第38話 若様との約束

「あなたに合わせる顔が、なかったんです」


手首をつかまれたまま、日鞠は声を絞り出した。


「え?」


「咲夜様の具合が悪かったことに今度もまた気づけないで、意識不明になるまで何もできなくて。『そばにいる』って自分で口にした約束も守れなくて」


咲夜の手から力が抜けて、緩々と日鞠から離れていく。


「ば、馬鹿か、おまえはっ」


咲夜の一喝に、うつむき加減だった日鞠は顔を上げた。


「おまえはもっと、俺に対して怒れっ」


「す、すみませんっ」


咲夜の剣幕に、日鞠は思わず謝った。


「いや、違うな。そうじゃない」


咲夜はわしわしと自分の髪の毛をかき混ぜると、背筋をすっと伸ばした。


「悪かったのは俺のほうだ。あの日の夜、俺はおまえの人の好さにつけ込むような真似をした。すまなかった」


咲夜が日鞠に向かって頭を下げたので、日鞠はあぜんとした。


「咲夜様、私に怒ってないんですか…?」


「だからなんでそう思うんだよ」


咲夜があきれた様子で顔を上げた。


「俺はてっきりおまえが俺のことを顔も見たくないくらい嫌になったから、それで仕事を辞めて出ていったのかと……」


どうやら日鞠も咲夜も、互いに相手が自分に対して怒っていると思い込んでいたらしい。


二人とも向かい合ったまま黙っていたが、しばらくして日鞠はその沈黙を破った。


「じゃあ私たち、おあいこですね」


「……いいのか、それで?」


「はい。それがいいです」


互いの顔に、自然と小さな笑みが浮かぶ。


「やっぱり、うちに戻ってくるつもりはないのか?」


咲夜に聞かれて、日鞠は答えに窮した。


風佳の顔が頭をよぎる。


「申し訳ありません」


日鞠は目を伏せて答えた。


「だから謝るなよ。辞めて困ってるわけじゃないならそれでいいんだ」


憤るでもなく突き放すでもなく、咲夜はただ淡々と言葉を口にしただけだった。


「とりあえず戻ろう」


咲夜がそう言ったので、二人は並んで元来た道を引き返した。


途中、道端で夕日に照らされて咲いている向日葵の群生を日鞠は発見した。


普段、家の裏手の方面へはあまり来ない。


先ほどはわき目もふらずに走っていたので、ちっとも気づかなかった。


だいだい色の光に黄色の花弁が照り輝き、まばゆいばかりの光景である。


「きれいですね」


咲夜にそう話しかけてから、あ、と日鞠は思い出した。


「すみません。花、お嫌いでしたね」


「嫌いじゃない」


「え?」


「嫌いじゃない。今見てて、そう思った」


道端に目を向けている咲夜の横顔を見て、日鞠はなんだか嬉しくなったのだが、咲夜はそこで急に立ち止まった。


「いや、違うな」


「咲夜様?」


数歩先から日鞠が振り返ると、咲夜は静かなまなざしを日鞠に向けていた。


白皙の顔が、夕日に照らされている。


咲夜がゆっくりと口を開いた。


「俺が好きになったのは花じゃなくて日鞠、おまえだ。おまえが花をきれいだと言えば、花もそんなに悪くないと思えてくるんだ」


日鞠は何か言おうとしたが、魚のように口をぱくぱくと動かしただけだった。


「何も言わなくていい。今すぐどうこうしたいとか、そういう話じゃない」


咲夜は日鞠の横を通り過ぎると、何事もなかったかのようにどんどん先を歩いていった。


日鞠が混乱状態のまま家にたどり着くと、風佳が軒先で咲夜のかばんを手に立っていた。


どこかそわそわした様子で、物問いたげな視線を日鞠と咲夜へ交互に投げかけてくる。


「それ、ありがとな」


咲夜は風佳の手からかばんを受け取った。


「お兄ちゃん、うちに上がってく?」


風佳の言葉に、咲夜は「いや」と首を横に振った。


「バスの時間があるからこのまま帰る。日鞠」


「は、はいっ」


ずっと黙っていたせいか、声が妙に裏返ってしまった。


心臓が変にバクバクと大きな音を立てている。


風佳はなぜか大急ぎで戸の内側へ入っていった。


「二年だ。今決めた」


咲夜はじっと日鞠を見つめた。


「これから二年間で、俺は今まで自分に足りていなかった知識や経験を身につける。おまえがどこにいようと、何をしていようと、絶対におまえに追いつくからな」


そう言うと、咲夜は日鞠の返事を待たず、「じゃあな」と立ち去っていった。


日鞠はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、咲夜の背中が見えなくなると、のろのろと家の中に入った。


