様とはみとめません」

 胸を突かれるようだった。私は知らず、肘置きの上の手を固く握っていた。

 星姫様はやはり、そう、とだけうなずいて、

「お二人の能力は、母君と同じ?」

 姫たちは顔を見合わせ、

「ええ。魔力の感じがわかりますの」

「はい、たぶん……ちちうえさまとちがうから、おんなじねむりの力だって、ははうえさまが」

 とそれぞれ答える。

「なるほどね。……それでは、お二人は、指輪を持つことについてはどうお思い?」

「指輪……ですの?」

「ええ、兄君と同じ」

 私は己の右手を見やった。中指に光る紫の星。姫たちにはまだ早いとばかり思っていたが……。

 ジルケも目を丸くする。

「まあ、その……いただけるなら、それは、ほこりに思いますけれど……決めるのは、国王ではありませんでしたの?」

 確かに、私も父王からもらったものだったが。

 アルマは首を傾げている。

「あにうえさまのゆびわ? きれいですけど、ほしひめさまがくださるの?」

 この子はまだよくわかっておらぬのだ。もらった当時の私もそのようなものであったが。

「そうね、私だけでは決められないわ」

 星姫様はくすりとする。

「でも、考えておいて頂戴な。もしかしたら必要になるかもしれない。今はそういう時ですもの。……では、次は王子殿下にも同じことをしなくてはね」

 私に?

 目を見張る間に、星姫様は姫たちに礼を言い、祝祭にもう一度会おうと約束なさっていた。

 案内役のはずが連れ出される格好になって部屋を出る。姫たちに手を振ると振り返してくれたが、もうおしゃべりに夢中だった。

「戻る間に聞かせてくださいな。殿下の母君はどんな方だった?」

 思うに、これはやはり探られているのだ。何に必要なのかといぶかりつつも答える。

「母上は……先のハイスレイ公の姫でした。先王と、かの方に寄りそう暮らしを愛した人でしたよ。この春に世を去ってしまいましたが」

「そう聞いたわ」

 星姫様は重い話題をさらりと流した。面食らっていると次が降ってくる。

「では、一の殿下が王になることに賛成?」

「はい」

 強くうなずく。これだけは確かだ。

「二の王子よりも?」

「無論のこと」

「では、殿下ご自身は?」

 問われて身を固くした。もう明らかだろうと放置していたことをこうもはっきり聞かれるとは。

「あり得ません」

「何故?」

「なぜ……」

 そう言われるとすぐには言葉が出て来ない。己の内では当たり前すぎて、きちんと言葉にしたことはなかったのかもしれぬ、と気づいた。

「それは……一の兄上と比べれば、私など王には全くふさわしくない、と思うゆえでございます」

「比べる相手がいなかったとしたら?」

「そうならぬように、これまでしてきたのです!」

 ぱっと彼女を見上げる。思わず荒げた声にもかの方は少しもひるまずに、

「どんなことを?」

 私は一拍口を閉じた。一度声を落ち着けて口を開く。

「……私は、兄上を位にお即けするために宰相を追い払いさえしました。先王陛下は罪を犯された。二の王子は会議に基づく結果もかえりみず、妹姫まで危険にさらした。私含め成人もしておらぬ子どもが王になるのはもっての外です。こうした誰もが、ユースフェルトをよい方向へ導いてゆけるとは思いません」

 星姫様は静かに耳を傾けている。不思議な心地がした。私の意見が、ここでは何より大事なのかと思うような。

「王になるべきなのは、一の兄上をおいて他におらぬのです」

 彼女は軽くうなずいて、

「そう」

 ……ここまできてご返答は変わらぬか! 私は力が抜けてしまった。はあ、と一つ息を吐いて、

「こうしたことに意味がございますか? 貴方様はとっくに、私たちの王が誰かをご存じでしょう」

 これには、星姫様は微笑むのみだった。

「明日は案内はなくていいわ。一日中玉座の間をお借りするから。夜になったらいつでも来れるように、服装を整えていらしてね」

 と謎の言葉を残して、夕暮れの廊下を去ってゆく。



 兄上が星姫様に従うようおっしゃったので、今日は謁見の間は立ち入り禁止だ。

 鐘前の刻は自由になった。ヘマへの手紙を書いておくことにする。鐘後は上手く逃げねばオイゲンに捕まるだろうことがわかりきっておるのでな。そして私は逃げきれたことがない。

『親愛なるヘマ、

 とうとう星姫様が到着なさったぞ。案内係をしていたもので、やっと書く暇を見つけた。様々な点で予想と異なるお方だったよ。

 まず、星姫様は兄上より四つ年上の方なのだが、とてもそうは見えぬほどお若いのだ。二十歳より下と言われても信じるくらいなのだよ。長い金の髪に銀の瞳をしてらして、背は低めで華奢で、大勢の騎士どもが一目ぼれしていた。あのお美しさなら仕方ないが、夫君もご子息もおられる方ではすぐに失恋で、かわいそうだったぞ。

 私が貴方に恋に落ちたように、彼らも一人だけの美を見つけられるとよいのだがね。

 星姫様は魔術の研究者でもあって、とても仕事熱心だ。護衛たちは大変そうにしている。私も初めは戸惑った。』

 というか、今も戸惑っている。

 私はペンを止めて、次に何を書こうか考えた。どうしようもない王位のことなど書いてもな……。

 もう一つ、頭にあることがあった。星姫様という、兄上とはまた違う意味で畏敬されるお方を見て、忙しい日々に忘れていたやっかいなものを思い出したのだ。

 あと数日で、私は今度こそ公の会場へ出ることになる。公の顔、それが問題なのだ。前の夜会では何も見出せなかった。そのままここに至ってしまっている。次は大役だというのに!

 美しい笑み、他者を圧倒するような? ……私にはできそうにない。

 ヘマはすでに公の顔を持っていた。彼女にも聞いてみようか?

『話し方は気安くて、芯を持った方だという感じがする。魔術についてはつい語ってしまうそうだが。けれど、仕草やまとう雰囲気には触れ難いような何かがあって、皆頭を下げずにはおれん。身分ではない位の高さは、巫女姫に共通のもののようだな。

 私も祝祭では公の顔を見せねばならぬが、これがどうも難しい。あんなふうに親しみやすいのに、敬意を抱くのが当然と思えるさまは、どうしたらできようか。微笑みというのも違う気がしてな。これが最近の悩みなのだ。よければ、ヘマ、貴方はいつもどうしているか教えてくれぬか?』

 のんびり昼食を取っていたところオイゲンに捕まった。うむ、逃亡は無理だな。あきらめよう。


 夕食を終え、常ならば自室へ戻るところを、略式だが正装をして待てと言われる。

 王家の居間に兄上とエルヴィラ様と残って、白の上着の袖を引っ張っていた。辺りは静かで何の変わりもないのに、そわそわと落ち着かん。

 やがて軽い足音と、それに続く二人分の重い足音がして、私は戸口の方へと顔を向けた。開かれた戸口に現れたのは星姫様だった。

「殿下方お二人だけ。わたしについていらして」

 兄上が立ち上がり、目で私を促す。私は兄上を見上げて問うた。

「エルヴィラ様は……」

 振り向いた先で、彼女はゆっくりと首を横に振る。

「いいえ。わたくしの星は、もはやお前たちの役には立ちません」

 その細い指にはめられた、細い金の輪に留められた紫の石は、これまでと変わらぬ姿をしていた。

 どういうことだ?

「そうですね」

 星姫様がうなずく。上半分だけ結った金の髪がさらりと肩にこぼれ落ちた。

「王妃陛下の星は、先王陛下の星に連なるもの。先王陛下の星がその手になくなってしまった今、王妃に与えられた星も印以外の役目を果たすことはできませんから。……さあ、お二人ともついていらして」

 星姫様がくるりと背を向ける。エルヴィラ様はにこりとして、私たちに片手を振った。兄上の手が私の背を押し、足を進めさせたので、私はうながされるまま歩き出した。

 灯火と番兵が星姫様と兄上にあいさつするように軽く首を下げ、足音だけが早く響く。兄上が私に耳打ちした。

「王妃の星は、王の星が生きているうちしか本来の力を出さぬのだ。二つの星は一つの星から砕かれた故に。……これは王太子にしか教えられぬことだ。全てを明かすことはできそうにないが、今宵はお前に、太子の代わりの役を任せねばならぬかもしれん……」

 兄上が身を離すと、私は心の中でこの言葉をくり返した。先王の星は今では生きず、王妃の星はそれに伴って力を失い、第二王子の星は遠くへ持ち去られている。つまり……使える王家の星は私と兄上の二つしかないということではないか!

