第44話 お兄様はいかに恋するものぞ【extra1-6】
劇場を出た玲司は、すぐに家に帰る気にはなれなかった。
今日はアンジュが理人と一緒に家にいるかもしれない。
もしいたら、アンジュにはお見合いのことを根掘り葉掘り聞かれそうだ。
それに両親が家で一緒にいる可能性があるなら、極力近づきたくはない。
仲が良ければ目と耳のやり場に困るし、喧嘩中だとさらに始末に負えない。
ただでさえ今日は盛りだくさんだったのに、想像するだけでどっと疲れてしまう。
玲司はしばらく外で時間をつぶすことにしたが、適当な場所が思いつかず、会社に立ち寄ることにした。
週末の夜遅い時間なので誰もいないだろう、と思っていたが、ビルの窓からは明かりが漏れていた。
玲司は首をかしげた。
桐生院でもいるのかと思ったが、部屋の階が違う。
試しにその階でエレベーターを降りてみると、明かりがついていたのは秘書課の部屋だった。
ドアを開けると、文乃が机に紙をうずたかく積み上げ、玲司に気づかず黙々と作業していた。
「日野川くん」
近づいて声をかけると、文乃は幽霊でも見たかのような悲鳴を上げた。
「落ち着け、日野川くん。私だ」
「ふ、副社長……?」
文乃はよほど驚いたのか、「びっくりしたぁ」と口の中で小さくつぶやいた。
びっくりしたのは玲司も同じだが、そこは言及せずにおいた。
文乃は玲司より先に劇場を出ていったが、そこから会社へ直行したのだろうか。
「何をしている」
「あの、その、えーと……」
言いよどんでいるので、文乃の手元にあった紙を取り上げると、チャリティーコンサートのチラシだった。
「あ」
文乃の手が宙をさまよったが、玲司も既に確認しているし、別に隠すような物でもない。
相変わらず文乃の態度は謎だったが、今回はすぐにその理由がわかった。
チラシの右下に記載された出演者名のうち、みどりの名前の箇所に修正シールが貼られている。
見合いの話に気を取られ、チャリティーコンサートの件をすっかり失念していたが、たしかに柏みどりの出演はキャンセルするしかないだろう。
「明日このチラシを業者さんに引き渡す予定なので、今晩中に修正しなければと思いまして……」
そう説明する文乃の声は、どこか申し訳なさそうだった。
どうやら気を使わせてしまったらしい。
「いや、すぐに気づいてくれて助かった。残っているチラシはこれだけか?」
玲司は文乃の机に積まれているチラシに目をやった。
「こっちの段ボールに入っているのがまだ手つかずです」
文乃の机の足元には、段ボールが二箱置かれていた。
印刷し直す、という選択肢も一瞬考えたが、それだと余分なコストがかかる。
これはチャリティーコンサートのチラシだ。
追加の出費をするより、その分寄付したほうが理にかなっている。
玲司は頭の中でそろばんをはじくと、文乃の隣の席に腰を下ろした。
「手伝おう。俺にもシールを」
「そんな。副社長に手伝っていただくわけには」
「二人でやったほうが時間は半分で済む。でないと間に合わなくなるぞ」
文乃は逡巡していたが、それでも一人では無理だと思ったのか、玲司にシールの束をおずおずと差し出した。
「申し訳ありません……お願いします」
玲司はシールを受け取ると、作業しやすいように上着を脱いでシャツの袖を折った。
二人で黙々と作業を行い、明け方近くになって、ようやくチラシの修正が完了した。
「間に合ったな……」
「はい……ありがとうございます……。あとは業者さんに引き渡せば、発送のほうは問題ないかと」
文乃は机の上に並んでいるチラシの束を足元の段ボールにしまっていった。
最後の一束を詰めてテープで箱に封をし、よいしょとつぶやいて立ち上がりかけた時、悲劇は起きた。
文乃が「ひぃっ」と変な声を出しながら、その場にうずくまったのだ。
「どうした。大丈夫か?」
「……はい」
返事とは裏腹に、文乃は足首をかばうように体を折り曲げていた。
そういえば、たしか文乃は足を痛めていたはずだ。
玲司は文乃の前に移動して片膝をついた。
「見せてみろ」
「え?」
玲司は文乃の手をどけて患部の状態を確認した。
右の足首が腫れている。
しかも履いているのがヒールの高い華奢な靴なので、それだけでもかなりしんどそうだ。
玲司は立ち上がると、近くの机にあった電話から自宅に電話をかけ、執事長に車の手配を頼んだ。
受話器を置いて、玲司は文乃を振り返った。
「すぐに車が来るから家まで送らせる。今日はもう出勤しなくていいから、帰ったら睡眠を取って病院に行ってこい」
「でも」
文乃は何か言おうとしたが、弾みで足首に力が入ってしまったのか、叫びこそしなかったものの、目を白黒させながら無言で悶絶した。
「チラシのほうはもう問題ないんだろう。後は他の人間に任せろ。俺からも話をしておく」
「そこまでしていただかなくても、仮眠さえ取れば私は大丈夫です」
「却下だ。言っておくがこれは業務命令だぞ。そんな状態で仕事をされたら周りの人間が迷惑だ」
文乃の口からそれ以上の反論は出なかったが、叱られて明らかに意気消沈していた。
だからといって無理をさせるわけにもいかない。
「支度ができたら行くぞ」
玲司がいすに引っかけていた上着を手に取って歩き出すと、文乃は足を引きずるようにして後をついてきた。
本人は何気ないふりを装っているが、かなり痛そうだ。
