第9話 チェスと見えない心
2日続けてアレクに呼び出された翌日、ようやくリディアは朝食の時間に起きて来られるようになった。
それからは朝食をリディアとともに取り、その後30分~1時間ほど、リディアの剣術の訓練に付き合うのが日課になった。
リディアは体力が著しく乏しいようで、訓練の後は必ずミアが昼寝をさせている。
その後、遅い昼食を取るので俺と昼食をともにすることはない。
夕食はタイミングがあえばともにするが、俺の仕事の関係で別々となることもあった。
昼食後のリディアは少し暇を持て余していたようなので、本でも読むかと書庫へ案内してみたところ、この世界の文字は読めないらしいことがわかった。
学びたいというのでルイスが指導者を買って出たが、文字を教えている時間は非常に少なく、トランプやチェス等を教えて遊ばせているようだ。
最初はお絵描きをさせようとしたが、これはイマイチだったらしい。
見た目こそ10歳程度の幼い少女とはいえ、中身は15歳だと考えれば当然かもしれない。
チェスの才能があるようで、ルールを覚えてからはルイスやミアだけでなく、他の使用人たちとも対戦したりしているとか。
それがきっかけで他の使用人たちとも打ち解けたようである。
そんなこんなで、リディアがこの国の文字をマスターするのはもう少し先になりそうだ。
どうも疲れやすい体質のようだから、あまり詰め込みすぎないようにというルイスの配慮だろう。
そんな日が1週間ほど続いたある日、ミアから報告があがった。
最近リディアが元気がないようだ、と。
とりあえずリディアの様子を見ようと、俺はリディアの部屋を訪れた。
すると、リディアは非常に驚いた様子で俺を見ている。
そういえば、朝食や夕食時、剣術の訓練の際には顔をあわせて話はしているものの、こうして部屋を訪れるのは随分と久しぶりだった。
朝食時も夕食時も訓練のときも、特に元気がないと感じたことはない。
もともと非常に明るく活発な、というわけではないし、今も普段と変わらないように見える。
元気がないのか、と本人に直球でぶつけるわけにもいかず、どうしたものかと思案しつつ、俺はとりあえずリディアが座っていたソファの向かい側に座った。
「アルファベットの練習をしていたのか」
「はい、まだちゃんと全部覚えられていなくて」
テーブルの上に散乱している白い紙。
そのうちの1枚を手に取ると、丁寧に何度も何度も同じ文字を繰り返し書いている。
他の紙を取ると、別の文字が何度も何度も練習されていた。
一生懸命なのが伝わってくる。
「ゆっくり、覚えていけばいい」
「はい」
返事はいつも通りのように思う。
特段何か違和感を感じることは、今のところない。
「チェスが得意なんだってな」
「いえ、得意というほどでは……ルイスさんに教えていただいて、最近お邸の皆さんにお相手していただいています」
チェス盤が視界の端に映ったこともあり、チェスの話題を振ってみた。
どこかはにかむように答える姿は、やはり特に気になる反応はない。
さて、どうするか、そう思ったときふとルイスがしきりに俺にもリディアの相手をしてみるように勧めていたのを思い出した。
きっとリディアが喜ぶだろう、と。
「俺とも一局どうだ?」
「え……?」
「嫌か?」
そう問うと、リディアは左右にぶんぶんと首を振った。
嫌ではないならなによりだが、そんなに勢いよく振らなくてもよいだろう。
首が取れてしまわないか心配になる。
「でも、お忙しいのでは……?」
「そうでもない、ちょうど息抜きもしたかったしな」
「でしたら、是非!」
リディアはパッと笑みを浮かべ、言うや否やチェス盤の準備をはじめる。
「おまえからでいい」
先手はリディアに譲った。
コトっとリディアが駒を動かし、ゲームがはじまった。
徐々に変わって行く盤面を見つめるリディアの表情は真剣そのもので、盤面を見ながら必死に考えているのがわかる。
なるほど、覚えたばかりでこれほどとはなかなか筋がいい。
そう思わせるような手も、何手かあった。
だがチェスは俺も得意な方だと思っている。
盤面全体を見て考えることは騎士団長としても必要なことだから、と幼い頃は父上によく鍛えられたものだ。
だから、簡単に負ける気はない、というか負けないだろう。
「チェックメイト」
「あ……」
リディアのキングを追い詰め勝利すると、リディアがしゅんと肩を落とした。
