第47話 バラとハッカと【extra2-3】
午後の仕事中、考えに煮詰まった桐生院は口寂しさを紛らわそうとして上着のポケットに手を突っ込んだ。
ハッカ飴を取り出すつもりが、つかんだのはいつかのラムネだった。
桐生院は鮮やかなピンク色をした包み紙をしげしげと見つめた。
チャリティーコンサートから一週間が経つが、新聞各社に掲載された記事や専門家の論評はおおむね好意的だったようだ。
責任者の玲司も面目躍如といったところだろう。
桐生院はラムネの包み紙をはがすと、大きな錠剤の形をした中身を口の中に放り込んだ。
舌の上で甘い塊がほろほろと溶けて消えていく。
歌い終わった風早マリカを見た時は、いつぞやの帰り道で出会った少女と同一人物かと思ったが、時間が経つにつれ、単なる勘違いのような気もしていた。
仮に同一人物だったところで、音楽や有名人に興味はないので、桐生院にとってさほど重要度は高くない。
それより目下の問題は、朝から周囲が騒々しくて、個室にこもっていても集中できないことだった。
今日は宝城製薬の創立記念日で、毎年、その日は定時後に会議室を利用して従業員のための立食パーティーが開催される。
準備のために実際に人が行き来する気配だけでなく、社内全体にどこか浮足立った雰囲気が漂っていて、それが扉越しにも伝わってくるのだ。
仕事の波に乗っていれば周囲のことは気にならないが、今日はどうしても意識が散漫になってしまい、ちっとも仕事がはかどらない。
パーティーが始まってしまえば全員会議室に移動するので、かえって静かに集中できるかもしれない。
終業時刻まであともう少し。
パーティーが始まるまでどこか別の場所で時間をつぶし、人がいなくなってからそっと戻ってくることに決めた。
最初のほうだけ会議室に顔を出して腹ごなしをし、その後はさっさと仕事に戻るという選択肢もあるにはあるが、人につかまるとなんだかんだで最後まで居残る羽目になる。
サボりと言われるかもしれないが、仕事のためだ。別に誰も構うまい。
潔く席を立ちあがった桐生院は社屋の外に出ると、植物園に向かった。
いつもの表門からではなく、わざわざ遠回りして裏門から植物園の中に入ろうとしたのは、同僚の目をはばかる気持ちが少しはあったからだが、そのせいで予想外の人物に見つかることになった。
「あの!」
よく通る声で呼び止められ、不意打ちを食らった桐生院は自分でも珍しいほどに驚いた。
反射で体の筋肉がびくりと波打っている。
振り返ると、長袖長ズボンのジョギング姿の少女が後ろに立っていた。
「君は……」
「今日はなんとなく会えそうな気がしてたんです。先日は助けていただいてありがとうございました!」
少女は満面の笑みを浮かべると、ぺこりと元気よく頭を下げた。
決して怒鳴っているわけでも大声を出しているわけでもないのに、話し声がよく響く。
門の近くに立っている警備員が、何事かとこちらに視線を向けてきたが、少女は無邪気にしゃべり続けた。
「あれから私、ここを走る時はあなたのことを探してたんですよ。聞いてみたいことがあって!」
「そう。じゃあこの前のベンチの所まで移動しようか」
桐生院は少女をやんわりさえぎると、植物園の中へと誘導した。
少女は「わぁー、また中に入れる!」と素直に喜んでいる。
「で、僕に聞きたかったことって何かな」
ベンチに腰を下ろして桐生院は少女に尋ねた。
「この前、コンサートに来てました?」
問われた桐生院は一瞬答えにつまり、逆にこう聞き返した。
「君はこの前、コンサートで歌ってた?」
「やっぱり!」
少女は嬉しそうにぱちんと両手を打ち合わせた。
「目が合った時、絶対にそうだと思って」
「よく見えたね」
やはり少女と風早マリカが同一人物だったことに驚くよりも、桐生院はそちらのほうに感心してしまった。