歩けるか、と言いかけて、玲司は口をつぐんだ。
さっきの調子だと、痛くても「歩けます」と言うに決まっている。
玲司は手にしていた上着を羽織り、文乃の前で腰をかがめた。
「あの、副社長?」
文乃がきょとんとした様子で尋ねてきた。
「下まで背負う。自分で歩くよりはマシだろう」
「はい!? いえ、副社長におんぶしてもらうなんてそんな」
「心配しなくても誰も見ていない。それとも君は背中じゃなくて前側で抱きかかえられたいのか」
「いえ、あの……お言葉に甘えて失礼します」
文乃が玲司の背中にそっと手をついた。
温かい重みが遠慮がちに玲司の体にかかる。
「おい、そんな乗り方じゃ落っこちるぞ。しっかり腕を回せ」
「は、はいっ」
文乃の手がそろそろと両側から伸びてきて、玲司の胸元あたりの位置でつながれた。
玲司はようやく文乃を負ぶって立ち上がると、エレベーターホールへ向かった。
エレベーターが上がってくるのを待っている間、玲司はずっと保留にしていた質問があったのを思い出した。
「そういえば以前、君は俺の愛人になりたいと言っていたな。あれはいったいどういう意味なんだ?」
文乃が背中の上で硬直した。
「……………………私そんなこと言いましたっけ」
「言いたくないなら別に言わなくても構わないが」
微妙な沈黙が二人の周囲に垂れ込める。
どうやら文乃はあの発言をなかったことにしたいらしい。
気にはなるが、それならそれで仕方あるまい、と玲司はそれ以上の追究はしないことにした。
そのうちエレベーターが到着して扉が開いたので、中に乗り込もうとした寸前、文乃の手がぎゅっと玲司の体に巻きついた。
「日野川くん?」
「ずっと……副社長に憧れてたんです」
そう話す文乃の声は硬かった。
緊張しているのか腕にも力が入り、玲司は首が苦しくなってきた。
「日野川くん」
声をかけるが、文乃にはどうやら聞こえていないようで、腕が体にますます巻きついてくる。
エレベーターの扉が乗る前に閉じてしまった。
「冷静だけど仕事熱心で、年齢や性別に関係なく仕事の内容できちんと部下のことを評価していて、言いにくいこともきちんと本人に向かって直接言ってくれて……。ずっと尊敬の対象だと思ってました。でもあの日、副社長がお見合いするって知って、だんだん居ても立ってもいられない気持ちになってしまって……。気づいたら足が勝手にお見合い場所のホテルに向かってたんです」
「……」
「最初はお見合い相手の方を一目見たら、すぐに帰ろうと思ってたんです。でもお相手の柏さん、すごくきれいな方で……。副社長も仕事の時とは違って楽しそうに話していらっしゃるのを見てるうちに、私、目の前が真っ暗になって、どうすればいいか自分でもわからなくなって……。副社長に見つかって、ついあんなことを口走ってしまいました」
「…………」
玲司はゆっくりと文乃を地面に下ろした。
巻きついていた腕が離れたので、とりあえず大きく息を吸い込む。
玲司は文乃に向き直った。
「つまり君は私のことが好きなのか?」
単刀直入に聞くと、文乃の顔がみるみる赤くなっていった。
腫れた足でエレベーターホールから走り出そうとしたが、逃げ出す寸前に玲司は文乃の手をとっさにつかんだ。
「!?」
「いちいち逃げ出さなくてもいい。というか怪我が悪化するから走るな」
玲司は文乃の手首をつかんだまま、エレベーターのボタンを押した。
扉が閉じていただけだったので、そのまま中へ乗り込み、一階の行き先ボタンを押す。
下降するエレベーターの中で、玲司は先ほどの文乃の言葉を考えてみた。
驚いた、というのが正直なところだったが、仕事に対する姿勢を好いてもらったのは……素直に嬉しかった。
そして、自分はきちんと部下に褒め言葉を伝えていただろうか、とわが身を振り返ってみる。
評価は公正に行ってきたという自負があるが、それをきちんと伝えることはしていなかった気がする。
文乃と話してみて、期せずして新しい発見があった。
愛人うんぬんについては、そもそも見合いの話がなくなったのだから解決した、ということでいいのだろうか。
徹夜明けで疲れているせいか、今はこれ以上頭がうまく働きそうにない。
この問題は追々考えることにした。
エレベーターから降りて正面玄関の外に出ると、迎えの車がちょうど到着したところだった。
なじみの運転手が後部座席のドアを開けてくれたが、なにやら驚いた様子で目を見張っていた。
なんだろうと思って運転手の視線をたどると、文乃と手をつないだままだったことに気がついて、手を離した。
「彼女を自宅まで送り届けてくれ」
玲司が運転手にそう伝えると、文乃が横から玲司を見上げた。
「副社長は?」
「俺はこのまま会社で仮眠を取っていく」
文乃が慌てた様子で何か言いかけたので、玲司は反射的に文乃の唇に指先を当てた。
「反論はなしだ。それとも君は俺から貴重な睡眠時間を奪うつもりか」
文乃がふるふると首を横に振ったので、玲司はふさいでいた唇を解放した。
ためらいつつも文乃が玲司に頭を下げ、車に乗り込む。
これまで訳がわからなかった文乃の言動パターンが、次第に読めてきている。
玲司は発進した車を見送りながら、人知れず満足げな笑みを浮かべていた。
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