だが、それも一瞬のことで、次の瞬間にはふわっと笑ってみせる。
「侯爵様、お強いですね」
「子どものころに鍛えられててな。おまえもなかなかじゃないか、覚えたてとは思えない」
「実は似たようなものが、前の世界にもあって」
「なるほどな」
駒の動かし方が似ていたのだろうか。
似たようなものの知識を持っていたのなら、覚えやすかったのだろう。
「あっちではこうして対戦するだけでなく、占いに使ったりもするんですけどね」
そう言いながら、リディアは駒を片づけはじめ、白のボーンを手に取ったところで手が止まる。
ただボーンを見つめ、どこかぼーっとしている。
小さく『しろ』と呟いた気がしたが、気のせいだろうか。
「リディア?」
「あ、すみません」
声をかけるとリディアは止まっていた手を慌てて動かしはじめた。
これはもしかすると、少し元気がないのかもしれない。
そう考えて、俺の中である可能性が思い浮かぶ。
ひょっとして、チェスの対局の結果で落ち込んでしまったのではないか、と。
まだまだ初心者の域を出ないリディアに、俺はもしかするとあまりに大人げない戦い方をしたかもしれない。
勝負ごととなるとどうしても勝ちに行ってしまうタチではあるが、もう少し手を抜いてやった方がよかったのかもしれない、と。
「俺が相手だと、つまらなかったか?」
そう聞くと、リディアは驚いたようにがばっと顔をあげた。
「いいえ!!」
必死に否定をしてくれるリディアに安堵を覚える。
「そんなこと、絶対ありません!!むしろその……」
「ん?」
「うれし、かったです……」
「……っ、そうか」
最初の勢いは急激になくなり、頬を赤らめ恥ずかしそうに。
それでも嬉しかったと伝えてくれるリディアに、俺の方まで気恥ずかしいような気分になる。
けれど、悪くはない、いやむしろ俺もそれを、嬉しいと感じている。
「あ、あの!!侯爵様さえよろしければ、また……」
「ん?」
「い、いえ、やっぱりなんでもないです」
「言いたいことがあれば、言っていい」
「いえ、本当に、なんでもないんです……」
リディアは何か言いかけたが、俯いてやめてしまった。
言いたいことがあれば、遠慮せず言ってしまえばいいものを。
どうせなんでも聞いてやるわけではない、ダメなときはそれはダメだと言えばそれで終わる話なのだから。
「まぁ、いいか。また言いたくなったら言ってくれ」
「はい」
「それと、よかったらまたチェスもやろう」
「本当ですか!?」
はじかれるように顔をあげたリディアと目があう。
瞳がきらきらと輝いているようだ。
「嬉しいです、すごく、すごく……」
片づけの最中で手に取っていた黒のキングを両手で握りしめ、本当に幸せそうに笑う。
チェスくらいでなんともおおげさで、こちらの調子が狂いそうだ。
「別にチェスくらい、たいしたことはないだろう」
「そんなことないです……!」
楽しめることが増えたのならば、非常に喜ばしいことではある。
だが、リディアがあまりにも必死にそう言うので、なんだかいたたまれないような気になって。
ごまかすようにリディアの頭をくしゃくしゃにした。
「そうか、では次も楽しみにしておこう」
「はい!」
そう言って笑うリディアは、やはり元気がないという感じはしない。
だが、ミアは俺よりずっとリディアをよく見ているだろう。
そのミアが何の根拠もなく、そう言ったとも思えない。
「最近、何か変わったことはないか?」
「えっ!?」
なんだ、今の表情は。
何かに気づかれてしまった、みたいな。
思い当たることもなく、特にいい話題も見つからず、苦し紛れに聞いてみただけだったのだが。
どうも表情がひっかかる。
「何か、あったのか?」
「い、いえ、何もないです!」
リディアは慌てて両手をひらひらふって、何もない、と訴えている。
元気がない原因かはわからないが、何かしらあったようだな、とは思う。
俺に隠すような、何かが。
「明日、よければ街へでかけてみないか?」
「え……?」
考えに考えて、結局浮かんだのはそんな提案だった。
とりあえず、何かしら気分転換をさせてみるのもよいだろうと思って。
「まだ、どこにも出かけたことないだろう?」
外に出るのもせいぜい剣術の訓練くらいだ。
このくらいの年齢であれば、いろんな店を見てまわって買い物をするのも好きだろう。
リディアの持ち物はルイスが用意した必要最低限のものしかない。