 急に不安になって眉根を寄せた。最も輝く星がなく、それに次ぐ輝きも二つしかない空など。

 広間に着くと、ろうそくが数個灯され、オイゲンが金杖を捧げ持って立っていた。

「オイゲン。今夜はまだここに残っておったのか」

 声をかけると、彼は例のいたずらっぽい笑みをして、

「一の殿下のお頼みと、星姫様のお手伝いとあって。いや、なかなか今代の星姫様のお相手は骨が折れますな」

 と私に目くばせし、杖を星姫様に手渡して一礼した。

「ありがとう、宰相。兵たちを戸と窓の外に固め、誰も通さぬようにしてくれ。頼んだぞ」

 兄上がひらりと手を振ると、白い衣に火の光が当たって淡くきらめいた。

「かしこまりました」

 オイゲンは不思議に深い色をその暗青の目にたたえて私たちを見つめ、護衛たちと共に退く。広間には、私と、兄上、星姫様、その護衛の騎士二人だけが残された。

 星姫様は軽やかに玉座の前まで歩き、天井を見上げる。私は胸を高鳴らせ、黙って待っていた。何が始まるかわからぬのに、輝かしい予感がしていた。

「……ここに、星があり、星姫がそれを起こそうとしている」

 星姫様が口を開く。

「感慨深いわ、第一王子殿下。いつかは私の代に、それが来ると思っていた。けれど、こんなに早いとは思ってもみなかったわ」

 彼女はくるりと振り返り、杖で床を叩く。シャーン、と金杖の音が響いた。

「それでは、始めましょう。これから貴方様に玉座をお渡しします。王となる者は、そこへ」

 シャララ……と音と共に杖が下げられ、王の玉座の正面が示される。兄上はそこへ歩いていって立った。

「王に仕える者は、そこへ」

 星姫様が私を見て、王の玉座から斜め右の辺りを差す。私はそこへ立って、お二方を見つめた。

「本当は、もう一人王を支える者がそこに必要なのだけれど……」

 兄上を挟んで私の反対の位置を星姫様は差し、ため息をつく。

「先王妃の星が使えず、他の先王の子も使える星を持たないし、先王の兄弟にも先立たれていては……仕方がないわね。殿下、貴方様がこの混乱を治められて、もう一つ星を与えられるようになってからしか、この椅子は完全に貴方様のものになりません。それでよろしいのね?」

「ええ。不完全でも必要なのです。……貴方にはお手数をかけることになりましょうが」

 兄上は真っ直ぐ星姫様を見て、静かに言う。彼女はきっぱり首を振った。

「そんなことはいいのよ」

 言うときびすを返し、階段をとん、とんと上る。そして金杖を右手に掲げた。

「古き魔法に守られし戸よ、我が声に応えその身を開け」

 とたんに空気が変わった。私の目は二人のどちらでもなく、普段二つの玉座の奥の壁に引かれた厚いカーテンの方へ向いていた。

 今、そのカーテンは開かれていて、細い金縁の四角い戸があらわになっていた。その端がぴし、と音を立てる。

 これがまじないか。星姫様の魔力の込められた命が魔術をかける。古めかしい呼びかけが、その言葉により力を込めているようだった。

「ヴィン、よく見ておきなさい」

 兄上が静かな声のままで告げる。

「これが、王家がこの王宮に隠してきた、最大の秘密の一つだ」

 ぱん、と弾けるようにして戸は開いた。

 その四角い空間に、不揃いな面を持つ大きな石の塊があった。金の小さな皿の上にその一角が置かれて立っていた。それは紫の宝玉だった。

 ——星だ。信じられぬほど大きい! 指輪の星の数十倍はあろうか。なぜこんなところに……!

「星よ、目覚めなさい。星の民の巫女、星姫エーディトが命じる。目覚めなさい!」

 鋭い命に応じて、巨大な星はぱっと内側から白い光を放った。その光が外へ放たれ、二本の線になって私と兄上の方へ向かう。

「!」

 右手にまばゆい光が宿り、思わず手を上げると、私の小さな星と、兄上の右手の星と、巨大な星とが光線で結ばれいびつな三角形を描いているのがわかった。

 ふと郵便官が見せてくれた手紙の転送魔法を思い出した。あれは灰色のまじない石だったが、星も同じように魔法を作るのだ! この結ばれた空間は一体何をするのだ?

 光の三角形は、ぎりぎり玉座を半分ほどその線の中へ入れている。私はまたふいに、不完全という意味を解した。

 星姫様が金杖を振り上げ、さらに命じる。

「星よ、王の椅子を守る者よ、その輝きに新たに一つの名を加えよ。先の王アンドレアス四世の第一子アレクシス・ユースフェルトが、これに座る権利を得た。この星を覚えなさい、お前の守るべき子の名を!」

 巨大な星と兄上の星をつなぐ光が太さを、輝きを増す。

 私は震えそうな足をふんばって立った。まじない師のように全てを操れる力こそないが、私も魔術使のはしくれといえるゆえにさとっていた。広間にものすごい魔力が満ちているのだ。

「……っ」

 兄上が息を飲む。光がさらに強くなる。

 唐突に、それは終わった。私の星につながっていた二本の光線はすっと消え、太い光は二つに別れると、巨大な星と兄上の星へそれぞれ吸い込まれて薄れていった。

「——っは……」

 誰かがつめていた息を吐いた。

 ——謁見の間に、もとの様子が戻ってきていた。白い光は失せ、炎の赤が広間を照らしている。

 ちかちかする目を扉の方へ向けると、

「星よ、また星の民が呼びかけるまでお眠りなさい。扉よ、古い魔法に従ってもう一度閉じよ」

 ばたん! と戸は閉まるところだった。

 私は呆けて、その壁に取りつけられた小さな戸を見つめていた。薄く、ユースフェルトの——ユーザルの——六角星が刻まれているのに気づく。

 私はいつか大切な者たちに語った、いくつかのことを思い出していた。王の椅子には、他の者が座ることは許されない。王宮に封印されたと伝わる、隠しきれなかった星。

 本当のことだったのだ。

 星姫様は階段を下りてくると、金杖を兄上に差し出して微笑んだ。

「これでもう大丈夫。試してごらんなさい」

「ありがとうございます」

 兄上も微笑み返すと、杖を受け取って階段を上がる。さっと上着がひるがえって、兄上は金の玉座に腰を下ろした。

「……ふむ」

 緑玉の瞳が私たちを見下ろし、おかしそうにする。

「どう、殿下?」

 星姫様が問いかける。兄上はくすりとして、

「思っていたより座り心地がよいものだな、と」

「当然よ。それはもう貴方様のための椅子なのですもの」

 と星姫様は嬉しそうに笑った。

 私は驚きと満足感とで口がきけないでいた。兄上が正装をして玉座に腰を下ろし、星姫様と笑い合っている……同じ光景を戴冠の後にまた見れるだろう。それを今は私だけが先取りしているのだ。

 兄上は私に目を移すと、常よりも明るい声で、

「驚いただろうね、ヴィンフリート」

 と呼ぶ。

「ええ、本当に! こんなところに星があったのでございますね」

 言うと、星姫様が語り出した。

「これはアンドレアス二世王陛下が、時のユーザルの長に依頼したものなの。これは彼が持っていた中では一番大きな星で、王宮からこそこそと運び出す方が難しいから、まじないでこれを使える者を制限して王宮の守りにしようとしたんですって。結局、人の魔力に直接関わらせるより、王の象徴である玉座を守らせる方がいいって、ユーザルの長と同系の魔力を持つ者だけが、まじないをかけ直して玉座に新たな王を即けられるようにしてね」

 実に楽しそうだ。研究者というものは皆こうなのかな。

「そうだったのですね……私は、星姫様は、アストリッド姫がアルトゥールに冠を授けた伝統から、戴冠を司るお方なのだと思っておったのですが」

 素直に告げると、星姫様はころころと笑って、

「伝統と同じくらい実際的な理由で、ユースフェルトの王には星の民の子が必要なのよ」

 なるほど、まことに星姫様は次の王を認めるお方なのだ。

 兄上は、これは王太子にのみ知らされることと言った。もしや、二の王子は私と同様、全てのことは知らぬのではあるまいか?

「……もし、星姫様に認められぬまま、星のつながりを得ずに玉座にかけたら、どうなっていたのです?」

 好奇心にかられて聞いてしまった。兄上がはは、と笑う。

「王宮の星に拒まれただろうよ。痛みか、力を失うか、魔力の制限を侵したらそうなるというがな」

「ははあ……」

 触れようとも思わなかったかつての私は賢かったわけだ。

 兄上は玉座の陛を下りてくると、星姫様に再度礼を言った。

「ありがとうございました、星姫様。これで計画が補強されます。どうぞごゆるりとお休みください。今日はずっと魔力の調整をしていらしたのでしょう」

「これくらいいいのよ、私がやりたくてやっていることだもの。今ではユーザルの血を濃く引く者の中でも、わたしほど力が強くて魔術に詳しい者なんて、他にほとんどいないのだし」

 星姫様は苦笑する。

「ですがお疲れになったでしょう、幾ら貴方が我が国随一のまじない師だとしても。私は貴方に祝祭に出ていただきたいのですよ。貴方にお目にかからせたい者が幾人かいるのです」

 と兄上がつけ足す。私は横から口をはさんだ。

「それに、我らのかわいい姫たちのことをどうかお忘れなく」

 彼女は銀の目を見開いて、それからふわりと細めた。

「そうだったわね。明日は休業にしようかしら」

 と笑ってくださり、騎士たちを連れて退出してゆく。

 兄上はオイゲンを呼び、騎士たちを散らせ、金杖を片づけさせてカーテンを閉めてしまい、広間をすっかり何事もなかったかのようにした。

「こんな時間までいてくれてありがとう、ヴィン。遅くなってしまったから、明日は寝ているといいよ」

 私は微笑んで答えた。

「貴方様のお役に立てるなら、何ということもございませぬよ。お休みなさい、兄上」

 そうは言ったが、すばらしい瞬間に立ち会えた興奮に目はさえて、すぐには眠れそうになかった。

 そろそろ寒くなってきた夜に、仕え人たちが入れておいてくれたらしい暖炉の火から灯りを取って、書きかけの手紙を引っ張り出した。

『兄上は此度、星姫様に二の王子が使ったという魔術の調査を依頼した。前に貴方に話したことがあったが、例の危険は向こうにはないかもしれぬとわかったぞ。それに、この宮に隠された秘密についても目にしたよ。手紙に書くべきではないと思うゆえ、直接伝えたい。早く貴方に会えるようになってほしいものだ。

 次の手紙では祝祭のことを書こう。楽しみにしていてくれ。貴方からも再生祭のことが聞けると嬉しい。

 愛を込めて       

 ヴィン』    

 勢いのままに秘密をほのめかして記す。

 前に会った時にした話を覚えてくれていれば、ヘマには伝わるはずだ。きっときらきらした目をして聞いてくれるだろう。

 早く会って声を交わしたい。そのために……私もできることをせねば。



 星姫様はお休みになるそうなので、私は宮官たちに祝祭当日の動きなどの確認を詰め込まれていた。

 朝手紙を出しに行ったが、どうもそれ以来休みがないぞ。困ったことだ。目まぐるしくて、ヘマへの手紙に書けそうなことの一つも覚えておれん。

 ようやく明日祝祭という時になって、追い込みから解放された。一息入れに、カスパーを連れ王宮の中を見回る。そこここで飾りつけが始まり、人々の顔も明るくなっていた。祭りの前の弾み立つような空気。嫌いではない。

