第21話 新しい名前


「うわぁ……」


 目の前には広い庭園と大きなお邸。

 私のお部屋の準備ができたから、とパパとママが迎えに来てくれて。

 ママの言う通り、馬車に乗ったらお邸まではすぐだった。

 そしてはじめて訪れるエルロード子爵邸は、侯爵様のお邸ほどではないにしろ、とっても大きなお邸だった。

 侯爵様同様、ここはあくまで首都のお家で、領地は別にあるというのだから本当に貴族ってすごい。


「邸もお部屋も、リディアに気に入ってもらえるといいのだけれど」

「リディアが気に入らなければ、直せばいいだけだわ」

「ああ、それもそうだね」


 にこにことしながら、お二人はとんでもないことを言っているような気がしてならない。

 私は当然のことながら、そうですね、なんて同意するわけにもいかず、曖昧に笑ってみせるのが精一杯だった。




「ここがリディアの部屋よ!」

「うわぁ、かわいい……」


 お邸に入って、最初に案内してもらったのが私のお部屋。

 侯爵様のお邸で用意していただいたお部屋とはまた違う雰囲気だけれど、いかにも女の子の部屋、という感じのかわいいお部屋だ。

 なんか、お人形のためのかわいらしいドールハウスのお部屋を、そのまま現実に持ってきたようなそんな感じ。


「気に入ってもらえたかな?」

「はいっ、とっても!!」


 そう言うと、パパとママも嬉しそうに笑ってくれる。

 私が気に入ったことを、パパとママが喜んでくれている、それがとても嬉しいと思った。


「よし、では、邸の中は追々案内するとして、まずはみんなでお茶でもしようか」

「そうね、大事なお話もあるし!」

「お話、ですか?」

「ええ。おいしいお菓子も、リディアのためにたくさん用意させたのよ。リディアは何が好きかしら」


 ママはにこにことしながら、私の手を引いていく。

 背中にはパパの温かい手が優しく添えられて。

 私は2人に導かれるように、テラスへと移動した。


「さぁ、好きなものをどうぞ!」


 心地よい日差しが差し込む中で、並べられた色とりどりのお菓子たち。

 どれも本当においしそうなものばかりで、どれにしよう、と悩みに悩んで、私が最初に手を出したのは、チョコクッキーだった。


「ふふ、やっぱりチョコレートが好きなのね」


 ママがそう言って笑う。

 これも、侯爵様から聞いていらっしゃるのだろうか。

 そういえば心なしか、チョコを使ったお菓子が多めな気がする。


「は、はい……」


 ちょっと恥ずかしくて、ごまかすようにチョコクッキーをかじる。

 サクサクで、口の中でほろほろと溶けていく、甘くて、とてもおいしい。

 幸せな気持ちになって、自然と笑みがこぼれる。

 そんな私を見て、パパとママも笑ってくれた。


「これをね、リディアに見せたかったんだよ」


 そう言って、パパは1枚の紙を私に差し出した。

 受け取ってみたけれど、そこにはたくさんのアルファベットが並んでいるということしか、私にはわからない。


「ごめんなさい、読めないです……」


 文字もちゃんと読めないなんて、呆れられてしまっただろうか。

 ルイスさんに教わったほんの少しの単語しか、今の私には理解することができない。


「いいのよ、知っているから」

「そうそう、これから覚えていくといい」


 お二人とも少しも嫌な顔を見せることなくそう言ってくださって、ほっとした。

 それからパパが紙を一緒に覗き込んで、説明をしてくれる。


「ここに書いてあるのが、パトリック・ヴィム・エルロード、君のパパになった僕の名前だよ」

「パトリック・ヴィム・エルロード……」


 この前お名前を聞いたときは、確かパトリック・エルロード、と名乗っていらっしゃったのに。


「それからその下、ここにあるのが、ブリジット・リル・エルロード、君のママの名前だ」

「ブリジット・リル・エルロード……」


 ママのお名前も、この前とちょっと違う……


「それから、ここに書かれている名前が、リディア・フォルティエ・エルロード」

「えっ」

「そう、僕たちの大切な娘、リディア、君の名前だ」

「リディア、フォルティエ、エルロード……?」


 元の世界の家名が、まさか残っているなんて。


「これは君の戸籍の写しなんだ。君が養子縁組で、正式に僕らの娘になったことを証明する書類でもある」

「これが……」


 紙を見つめる私を、お二人はあいかわらずにこにこしながら見ている。