前のほうの席ではあったが、間にはオーケストラも入っていてそれなりに舞台との距離はあったし、客席には他にも大勢の観客がいた。
「昔から目はいいんです」
マリカは得意げな顔をしてみせたので、桐生院は思わず吹き出した。
「声がいい、じゃなくて?」
「私なんか、まだまだ全然ダメです。みどり先生の足元にも及びません」
先ほどまでの天真爛漫な顔つきが一変し、至極真剣な表情をしている。
「みどり先生というのは、もしかしてあの柏みどり?」
「はい!」
マリカは再び表情をころりと一変させた。
「先生はすごいです。すごいのは前からわかっていたつもりだったんですが、自分で舞台の上で歌ってみて、本当にすごい人なんだなってますます実感している最中です」
桐生院はマリカの歌も十分すごいと思ったが、音楽は素人なので、専門的なことについては詳しくはわからない。
ただ、今のマリカの話を聞いていて、一つだけわかったことがある。
「君は、先生のことが大好きなんだね」
桐生院の口から滑り落ちた言葉に、マリカは大きくうなずいた。
「もちろんです。先生はお忙しい合間を縫って、楽譜も読めなかった私のことを一から指導してくださいました。歌に関しては一切の妥協を許さない方ですけれど、普段はとっても気さくで。世界で一番尊敬しています」
熱っぽく語るマリカの目は純粋で、光を散らしたようにきらきらと輝いている。
桐生院はまぶしいような思いでマリカを見つめた。
自分もこんなふうに恩師を純粋な気持ちで慕うことができたなら、どんなにか幸せだったろう。
アンジュと出会ったのは学生の頃だから、今のマリカとそれほど年齢は変わらないはずだ。
けれど桐生院はアンジュに初めて会った日から、心臓に見えない杭を打たれている。
何度地獄に突き落とされても思いを断ち切ることはできず、打たれた杭は今日まで抜け落ちることなく存在し続け、もはや痛みと共に桐生院の一部となって癒着してしまっている。
どんなにみじめでみっともなくても、もし杭が消えれば、体には埋めようのない大きな穴が開いて、きっと自分には何も残らない。
「あの、大丈夫ですか?」
はっと我に返ると、マリカが心配そうな顔をして桐生院のことを見ていた。
「ごめんごめん」
いつの間にか日がすっかり落ちて、植物園の中は薄暗くなっている。
「そろそろ出ようか」
桐生院はベンチから立ち上がると、マリカを表通りまで送っていった。
「それじゃ」
「あ、待って」
会社に戻ろうとしかけた桐生院に、マリカはズボンのポケットから何かを取り出した。
「あの、これよかったら」
差し出された物を受け取ると、音楽劇のチケットだった。
「すみません、ポケットにずっと入れてたから、しわが寄っちゃって」
「これ、新作のチケットだよね。こんな高価な物、受け取れないよ」
「代役じゃなくて、初めて自分の名前で出演する劇だから、チケットを何枚かもらえたんです。この前コンサートに一人でいらっしゃってたから、歌が好きなのかなと思って」
「気持ちは嬉しいけど、ご家族や友人にあげる分が足りなくなったりはしない?」
「大丈夫です。大切な人の分もきちんと取ってあるので」
マリカは朗らかにうなずいた。
そういうことなら、と桐生院はチケットを受け取ることにした。
せっかくのデビュー作なのに、固辞するのもなんだか申し訳ない。
それに歌が特別好きなわけではないが、彼女の歌はもう一度聴いてみたいと思った。
「ありがとう。喜んで行かせていただくよ」
素直にそう伝えると、マリカは嬉しそうな顔をして、元気よく走り去っていった。
あの純朴な少女が、本当に舞台でスポットライトを浴びて歌っていた人物なのかと、まだ不思議な気持ちである。
マリカの小さくなっていく背中を見送ってから、桐生院はようやく歩き出して会社に戻った。
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