 今度こそは兄上も〝王の紋章〟を用意したようだ。エルヴィラ様の説得が効を奏したかな。

 黄色の地に銀で星の模様、金と橙で太陽が描かれている。縁取りは円だ。余計な飾りのない輝かしさ。兄上らしいともいえよう。祝いにはぴったりだな。私はかなり気に入った。

 エルヴィラ様もそのようで、今回も張り切っておられる。最も力がこもっているのはやはり謁見の広間で、食事を並べる長机や、小さな舞台も設けられていた。玉座の前へ入り口扉から赤い絨毯が敷かれる。

 兄上は玉座にかけられるだろうか。

 夕飯の時に聞いてみると、

「様子を見ようと思っている。まずは向こうを油断させておかねばな。そのために、ヴィン、お前に大役を任せたのだから」

 と言われた。

 ついでに紋章のことも問うてみる。やはり兄上の図案だそうだ。

揶揄からかうなよ。描くのは好きだが、絵心がないのはよくわかっているからね」

「私よりはずっとましでしょう。私は好きですよ」

「そうかな。お前、一度書いてみぬか?」

「お断りいたします」

 絶対、無理。私は見る専門なのだ。

 言い合う私たちをエルヴィラ様は笑って、

「ヴィンフリート、飾りつけに興味があって? 明日暇を持て余しているなら、広間を見にいらっしゃいな」

「! 参ります!」

 それで私は喜んで見にゆくことを約束した。兄上が笑って釘をさす。

「楽しみだからといって遅くまで起きてはならぬぞ、ヴィン。朝も早いのだからな」

 はい、とうなずいた。

 とうとう明日だ。とうとう……。どんな顔をして迎えればよいのだろう。

 風呂から上がってぼうっとしていると、モニカがにこにこと微笑みながら戸口から戻ってきた。カスパーに会えでもしたのか、と考えていると、彼女は一通の封筒を差し出した。

「お手紙が来てますわよ、ヴィン様」

 うふ、と楽しそうに笑って彼女は退出してゆく。戸の閉まる音を聞きながら差し出し人に目を走らせた。

 思った通り、ヘマだ。彼女の手紙はいつもよいところへやってくるな。まじないでもかかっているかのようだ。

『親愛なるヴィン、

 手紙をありがとう。こちらでも一週間後には再生祭だから、この手紙にも慌ただしさが響いていないとよいのですが。

 最新の状況が聞けて嬉しいわ。星姫様って、おもしろい方なのですね。いったいどんなお顔をしてらっしゃるのかしら、想像するのは難しいわ。とてもお若くて、それでいて威厳があって、学者でもあるのでしょう? きっと神々しいくらいにお美しいのね。

 気になったので、塔で文献を調べてみました。星姫様というのはもとはアストリッド姫の称号で、娘に受け継がれたそうですね? 今でもユーザルの女性の長はそう呼ぶと書いてありましたが、合っているかしら。

 私もいつかお会いしてみたいわ。お姿を見るだけでも。そちらで式典でもあって、私も参加できたら叶うかもしれないわ。

 それで、お前は公の顔に悩んでいるのですって? ヴィン、こんなことを言ってはあんまりだと思うかもしれないけれど、お前はそんなこと考えない方がいいと思うわ。お前の一番魅力的な顔は、あの親しい臣下たちに向ける、自信ありげな笑みだと思うのです。お前の目はいつも真っ直ぐで、人の話を聞いてきらきらしているわ。あれがとてもすてきです。お前は気づいてないのでしょうけど!

 いつものように、その目で色々なものを見るのだと思ってしまえばいいわ。そうしたら、お前ならどんな式典でも輝いて見えるはずです。少なくとも私にはね。

 私だって、仕事の時は少々取りつくろって、できる限り上品にはしています。でも、知りたいことを知りにゆくいつもの態度は変えてはいないわ。どんな人だってそうよ。姉様も、家族と臣下の前とでは装うところが違ったりするけれど、それだけです。態度まで変わってはいないの。

 それよりも、一年に一度のお祭りを思いっきり楽しんできて。お前が公の場だからと考えて楽しめないより、その方がずっといいわ!

 私も再生祭が終わったら手紙にしますね。お前も約束を守ってね!

 うっかりお酒のたるに入ったアグア水のを助けているヘマより

 追伸.自然体が一番だと思うのだけど、私と話してる時の笑顔だけは、私のものにしておいてね。』

 ……もう、本当に好きだな、と思う。

 寝台に寝転んで、何度も読み返した。こんなに嬉しくなる言葉はない。……そのままの私を、こんなに好きだと言ってくれる人がいるとは、思ったこともなかった。

「笑顔だけ、などと……私はとっくに、全て貴方のものだよ、ヘマ」

 よし、覚悟を決めよう。私らしくもない偽の笑顔など必要ない。ヘマの言うように、どうしてか無駄に自信ありげな笑みを見せびらかしてしまえばよい。

 重要なのは豊穣祝祭が成功して、私が楽しんだことをヘマに書き送れるかどうかだ。

 私が大人しいだなんて評判は、作れるとも思わぬしな。



 幸せな気分で眠りについたので、目覚めも快かった。今日は簡易な朝食を先に取ってから、正装に着替える。

 日の光の中で見ても美しい青。今日はこやつも活躍の日だな。

 第一の務めは、正門前の石畳での短い式に参加することだ。ヘンドリックを筆頭に、ジークら近衛が金のボタンの赤のベストに白のマントを羽織ってずらりと二列に並ぶ。今日は私の騎士もその中だ。その列の真ん中に兄上が金杖を持って立ち、オイゲンが傍らに控える。星姫様とその護衛二人も。

 私はエルヴィラ様と並んで戸口近くから儀式をながめていた。

 豊穣祝祭はもともと、四大神に恵みを感謝するための行事だ。ゆえに王都の神殿の長が登宮し、国王の前にひざまずいて、彼が行うこの祭りが神々のためにあるものと宣誓することを、王領の祝祭の始まりとする。

 というのが建前で、実際には日が昇る頃から祭りは始まったも同然で、露店が立ち並び、楽が奏でられるのだそうだ。確かに開かれた正門の向こう、坂の道の下に広がる街からは、すでににぎやかな音がしている。人々の笑いさざめく声、馬車の音、店主の呼び込み、そうしたものが混ざった音。よい音だ。

 門の向こうに停まっていた馬車の一団から、足首までおおう飾りのない白い衣を着た人々が兄上のもとへやってくる。先頭に立つ髪とひげまで白い背の高い老人がきっと神官長で、後は護衛役の神官たちだ。若い男から中年の婦人までばらばらだが、皆清らかな空気をまとっている。神々に仕え質素な生活を是とする者たちゆえだろうな。

 神官長は兄上の眼前のクッションに両ひざをつき、両手を軽くそえて頭を下げる。最も深い敬意を表す姿勢だ。神々の外は国王にしかなされぬ礼。

 彼も認めてくれているのだ。兄上が王となるべきお方だということを。

 星姫様がいらっしゃるのもその礼を深くする一因だろう。ありがたいことだ。他の神官たちも、立ったままではあるが腰から頭を下げて礼を示す。

 兄上が金杖を振り、声を響かせるまじないを発動させる。私はこっそり風を抑えた。

「神官長よ、我らの祝祭が神々の御許へ届くよう祈ってくれるか」

 兄上が問うのが風の向こうにぼんやりと聞こえる。もちろんのことです、と神官長は答えて、古い言葉を唱えた。

 何とか理解はできるが、ほとんど意味は定型句と化して薄れている。だが力のある言葉だ。ユースフェルトが秋の実りの祭りを豊穣祝祭と呼び始めた頃から、ずっと守り伝えられてきたのではないかと思わせる。

『空の女神よ、地の大神、水の豊神よ、光の緑神よ、我らの祈り、この心が、祭りを通して届きますよう』——そういったところだ。

 神官長の声が響き渡る。街まで届くかもしれぬな。今朝は晴れて、青い空にふさわしい清々しい始まりの言葉だ。

 兄上が神官長に礼を述べ、供え物を託したいと言って彼を連れて王宮へ入る。これが終わりの合図だ。神官たちが門へ下がり、私たちも兄上に続いて玄関広間へ入る。近衛たちが持ち場へ着くために去る。

 供え物というのもただの合図で、本当は王家の寄進がすでに都の神殿に供えられているらしい。大地の神には器を、河の神には実りを、光の神には花を、女神には歌を……どれも一級品のはずだ。

「神官長、弟を紹介しておこう。ヴィン、こちらへ来なさい」

 兄上に呼ばれる。引き合わされた神官長は、老いてやせていても背が高く、足取りが力強くて、しわのある顔の中で黒い目が優しく光っていた。

「三の王子だ」

 と兄上が私の肩に手を置く。

「お初にお目にかかる。ヴィンフリート・ユースフェルトだ」

 名乗ると、彼は微笑んで、

「お目にかかれて光栄です。王都の神殿にて神官長を務めさせていただいております、ロホスと申します」

 神官には家名がない。神に仕え、神殿を家とするからだ。そのために国の仕組みには組み込まれず、独自の組織を作っている。行く当てのない孤児も、過去を捨て更生した犯罪者も皆等しく、神の家では受け入れられるのだ。神官長を国王が任命することはなく、神官たちの内部から選ばれる。王と対立することもできるが、王のために儀式を執り行うほど近しい。おじい様オイゲンの受け売りだが、不思議な存在だ。もう少し大人になったらわかるのかな。

