第51話 涼子の日記
一つは、好きな歌手の情報を欠かさずチェックすること。
以前は涼子の信奉する「柏みどり」の情報が中心だったが、活動を休止してからは、「風早マリカ」の情報を主に集めている。
そしてもう一つの日課は、就寝前に日記を書くことだ。
宝城家で働き始めて五年になるが、ちょうどその頃から書き出したので、日記帳は家政婦としての仕事の記録にもなっている。
仕事を終えて今日の分の日記を書き終えた涼子は、ページをパラパラとめくり、とある日付の部分で目を留めた。
【9月19日】
今日は若旦那様に愛人がどうのこうのと奇妙な質問をされた。
黙っていればよかったのに、あんな知ったふうな口を利いて、生意気なやつだと思われたりしなかっただろうか。
だから人としゃべるのは嫌なのだ。
しゃべった後で、たいてい後悔する羽目になるのだから。
数か月前の記述だ。
いまのところ、若旦那様が愛人や人妻を抱え込んだ、という話は聞いていない。
その代わり、ついに玲司様にも恋人ができたかもしれない、と使用人たちの間ではささやかれている。
真偽のほどは涼子にはわからない。
みんな休憩時間に集まってはいろいろと噂しているようだけれど、そもそも涼子は人と会話をするのがあまり得意ではない。
それに余計なことを言わずにいれば、周囲と摩擦を起こさずに済む。
無口であることは、涼子なりの処世術だ。
なので、いつも誰かと楽しそうに話している社交的な颯太は、あまり関わり合いになりたいタイプの人物ではなかった。
それが急に「颯太くん」「涼子ちゃん」と呼び合う仲になったのだから、隔世の感がある。
颯太と話すようになったきっかけは、もちろん「風早マリカ」だ。
みどり様の活動休止宣言の衝撃が大きすぎた反動か、涼子はその心の穴を埋めるようにラジオでたまたま聴いた「風早マリカ」の歌声に夢中になった。
マリカがみどりの秘蔵っ子だと知ってからは、運命的なものすら感じて、ますますのめり込んでいった。
マリカ初主演のミュージカルのチケット発売初日には、仕事が終わるとすぐに券売所へ走ったが、あいにく涼子が休みの日の公演チケットは完売済みだった。
絶望的な気分で売り場を離れたところを、町中で用事中の颯太に目撃された。
職場の親しくない知り合いに自分の趣味を知られた時の気まずさはなかなかのものだったが、颯太はそんな涼子の心中などお構いなしに話しかけてきた。
「もしかして風早マリカのファンなの?」
「だったらなんだって言うんですか」
こんな感じの悪い返事をすれば、たいていの人間はそこで会話を打ち切ってしまうだろうが、颯太はあっけらかんと信じられない提案をしてきた。
「俺も風早マリカを応援してるんだ。そんでチケットがちょうど一枚余ってるんだけど、よかったら一緒に行く?」
チケットの日付を確認させてもらうと、なんと涼子が狙っていた公演日ドンピシャだった。
もちろん、颯太が苦手だからという理由で、涼子がこの奇跡的な申し出を断るわけがなかった。
ちゃんと話をしてみると颯太は好青年で、涼子がつい夢中になって自分の好きな歌手について語っても、楽しそうにずっと話を聞いてくれていた。
相手に気を使わずに自分の好きなことを好きなように話す、というのは涼子にとって本当に久しぶりのことで、以来、颯太を見かけると、風早マリカの話題でごく自然と言葉を交わすようになっていった。
もちろん涼子ばかりが一方的に話をするわけではない。
颯太が植物やお屋敷の庭について話す時には、涼子も颯太にそうしてもらったように一生懸命に話を聞いた。
ある時、颯太はこんなことをふと口にした。
「前から、お屋敷の中の植物が元気な時とそうでない時があるなって思ってたんだ。なんでだろう、って不思議だったんだけど、前に涼子ちゃんが観葉植物に霧吹きしてるのを見て気づいたんだ。この人が持ち回りで担当している場所は、いつ見ても花瓶の花も鉢植えも元気だなって」
だからありがとね、と笑いかけられて、涼子は心底反省した。