 そこに書いていることは全然わからないけれど、私とパパとママの名前が書かれているのだと思うと、宝物のように思えた。


「あ、あの、名前が以前お聞きしたのと違うのは……」

「あら、フルネームを知らないのね」

「なるほど、名乗られるような機会も、なかったかもしれないね」

「フル、ネーム……?」


 私の世界では、名前と家名を述べればフルネームと呼ばれたのだけれど、ここはちょっと違うようだ。


「フルネームはちょっと特別なんだ。だから普段リディアが名前を名乗る時は、リディア・エルロードと名乗るんだよ」

「本当に大切な時にだけ使うのよ、フルネームは」


 そうか、だからお二人ともあの時はフルネームではなかったのだ。


「大切な時とは……」

「そうね、人によって様々ね。そのうち使いどころは、自然とわかってくるとは思うけれど……」


 特にこれといって使う場面に決まりはないらしい。

 本人がここは、と思う大事な場面に使うことが多いそうだ。


「僕はママにプロポーズをするときに、フルネームを名乗ったんだ」

「ふふ、私もそのお返事をする時は、フルネームを使ったわ」


 お二人は顔を見合わせて、懐かしんでいらっしゃるようだ。

 これはあくまで一例だけどね、とパパは笑った。


「ジーク君に元の世界の家名がフォルティエだったと聞いてね、残せないかなと思ってこの名前にしたんだけど……」

「もし、気に入らなければ変えることもできるわ」

「いえ、すごく嬉しいです」


 お父様とお母様と同じ名前を、この世界でも捨てなくて済んだことも。

 お二人がいろいろ考えて、この名前を選んでくださったことも。

 どちらも私にとっては、すごくすごく嬉しい。


「ありがとうございます!この名前、大切にします!」


 私は本当に嬉しくて、思わず貰った紙をぎゅーっと抱きしめた。

 すると、紙がくしゃっと音をたてて、我に返る。

 紙に少し、しわができてしまったようだ……


「あ、あの!これ、いただいても、いいでしょうか?」


 しわを作ってしまったものをお返ししなければならないというのが、嫌だったのもちょっとあるけれど……


「ここに書かれている私の名前も、お二人のお名前も、ちゃんと書けるようになりたくて……!」

「もちろんかまわないよ、それはただの写しだし」

「もともと、リディアにあげるために、貰ってきたものだから」


 お二人の言葉にほっとする。


「あ、あと……侯爵様にも、お見せしてもいいですか……?」

「ジークに?」


 ママが少し驚いている。

 フルネームが大切な時にしか使われないお名前なら、3人分のフルネームが載っているこの紙は、簡単に見せてはいけないものだったりするのだろうか。


「別にかまわないよ。それはあくまで戸籍の写しだから、ジーク君も申請すれば確認できる内容だしね」

「ええ、見せるのは何も問題ないけれど、でも、どうして見せたいの?」

「私がお二人の娘になれたのは、侯爵様のおかげですから。その、侯爵様にちゃんと報告したいな、と思いまして……」

「それは素敵な考えだね」

「ジークもきっと喜ぶわ!」


 お二人は決して否定することはなく、私の気持ちを後押ししてくれた。

 今度侯爵様にお会いしたら、お見せしよう、そう思うと侯爵様にお会いする日がとても楽しみになった。


「さて!」


 パンっと、ママが空気を変えるように手を叩く。


「大事なお話も終わったし、明日は3人でお買い物に行きましょう!」

「そうだね、リディアのものをいろいろと買わないと」

「わ、私の、ですか……?」

「うん、ここにはほとんどないからね、リディアのもの」

「リディアに似合うお洋服、私が選んであげるわ!」


 楽しみだわ、とママは笑っているのだけれど。


「あ、あの、お洋服でしたら、侯爵様が買ってくださったのがたくさん……」


 そういうと、にこやかだったお二人の表情が少しだけ厳しいものになった。

 だからといって怖い感じではないのだけれど、何かダメだっただろうか……


「それは向こうの家のだろう?」

「そうよ、こっちの分はちゃんと私たちが準備するわ!任せて、ジークよりもずっとリディアに似合うお洋服を選んでみせるから!」

 そういったママは、なんだかものすごく気合いが入っていて、パパもなにやら応援モードだ。


「ふふ、こっちで暮らす方がよくなったら、いつでも言ってちょうだいね?」


 パチンとウインクをしながら、ママが言う。

 そうだ、よく考えたらここにいるのはたった1週間だけ。