 よろしく、とあいさつすると、彼は思いやり深くも、

「ぜひ今度神殿へおいでください」

 と言ってくれる。神殿は馬車から何度か見たことがあるだけだ。

「兄上のお許しが出たら、ぜひ」

 行ってみたい。答えると神官長は破顔して、お待ちしております、と去っていった。血も力も意味をなさぬ神官の世界で長に選ばれた人だからか、鋭く賢そうな目をしていた。

 神官長が帰ると、街では神殿にあつらえた舞台で歌が競われるという。優れた者は、女神像に花冠を捧げる栄誉に預かるのだ。私もやってみたいが、声は張れても音が取れぬのでは舞台にすら上がれぬな。聞く専門も、まあ、楽しかろう。

 神官の馬車が去ると、入れ替わるように豪奢な造りの馬車が何台も登ってくる。乗っているのは、王宮の祝祭の目玉、夜会に招待された貴族たちだ。空の女神に捧げる歌と楽に合わせ、踊りの場が設けられるから、若い貴族の子らも大勢訪れる。謁見の広間に通じる廊下に並ぶ廊下の中身がほとんど埋まる。あの客室の並びはこのためにあるといっても過言ではない。

 侍従たちが忙しく立ち働く。これをながめているだけでも楽しいのだが、はっきり言ってじゃまになるだけだ、うむ、悲しいことに。大人しく広間より奥へ引っ込むが得策というもの。

 昨日の約束通り、エルヴィラ様のもとへ向かうことにする。カスパーはまた私に連れ回されているな。

 広間の壁に沿って長い机が置かれ、並んだ大窓のカーテンは開かれ、王の紋章で飾られている。中央は踊りのための空間だ。その横に半円形の小さな舞台が造られている。その周りを椅子の列が囲む。

「歌姫のための舞台と、楽団のための椅子よ」

 とエルヴィラ様が説明をくださった。

 王都一の楽団とその歌姫が、王家から空の女神への捧げ物の大役を命じられるのだそうだ。この舞台を狙って楽団同士や内での競争があるとかないとか。

「白いクロスは、もてなしに対する自信の表れ。祝祭では花よりも、実をつける植物を飾るといいわね。大窓は後で開け放ってしまうの。酔って庭へ出たがる人が多く出るのよ。困ったことね……正しい楽しみ方ではあるけれど」

 エルヴィラ様は夢見るようにうっとりと、夜会への想い入れを語った。

「兄上の芸術に対する感性は、エルヴィラ様のお血筋でしょうな」

 私にはとても好ましい。見上げる私を、エルヴィラ様は上品に笑った。

「モウェルの感性を、ユースフェルトの美に、かしら? そんなふうに言ってもらえるなんてわたくしは幸せ者ね。……祝祭には特別なものがあってよ。あの方がわたくしに任せてくださった最も輝かしい仕事だったもの」

 侍従たちが忙しなく準備に励むのをながめ、彼女は呟く。

「わたくしの仕事が、すぐ目の前で実を結ぶのよ。陛下の玉座の隣に、王妃として、王配の椅子に腰掛けたわ。けれど、それももう終わりね……玉座はあの子のためのものに、王配の椅子はその妃のためのものになったのだから。星姫様には本当に感謝を申し上げなければね」

 その言葉につられて玉座の方を見やる。今はその背後に重たいカーテンがかけられて、あの小扉は見えない。

「エルヴィラ様。王の玉座と同様、隣の椅子もまじないに守られているのですか?」

 問うと、エルヴィラ様はふわりとうなずいて、

「そうよ。王妃もまた、ユースフェルトの秘密を知る者ね」

 目尻にしわの寄り始めてなお美しいその顔に、緑玉の瞳が思慮深く輝いて、私を見下ろす。

「あの子を助けてやって、ヴィンフリート」

「……はい」

 私はゆっくりとうなずいた。私も玉座の秘密を知ったのだ。

 簡単な昼餉を済ませ、自室で今一度身支度を整えると——エーミールがほめてくれた——騎士を従えて後宮へ向かった。姫たちの支度ができるのを待つ。日がだんだんと暮れてゆき、早くも灯火が灯され始めた。

 さあ、開戦だ。

 ——といっても、貴族の口だけで駒を取り合う戦に、策戦論は何の役にも立たぬのだが。

 今宵の姫たちもまことに愛らしい。ジルケは髪を一つに結い上げ、紺のドレスに身を包んでいる。銀鎖の首飾りと耳飾りにはそろいの紫の宝石がついており、あの銀のショールを腕にかけている。全体として深い色合いの中で、淡い紫の瞳に目がいく。

「よい色の合わせだ。お前が己で選んだのかな、ジルケ?」

 廊下を、後宮の一行を先導して歩きながら聞く。

「ええ。……やっぱり、わたしにはこちらの方が合いますわ」

 ジルケは言って、胸もとに揺れる紫玉にそっと触れた。

 後悔と呼ぶべきか、胸がちくりと痛むが、彼女のはかない笑みを消してしまわぬよう、笑んで答える。

「よく似合っておるぞ」

「あにうえさま、わたしは?」

 アルマが私とジルケの間に顔を出す。おや、兄姉に見られておらぬと思ってすねたかな、かわいい末姫は?

 今晩のアルマは薄紅のドレスに茶の帯を合わせ、小さな輝きを放つ首飾りをし、金の巻き毛をゆったりと下ろしている。

「夜は冷えるが、首が寒くはないか?」

 髪の毛先に触れ心配事を告げると、小さな首飾りが目立つ代わりに少し広く襟が開いた衣を着たアルマは、むくれて、

「さむくありませんっ」

 ぷい、と横を向く。私は軽く笑って、その頬に優しく触れた。

「元気ならよいだろう。そうふくれるな、かわいい顔が台無しになるぞ」

 とたんにアルマは機嫌を直して、

「あにうえさまがかわいいって!」

 と母君のもとへ駆け寄る。

「よかったわね。でも危ないから走らないのよ、アルマ」

 娘を抱き留めたカーリン様は、様々な濃さの茶を使った落ち着いたドレスで、耳に金の大きな輪飾りをつけている。横で微笑ましげに見下ろすヤスミーン様は、白と水色の柔らかなドレスに、緑の小さな宝石の耳飾りをそえていた。

 今夜は顔色も悪くないようだ。先の夜会であったことが衝撃だっただけに、不安だったのだが……今日はジルケもこの方も楽しめるとよい。

 私は隣を歩くジルケを見下ろし、少し考えて口にした。

「ジルケ、前の約束を覚えておるか?」

「え? ええと……」

 ジルケは小首を傾げてこちらを見上げる。覚えてはおらぬか。それならそれで、

「今宵は祝祭ゆえ」

「? はい……」

「ほんの少し変わったことがあっても、女神もお許しになるだろうな」

 一の姫はよりいっそう首を傾げる。私はふふ、と笑いながら、四人を小部屋に案内した。背の高い椅子が二つ、低い椅子が二脚。もう私のための椅子はここにはない。玉座の陛の傍、王族がよく座っているソファなどの横に移されてはいるが、せいぜい休憩用、ほとんどは立っておらねば。少なからずつらいな。

 姫たちも私が正式に外へ出てゆくのは知っているゆえか、大人しく席に着くと私をじっと見つめる。私は微笑んで二人の額に接吻を落とした。

「後でこちらに来よう」

 きびすを返す。カーテンをくぐる。侍従たちが控え、楽団が弦の調節をしている大広間。玉座の傍らに五つの人影があった。兄上とエルヴィラ様、それにオイゲンとヘンドリックにバルタザールだ。

 五人のところへ歩いてゆくと、ちょうど兄上が近衛と王宮の騎士団長に何か命じ終えるところだった。二団長が私に一礼し去ってゆく。私を認め、兄上が微笑んだ。

「よろしく頼むぞ、ヴィン」

「はい」

 私はしっかりうなずいた。オイゲンも笑みを見せる。

「何かあればすぐお呼びください、殿下」

「わかっているよ。心配性なおじい様だな」

 くすりとして言う。オイゲンは心外そうな顔を作って、

「殿下は自信に満ちた顔をしてらっしゃる。よく出来た弟子と言って差し上げましょう……が、もう少し師を立ててくださってもよろしいのですよ」

 と結局片目をつぶる。どうしてか似合うのだな、これが。

 自信、と言われて笑みがこぼれる。それが私だからな、と心の内で呟いた。民の前に見せるなら、その姿がいい。

 楽団が音を奏で始める。

「時間よ、アレクシス」

 とエルヴィラ様が目を細めた。胸もとは白で襟に赤いタイをつけ、真珠のブローチをその上に留め、袖とスカートは淡い緑のドレス。さりげなくモウェル風の広い袖口に、昼の会話をふと思い出す。