「お姉ちゃん、お兄ちゃんは?」


「もう帰ったよ」


風佳にそう答えながら、日鞠は床の段差に腰を下ろした。


まだ頭が呆然としている。


好きだ、と言われたことにももちろん驚いたのだが、それよりも今は「置いていかれた」というのが正直な気持ちだった。


このままではきっと、咲夜はどんどん前へ進んでいってしまう。


もちろんそれは咲夜にとって喜ばしいことだけれど、それに対して自分が焦燥感を抱いたことに、日鞠は戸惑っていた。


「お姉ちゃん。あのね」


風佳の声に、日鞠は夢から覚めた心地ではっと顔を上げた。


「お姉ちゃんの好きにしていいんだよ。私のせいでもう何かを諦めたりしないで」


「風佳……」


日鞠は胸を突かれた。


狭い室内の壁際に目をやると、文台の上に桐生院からもらった教材が積まれている。


咲夜が目覚める直前、日鞠が退院する際に、桐生院が贈ってくれたものだった。


『青空さん。どうかこれから先も学ぶことを諦めないで』


その時の日鞠は様々な不安に揺れていて、桐生院のかけてくれた言葉にはっきりと返事をすることができなかった。


日鞠は風佳を自分の隣へと手招きした。


風佳がちょこんと横に腰を下ろすと、日鞠はおもむろに問いかけた。


「ねぇ風佳。風佳はこれからどうしたい? 何かやってみたいことはある?」


風佳は目を丸くすると、「あのね」と日鞠の耳元で密やかにささやいた。


「そっか」


日鞠は風佳の言葉を聞き、これまで自身がかけてもらった言葉も反芻しているうちに、次第に心が凪いで、考えが定まっていくのを感じた。


「じゃあ風佳。私たち、冒険しに行こうか」


風佳はこれ以上ないというくらい目を見開くと、「うんっ」と力強くうなずいた。


日鞠の体と心に、勇気がふつふつと湧いてくる。


「ちょっとだけ出かけてくるから、お留守番お願いしてもいい?」


「いいよ。いってらっしゃい!」


日鞠は立ち上がると、外に出て駆け出した。


集落の入り口まで走ると、バスの最終便はまだ到着前で、停留所には咲夜の姿があった。


「咲夜様っ」


走りながら呼びかけると、咲夜が勢いよく振り返った。


日鞠は咲夜の手前で急停止すると、しばらく肩で息をした。


「そんなに慌てて、どうしたんだ?」


咲夜は面食らっていた。


「咲夜様。私はもう咲夜様の世話係ではないので、あなたのそばにはいられません」


息を切らしながら日鞠が告げると、咲夜の瞳が少し不安げに揺れた。


「でも諦めません。咲夜様のおかげで、夢のかけらを見つけることができました。あなたの言葉に背中を押されました。だから、これから先もあなたの隣を歩いていけるように、私も頑張ります」


そう言い終えた時、車のエンジン音がかすかに響いてくるのが聞こえた。


遠目に、バスがやってくるのが見える。


咲夜が帰る前に伝えることができてよかったとほっとしていると、咲夜の手が伸びてきて日鞠の頭に触れた。


え、と思った瞬間、しゅるりと髪からリボンがほどけて、咲夜の指先に巻き取られていた。


「あ」


「今度は前言撤回はなしだからな。誓いの証拠として、これは預かっておく」


「そんな」


ひどい、と咲夜を見上げたが、咲夜はみじんも悪びれていなかった。


「俺だって離れてるのは不安なんだ。証がほしい」


そんなことを堂々と言う。


「じゃあ私にも何かください。咲夜様だけ持ってるなんてズルいです。不公平です」


「あいにく今は財布とカバンしか持ち合わせがない。まさか俺から身ぐるみでも剝ぐつもりか」


やっぱりズルい、と日鞠は頬をふくらませながら渋々引き下がった。


バスはすぐそこまで近づいていて、徐々に走行速度を落としていた。


「日鞠」


そう呼ばれた途端、咲夜の唇が日鞠の唇に重なり、すぐに離れた。


かすかな芳香が鼻をくすぐる。


「悪いけど、とりあえず今はそれで我慢しといてくれ」


咲夜の言葉に、日鞠の顔と頭がカアッと熱くなる。


バスがゆっくりと二人の前で停車して乗車口が開くと、咲夜はバスに乗り込んだ。


「またな。日鞠」


咲夜が笑顔をひらめかせた後、バスは扉を閉じて発車した。


日鞠はバスが見えなくなるまで見届けた後、家路についた。


地平線では夕日が沈み、紫色に染まり始めた空には一番星が光っている。


バスの窓から咲夜にも見えているだろうか。


そんなことを考えながら、日鞠は温かな気持ちでまた一歩踏み出した。

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