第49話 バラとハッカと【extra2-5】

車を降りた桐生院は、劇場の裏手側にマリカの姿を見つけた。


その付近では、ノートやペン、花束などを手にした集団が建物の裏口を取り囲むように固まって立っていたが、体操服という格好のせいか、誰もマリカの存在には気づいていないようだった。


桐生院は集団を迂回してマリカに近づきかけ、少し離れた場所で足を止めた。


マリカは誰かと向かい合って立っていたが、その相手はロビーで見かけた青年だった。


「颯太さん。素敵な花束、ありがとうございました。約束、覚えていてくれたんですね」


「本当は風佳ちゃんに直接手渡ししたかったんだけどね。客席には持ち込めないし、楽屋には行かせてもらえないしで。ごめんねぇ」


「そんな。とっても嬉しかったです」


マリカは力を込めて強調した。


頬はうっすらと紅色に染まり、相手を見つめる瞳には、ほんのわずかな恥じらいと、押し隠せない喜びが同居している。


一目でわかる。


あれは恋する乙女の顔だ。


桐生院は即座にその場を離れることにした。


マリカのあの様子では、わざわざ出ていってチケットのお礼を伝えようとしたところで、邪魔にしかならない。


幸い、桐生院は建物の陰に立っていたので、まだ二人に気づかれていなかった。


野暮なことになる前にそっと立ち去ろうとした時、裏口付近の集団の中から一人の女性が抜け出し、桐生院のほうへと足早に向かってきた。


二十歳前後だろうか。


つかつかと規則正しい足音を刻みながら桐生院の横を通過し、マリカと青年に躊躇なく近づいていった。


「颯太くん」


女性が声をかけると、颯太青年は女性に顔を向け、ぱっと満面の笑みになった。


「涼子ちゃん。ちょうどよかった」


涼子と呼ばれた女性が青年の隣に立つ。


マリカはやや戸惑いながら、並んで立つ二人に問いかけるようなまなざしを向けていた。


どこか雲行きが怪しい。


なんとなく桐生院はその場を立ち去りそびれた。


「颯太さん、そちらの方は……?」


マリカが尋ねると、颯太は涼子を見た。


「えーと、なんて紹介すればいいのかな?」


涼子は自分からマリカに話しかけた。


「もしかしなくても、あなたは風早マリカさんですか?」


マリカがうなずいた途端、涼子はひゅっと息を吸い込み、肩で大きく息をし始めた。


どこか様子がおかしい。


「あの、大丈夫ですか……?」


「涼子ちゃん、落ち着いてっ」


マリカと颯太が同時に声をかけると、涼子はどうにか呼吸を整え、改めて姿勢を正した。


「失礼しました。ついご本人を前に興奮してしまいました」


「興奮?」


「涼子ちゃんはね、ふ…じゃなかった、風早マリカのファンなんだ」


「ファンじゃありません」


涼子のややつっけんどんな声に、マリカはびくっと大きく体をこわばらせたのだが。


「大ファンです。みどり様の活動休止を知った時にはこの世の終末が到来したかと思いましたが、彗星のように現れたあなたの声と存在によって地獄の奈落から救われました。ラジオは欠かさず拝聴していますし、舞台の情報も常に把握しています。もちろん新聞雑誌チラシにも目を光らせ、あなたに関する記事は一言一句たりとも取りこぼさないよう細心の注意を払ってスクラップブックに収蔵しています」


