第42話 お兄様はいかに恋するものぞ【extra1-4】

「君こそどうしてここにいる。桐生院は?」


「私は桐生院さんからチケットを頂いて……」


文乃の言葉に桐生院は渋面になった。


人からもらったチケットを断りもなく勝手に他人に譲るとは、いったいどういう了見だ。


桐生院に腹を立てた玲司だったが、文乃は事情を知らないのか、玲司の様子にただひたすらおびえていた。


「あの……私、何かマズかったでしょうか…………?」


文乃の腰は席から半分ほど浮いていた。


外出用なのか、仕事の時より服も化粧もめかし込んでいる。


「別に君は悪くない」


桐生院については会った時に直接本人を問い詰めることにし、玲司は文乃の隣の席に座った。


「副社長、あの……」


文乃は何か言いかけたが、開演を告げるブザーが場内に流れた。


「静かに。話は後で聞く。それよりきちんと腰を下ろせ」


文乃が慌てて座席に腰深くかけると、ちょうど舞台の幕が上がった。




オペラの演目は玲司も名前だけは知っている有名な作品で、中でも終盤でみどりが歌い上げたアリアは鳥肌が立つほど素晴らしかった。


豊かな声量と一音ごとに込められた多彩な情感が波動のように客席に押し寄せ、観客たちを圧倒した。


みどりの絶唱の余韻と共に幕が下り、ホール全体が一瞬の静寂に包まれた後、客席から割れんばかりの拍手喝采が鳴り響いた。


出演者たちが順番に舞台上に姿を現すと、場内は総立ちになり、玲司も立ち上がって惜しみない拍手を送った。


普段あまり音楽を聴かない玲司だったが、みどりの歌には打ち震えるほど感動したし、正直そんな自分に対して軽く驚きもした。


文乃も感極まったのか、涙ぐみながら力いっぱい拍手している。


出演者たちが舞台の袖に引いた後も、拍手はまだ鳴りやまなかった。


みどりが再び舞台上に一人で現れ、こぼれんばかりの笑みを浮かべて優雅に礼をすると、その日一番の拍手が轟音のようにとどろいた。


みどりは客席全体をゆっくりと見回し、最後、玲司のいる二階のボックス席あたりで視線をやや長めに留めた。


玲司はみどりの様子になんとなく引っかかりを覚えた。


予感めいたものが働いたのかもしれない。


みどりが「皆様」と観客に呼びかけると、拍手が静まり、さざ波のように音が消えていった。


「本日は劇場へお越しくださり、誠にありがとうございます。この場をお借りし、皆様にご報告させていただきたいことがございます。私、柏みどりは本日の公演をもって日本での活動をしばらく休止し、拠点を海外に移す所存です」


客席がどよめいた。


文乃が玲司に視線を寄こしたのがわかったが、玲司は舞台を注視し続けていた。


「あちらでの実績もなく、険しい道のりになるかと思います。それでも自分の歌声が世界でどこまで通用するのか挑戦し、後進のためにも道を切り開いていきたい。その一心で、本日こうしてご報告させていただく決意に至りました」


みどりの話はまだ続いていたが、文乃が「あ」と小さく声を上げたので、玲司の意識が反射的にそちらに向いた。


「なんだ」


「あの……私、ちょっと先に失礼させていただきます。副社長はどうぞこのままごゆっくり」


声を落として早口でささやくと、文乃は背中を丸めて玲司の前を横切り、こそこそとボックス席を出ていった。


やはり訳がわからない。


パタンとしまった扉を数秒ほど見つめた後、今はそれどころではなかったと慌てて視線を舞台に戻す。


みどりはちょうど話し終え、最後にもう一度客席に向かって深く頭を下げたところだった。


聴衆からは自然と温かい拍手が沸き起こったが、玲司は手を叩く気にはなれなかった。


身じろぎせずにただ座っていると、頭を上げたみどりと玲司の視線がぶつかった。


距離は離れていたが、目が合ったという確信があったし、みどりもそう認識しているはずだった。


みどりは微笑むと、舞台の袖へと消えていった。


まったく訳がわからない。


玲司は座席の背もたれに深く寄りかかると、豪華な天井を一人仰ぎ見た。

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