そこにリディアの好みや希望は全く反映されていないし、この機会にいろいろと必要なものを買ってくるのも悪くはない。
特に洋服は本当に最低限しか用意していない、数が少なすぎると思っていたところだ。
この機会にいくつか新調して増やしておくべきだろう。
「あの、お忙しいのでは?」
「それくらいの時間なら作れる、気にしなくていい」
「でも……」
そう言えば、さっきもリディアは俺が忙しいことを気にしていた。
もちろん仕事がないわけではないが、そんなに目まぐるしいほど忙しい日々を送っているわけでもない。
リディアには俺が、ちょっとした時間を作る余裕もないほど忙しそうに映っているのか。
「ちょうど出かけようと思っていたんだ。もし嫌でなければ、付き合ってくれ」
あくまで元々出かける予定があったように。
そのついでに、リディアも外出させるだけだと伝わるように。
そうすれば気にせずについてくるだろう、そう思ったがリディアはなかなか手強かった。
「私がご一緒して、ご迷惑にはなりませんか?」
「ああ。一人で見てまわっても、つまらないだろうしな」
というか、1人ならば街に行く用事がそもそもないんだがな。
リディアは、考え込んでいる。迷っているようだ。
だが、この様子だと、街へ行ってみたい、とは思っているような気がする。
「俺とでは嫌か?」
「違います!」
また必死に首を左右にふっている。
そんな一生懸命振らなくたって、ちゃんと伝わっているのに。
「なら行ってみよう。何か欲しいものがあれば買ってやるから」
「いえ、それは大丈夫です!今いただいているもので、十分ですから!」
なんとも欲がない。
こうなると、街に出て欲しいものを見つけたとしても自分からは言わなさそうだな。
これが貴族令嬢ならば、侯爵である俺がなんでも買ってやると言えば遠慮なく高いものを強請って来そうな気がするが。
「で、でも、その、ご迷惑でなければ、お出かけはしてみたいです……」
ようやく聞けた、欲しかった返答。
それを言ったリディアは、恥ずかしそうに少し俯いていて、上目遣いなのがかわいい。
そこまで考えて、ああまた馬鹿なことを考えているな、と思う。
「ああ、そう言ってくれてよかった」
今リディアが持っている服は、どれもこれもサイズが少し大きめだった。
ぶかぶかなのもそれはそれでよいが、今回はきちんと採寸をしサイズのあった服を新調してこよう。
とりあえず、片っ端から試着させれば気に入る服も見つかるだろう。
いろいろ着せてみるのも、なかなか楽しみかもしれない。
他にも街にはいろいろな物が売っている。
リディアはいったいどんなものに興味を示すだろうか。
そんなことを考えているだけで、明日は悪くない1日になりそうだ、と思った。
***
真っ白な何もない部屋。
私にとって嫌な思い出が、たくさん詰まった場所。
そして最近、必ずといっていいほど、夢に見る場所。
気づいたらあの場所に戻っていそうな気がして、漠然とした不安が押し寄せる。
その所為か、最近は何をしても気が晴れなかった。
少しでも忘れたくて、違うことを考えていようとして、アルファベットを書く練習をしていたら、侯爵様が部屋に現れた。
もう、私の部屋に来てくれることはないと思っていたから嬉しかった。
きっとすごく忙しいと思っていた侯爵様は、私とチェスをする時間を作ってくれて。
侯爵様とのチェスの時間は、あっという間だった。
だから、またやりたいと思ったけれど、そんなわがままは言えなくて。
でも、侯爵様からまたやろうと言ってもらえて。
次があることが、本当に本当に嬉しい。
でも、本当は侯爵様にすがりつきたい気持ちもあった。
怖いのだと伝えて、抱きしめてほしいと思った。
侯爵様に大丈夫だと言ってほしかった。
そうすれば、安心できるような気がしたから。
けれど、これ以上侯爵様にご迷惑をかけてはいけない。
最近ミアさんが、私のことを心配してくれているようだった。
だからきっと、侯爵様は私を街に連れ出してくれるのだと思う。
お優しい方だから、きっと甘えたらそれに応えて甘えさせてくれる。
だからこそ、これ以上甘えてはいけない。
「明日すごく楽しみ、だから大丈夫」
眠るのが怖かったけれど、そう言い聞かせて、私は眠りについた。
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