 それなのに、パパとママは私のためにお部屋を新しく用意してくれて、その上お洋服まで買ってくれるなんて。

 なんだかとっても申し訳ない気持ちになったのだけれど……


「娘ができたら、お洋服を選ぶのが夢だったの。明日その夢が叶うわ、ありがとうリディア」


 ママがそう言って幸せそうに笑うから、そんな気持ちは一瞬で吹き飛んでしまった。






 ***


「あら、ジーク、こんな遅い時間に何の用?」


 確かに、本来他人の家を訪問する時間ではなかったな、と叔母上の言葉を聞いて思った。

 それでも、叔母と甥という関係性のおかげか、追い返されるようなことはなく、招き入れてはもらえたが。


「リディアはどこに?」

「もう寝てるわよ、さすがに」

「それはわかっています、どこにいますか?」


 眠っただろう時間に来たのだ、むしろ眠っていてもらわなければ困る。


「ちょっと、寝ているリディアに何をするつもり?」


 まるで、何か良からぬ事を考えているのではないか、というような疑いの目を向けられている。


「寝かせるだけです」

「だから、もう寝てるわよ」


 叔母上は、呆れたように言う。


「リディアが寝た後、リディアを見ましたか?」

「眠った後は知らないわ。起こしたくはないし、部屋で1人にしてあるわよ」


 まあ、普通はそうだろうな、と思う。


「おそらく、今頃魘されているはずです」

「は?」

「だから、リディアのところへ案内してください」


 叔母上はしばしじっと俺を見た後、ため息をついた。


「嘘をついてるわけじゃなさそうね、いらっしゃい」


 そうして、叔母上に案内されるがままにリディアの部屋へ行くと、やはり、予想通りベッドの上で魘されているリディアがいた。


「これ、いつもなの?」

「ええ、まぁ……」

「このことは、手紙には書いてなかったじゃない」

「そうですね、忘れていました」


 リディアの好みや性格なんかは事細かに書いていたけど、確かにこのことは書いていなかったな。

 単純な書き忘れではあるが、書いた内容はどちらかというとリディアを引き取りたいと思って欲しいためのものだったから、こういった少しマイナスになりそうな内容はそもそも書こうという気がなかったかもしれない。

 そんなことを考えながら、俺はそっとリディアの額に触れる。

 いつものように魔法を詠唱すれば、リディアはおとなしくなった。


「あなた、まさかこのためだけに来たの?」


 いつの間にか、隣には叔父上もいる。

 どうやら、声が聞こえ、気になって見に来ていたようだ。


「はい、いつもこうして眠らせていたので」

「毎日かい?」

「ええ、ここ最近のことではありますが」


 俺も魘されているのを、最初から知っていたわけではない。


「ふふ、なら、私に言えばよかったのに」

「はい?」

「そのくらいの魔法なら、私だって使えるわよ?」


 そう言われてハッとする。

 叔父上は多少は魔法を使えるものの、あまり得意ではないためほとんど使わない。

 だが、叔母上はシュヴァルツ家の令嬢だった人だ。

 父上ほどではないにしろ、それなりの魔法の使い手である。

 こんな夜遅くに俺が訪問するより、ずっといい解決法だ。


「優秀なあなたが、こんな簡単なことを思いつかなかったの?」


 くすくすと笑う叔母上の声に、ものすごく恥ずかしさが込み上げ、思わず手で口元を覆った。

 それを見て、叔父上までもが笑っている。

 自分だけが子どもにでもなったかのような気分で、いたたまれない。

 きっと俺の顔は、赤くなってしまっているのだろう。


「本当に、リディアが大切なのね」


 叔母上がわざわざ背伸びをしてまで、俺の頭を撫でてくる。

 完全に子ども扱いをされてしまっているのに、俺はその手を振り払えなかった。


「そう、ですね……」


 いつも笑っていて欲しい、と思うのは、そういうことなのだろうと思う。


「でも、明日からは私に任せなさい」

「そうですね、お願いします」

「ジーク君、今日は泊まっていくかい?」

「いえ、帰ります。朝起きて俺がここにいたら、リディアも不思議に思うでしょうし」


 元々すぐに帰るつもりで訪問していた。

 なので、叔父上の誘いを断り、俺は玄関へ向かう。


「でも、どうして毎日魘されているんだろうね……」


 後方から聞こえた叔父上の疑問に対し、残念ながら俺は答えを持ち合わせてはいなかった。

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