 ——この方の仕事の成果を目の前にするのも、初めてだな。

 大扉が開いた。

 星姫様とユーザルの護衛たちが赤いカーペットの上を真っ直ぐ歩いてくる。兄上が軽く頭を下げ、私たちもならい、それに応じて星姫様がうなずく。

 星姫様はやはりユーザルの紋様を入れたドレスで、長い髪を下ろしていた。

「良い夜ね、殿下」

「どうぞ楽しんでいってください」

 兄上と言葉を交わすと、ふいに私に向いて、

「王女殿下方は?」

「カーテンの向こうでお待ちしておりますよ」

 答えると楽しげに笑んで小部屋の方へ去ってゆく。

 次いで入ってきたのは、黒髪を刈り込んだいかめしい顔つきの偉丈夫で、同じ黒髪に青の瞳の優男が付き従っていた。

 二人は兄上に深く一礼し、大男の方が笑いながら言う。

「今年も一番にお目にかかれるかと思っておったのですが、星姫様がいらっしゃいましてはなあ」

「星姫様に先を越されたか。あの方は別格だ、仕方なかろう」

 兄上が微笑む。と、偉丈夫は私を見つけて、

「おお……これは第三王子殿下」

「この祝祭から正式参加になる。よろしくしてやってくれ」

「お目にかかれて嬉しゅうございますぞ」

 兄上に言われ、彼は私に向かって相好を崩す。笑うと岩のような顔に温かみが生まれ、見ていて快い。

「ようこそいらした、ツェラー公」

 応じると公は嬉しそうに、

「おお、私めを覚えていてくださったか! ぜひせがれのことも紹介させてくだされ」

 と背後の若い男を呼ぶ。

「私の長子ギュンターでございます」

「どうぞお見知りおきください、殿下」

 呼ばれた青年は優美に一礼する。これが次期公爵か。背は同じくらい高いが、父親に似ず線の細い美男子だ。

「よろしく、ギュンター殿」

 微笑んで返すと、彼も笑む。ああ、笑みはそっくりだな。正直で誠実な人柄と見た。好感をもって見送るうちに、彼は一つにくくった髪を揺らし玉座の前を辞す。

 それから続々と諸侯たちが入場し、あいさつに来た。やはり四公には威光があるらしく、順番を譲られるらしい。

 二番目を取ったのもミゾレーユ公だった。老女公は年を感じさせぬぴんと伸びた背によく似合う白と紫のドレスで、きびきびと兄上に招待の礼を述べると、私にも声をかけて一族の者を紹介してくれた。嫡子にして長男の夫妻と、その七つになるかならぬかといったところの娘、次子の娘と年の離れた若い夫。

 さすがはユースフェルト一服飾に長けると言われる家柄、皆凝った衣装によく合った宝飾品を身に着けていた。きらびやかで、それでいて嫌なところがない。

 長男夫妻は娘を小部屋の方へ連れていった。アルマと気が合うとよいのだが。

 二公は出会うと、なぜか目に異様な光を灯して、声を荒げた方が負けの舌戦を始めた。うむ……近寄りたくないな。ギュンター殿とミゾレーユ嬢が取り成しに入り、苦笑し合っている。

 ハイスレイ公オリヴァーは六番目にやってきた。伴侶を伴わぬ三十前後のいい男が悠々と参上とあって、若い娘たちが色めき立つ。なるほど、オイゲンがあやつに妻のないのを気にしても無理はない。相手のない者の登場というのは目立つものだな。

 オリヴァーは兄上にあいさつし、久しぶりの父親との対面に安心した顔を見せた後、私を見ると再会の喜びを告げるのもほどほどに、

「殿下、後程少しお話を」

 何だ?

 首を傾げる間にオリヴァーは兄上に呼び戻された。

「あれは出来たのか?」

「申し訳ありません。やはり早めることは難しく、粘ったのですが夜会にも遅れそうになる有り様で……面目次第もございません」

「そうか、悪いことをしたな。なるべく早く、でよいよ」

 何の話だ?

「ああそうだ、どうせならトヴェイン候を引き留めておいてくれ」

「トヴェイン候をですか? は、かしこまりました」

 オリヴァーは命令を受けた猟犬のように素早く歩き去った。青線が引かれていただけはある、兄上にいいように使われておるな、ハイスレイ公は。令嬢たちには残念だが、踊りには誘えそうにない。

 さて、宮官から四公全員が出席と聞かされておったが、ケンギン公だけとんと姿が見えん。どうしたことか……。

 兄上は公爵が皆そろうまでは動き出さぬおつもりらしい。あいさつがまばらになってきても玉座の前を動かない。オイゲンがちらりと招待客名簿を確認するのが見えた。少し焦ってでもいるのだろうか、とっくに招待客の名など頭に入っているだろうに。

 私はむしろ、このまま一人にならず大役をしないで済むのならその方が楽だと考えていたが、兄上の策は気になる。横目でうかがうも、兄上は涼しげに笑んで、赤い線のつながる白い扉を見ていた。

 数えるのは忘れていたが二十何番目かにケンギン公が入ってきた。老いてなお巨木のような巨体で、ほとんど白に染まりかけた長い金の髪をゆるりと束ね、堂々と歩いてくる。固いあごひげにそえた節くれだった指には、今日も大ぶりの指輪がはまっていた。

 隣を歩くのは小柄な老女で、淡茶と白のドレスが何とも可憐だ。彼女に従うように、焦げ茶の髪を肩上で切りそろえた青年がつきそっている。

「ようこそ、ケンギン公」

 兄上は全く内心を見せぬあいさつを送った。

「馬丁が手間取りましてな。お待たせしたことお詫び申し上げる」

 老公爵は悪びれず言う。まあ、早く来いなどと制約はせぬ夜会ゆえ、とがめることもできぬのだが……何となく腹立たしい。

 女性は公の妻、青年は公を大叔父とする人と判明。私とオイゲンのようなものか。

「お話しできますものかな、第一王子殿下」

 とケンギン公。私のことはまるで無視か、いい度胸だ。

「いや、すまぬがトヴェイン候を待たせておってな。後で話そう。いい加減踊りの曲を始める頃合いだ」

 と思ったら、兄上も負けてはおらん。宰相、と呼ぶとオイゲンが宮官に合図して、侍従たちが赤の絨毯を取り去ってしまった。音楽が調子を変え、客たちの目が玉座の方、こちらへ向く。

 侍従が寄越した金杖で床を軽く叩き、シャラン、と音を広げると、兄上は声を張った。

「ようこそ、ユースフェルトの豊穣祝祭へ」

 わっと拍手が起こる。この場合、〝ユースフェルト〟は王家を差すものだ。

「今宵の宴と踊りは、神々に捧げんがためのもの。皆存分に楽しむがよい」

 金杖が広間中央を差し示す。曲が盛り上がりを見せ、男女の組がそれぞれ空いた中央に入ってゆく。

 踊りが始まった。

 貴族たちの色とりどりの衣が舞う。皆笑顔で、旋律に乗ってくるくると回る。この楽しさを女神に届けようと——というよりは、皆心から楽しんでおるのだ。それがよい、この厳しい時でも祭りを祝うことはできる。

「ヴィン、後は頼んだ」

 兄上がそっと耳打ちしてきてその場を離れる。ハイスレイ公とトヴェイン候の話に入ってゆき、歩いていって人の群れに紛れる——見事だ。

 踊りをながめていたケンギン公など、はっとして兄上を探している。青年と奥方が私に一礼してくれ、老公を連れていった。

 オイゲンが飲み物をくれるのに感謝して、それから問う。

「もうほとんどの招待客は集まった気がするが」

「まだおられますよ。踊りの最中に広間を横切るのは不可能ですから、人の間を縫って来なければならず、恥ずかしいご登場と言えますがね」

 ふむ、と私は小首を傾げた。

「それなら、なぜ早く登宮して応接間を使わぬのだ?」

「位の低い諸侯の一族は、そもそも広間に通されるのも遅いので……。王都の祭りを見物がてら馬車で登る者も多いのですが、祝祭の日は丘の道は混み合います。子爵以下は毎年呼ばれるということもありませぬゆえ、珍しさに足が止まる者も出てくるのですよ」

 なるほど、とうなずく。

 では私の役目も大したことはなさそうだな。ケンギン公が遅刻して赤の敷物を長く置いておいてくれたために……。む?

「では、なぜケンギン公はあれほど遅く参ったのだ」

「それは……」

 オイゲンは束の間ためらう様子を見せてから、

「ご婦人の足がお悪いため、顔を見せるに留めようとおっしゃっていましたが」

 私はわざと笑みを作った。

「私に正式参加の自覚を持たせようと様々叩き込んでくれたのは誰だったかな、おじい様?」

 そんな表面的なことを聞きたいのではない。

「あの老公は前回も日和見だった」

 会議で兄上の側に座っておきながら、最後に頭を下げたほかは賛成も反対も口にしなかった。

「で、貴方はあれをどう見る」

 果実水のグラスを傾ける。オイゲンは私をしげしげと見つめると、声を潜め、

「……嫌がらせでしょう」

 は?

 私は目を丸くした。本当に老い衰えたか、あの巨木?

「ほお……私ならもっと派手にやるがな」

 と呟いてみる。

 二、三、子爵や男爵とその家族にあいさつをもらうと、オイゲンが言った。

「ほとんど揃いましたね。後はご事情があったり領が国の端だったりと、断りを入れ忘れたり宴半ばに唐突に現れたりする輩ばかりです。殿下のお力がなくとも私で事足りましょう」

 ということは、私は自由か?