涼子は熱弁をふるった。


淡々とした語り口だったが、もはや執念とすら言えそうなほどの熱烈な内容だ。


桐生院はあっけにとられたが、さすがにマリカはプロだった。


涼子に対して、ほのぼのと笑いかける。


「応援してくださってありがとうございます。すごくすごく嬉しいです」


マリカのほほ笑みに、涼子はふるふると体を震わせていた。


「そんな……私のほうこそいつもありがとうございます……」


泣き出しそうなのを、どうにかこらえている様子だ。


「よかったね、涼子ちゃん」


颯太は保護者のように涼子に優しくほほ笑んでいる。


なんてことはない。


知り合いを介して、歌手と熱心なファンが対面しているだけではないか。


桐生院は今度こそ立ち去ろうと、回れ右をして一歩踏み出しかけた。


「風佳ちゃんのおかげで、涼子ちゃんとも仲良くなれたんだ。ありがとね」


「え?」


それはほんの小さなつぶやき声だったが、なぜか桐生院の耳にはっきりと届いた。


わずかに振り返り、足を止める。


マリカの笑顔に、小さな亀裂が入っていた。


「俺、涼子ちゃんに最初は全然口をきいてもらえなくってさ。結構こたえてたんだけど、お互いに風早マリカのファンだってわかってから、会話がすごく増えたんだ」


「ちょっと颯太くん。そんな話をここで持ち出さないでください。私が悪者みたいじゃないですか」


「ごめんごめん。そんなことちっとも思ってないから。怒んないで」


颯太と涼子が話すほどに、マリカの顔に入った亀裂は、どんどん広がっていくようだった。


マリカの変化に颯太が気づかなかったとしても、仕方がなかったかもしれない。


マリカ自身、颯太にだけは悟られたくなかっただろう。


桐生院が気づいたのは、身に覚えのある状況だったからだ。


しかも間の悪いことに、裏口付近にいた集団も、マリカの存在にどうやら気づき始めていた。


後方から「あれ、風早マリカじゃない?」「え、どこどこ?」とざわめき声が聞こえてくる。


マリカはまだかろうじて笑顔だったが、亀裂があと少しでも広がれば、もろい仮面はすぐに剥がれ落ちてしまいそうな気がした。


まるでかつての自分を見せつけられているような気分だった。


「フウカさん」


桐生院は立っていた建物の陰から進み出た。


三人の視線が一気に桐生院へと集まる。


桐生院はマリカと他の二人の間に悠然と割って入った。


マリカは驚いていたが、桐生院は気づかないふりをして話しかけた。


「最近急に気温が冷え込んできたのに、上着も着ないで外に立ってたらダメじゃないですか。体調管理には気をつけるようにと前にも言ったでしょう」


桐生院は羽織っていた上着を脱ぐと、マリカの肩にかけ、颯太を振り返った。


「今日はもうこのあたりで。彼女が風邪をひいたら大変だ」


笑顔でそう言うと、颯太は慌て気味にうなずいた。


「もちろんです。風佳ちゃん、気が利かなくてごめんっ」


「私も申し訳ありません。お疲れのところ、つい嬉しさのあまり長々と引き止めてしまいました」


颯太と涼子がそれぞれマリカに謝った。


「いえ、そんな……」とマリカが返事をしかけたので、桐生院は「それじゃお先に」とマリカの肩を引いて、やや強引に歩き出した。


マリカは歩きながら桐生院を見上げた。


「あの、止まってください」


「もう少し先に行ってから。今ここで立ち止まったら、そこにいる集団にいっぺんに囲まれて身動きが取れなくなるよ」


マリカは聞いているのかいないのか、人形のように黙って歩いた。


心ここにあらずの状態だ。


路肩に停めた車の手前まで来たので、桐生院はマリカの肩から手を離した。


横目で周囲を確認すると、裏口に固まっていた集団の何人かが桐生院たち二人の動きを視線で追っていたが、ちょうど別の出演者が建物から出てきて、黄色い歓声が上がった。


現れたのは王子役の俳優のようだった。


人目につかないうちに楽屋へ戻るよう促そうとして、桐生院は言葉を飲み込んだ。


隣で、マリカが声もなく涙を流している。


「……具合が悪そうだけど、大丈夫かい」


言いながら、馬鹿なことを聞いたと思った。


いいわけがない。


身に染みてわかっているはずなのに、こういう時にかけるべき言葉が浮かんでこない。


何年経っても成長しない自分にうんざりする。


マリカは質問には答えず押し黙っていたが、かすれ声でぽつりとささやいた。


「海を」


「海?」


「海を見たいです」


マリカはそう言ったが、それは桐生院に頼んでいるというより、ただの独り言に近かった。


「……見に行こうか、これから」


マリカがぼんやりとうなずく。


助手席のドアを開けると、マリカは車に乗った。


ここからなら、少し車を走らせれば、日が沈む前に都心の沿岸部に出られる。


桐生院は車に乗り込み、マリカを外へ連れ出した。

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