第41話 お兄様の恋愛事情【番外編1-3】
お見合いのあった日の夜、玲司は自室で眉間にしわを寄せていた。
『私を…副社長の愛人にしてくださいっ』
あれはいったいどういう意味だったのだろうか。
言った本人は、言うだけ言って、あの後すぐにホテルの喫茶室を飛び出してどこかへ行ってしまった。
その場に一人残された玲司は、周囲からの好奇のまなざしにさらされ、とんだ迷惑を被ることになった。
今もみどりとの件をどうするか考えなければならないのに、文乃の放った強烈な一言が頭の中で反響し続け、ちっとも他の考え事に集中できないでいる。
仕方がないので、少々腹立たしくはあるが先に文乃の発言について検討し、意識の外へ追い払ってしまうことにした。
愛人になりたいということは、文乃はもしや自分に好意を抱いているのだろうか。
いや、それはあるまい、と玲司はすぐにその可能性を打ち消した。
身なりにはそれなりに気を使っているが、弟の咲夜と違い、自分は親しくもない女性から好かれるような容貌はしていない。
どちらかと言えば見た目の印象で人から怖がられたり敬遠されがちなタイプだ。
むしろ、文乃が複雑な事情を抱えていて、それで突拍子もない申し出をあの場で口走った、という可能性は考えられないだろうか。
これは大いにありそうな気がしたが、玲司がそう思っただけで、見当違いの可能性も十分にある。
誰かに他の意見も聞いてみたかったが、仕事に関りのある人間はまずい。
しかも玲司は、これまで仕事以外のことで誰かに相談をした経験がなかった。
たいていのことは論理的に考えれば合理的な結論を一人で導き出すことができると思っているし、事実そうしてきた。
しかし文乃の発言は玲司の論理的思考の範疇を超えている。
どうしたものかと考え込んでいると、コンコン、と扉をノックする音がした。
返事をすると、家政婦が紅茶のセットを持って部屋に入ってきた。
夕食の後、部屋に運ぶよう頼んでおいたのを玲司は思い出した。
礼を言うと、家政婦は紅茶を机に置いて頭を下げた。
彼女は宝城家で働いている家政婦の中では年少組で、いつ見ても無口で無表情だったが、きちんとした仕事ぶりを玲司はひそかに評価していた。
玲司はふと、彼女に聞いてみるのはどうだろうか、と思いついた。
文乃より年下だろうが、それでもほぼ同年代だ。
なにより口が堅そうで、ちょっとした話し相手として信頼感が持てる。
「君。一つ教えてもらいたいんだが」
「なんでございましょう?」
ただし念のため、玲司は話をぼかすことにした。
「例えばなんだが、ある女性が男性に向かって『愛人にしてほしい』と言ったとする。その場合、女性が男性に対して好意を抱いている、という理由以外で、どうして女性がそんなことを言ったのか君には見当がつくか?」
「は?」
家政婦は、ややつり気味のまなじりをきゅっと上げた。
珍しいことに、困惑の表情がわずかにだが顔に出ている。
話をぼかしすぎて伝わりにくかっただろうか。
いきなり聞かせるには、内容がやや抽象的すぎたかもしれない。
玲司は反省して別の言葉に言い換えようとしたが、その前に家政婦がつと口を開いた。
「他人の言動や気持ちなんて、周囲の人間が推し量ろうとしたところで簡単にわかるものではございません。やはり言った本人にしかその言葉の真意はわからないのではないでしょうか? 言った本人でさえ、なぜそんなことを言ってしまったのかわからない、なんてこともありますし」
玲司はなるほど、と深く納得した。
もっともな回答である。
やはり彼女に聞いてよかった、俺の人を見る目に狂いはなかった、と玲司は別の意味でも満足した。
「ありがとう。大変に参考になった」
家政婦は黙って頭を下げると、静かに部屋を出ていった。
そして翌日。
昨晩の家政婦の助言を受け、玲司は文乃に愛人発言の真意を問いただすつもりで出社した。
文乃とどうこうなる気は一切なかったが、もし文乃が何か困っているならば、上司として話を聞くつもりだった。