「だが、兄上はまだだ。私の役目は人目を引いておくことなのだろう?」

 言うとオイゲンは困り顔にうなずいた。

「ええ。ですが、殿下をずっとここに引き留めておくのもどうかと……歌姫が出てくるまで、何かあるとよいのですが」

「騒ぎを起こす用意ならあるが」

 何ですって、とでも言いたげに暗青色の瞳が私を観察し、ふいにあの茶目っけたっぷりな笑みが顔を見せる。

「そうでございますか。どうか無茶はなさらぬよう、お願いいたしますよ」

 私はふふ、と笑った。まさか信頼してくれるとはな。

「そういうところ好きだぞ、おじい様」

 軽くその肩を叩いて、さっと小部屋の方へ歩き出す。途中でグラスを侍従に渡した。人々の目が私に向いているのを感じる。初参加の王子を見つめているのだ。

 カーテンをくぐると、こちらにも小さな踊りの輪ができていた。年の頃は十前後の子どもらが踊りの真似事をしていたり、それを兄姉がからかったり教えてやったりしている。

 ジルケとアルマは仲良く並んで、皿の並べられた長机の横に立っていた。輪を避けて部屋を大回りし、二人に近づく間に、アルマに彼女よりも小さい巻き毛の少女が寄っていった。言葉を交わすと、小さい姫たちは妃様方の方へ行ってしまう。一人残された様のジルケに、私は声をかけた。

「ジルケ」

「まあ、お兄様」

 ジルケはふわりと笑みを見せる。アルマはどうした、星姫様にはお会いできたか、と問うと、

「アルマはレンフェイの姫とお話しするのですって。その子大きなぬいぐるみを持っていますの、アルマが気に入ったのですわ。星姫様にはお会いできましたが、他の方ともお約束があるらしくて……あら」

 と部屋の奥を見やって声を上げる。つられて見れば、ヤスミーン様と背の高い老年の男が話し込んでいた。

「おじい様だわ」

 とジルケが呟く。

 ウィルマー候ではないか。お二人とも祝いの席なのに、眉間にしわが寄っている——心痛察するにあまりあるが。

「行かなくてよいのか?」

 親子三代で集まれる機会だろうと思って言うも、一の姫は小さく首を振った。

「わたしは……その、実は、おじい様は少し苦手ですの。どこかこわくて……。それよりお兄様、こちらのケーキを食べませんか? 今日のもとてもおいしいのですよ」

 そう言われると腹が空いていた。促されるままいくつかの甘味をつまむ。その間ジルケはにこにこと踊りをながめているだけで、話しかけてくる者もない。

「お前は誰かに話しかけに行ったりせぬのか」

「見ているだけでも、きれいですし、楽しいですわ」

 と遠慮がちな彼女らしい返答。

「ジルケ、今宵は少しくらい欲を言っても神々も許そう」

「でも……王女はさそわれてはなりませんもの」

 控えめに笑む姫に、私はにやりとして、

「知らぬ男には、だろう? 私と踊ろうか、ジルケ」

 手を差し出す。ジルケの目がみるみる大きくなり、薄紫の瞳が輝いた。

「よろしいんですの⁉」

 ぱっと伸ばした手をつかまれる。白い頬が紅潮して、花のような笑みがその小さな顔に広がった。

 私は笑って、曲の変わり目に彼女を輪に引き入れた。周囲がざわめくが構うものか。むしろもっと騒ぐがよい。

「さあ、おいで」

 そっと手を引く。ジルケは初め戸惑うようだったが、三歩、五歩と踏むうちに、音楽に乗って舞い出した。

 くるくる回る。紺のスカートが風に広がる。曲は小鳥を描いたもので、彼女にぴったりだった。腕の中でくるりと回転させる度、観衆がわあ、と喜ぶ。

 ジルケは芸術が好きな子だ。己の内に美を持っている。普段はひそやかなそれが、こうして外と共鳴すると、こんなにも美しい。

 ——王家の慣習が何だ。それがこの子を苦しめるなら、壊して作り変えてやれ!

 一曲踊り終えて、息を弾ませるジルケを連れ出すと、わっと子どもたちが集まってきた。

「すごい! すてきでしたわ、王女殿下!」

「いったい誰に習われたのです? 何と優雅な足取りだ」

「わたくしもあんなふうに踊ってみたいわ!」

「僕とも踊っていただけませぬか、姫?」

「え? え?」

 ジルケは歓声にも気づかぬほど夢中だったらしい。うろたえる彼女の肩に優しく手を置いて、

「すまぬが、成人前の王女を王の許可なく踊りに誘うことはあってはならん。この子と踊れるのは、今のところこの兄だけの特権だぞ」

 と自慢すると、ええ、と不満の声が上がった。

「そんな! あまりにも残念だ……」

「せめて、わたしに踊りを教えてくださらない、王女様?」

「殿下、私もぜひお聞きしたい」

 一躍人気者になってしまったジルケが、嬉しいながらも困ったという顔で私を見上げる。

「えっと、あの……」

「お答えしてやりなさい、ジルケ」

 私は微笑みを作って言った。

「皆はお前の踊りに感動したのだ。私はそろそろ戻ろう、兄上に叱られてはいけないからな。とても美しかったよ、ジルケ」

 手を離してさらりとくくられた髪をすくい、その場を離れる。

「あっ……お兄様」

「む?」

「ありがとうございます!」

 幸せそうな礼に笑って、カーテンをくぐった。

 大人たちがまた私に注目する。小部屋で何かあったのかといぶかっているようだ。と、折も折、曲が小さくなって、舞台上に大きく広がるドレスをまとった女性が上がる。

 あれが今年の歌姫か。

 人々はそれに気づくとざわついて、そちらへ視線を移した。高くのびやかな声が響き渡る。例年通り、四大神をたたえる歌からだ。これまではカーテンにさえぎられ生で観ることはできなかったものゆえ、じっくり聞きたくはあるのだが。

 内から湧き上がってくる衝動を抑えきれず、私は大窓から外へ出た。夜は冷える時期、人の姿は見えない。

「ふ……」

 ジルケと踊った。内宮の者が縛られていることを一つ、破ってしまった。歌姫の舞台が始まるまで注目を引いておくことも成し得た。

 今夜の企み、大成功だ。

「ふっふふふふふ」

 さすがに高笑いしては怪しまれようから、低く笑い声をもらす。

『女神は仰せられた、私に祈りを捧げなさい、歌と、そして踊りを。喜びこそ価値があると』

 背後から喜びの歌が聞こえる。

『大神は仰せられた。そなたが踏みしめた土を愛せ、道を守り、器を為せと——』

 くつくつと笑って、ようやく心を静める。ふうと息をついて曲の途中の静まりに耳をすました時、小さな音がした。くすん、と泣き声……?

『河の流れに身を任せ、あがく、これぞ運命というもの——』

 ぐすっ、ずず、としのび泣くような音。やはり聞こえる。

 右手を上げて風をたぐる。ベンチの向こう、植え込みの方か? わざと足音を立てて近づく。急にすすり泣きがやむ、やはりここか。

 ひょいと植え込みの影をのぞくと、少女がいた。

 私と同じくらいか、それとも少し年上だろうか。野苺のように真っ赤なくせ毛を、編み込んで一本の三つ編みにして高いところで巻き、きらきらする飾りを差し込んである。ドレスも髪のように赤く、くるぶしまで包む豊かなひだのスカートだったが、ヒール靴を履いた足は肌が出て、長袖ではあったが両肩をのぞかせており、どう見ても寒そうだった。

 彼女ははっと私を見上げると、嫌そうに思いっきり後ろを向いた。一瞬見えた瞳は暗い色で、重そうな赤いまつ毛に豪奢に縁取られていた。白い肌にそばかすが散り、高くて細い鼻をしている。

「こんなところで何をしている?」

「……放っておいて!」

「この夜にずっとここにいては風邪を引くぞ」

 少女はだだをこねるように首を横に振る。私は眉をひそめた。

「中に入った方がいい。寒いのが好きなら別だが」

 そういう能力かも、と思って言うが、少女は震える手をドレスの中に押し込んで丸くなる。寒いのではないか。

「やめてちょうだい。貴方に関係ないでしょう」

 まさかこのまま放って帰れと? 心底寝覚めが悪いのだが。

「そう言われてもな……私はあいにく主催者の弟だ。ご令嬢が王宮の庭で凍死したなどと聞かされては困る」

 割と本心で言ったのだが、彼女は皮肉と取ったらしい。きっとこちらをにらみつけると、紅を引いた唇を開く。

「嫌な人ね! 貴方、第三王子殿下でしょう?」

「そうだな。そういう貴方は、クローデル嬢だろう?」

 あいさつの時、クローデル候の後ろに控えるように赤毛の少女がいた。目立つ色だけによく覚えている。

 クローデル嬢は私を恨めしそうに見すえ、

「貴方のせいよ」

「は?」

 思わず口を開けてしまう。何が?

「第一王女殿下と踊ってらしたでしょう。あのせいよ、あんまり美しくて、わたくし泣いてしまったのですもの」

 何だそれは。どういうことだ?

「ジルケの踊りか? 確かに、あれは最高に美しかった。あの子には技芸の才があるからな。いつもは大人しい子だが、それであの花が咲かぬとはもったいない。彼女はもっと自由であるべきなのだ、誘った私がどうして悪いというのかな」

 先の高揚感からついぺらぺらと喋ってしまった。少女は驚いたようで涙を忘れている。長話にも効果があるのかな。

「……いいえ。王女殿下との踊りが悪いのではなくて」

「では、どうして私のせいだと?」

 ふっと笑って問うと、彼女はスカートをぎゅっとつかんで、

「違いますわ。ただ、……ただあまりにも綺麗で。お二人が、仲がよくて、楽しそうに踊ってらして……わたくしにはできないのだと思ったら」

「なぜ?」

「踊りたい相手がいないのですもの」

 言ううちに涙がその目に盛り上がる。私はぎょっとしてハンカチを探した。この娘、アルマと同じくらい泣き虫だぞ。

「探せばいるのではないか? そのように着飾った貴方なら、相手になりたがる者が後を絶たぬだろうに」

 ハンカチを差し出す。受け取った彼女は目をうるませて、

「そうではないのよ。わたくしがこんなに凝った髪形にしたのも、ブーツでなくてヒールにしたのも、見せたかったのは一人だけなの。踊りたかった相手だって一人しかいないのですわ……」

