第39話 お兄様の恋愛事情【番外編1-1】

「副社長、お見合いするんですって?」


書類に目を通していた玲司が顔を上げると、書斎机の向かい側で、桐生院が興味深そうな顔をして立っていた。


「どうしてその話を知ってる」


「アンジュ先生から聞いたんですよ。お相手はたしか今を時めく歌手の……」


かしわみどり、だ」


玲司はため息交じりに答えながら、後で母さんに電話で釘を刺しておかなければ、と考えた。


「そうそう。柏みどり。堅物そうに見えて、副社長も案外ミーハーなんですね」


「そんなんじゃない」


「照れなくてもいいじゃないですか。お見合いをきっかけに恋の一つでもしてみれば、ちょっとは角が取れて『社長以上に心がない』とか『機械人間』なんて部下たちから言われなくなりますよ」


自分はそんなふうに言われているのか、と初めて知る玲司だったが、そんなことで動揺したりはしなかった。


「恋だの愛だの、俺にはよくわからん。見合いは周囲のうるさい口封じのためだ。会って相手に問題がなければ婚姻届けに判を押す。それだけだ」


「そんな書類の決裁じゃないんですから……。この分だと、咲夜くんのほうが先に所帯持ちになるかもしれませんね」


「あの放蕩者の話はどうでもいい。書類を提出し終わったなら早く仕事に戻れ。それと日野川ひのかわくん」


「は、はいっ」


部屋の扉の前で、眼鏡をかけた女性が一人、ピシッと背筋を伸ばした。


「君が部屋に入ってきてかれこれ十分以上経つんだが、なぜ何も言わずにそこでずっと立っている」


「も、申し訳ありませんっ」


秘書の日野川こと日野川文乃ひのかわふみのは、玲司に向かって勢いよく腰を折り曲げた。


途端に、文乃が腕に抱えていた包みの中から、紙の束がざざざっと床に流れ落ちた。


すみません、すみませんっ、と慌てふためきながら、床に散らばった紙を拾い集めている。


またか、と玲司があきれて息をつくと、文乃がびくりと大きく肩を震わせた。


「僕が先にいたのと、副社長がおっかない顔をしてるせいで、声をかけずらかったんだよね」


ごめんね、と言いながら、桐生院は腰をかがめて文乃が紙を拾うのを手伝い出した。


すみません、を桐生院に連発している文乃の姿は、本人の幼い顔立ちのせいもあって女学生さながらだったが、入社して二年目のれっきとした社会人である。


開明的な家庭で育ち、大学では経済学を専攻し、外国語にも堪能。


学業的な面では優秀かもしれないが、実務はからっきしだった。


初めは慣れていないせいかと思っていたが、今のような些末なミスを玲司の前でしょっちゅう引き起こしている。


今後は人物重視の採用方式に切り替えるよう社長に提言しなければ、と考えている間に、文乃と桐生院は紙を回収し終えて立ち上がった。


桐生院が手にしていた紙の束を文乃に渡すと、文乃は礼を言って受け取りながら、一枚だけ桐生院へと差し出した。


「よければどうぞ」


どうも、と桐生院は手渡された紙面に視線を走らせ、「あれ」と声をあげた。


「ここに『柏みどり』の名前が載ってますよ」


桐生院はもらった紙をひらひらさせながら、玲司に顔を向けた。


「再来月のチャリティーコンサートのチラシです。見本が完成したのでお持ちしました」


文乃が玲司の机にもチラシを一枚を置いた。


「わかった。目を通しておく」


玲司がうなずくと、文乃は明らかにほっとしていた。


今回のチャリティーコンサートは宝城製薬初の試みで、玲司はそのプロジェクトの責任者だった。


国内外の著名な音楽家たちを招いて一夜限りのコンサートを行い、収益は難病と闘う子どもとその家族を支援する基金に全額寄付される。


社としても力を入れており、新聞各社からも既に注目度は高かった。


「へぇ、こんなイベントがあるんですね。僕も行ってみようかな」


桐生院はそうつぶやきながら、「それじゃ失礼します」と部屋を出ていった。


文乃も桐生院に続いて部屋を出ていこうとしたので、玲司は「ちょっと待て」と呼び止めた。


文乃が恐る恐る振り返る。


何か叱責されるのではないか、とびくびくしているのが手に取るようにわかった。


「言わなくてもわかっていると思うが、この部屋で聞いた話は他言無用だぞ」


玲司が視線で圧をかけると、文乃はしばらくぽかんとしていたが、そのうち玲司の言わんとするところを察したらしく、こくこくとうなずいた。


「柏みどりさんとお見合いする……の話ですよね?」


「皆まで言わなくていい」


「言いません、私、他の人に言ったりしません」


文乃は必死に主張した。


念のため注意しただけのつもりだったが、これではまるで玲司が文乃を糾弾しているようではないか。


「わかっているならそれでいい」


そう言って机の書類に視線を戻すと、文乃は「失礼します」とか細い声を残して出ていった。


扉が閉まった後、一人になった玲司は大仰にため息をついた。

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