第50話 バラとハッカと【extra2-6】
「よかったらどうぞ」
桐生院はダッシュボードにいつも入れている飴をマリカへ差し出した。
受け取って中身を口に含んだマリカは、ぽつりとつぶやいた。
「辛いです……」
涙はもう止まっていたが、声に力がない。
「ハッカだからね。のどには良いと思うけど」
「甘いのがいい……」
マリカはいまにも泣き出しそうに、か細い声を出した。
ショックが大きかったのか、幼児化してしまっている。
「あいにくラムネの持ち合わせはないよ」
言った途端、マリカの顔が凍りついた。
桐生院はどうやら失言したらしいと悟った。
ラムネはマリカの中であの青年を想起させる物なのだろうか。
再び泣くかと思ったが、マリカは少しうつむいただけだった。
沈黙が車内によどむ。
黙って運転を続けていると、不意にマリカが口を開いた。
「さっき、どうして私のことをマリカじゃなくて『フウカ』って呼んだんですか」
「なんとなくね。人が見ていたし、そっちのほうがいい気がしたんだよ」
もちろん本当のことだが、他にも理由はあった。
颯太がマリカのことを「フウカ」と呼ぶのを聞いて、それが親しい間柄で使われるマリカの呼称なのだと気づいた。
もしかしたら「マリカ」というのは芸名で、本名は「フウカ」というのかもしれない。
自分がその特別な呼称を颯太の前で口にすれば、少女の体面と尊厳を少しでも支えられるのではないか、という意識がとっさに働いた。
独り善がりの余計なお節介だったろうし、マリカにしてみれば桐生院があの場に現れたこと自体、土足でいきなり踏み込まれるに等しい行為だったかもしれない。
それでもマリカをあの場に残したまま立ち去ることが、桐生院にはどうしてもできなかった。
喜びに満ちた顔が失意に変わる瞬間を目の当たりにし、マリカに昔の自分の姿を重ねてしまっていた。
マリカを助けようとしたのではなく、かつての自分を救おうとしたのだ。
けれどそれをマリカに言うつもりはなかった。
彼女にはまったく関係のない話だ。
しばらく車を走らせると、入江の海岸に到着した。
空き地に停車して車を降り、どちらも黙ったまま海辺へと歩いていった。
貨物船の港がすぐ近くにあり、コンクリートで塗り固められた海岸線の向こうには、林立するビルや橋といった都会の風景が地続きで広がっている。
周囲に人の姿はなく、沈みかけの夕日が海面に反射して、どこか寂寞とした空気が周囲一帯を包んでいた。
横を見ると、少し間を空けてマリカが立っていたが、じっと海の一点を見つめていた。
桐生院は人魚姫の話を思い出した。
童話の人魚姫は、恋に破れて海へ飛び込み、泡となって消える。
まさかな、と思ったが、この年頃の女の子は思いつめたら何をしでかすかわからない。
後先考えずに、自分の命すら投げ出しかねない危うさを秘めている。
桐生院もかつて苦い経験をした。
元気で働き者だった少女の記憶が頭をかすめ、桐生院はマリカの様子を注意深くうかがった。
おかしな動きを見せたらすぐに止めなければならない。
そんなことを考えていると、マリカが急にこちらを見た。
「もしかして私が海に飛び込むんじゃないかって、心配してますか?」
図星をさされて桐生院が答えに窮すと、マリカは「やっぱり」とつぶやいた。
少し怒っているような雰囲気だった。
「さっきからずっと心配そうにこっちを見てたから。しませんよ。そんなこと一瞬でも考えたら、お姉ちゃんが悲しむから」
「お姉さんがいるのかい」
少々ばつの悪い思いをしながら桐生院は尋ねた。
マリカはうなずき、視線を海へと戻した。
「私が病気だった頃、どうにか治療を受けさせようと身を粉にしていつも働いていました。学費が高くて音楽学校への進学を私が断念した時も、『どうか学ぶことを諦めないで』って励ましてくれて」
「いいお姉さんだね」
マリカはようやくほほ笑みらしきものを口元に浮かべた。
「くじけそうになった時には、姉のことを考えるんです。今は海の向こうで暮らしていて会えないから」
とんだ的外れな心配をしてしまったようだと、桐生院は己の不明を恥じた。
マリカが海を見たいと言ったのは、別に感傷に浸りたかった訳ではなく、海の向こうにいる姉に思いを馳せ、心を奮い立たせるためだったのだ。
ぽんと両手で頬を叩くと、マリカは桐生院に向き直った。
「ここに連れてきてくれてありがとうございました。ダメですね、私。昔はどんな時でも歌があれば大丈夫だったはずなのに、大事な公演期間中に揺らいだりして。お姉ちゃんにもみどり先生にも叱られちゃいそう」
少しぎこちなさはあったけれど、マリカは笑ってみせた。
自分と同じかと思ったけれど、まったく違う。
強くてたくましい。
目の前の少女がなんだかとても不思議な存在に思えて、桐生院はまじまじと見下ろした。
ずっと黙っていたせいか、マリカはやや首をかしげた。
「もしかして、情けない姿を見たせいでがっかりさせちゃいましたか?」
「いいや」
桐生院は首を横に振った。
今なら涼子が熱弁をふるっていた理由も、少しはわかる気がした。
「ますます君のファンになったよ」
そう言うと、マリカは目を見開いて、顔をほころばせた。
心臓から杭が抜けても大丈夫と思える日がいつか来るかもしれない。
たとえ最愛の人が手に入らない人生だったとしても、この世界にはかけがえのないものがきっとどこかに存在している。
そんな予感が胸に兆す。
二人して車へ戻る途中、夕日がすっかり沈んだ空には、星が小さく瞬いていた。
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