 ぴんと来た。

「なるほど、恋人に約束をすっぽかされたのか?」

「いやあー言わないでえ! 言わないでくださいましぃ」

「その若さで恋情のもつれか……大変だな」

 うなずくと、いきなり立ち上がった少女にびしりと指を突きつけられる。

「何ですって! 貴方とそう変わりませんのよ、わたくしは十四ですわ! 何でこう成人以上に見られるんですの⁉」

 騒ぐクローデル嬢は、ヒールもあって私より手一つ分は背が高かった。少々勢いに押されて謝る。

「そ、それは失礼した。いや、私同様〝若い〟という意味で言ったのだが」

 ユースフェルト語の若者は、広義では十代前半も含む。

 彼女はぴたりと止まって、

「何なんですの、貴方……」

 と肩を落とす。しょぼくれた幼子のような仕草にくすりとした。

「何だ、それだけ元気なら心配はいらぬな。私はもう寒いから戻るぞ。貴方も早く中へ入った方がいい」

 大窓の方へ戻る。しばらく彼女の息づかいだけが届いたが、窓枠に手をかけたところで足音がした。振り返ると、少女が早足でこちらへ向かっている。

 彼女はハンカチで手早く涙をぬぐうと、薄くなった化粧をぼやきながら、

「もう散々だわ。せっかくの祝祭と思ったのに!」

 私は笑って、先に入ってカーテンを抑えておいてやった。気の強い乙女だ、もう涙を怒りに変えている。

 彼女はハンカチを握りしめると、

「……洗って返しますわ」

 と呟くように言う。

「別に持っていってもよいぞ」

 刺繍もない無地だしな。会場を見回すと、再び踊りが中心になっていて、舞台は空だった。

「しまった、第一曲を聞き損ねたな」

 ちょっと悔しくて、先ほどの意趣返しを試みる。

「貴方のせいだぞ?」

「何よ、貴方が勝手にわたくしを見つけたんでしょう! 誰も来ないと思ったのに。やっぱりひどい人ね、わたくしの婚約者だったら余計なことは聞かずにハンカチを貸してくれるし、わたくしのために戸を抑えておいて後から入ってきてくれますわ」

 少女は腕を組んでつんと顔をそらす。私は少々驚いて、

「婚約者? 恋人ではないのか」

許嫁いいなずけですの」

 ふふん、と彼女は自慢げに言う。頬に赤みが差す……恋する少女だな。

「許嫁にすっぽかされるとはな……」

「言わないでったら! どうしてそう一々むかつくことをおっしゃるの」

「突っかかってくるのはそちらではないか? 大体、腹が減るとろくなことを考えぬのだ。何か食べたらどうだ? その様では食事もまだだろう」

「ちょっと、女の子にそれは気遣いに欠けますわよ!」

 言い合ううちに、食事が並んだ長机にたどり着いた。彼女を無視して皿にパンを取り、侍従にきのこのオムレツを温めてもらう。ここまでずっと動き通しで腹の虫が鳴きそうなのだ。

 そうしていると、クローデル嬢もじっと皿をながめていたかと思うと、菓子のところへ飛んでいって山盛りもらってくる。

「よく食べるな」

「やけ食いですわ! 乙女のやけ食いはケーキと決まってますの!」

「初めて聞いたぞ」

 ふは、と吹き出してしまう。すると彼女も笑い出した。

 明るい光のもとで見ると彼女の目は赤紫だった。ぶどう酒の色だ。温かみのある色。くしゃっとした笑顔もかわいらしい。

 腹が満たされると、気分も自ずと穏やかになる。満足のため息をついた赤毛の少女は、

「これはこれで悪くないわね」

 ころっと機嫌を直している。その手をすり合わせているのを見て、つい聞いてしまった。

「寒いのか?」

「今とっても冷たくてよ。触る?」

「ほう?」

 片手を差し出すと、細い指が触れた。飛び上がる。

「冷たっ」

「逃げるんですの⁉ こういう時は『温めてあげるよ』と両手で包むのが王子というものでしょう!」

「どこの王子の話だ! 好いてもない恋人のある女性にそんなことをするやつがあるか!」

「一般論ですわよ! 王子といえば美男子、優秀、女性に優しいと決まってますわ!」

「どこの王子もそんなだと思うな! 兄上は確かにそうだが、私ごときにそんなものを期待するのは間違っておる! というか世の女性皆にそんなことする男がいてたまるか!」

「いますわよ! わたくしの婚約者ならいつでもわたくしにしてくれますわ!」

「それは恋人だからだろう! さては相思相愛だな、貴方たち?」

「当然ですわ! だから許せないんですのよー!」

「わ、わかったから落ち着け!」

 くだらぬ言の応酬がどうしようもなく弾みすぎて、互いに息を切らす。しばし見つめ合って、どちらからともなく笑い出した。

「ふ……っはは……何だ、王子の一般論とは」

「っふふふ……貴方だってそんな自信満々に『私ごとき』なんて言うではないの」

「ふふ……く……っ」

「……っふふふっ」

 都一の楽団の音と優雅な踊りの中では騒げぬゆえ、二人して笑い声を殺す。腹を抱えて座り込みまでした。

 はあ、と息を整えて、私たちは笑って顔を見合わせた。

「おもしろい方ね、殿下って。わたくしのわがまま放題な論にこんなすぐさま返せる人がいるなんて、思ってもみませんでしたわ」

「こちらの台詞だ。この調子の私についてこれる者がいるとはな」

 ふふ、と笑い声をこぼすと、クローデル嬢はふと遠い目をして、

「……皆わたくしをなだめるだけなの。あの方はわたくしを甘やかしてくれるけど、他の者は困った顔でいさめるだけ。真っ向から突っかかってくる人なんていませんでしたわ」

 とはにかむ。

 私にも思い当たるところはあった。礼儀を重んじる騎士たちをも簡単にやり込められるこの性格、不満に思ったことはなかったが、ここまで遠慮なく言い合って、しかも楽しいなど初めてのことだ。

「真理だな」

 びし、と指さすと彼女は笑って、

「大げさですわね」

「貴方との会話は、まるで言葉を投げ合うというよりぶつけ合うようだが」

「ティエビエン語みたいな言い回しですわね」

「まあ、私はティエビエン語もジョルベ語もセゼム語もできるからな」

 胸を張る。彼女はむっと口をとがらせて、

「わたくしだってジョルベ語はできましてよ! それに刺繍だって。王子様はおできにならないでしょう」

「張り合うな! ……だが、私が手芸が苦手だとなぜわかった?」

「本当でしたの⁉ ……わたくし予知能力に目覚めましたわ」

「馬鹿な」

「冗談ですわよ!」

 ひとしきり笑って、少女が言う。

「わたくしたち、お友達になれますかも」

 それはとてつもなくよい提案に聞こえた。私はにやりとして、

「そうなれるとよいな。……貴方の名は? 貴方になら、名を呼ぶことを許してもよいぞ」

「まあ、殿下を?」

 彼女は目を丸くして、

「お友達ですものね! 素敵だわ。わたくしはカサンドラ・クローデルよ。よろしくお願いいたしますわ、殿下、ヴィンフリート様」

 と微笑んだ。


 ◦◦◦◆◆◆◦◦◦


 アレクシスは目の前の男をじっと見つめた。彼と同じくらい背が高く、細身で筋肉質で、神経質そうに一本のおくれ毛もはみ出さぬよう撫でつけられた茶の髪。中年に入ったところの年で、そう言われねば後継ぎの娘を持ち、愛人や隠し子の噂もあったとはとても見えぬ若々しい美男子だ。

 しかし今はその眉間に深いしわが刻まれ、赤紫の切れ長の目は忙しなく辺りを見回している。助けを期待しているのか。だがここは歌姫を囲む人々の最たる外周、大窓に近いカーテンの影、誰も近寄ろうとはしない。

「……返事は? クローデル候」

 重ねて問うと、候は諦め悪くも、

「いや、しかし……私めは我が領を無用の混乱に巻き込みたくはないのでございまして」

「国の一大事を何と心得ておる」

 アレクシスは溜め息を吐いてみせる。若造が尊大にも、と言いたげに睨んでくる目を冷ややかに見返した。

「その領を貴殿の一族に与えたのは誰だ?」

 冷然と脅しの如き言葉をかけると、候はぎょっとし、それから下手に出てへつらってくる。

「それは……! その、やはり、お時間をいただかねば」

「もう十分やっただろう。それ程決断を下し難いか? それとも……境に配する兵には、候領ではなく我が手を煩わすが望みか」

 今度は明白な脅迫だ。

 候は顔色を変え、周囲をきょろきょろと見回す。その目が舞台の方を見やり、急に彼は愕然として目を見開いた。

 不審に思ってアレクシスもその方へ目をやると、見慣れた黄金色の小さな頭と、それより少し背の高い赤髪の少女がいた。中央からは少し離れ、何か喋りながら舞台を見ている。二人は口喧嘩でもしているように険しい顔で何事か言い交わし、時々笑い合っていた。

「な……っ何故王子と……!」

 クローデル候の焦りを含んだ呟き。

 ——クローデル嬢だな。

 アレクシスは子どもらを利用して、候の動揺を誘うことを選んだ。

「おや、新しい友が出来たと見える。ヴィンフリートと言い合えるとは、芯のあるご令嬢だ」

 父親と違って、と心の中で付け足す。候の青かった顔がさっと赤く染まった。

「なっ……」

「む、どうかなさったか?」

 心配する演技をする。失態を悟って色を失う候に、さらに続けて、

「見よ、あの子らのように未来ある者が、ここには集っておる。今宵はかように幸せそうだが、来る年にはもうそうとは言えぬかもしれぬな。……貴殿がうなずいてくださらねば、これと同じ夜会は二度となかろう……」

