第46話 バラとハッカと【extra2-2】

チケットをもらってから十日後。


チャリティーコンサートの当日である。


さほど肩肘張った格好をしなくてもいいかと考え、桐生院はベストにジャケット着用という普段とさほど変わらない格好で出かけることにした。


ネクタイだけ仕事中は使わないハンカチーフ生地のものを首に巻き、小ぶりの色鮮やかなタイピンで遊んでみる。


夕方五時からの開演なので、その三十分前に劇場に到着すると、入り口付近は人で混雑していた。


客席につながる扉前のロビーも混み合っていて、運営スタッフとして立ち働く文乃の姿や、来賓と思しき面々に挨拶をしている玲司の姿も見かけた。


忙しそうなのであえて声をかけずに客席に向かうと、文乃が用意してくれた一階の席は、前寄りの見やすい位置にあった。


舞台下のオーケストラ席では、既に楽器の演奏者が何人か準備を始めていて、調弦や楽譜のチェックを行っている。


正面の舞台にはまだ垂れ幕が下りているが、この席なら舞台の上もよく見えそうだった。


やがて開演を告げるアナウンスと共に客席の照明が落ち、舞台の幕が上がった。


司会進行役の男性が最初に現れ、人気実力共に兼ね備えた歌手たちが次々に登場しては様々な曲を歌っていく。


町中やラジオで一度くらいは耳にしたことのある流行歌や有名曲も数多く含まれていて、予想していたより桐生院はコンサートを楽しむことができた。


プログラムの終盤近くで司会の男性が「風早マリカ」の名前を口にすると、客席がさざめいた。


期待に満ちた好意的な声の他に、新人歌手の実力を今日この場で評価してやろうという手ごわい客もいるようで、いずれにせよ文乃が言ったとおり、注目度は間違いなく高いようだった。


興奮と緊張が静かに高まる中、照明が一瞬だけ完全に消えて真っ暗になった後、舞台中央にスポットライトが当てられた。


丸い光の中に、ほっそりとした人影が浮かび上がっている。


舞台の上に立つ風早マリカを見て、桐生院は内心首をかしげた。


どこかで会ったことがあるような気がしたが、どこだったか思い出せない。


けれどマリカが歌い始めた瞬間、考え事は頭の中からいっぺんに吹き飛んでいった。


歌声が、客席の隅々までを一瞬で支配していく。


マリカが歌ったのは、柏みどりの代名詞とも称される有名な劇中歌だった。


その曲のレコードは社会現象と言われるほどの爆発的な売り上げを記録し、柏みどり以外の歌手たちも大勢歌っている。


柏みどりは男女の愛を壮大なオーケストラの演奏と共に情感たっぷりの低めの声で歌い上げるが、マリカの歌い方は何もかも対照的だった。


伴奏なしの独唱で、透明感あふれる歌声が本人の清楚な立ち姿と相まって、どこまでも清潔な歌いぶりである。


情愛や悲恋という歌詞の内容にも関わらず、まるで讃美歌でも聴いているような気分だった。


高くて繊細な音も明瞭かつ柔らかく響き、一音ごとに聴衆の心と体にしみわたっていく。


マリカが歌い終えると、しんとした静寂が空間に満ちた。


誰もが呼吸すら忘れたかのように陶然としていたが、次第に客席から拍手の音がぱらぱらと沸き起こり、やがてそれは万雷の拍手となった。


マリカは片手を胸に当てると、もう片方の手でドレスの裾をつまんで膝を折り、笑顔で聴衆の拍手に応えた。


白い歯がこぼれた歌姫の笑みに、桐生院は驚きの声を辛うじて飲み込んだ。


舞台の上にいたのは、いつぞやの体操服を着て道端にしゃがみ込んでいた少女だった。

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