第45話 バラとハッカと【extra2-1】
秋も深まってきた日の昼休み。
文乃が桐生院の個室を訪れて、一枚のチケットを差し出した。
「これ、もしよかったら」
受け取って確認すると、それは宝城製薬が主催するチャリティーコンサートのチケットだった。
「以前、オペラのチケットをいただいたので、そのお礼にと思って」
「わざわざいいのに。ありがとう」
礼を言うと、文乃は嬉しそうな表情を浮かべた。
その一点の曇りもない笑顔を見ると、桐生院の良心がややちくりと痛む。
ひと月ほど前、玲司に無理やり押し付けられたチケットをたしかに文乃に譲ったが、それは善意や親切心によるものではなく、単に行くのが面倒くさかったからである。
あとは、文乃の気持ちにまったく気づかない玲司に対する、ちょっとした出来心だろうか。
玲司の父親によく似た態度や顔を見ていると、ふとした瞬間に複雑な思いにとらわれてしまう。
桐生院は心の影を振り払うように、文乃に負けじとことさら明るい笑みを作った。
「目玉の柏みどりの出演がキャンセルになったって聞いたから心配してたんだけど、チケットの売れ行きは好評みたいだね」
「柏さんの一件は、出演者の正式な発表前でしたから。それに柏さんには代わりの方をご推薦いただきましたし」
「代わりの方?」
「はい。風早マリカさんという新進気鋭の歌手さんです。柏さんの舞台の代役でデビューして、今とっても注目されているんですよ。その風早さんが出演するということで、チャリティーコンサートにも注目が集まったんだと思います」
文乃の口ぶりは興奮気味だったが、世間一般の話題に疎い桐生院は、話を聞いてもあまりピンとこない。
文乃が部屋を出ていった後、一人になった桐生院はチケットを眺めながら、今回は人に譲らず自分で行くしかなさそうだ、と消極的なことを考えていた。
会社に住んでいるのでは、と噂されている桐生院だが、その日は珍しく定時に仕事を切り上げた。
近頃睡眠不足が続いているせいか、午後から突発的な睡魔に襲われ、コーヒーやハッカ飴を口にしても効果がまったくなかったからだ。
大通りのバス停に向かって植物園の中を突っ切っていると、周囲の木々の葉は自分の知らぬ間に赤や黄色に濃く色づいていた。
久しぶりに外の世界の空気を吸った気がして、体の倦怠感も心なしか薄れていくのを感じる。
たまには早く帰るのも悪くないなと普段の不規則な生活を反省しながら裏門を出ると、道の少し先で、誰かがしゃがみ込んで胸に手を当てていた。
まさか発作でも起こしているのかと、桐生院は急いで近寄った。
「大丈夫ですか」
声をかけると、しゃがみ込んでいた人物が顔を上げた。
十代後半と思しき少女である。
走っている最中だったのか、長袖長ズボンの体操服を着て、長い髪を後ろで一つ結びにしている。
学校の授業か部活中のような格好である。
「ちょっと頑張りすぎちゃって」
頬を真っ赤に上気させながら、少女は気恥ずかしそうに答えた。
なんともなさそうに立ち上がったので大丈夫かと思ったが、少女が息をするたび、ヒュッ、ヒュッ、と音を立てているのが少し気にかかった。
「呼吸器に持病は?」
桐生院が尋ねると、少女は黒目がちの目をしばたたかせた。
「小さい頃に患ってましたが、今はもう治りました」
「そう。でも無理は禁物だよ。落ち着くまで少し休んだほうがいい」
そうは言ったものの、ここは歩道のど真ん中で、休めるような場所がない。
横を向くと、植物園の外周の柵が歩道に沿って延々と続いている。
そういえば先ほど裏門を通る時、木製のベンチが脇に置かれていたのを思い出した。
「すぐそこにベンチがあるから案内するよ」
言いながらふと桐生院は少女に不審者扱いされないだろうかと懸念したが、少女はこくりとうなずいた。
裏門の前には警備員が立っていたが、桐生院の顔を見ると特に何も言わずに二人を通してくれた。
ベンチに腰を下ろすと、隣に座った少女が桐生院に話しかけてきた。
「あなたはもしかしてお医者さんですか?」
「まぁそんな感じかな」
桐生院はあいまいに答えた。
医学も学んだが臨床にはあまり携わっていないし、今はほぼ薬学専門だ。
少女は話好きなのか、さらに話しかけてきた。
「この公園、初めて入りました。きれいな場所ですね。よく周辺を走ってるんですけど、前に入ろうとした時は警備員さんに『立ち入り禁止だ』って止められてしまって」
「ここ、公園じゃなくて私有地だからね。よく間違われるんだよ」
「そうなんですか?」
「うん。宝城製薬っていう会社が管理している研究施設なんだ」
「宝城製薬? 私、その会社知ってます!」
少女は目を丸くした後、なぜか嬉しそうに周囲を見回していた。
ころころと表情がよく動く。
見ていて飽きないな、と桐生院は感心した。
もうしばらく休んだ後で、少女の体調も問題なさそうだったので、再び裏門から植物園を出ると、少女はがさごそと上着のポケットから何かを取り出した。
「ありがとうございました。よかったらこれどうぞ」
受け取ると、きれいな色のセロファンに包まれたラムネ菓子だった。
今日は女性からよく物をもらう日である。
「それじゃあ」
少女は笑顔をひらめかせると、小刻みのリズムで走り出した。
桐生院は思わず少女の背中に向けて声を張った。
「あんまり無理をしないようにね」
少女は走りながらこちらを振り返ると、片手を上げてみせた。
わかっている、という合図だろうか。
本当に大丈夫か?、と心配だったが、少女は速度を緩めることなく、そのまま風のように軽やかに走り去っていった。
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