しかしいざ出社してみると、文乃と二人きりで話す機会はまったくなかった。
文乃と顔を合わせる場面は何度かあったのだが、たいてい誰か他の人間が同席していたし、そもそも文乃自身が挙動不審に陥っていた。
玲司が会議室に向かう途中、長い通路の向こう側から歩いてきた文乃とすれ違いそうになった時など、文乃は玲司を認識するや否や、くるりと回れ右して爆走しながら道を引き返していった。
これには玲司だけでなく、一緒にいた男性社員もあっけにとられた様子だった。
「日野川さん、あんなに走ったりして足の具合はもう大丈夫なんですかね……?」
「どういう意味だ?」
秘書課の古株でもある男性社員は玲司にこう説明した。
「昨日の午後、日野川さんが段ボールを運んでる最中に箱を足の上に落としてしまいまして。書類が詰まってたから相当重かったようで、しばらく足を引きずっていたので室長が早退させたんです。副社長もたまたまいらっしゃらなかったですし。本人は平気だって室長に言い張ってたから、さっきの様子だと本当にたいしたことなかったのかもしれないですけどね」
話を聞いて、玲司は文乃が勤務時間中にホテルにいた理由に合点がいった。
どうやら仕事をさぼったわけではなかったらしい。
かといって昨日の文乃の行動を肯定はできない。
しかも自分からあんな発言をしておいて、どうして今日は玲司の前から逃げ出すのか。
訳がわからない。
そんな意味不明な状態が二日ほど続いたところで、みどりから仲人を介して玲司宛に公演のチケットが自宅へ送られてきた。
みどりが主演を務めるオペラのチケットだった。
一筆箋で「急なお誘いになりますが、もしご都合がつきましたらぜひ遊びにいらしてください」と一言添えられていた。
チケットに印字された公演日は今週末の夜になっていた。
予定はないが、もらったチケットは二枚ある。
同行者として最適なのは理人だろうが、理人はその日はアンジュと久しぶりにディナーの予定が入っていた。
邪魔をしたら恨まれる。
かと言って、もらったチケットを余らせるのも失礼に当たる。
どうしたものかと昼休みに気晴らしで本社に隣接する植物園を訪れると、桐生院と出くわした。
「おや、珍しい場所で会いましたね」
「仕事か?」
「いえ、気分転換ですよ。研究室にこもってばかりだと、さすがに気が滅入ってくるので」
桐生院が笑った。
一見すると普段どおりだが、いつもより覇気というか生気がない。
憂鬱で気だるげな雰囲気がうっすらと漂っている。
何か気の滅入るような出来事でもあったのだろうか。
「桐生院。おまえ今週末の予定は空いているな」
「どうして『空いているか?』じゃなくて断定形なんです。まぁ空いてますけど」
「後でオペラのチケットをやるから俺と一緒に来い」
玲司の言葉に桐生院は心底嫌そうな顔をした。
「それは業務命令ですか?」
「命令じゃない。でも俺はもらったチケットを無駄にしなくて済むし、おまえは気分転換になる。双方いいことづくめだ」
「まぁ……考えておきます」
桐生院は微妙な顔のままだったが、玲司はこれでチケットの件は万事うまく片がついたと思っていた。
公演当日、開演前に受付でみどり宛の花束を渡し、係の案内に従って客席へ向かう。
劇場に来るまでわからなかったのだが、みどりがくれたチケットは二階のボックス席だった。
一番いい席である。
「お連れ様は先にお席へご案内させていただいております」
先導する係員の説明を聞き、玲司は思わずほくそ笑んだ。
自分より早く到着しているとは、なんだかんだで桐生院は公演を楽しみにしていたらしい。
男二人で劇場前で待ち合わせる必要もあるまいと、桐生院とは事前に当日の約束まではしていなかった。
しかし玲司がボックス席の中に入ると、そこにいたのはなぜか桐生院ではなかった。
「副社長!? どうしてここに……」
先に着席していた文乃が振り返り、玲司を見て口をパクパクさせた。
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