どうしてよく知りもしないのに、颯太に対してあんなに苦手意識を抱いていたのだろう。
もしかすると無自覚な反発心さえ胸の内に抱え込んでいたかもしれない。
今、こうして振り返って考えてみても、以前の自分の頑なさが不思議ですらある。
そんなことをつらつらと思い返しているうちに、涼子はハタとあることに気づき、急いで前のほうのページを繰っていた。
涼子が使っているのは五年用の分厚い日記帳だ。
なので先頭のほうは数年前の出来事になるのだが、四年前のページのあたりで、涼子は目当ての記述を見つけた。
【4月14日】
午後、次男の咲夜様が突然お屋敷にやって来た。ご本人を目にするのは初めてだ。普段は別の場所で暮らしていると聞いたことはあるけれど、詳しくは知らない。
咲夜様がご滞在中の間、個室の外に出る時は屋敷内では必ずマスクを着用するようにと執事長からお達しがあった。使用人全員にマスクが支給される。
古株の先輩にどうしてマスクをつけるのか理由を聞いてみたけれど、余計な詮索はしないように、と怒られてしまった。
先輩もこの件についてはあまり話したくないのかもしれない。気をつけなければ。
【4月15日】
今日は咲夜様のお付きの子と少しだけ話をした。
厨房ですれ違った時、その子がマスクをつけていなかったので、予備のマスクが必要かどうか声をかけたら、「大丈夫です。でもありがとうございます」と笑ってお礼を言ってくれた。感じのいい子だった。同年代の子が周りにいないので、咲夜様がここに滞在中の間だけでも仲良くできるといいな、と思った。
【4月16日】
昨日はなんだかお屋敷の中が騒がしいと思ったら、咲夜様がお倒れになったそうだ。無事に持ち直したらしいけど、あのお付きの子もしばらくは看病で大変だろう。
【4月20日】
朝から数台の車がお屋敷の前に停まっていたので気になっていたら、咲夜様が病院へ検査に行くための送迎車だった。
お付きの子は病院には一緒に行かないで、お屋敷に残って午前中は掃除の手伝いをしてくれていた。
お昼を一緒に食べようと誘おうと思っていたのに、庭師に先を越されてしまった。せっかくの機会だったのに。
しかも庭師がお付きの子を外へ連れ出したせいで、病院から戻った咲夜様は、あの子が外出中と知った途端、機嫌が悪そうな顔になった。
あの子が帰ってきた時、咲夜様がお戻りになっていることをすぐに教えたけれど、後で叱られたりしなかったか心配だ。
もし叱られたりしていたら、全部あの庭師のせいだ。
【4月21日】
朝のまかない当番だったので、いつもより早めに起きて厨房に行くと、あのお付きの子がいた。たまたま目が覚めて水を飲みに降りてきたらしい。
昨日、咲夜様に怒られたりしなかったか確認すると、大丈夫だったと言っていた。それを聞いて安心した。
まかないの準備を手伝ってくれると言ってくれたので、一緒にホットケーキを作ったら、とても喜んでくれた。
二人で朝食を食べながら話をした。妹がいると嬉しそうに話していた。仲が良さそうだ。
私は両親と折り合いが悪くて家を飛び出すように上京してきたけれど、弟のことは嫌いじゃなかった。みんな元気にしているだろうか。今度、手紙を書いてみようかと思う。
厨房を出る時、お礼にと言われて、お菓子のラムネをもらった。
……長年抱いていた颯太への苦手意識は、このあたりが遠因だったのだろうか。
ちなみに咲夜様は病気が快癒し、今は海外に留学されている。
留学前に昨夜様が一時期このお屋敷に戻られた際には、あのお付きの子の姿は見当たらなかった。
寂しい気もしたが、きっと今もどこかで元気に働いているに違いない。
涼子はパタンと日記帳を閉じた。
このままでは朝までずっと古いページを読み返してしまいそうだ。
明日も早い。
日記帳を机の引き出しにしまうと、涼子はベッドに入った。
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