 とアレクシスは呟いて聞かせた。

 お前がうなずかなかったから、と例え日和見の果てに生き延びても責められよう。そう言外に告げる。

 候はもはやうつむいて何も言わなかった。

 落ちたか、とアレクシスは内心で独り言ちた。彼はアレクシスに二重に弱点を握られてしまった。判断を迷う己が心の弱さと、意識してやまぬ跡取りの娘とを。

「候よ、気が変わった」

 え、と顔を上げかけるうなだれた男を見下ろし、

「二日の猶予をやろう。どちらにしても、詳細を詰めに王宮へ参るのだ」

 候はひどい顔色でうなずくしかない。哀れと思いつつ背を向ける。

「では、明後日に。……行くぞ、ジーク」

「は」

 王子に答えて、カーテンの向こうから茶のベストの騎士が姿を現す。去ってゆく二人を呆然と見送り、候は打ちひしがれた。

 人目につかぬ場所に、武器を持った護衛を控えさせている意味。……従わぬと言ったらどんなことになったか。

 男は震えた。彼は完全に第一王子の支配を受けてしまった。二日の猶予のありがたみなどほとんどない。彼がもはや反抗できぬと知られているからこその許しだ。

 候は己が身の不運を呪い、侍従を呼びつけ強い酒を持ってこさせると、一息にあおった。


 ◦◦◦◆◆◆◦◦◦


 長机のクロスの影にいるのにも飽きがきて、カサンドラ殿と連れ立って舞台の方へ向かった。人だかりの真ん中辺りの列を占め、歌姫の美声に耳を傾ける。

「どうしたらかように声を出し続けていられるのかな」

「声の出し方が違うそうですわ。今年の歌姫も、ほら、ふっくらしてますでしょう、あれも方策だそうよ」

「何をためらうことがある? 女性らしく美しい体系ではないか」

「細くなろうと努力している世の女性の敵ですわ」

「なぜだ。……私個人としては細い人が好みだが」

「女の敵ですわね」

「何を言ってもそう言われては口を開いたかいがない。貴方自身の美の基準は?」

「その質問自体がいけませんわ、女の敵」

「なぜだ」

「わたくしの婚約者なら、『貴方が一番美しいよ』と言ってくださいますわ」

 その間にも軽口の種は尽きん。彼女は二言目には婚約者殿の話だ。気になって問うてみる。

「貴方の言いようを聞いていると、よほどいい男らしいな。何者なのだ?」

「当り前よ、何といってもツェラー公のところのお人ですもの」

 とカサンドラ殿はうっとりと言う。

「というと、ギュンター殿の?」

「ご存じ? その弟君よ。でもあそこのご家族は、皆男らしくてそれでいて気遣いができて、素晴らしいの。本当よ! 公なんてとっても忠義のお方で、武勇伝も格好いいのですわ」

「へえ……」

 両手を組んで夢見る乙女の様の彼女に相づちを打つ。幼い頃からの許嫁でも、両家が上手くゆくこともあるようだ。

 彼女はしかし、次には顔をしかめる。

「お父様とは大違い。お父様ったら、王家からお手紙をもらったというのにお返事もぐずぐずして出さないのですもの。女々しいったら! いっそ、さっさとわたくしに跡目をお譲りになればよろしいのに」

 私は目を丸くした。

「勇ましいな。さすがは次期侯爵か」

 彼女の父君も兄上に説得されている一人か。なるほどカサンドラ殿が候であれば、話も早そうだが。

 言うと彼女は顔を赤くして、

「あら、言い過ぎましたわ。それは、わたくしだって己の方がふさわしいなんてそんな大それたこと思っていなくってよ。でも、お父様って女たらし以外の才がなくって、娘の目にもあまるんですもの」

「それこそ言い過ぎではないか?」

 苦笑すると、彼女は手をぱたぱたと振る。

「あらやだ、忘れてくださいませ!」

 舞台では歌姫が最後の一唱のために声を張り上げていた。締めくくりは、神々に感謝する民が手を取り合う歌だ。……兄上の策も効を奏して、協力者が増えたならよいのだが。

 頬の火照りを抑えたカサンドラ殿が、急に反撃を打ってくる。

「そうおっしゃる殿下こそ、お相手はいらっしゃらないの? わたくしと話しているだけでよろしいのかしら」

「今宵の会場にはおらぬことくらい、わかっておろう?」

 私はむっとして話をそらしたが、彼女は目を光らせて宣言した。

「わたくしにはわかりますわ。……いらっしゃいますわね!」

「どうしてわかる?」

「恋する乙女の勘ですわ! 貴方も同族、でしょう?」

 つい吹き出してしまった。

「よく当てたな。そう、想う人はいるよ……もっとも、遠くに住んでいるから簡単には会えぬのだが」

 ふうん、と彼女はうなずいて、

「婚約者ではないですわね? 王家のそういう話は聞きませんもの。恋人?」

「まあ、そう言って差し支えないかな」

 そんなふうに言われると何だかくすぐったい。カサンドラ殿は勝手に何度かうなずき、

「お仲間ですわね」

「何のだ」

 まだ婚約が成るかもあいまいなこちらと、長年の許嫁らしいそちらを一くくりにしないでおいてもらおうか。それとも、一方的に愛が重い仲間か? お相手は二言目には婚約者ではなかろうしな。

 歌は最後の一音までのびやかに響き余韻を残して、皆が拍手で歌姫をたたえた。歌姫が一礼して退場すると、ゆるやかな楽と人々のざわめきが歌声に取って代わる。

 やがて、別の方からざわめきが伝わり、見ると兄上が玉座の前に立っていた。オイゲンが金杖を携え、侍従がうやうやしく酒杯を捧げている。

 人々の間にもぶどう酒や果実水が行き渡る。酒はまさに神々の恵みの象徴。王の乾杯の合図がなくては祝祭は締まらぬのである。

 私とカサンドラ殿も果実水のグラスを受け取った。

「我らを見守り給う全ての神々に」

 乾杯、と皆が唱和する。

 兄上が杯を傾ける様は見ほれるほどだった。玉座がかの方のものになったゆえか、これまでよりいっそう輝かしい。

 兄上が杯を侍従に下げ渡す。そしてくるりと背を向けた。

 あ、と一同声にならぬ声を上げる間に、兄上は段を上り、さっと玉座に腰かけた。皆が息を飲むのがわかった。——玉座が埋まったのだ。

 オイゲンが暗青の目をきらめかせ、金杖を捧げる。兄上が杖を手にし、微笑んだ。

 足りぬのは冠だ、という言葉が頭に浮かぶ。

「素晴らしい楽、歌、そして踊りだった。四大神も満足されよう」

 未完成の王の言葉が響く。

「皆に神々の祝福があるように」

 わっと歓声が起こった。人々が喜ばしげに笑い合う。酒の勢いか、我らが王よ、万歳、などと叫ぶ者もいる。

 解散の流れだ。兄上のあいさつに応え、玉座の前で一礼して帰ってゆく者、まだ話し足りぬと友を引き留める者、眠たげに引き上げる者、様々。

「貴方はどうするのだ」

 問うと、カサンドラ殿はあちこち顔を向けて、

「ええと……」

 そこへ足音がして、振り向くと星姫様であった。

「星姫様」

 礼をすると、カサンドラ殿が驚く。

「えっ! 星姫様でいらっしゃいますか? わあ、お目にかかれて光栄ですわ」

「こちらこそ、クローデル嬢。ね、これ、引き取っていただけて?」

 丁寧な礼に星姫様は優雅に笑み、背後を示した。何と、がたいのよい方の護衛に支えられて、具合の悪そうな男が立っている。

「やだ、お父様⁉ まーっ申し訳ございません星姫様、父がご迷惑をおかけして……! 父は酒癖がよろしくないんですの、本当に申し訳ありません!」

 カサンドラ殿は駆け寄って騎士に代わり男の腕を支えたが、身長差から引きずるような格好になる。

 この酔いつぶれておるのがクローデル候か? 頭のよさそうな顔のいい男だとあいさつの時は思ったのだが……これではカサンドラ殿にこっぴどくけなされるのも無理はない。

「もうっ、大人の風上にもおけない人ね! 起きてちょうだいお父様、あの第一王子殿下のご立派なお姿を見て? あんな素敵な君主なのにヤネッカーが隣だからって怖気づいてるからいけないのよ! ご自分でお立ちなさいこの根性なし!」

 前言撤回。いくら何でもかわいそうなほど父君を叱りつけた少女は、どうしようもない父親をあきらめたのか顔を上げて、

「仕方ありませんわ、殿下、また謝りに来させますから! それに、ハンカチのお礼も忘れないわ」

「気をつけて。お前たち、クローデル嬢を助けてやってくれ」

 私は侍従たちを彼女につけて送り出した。

 さあ戻ろうと小部屋のカーテンに手をかけたところで、笑い混じりの声が言う。

「次はお相手がちゃあんといらっしゃるといいですわね!」

 私はうっかりカーテンに爪を立てかけた。

「大きなお世話だ! そっくりそのまま返すぞ!」

 売られたけんかは買う。

 返ってきたのは心底楽しそうな笑い声で、結局私も笑い出してしまった。

「ふふふっ、またお会いしましょう!」

 その声に答えて手を振る。

 くつくつ笑っていると、後ろから腰の辺りに温かいものが飛びついてきた。

「アルマ」

「いまのだれですか、あにうえさま?」

 不思議そうにする姫に、私は笑ってその金の髪をなぜ、

「新しい友人……のようなものだ」

「おともだち? わたしも、レンフェイの子にぬいぐるみ見せてもらいましたっ」

 それはよかったな、と小さい手を引いて妃様方のもとへ行く。カーリン様はアルマを抱き留め、ヤスミーン様は半分眠っているジルケを優しくなでながら、

「ありがとうございました、殿下。私に似てしまって引っ込み思案なジルケが、沢山の方にほめられて……」

 と感嘆するように言った。

「ジルケの踊りは見事ですゆえ」

 笑って答える。彼女の力だ。私はほんの少し、一人では破れぬ殻をつついてやっただけなのだ。

 実に満ち足りた夜だった。先に後宮に戻って待っていると、帰ってきた兄上も笑顔で、

「よくやってくれた、ヴィン。そこここで活躍していたようだね」

 とほめてくださった。……ほめて? 笑われている気がする。

 ただ、兄上は一度声をひそめて、

「クローデル嬢と仲良くなったのか? 実は、父君を説得するのに彼女を使ってしまったところがある。謝れるとよいのだがね……お前が代わってくれぬか?」

 と言った。冗談めかしていたが、何だったのだろう?

 ……あんな色男が、理由もなしに泥酔するものかな。

 考えたが答えは出ない。思索は明日に任せることにして眠りにつく間際、赤毛の少女とのかけあいを思い出して、ヘマに教えたいことが増えた、と笑った。

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